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キーボードが打てない「おし」と英語が判らない「つんぼ」が会社の中枢に居座ってしまっている会社なんて

Posted by 高見鈴虫 on 15.2012 日々之戯言(ヒビノタワゴト)
21世紀を10年を過ぎても尚、
ろくにキーボードが打てない人々がたくさんいることに、改めておどろかされる。
キーボードが打てないがためにインターネットも使えず、メールも使えず。
それがコンプレックスになっていつしか、
世のIT化を羨み妬みしているうちに恨み憎み始め、
結局は世で起こっていることがチンプンカンプン。
が、それを周囲に悟られるとこの世の終わり、とばかりに、
必死に隠そうとするからいつまでたってもITにつながらない。

で実は、そういう人が会社の中枢部に居座ってしまっているケースが凄く多いじゃないのかな。

そもそも、この情報化社会の中において、
キーボードが打てない、のは、まさにこのIT社会の中においては、おし。
ついでにそういう人は、さっぱり英語がわからない。つまり、つんぼ。
つまりそういう人は21世紀においては立派な知的障害者。
そんな人たちが、会社の牛耳ってるわけだから、まあなにをやってもうまくいくはずもなく。

だって、つまりそういう人たち、
日本語のニュースだけ読んで、日本語の情報だけで全てを判断してる訳でしょ?
まさに、開きめくら、そのもの。
東電に買われたマスゴミの垂れ流す情報操作にいとも簡単に洗脳されてしまったり、の理由は、
まさにこれ。
日本語の情報しか手に入らないから。
という訳で、
原発推進からなにからの人々って、
実はすべて、この日本語しか判らない人々、つまりはIT知的障害者だから、なんじゃないの?

その判断の差って、実は、それだけ、
つまり、日本語だけの知的障害者と、
世界中から自由自在に情報を収集できる、
まあ世界的に見れば普通の人々、
の差に過ぎないのではないか、と思うのだが。

でさ、せーじか、とか、けーだんれんとかって、
実は、そういう知的障害者の集まりで、
でそういう団体って、
そういう知的障害者の人たちの立場や地位や利益を守るために立ち回ってるだけなんじゃない?

まあ、キーボードが打てて英語が判ればOKかっていうとぜんぜんそんなことないけどさ、
それさえもできない奴が、つまり、なんというか、知的障害者が、右だ左だ、と会社を操る、なんて、無理だよ。
少なくとも俺は、そんな知的障害者がめくらめっぽに出した道先案内など信じる気にならない。

早く気づけよ、日本人。

日本がコリアに負けたのは、まさにそれだって。

死ぬまでにもう一度訪れたい場所 ~ ポカラ

Posted by 高見鈴虫 on 15.2012 旅の言葉
ネパールのヒマラヤ山系の麓にポカラという街があって、
空に近い暖かい日差しと、埃っぽい風と、限りなく青い湖のある、
街というよりは村。
そこにはいつも、ゆっくりとした音楽とやさしい時間が流れていた。

世界各国からの旅行者が湖を見下ろす丘の上に持ち出したテーブルを囲み
眠そうな目をしてペーパーバッグを広げ絵葉書を書き、
ページの端を千切ってフィルター代わりにしたジョイントを回しながら、
いつまでもいつまでも風に揺れる草原とそれを見下ろす白いヒマラヤの尾根を眺めていた。

丘の上に一本立った菩提樹の木陰で、
まるでスフィンクスそっくりの格好をしたままじっと湖を眺めていた犬が一匹、
午後の日差しに目を細めながら、大きく欠伸をした。

ポカラを出て後、
俺は何度もあのダムサイドの風景を思い出している。
いつかあそこに帰ろう、といまでも思っている。
帰るべきだ、とも思っている。
あの街を出て以来、
正常なのはポカラで流れていたあの時間であって、世界はまさにこうあるべきで、
他の世界は、すべて間違いなのだ、と思いこんでしまったからだ。

そしていま、ポカラを出てから20年を経て、
しかしいまだにポカラには帰っていない。
あの場所に帰らなくては、とはいまでも思っている。

いまでも思っているのだが、帰ったら負けだ、と思っているのも確かなのだ。
どうせここまでがんばったのだから、まだ少しは大丈夫だろう、というつもりなのか。
つまり、このまま行くと、俺は、一生帰らないつもりなのだろう。

という訳だ、友よ。
もし俺がすべてを捨てて消えてしまったら、
たぶん、ポカラにいるかもしれない、とは思ってくれてもいいかもしれない。

マイク・ブルーンバーグ氏の今年の抱負

Posted by 高見鈴虫 on 15.2012 ニューヨーク徒然
ニューヨーク市長であり、
ブルーンバーグ社の社長であり、
億万長者であるマイク・ブルーンバーグ氏の今年の抱負は、
JAVAのプログラミングを学ぶこと、であるそうな。

CODEACADEMY.orgの一日15分の学習でJAVAを学ぼう、という無料のメールマガジンに登録してのこと。

既に社長であり億万長者であるブルーンバーグが、
それもニューヨーク市長として、まさに一日中を分刻み秒刻みの激務に暮らすはずのブルーンバーグが、
JAVAを学ぶ、というその姿勢そのものに、
正直、衝撃を受けた。

確かに、

どんなに忙しい人だって、一日15分ぐらいなら作ることができるはず。
その時間に、なにをやるか、なのだ。
つまりは、そういうことなのだよ。

そして、一日15分、なにかをやろうと、決めたことを、一年間継続できない人がほとんどなのだろう。

つまりは、勝ち組と負け組みの差は、端的に言ってこれなのだな、と思い知らされたわけだ。

しかも、JAVAだ。

つまり、この先の世の中では、一般人が常識の範疇として、普通にJAVAのCODEぐらいは理解してしかるべきもの、
そういう時代がやってきますよ、というサインなのだと思う。
それは、50になっても60になっても同じ。
この世に行き続ける限り、なにかを学び続けなくてはいけないのだ。

やれやれ、凄い時代に生きているのだな、という認識を新たにした訳で。

IT石器民族部落でのフィールドワーク

Posted by 高見鈴虫 on 15.2012 技術系
昔、ITコンサルとして出向させられた会社において、
ドカタと運ちゃんとテキヤのような人々に囲まれて一年間を過ごした。

もともと俺も、入ったIT会社の他の同僚達を見るたびに、
間違えたな、と思っていたので、
正直、
ドカタや運ちゃんやテキヤのような人々に囲まれて、
心底ほっとしたものだ。

という訳で、
ドカタと運ちゃんとテキヤのような人々に対して、
ITコンサルをやった訳なのだが、

ITがなにを意味するか知らない人々、
あるいは、
コンピュータというだけでそれだけで脳停止状態に陥るひと、
あるいは、
ちょっと俺は詳しいんだぜ、エロサイトでエッチな動画だってみれるんだぜ、
というだけでコンピュータエクスパートを自認していた人、
まあそんな人々に囲まれてすごした日々は、
それまで、
IT以外はなにもない、という超GEEKどもに囲まれてすごしていたそれまでの環境と比べると、
まさにカルチャーギャップという風で、
文化人類学的には、
つまり、
石器民族の部落にフィールドワークに伺いました、
という意味では、とても面白かった。

という訳で、
文化人類学的観点から、
この人々が、なぜここまでIT社会に立ち遅れてしまったのか、
という理由について考えていたのだが、

たとえば、本人の能力や、やる気や、学歴や、仕事に対する姿勢や、
そういうものではなく、
ただ単に、
キーボード、
つまり、
タイプが打てないから、
端的に言って、
Aがどこに、Bがどこに、あるかいちいち見るのが面倒くさいから、
とまあ、それだけの理由に過ぎないのではないか、
と思った訳だ。

という訳で、
キーボードが打てなくても、ではなく、
キーボードを打たなくても仕事ができるシステムという奴について考え続けた末、
数字のテンキーとマウスさえ使えれば、すべて書類ができあがってしまう業務アプリを作り上げた。

デスクトップから、猿のアイコンを二回クリックすれば開く画面に、
数字を入力するだけで、
客先名から住所から担当から、
売り上げから支払い期日からがすべて勝手に表示してくれて、
ついでに次になにを売ればいいか、いくらで売ればいいか、なにを持っていけばいいか、いつもって行けばいいか、
までを表示できるまでに作りこみに作りこんだ訳だ。

あとは、プリントのアイコンを押して、プリントされた紙を、そこに書いてある担当者に持っていけばいい。

という訳で、
導入期間はコンサルがトレーニングするから、ということを理由に、
半年間は結局は俺がその業務をほとんどやらされることになった訳だが、
ちょっと休暇を取って戻ってくると、
すっかり元通り。
つまり、殴りかかれた手書きの書類を相手に誰がなにやらわからずひっちゃかめっちゃか。

という訳で、
つくづく、もうこの人たちは駄目だな、と諦めることになった。

キーボードが使えない、のはいざ知らず、
コンピューターのスイッチのボタンも押せない、
デスクトップのアイコンも探せない、クリックできない、
というのでは、話にならない。
そのレベルのことができない人々を相手にするのは、少なくともITの領域ではない。

という訳で、
つとめて明るい声で、了解、と言った。
じゃあやらなくてもいいんじゃない?
あんたはあんたの正しいと思う方法でやればいいと思うし。
つまり、
コンピュータを使うのが嫌ならまた手書きに戻れ、それはなにも悪いことじゃない、ということ。

ただ、
いずれにしろ、どんな方法を使っても、それを仕上げなくてはいけない。
仕上げられるのなら、それがコンピュータであれ手書きであれ口頭であれ、方法は問わない。
また、この仕事を仕上げたくないのなら、仕上げなくても良い方法をまた考えて、上司に相談すれば良し。
なので、はい、了解、この方法はやめましょう、という訳。

ただ、
それを仕上げられない、というのと、仕上げなくてもよい、と思っているのではかなり違う。
この程度の仕事が仕上げられない、というのであれば、
それは、コンサルタントではなく、カウンセラーが必要なわけであって、
ちゃんと医者の診断を受けて障害者手帳をGETすれば、
あとの人生はそれこそ望みどおりの仕事をして送ることができる。

もしも、こんな仕事は仕上げる必要がない、と思っているのであれば、
上司のところにいって、それを告げればいい。
別の仕事に回してもらえるか、まあ多分、クビになった末に、
任せられた仕事がある、というだけでどれだけ幸せなことだったのか、
と思い知った末にまた帰ってくれば良いし。

あるいは、
この仕事は俺が仕上げなくても誰かがやってくれる筈、
なので、俺はやらなくても大丈夫、と思っているのであれば、
社会なんかにでずにママのところにもどってそこで一生暮らせ。
たぶん、あんたの仕事はすべてママがやってくれる筈だ。

という訳で、IT石器民族の部落に居た時代、
自分を勇気づけるためによく見ていた動画。

京都大学サル学部のアイちゃんの映像である。

京都大学サル学部のアイちゃんの映像である。

悲しいことだが、
サルにも劣る人間というは存在した。
サルでも劣る人間だからと言って馬鹿にしたつもりはないのだが、
この映像を見る限り、
少なくともあの職種において言えば、
サルに負けている人間がほとんどだった。

そう言った、
サルにも劣る人間というのがなぜ存在してしまうかと言えば、
それは、サルを見くびっているからなのである。
サルにだってこれぐらいのことはできる、ということが判っていれば、
もうちょっとは真面目に仕事をする気になるか、と思ったのだが、
逆効果だった。
サルと同じ仕事はできない、という意味だったらしいが、
つまりは、
サルにさえ負けてしまったことで、諦めてしまったのだ。

サルに負けて諦めてしまうような人間がこの世にいるのはとても凄いことだ、とこれがまさに、カルチャーショックだったのだが、
しかし、
俺の個人的な見解としては、
サルにも劣る人間と付き合わなくてはいけない理由がないのなら、
わざわざ付き合う必要もないな、と思い知った訳で。

それはとてもとても悲しいことだが、
サルとの競争に諦めてしまった以上、
もう少なくとも人間の暮らしを維持することはできないだろう、
そういう人間がかなり数多く算出される時代がやってきているのだろう、と思う。

つまり、プロジェクトという檻の中で、フードスタンプの缶詰を餌にして一生を暮らすサル以下の人々、ということだ。

そしてまた、
そういう人々とわざわざ目にしなくてはいけない理由がないかぎりは、
目にする必要もない、目にするべきではない、と思い始めたかぎり。

さらば、石器の人々、
ずっとその島でタロイモ食って暮らしなさい

猿にも劣る人間に、人権を認める必要などない

Posted by 高見鈴虫 on 15.2012 日々之戯言(ヒビノタワゴト)
京都大学サル学部のアイちゃんの映像である。

人間より記憶力のいいチンパンジー





見ても判るとおり、
悲しいことだが、
サルにも劣る人間というは存在する。
サルでも劣る人間だからと言って馬鹿にしたつもりはないのだが、
この映像を見る限り、
少なくともある種の職種においては、
サルに負けている人間が存在してしまうのは事実のようだ。

そう言った、
サルにも劣る人間というのがなぜ存在してしまうかと言えば、
それは、サルを見くびっているからなのである。

ある種の職種についている人間は
そろそろ強力なライバルとしてのサルの能力を真面目に考える必要が出てきていると言わざるを得ない。

という訳で、
この映像をことあるごとに人々に見せていたのだが、

こともあろうに、いきなりマジ切れして怒り出す人がいたりしてわりと笑える。

つまり、
自身の仕事が、サルでもできるということを自覚している人、
あるいは、
自分がその職種においてもしかしてサル以下なのではないかという自覚があったからなのだろうが、
怒ることによって、
サルとの競争にさえ諦めてしまうであろう事さえも、予想がついていたはずだ。

サルに負けて諦めてしまうような人間がこの世にいるのはとても凄いことだが、
しかし、
俺の個人的な見解としては、
サルにも劣る人間と付き合わなくてはいけない理由がないのなら、
わざわざ付き合う必要もないな、と思い知った訳で、
つまり、
サルにも劣る人間に、人権など与える必要などないし、
それはつまりは、
サルにも劣る人間のために、税金など使いべきではない、といことか。

確かにそれはとてもとても悲しいことなのだが、

しかし、
サルとの競争に諦めてしまった以上、
もう少なくとも人間の暮らしを維持することはできないだろうし、させるべきじゃない。

もうほとんどすべての普通の人々はそう思い始めているし、
つまりは、
そういう人間がかなり数多く算出され、隔離される時代がやってきているのだろう、と思う。

つまり、プロジェクトという檻の中で、フードスタンプの缶詰を餌にして一生を暮らすサル以下の人々、
その周りには常時セキュリティが立っている、
というような風景のことだ。

地下鉄に30分、橋の向こうにいけば、そういう地区はいくらでもある。

ただ、
なにかの間違えか、
人間と同じような見た目をしているだけで、
すべて平等な権利を与えるべき、それを人類愛と呼ぶ、
なんて人々がいて、
そんな甘い言葉に酔っていた時期もあるのだが、
そんな時代はすでに終わってしまった。

すでにもう、
そういう人々とわざわざ目にしなくてはいけない理由がないかぎりは、
目にする必要もない、目にするべきではない、と思い始めたかぎり。

さらば、石器の人々、
ずっとその島でタロイモ、じゃない、缶詰め食って暮らしなさい
というしかない。


やれやれ、また虫頭ねたかよ

Posted by 高見鈴虫 on 23.2012 日々之戯言(ヒビノタワゴト)
やれやれ、また虫頭ねたかよ。

あのなあ、伊豆、
ほんとうにお前らは、まったくどうしようもねえ奴らだよな。
世界中の悪意がすべてお前らから発してるってのは、
おまえら自身が一番良く知ってるんだろ?
もうやめろよ、ほんとうに、
世界最悪のテロ集団ってのはまさにあんたらのことだろ?
と言われて、訳の判る人がどれだけいるのかな。

こめもそうだが、
その始まりからして思いきり大間違いをしてしまって、
その大間違いの上に築いた砂上の楼閣。
この世の悪意の全ては、
その始まりの大間違いを、なんとか肯定するために
嘘を嘘で固めて、
言い訳に言い訳を重ねながら、
その始まり大間違いがまさしく大間違いなものだから、
なにを言ってもどう釈明しても堂々巡り。
それはただの詭弁の詭弁。
でつまり、どっぷりと迷宮入り。

やれやれ、だな、というのはニューヨーカーならばすでに常識。

それを承知で生きている、というところに、
911を経験したニューヨーカーの全てが抱える
シニシズムがあるわけなんだよね(笑

で、ふと思うと、
そういう、911のトラウマというか、
まあつまり、歪みの始まりに気づいてしまった人々って意味では、

まさに、
放射能の影響はまったくない、
という大嘘を信じたことを前提に生きている東京人もまさにそのもの。
  
まあ、いまさらそんな真実を知ったところでどうしようもないだろ、
と自身を冷笑しながら、しかし、
そんな姿勢では、なにひとつとしてまともな見解は出てこないわけでさ。

という訳で、
どこで間違えたか?
なんて話はもうやめにしようぜ、と思ってる人が勝ち組、という図式。

つまり、倫理やら責任やら将来なんてことはひとまず置いておてい、
とりあえずは目先の損得だけでぶっちぎってしまおう、
って奴ばかりがまさにそんな奴ばかりなんだよ、世界中。

やれやれ、未来世紀ブラジルの世界がまだマシに思えてくる今日この頃。
すっかりと出し抜かれたきがするぜ。



現代東京人こそがまさに究極のパンカーであったのか、とふと気がついた

Posted by 高見鈴虫 on 23.2012 日々之戯言(ヒビノタワゴト)
このブログていうか、その下書きというか、
まあ自分用の落書き帳の、その題名たる、
終末を疾うに過ぎて、
ってのはつまり、
ノストラダムスの予言した、1999年7の月に世界は滅亡する、
ってな予言を真に受けて、
で、建設的な人生を片っ端からあざ笑ったチンピラが、
ふと気がつくと、その終末の日を過ぎてしまっていた、
あれまあ、
という、間の抜けたところから始まっている、
という意味であるわけなのだが、

その根本にあるパンク思想、
そのいろはであることの、NO FUTURE、の思想こそが、
どうせどうせのノストラダムスをよりどころとしてきた、
と勝手に解釈している訳なのだが、

ふと思うと、今の日本、

まさに、原発の放射能でいつ発病するかわからず、
おまけに、
いつくるか、という次の地震に戦々恐々しながらも、
どうせ死ぬときは死ぬわけで、
と達観している、ふりをしながら、
実は、
つまりは、
もう逃げることさえ、怖がることさえも面倒くさくなっている、
と。
それこそがつまりは、終末思想そのもの。

生きることも死ぬことさえもが、
まさに、面倒くさくなってしまった、のだろう、と。

おお、この現代の東京人こそは究極のパンカーであったのか、
とふと思ったわけだ。

無常、というよりは、虚無だな、まさに(笑

ちょっと出し抜かれた、というか、ちょっと尊敬するべきなのか、と思ってもいるのだが、
肝心なことは、
当のこの俺が、そんなパンク思想、なんてもうそんな元気はすっかりと忘れてしまった、
というか、そんなことさえも面倒くさくなっている、という訳でさ。

という訳で、
全てが失せた瓦礫の野原の中で、
終末か、そんなこともあったな、としけもくを探しているような気になってくるぜ。

現代のお題目はまさに「損徳チャート」

Posted by 高見鈴虫 on 23.2012 日々之戯言(ヒビノタワゴト)
倫理も道徳も長期的展望も、
恥も外聞も誇りもヒーローもなくなった今、
人々のよりどころ、と言えばまさに
「損得チャート」だ。

これは「損」か「得」か、
の目先のちゃっちい損得勘定だけが選択の基点。

やれやれ。。。。

肝やら器やら、しそーやらプライドやら、
そいう損得で図れないもので人間を図ってた過去の人々など、
まるで訳が判らないのだろう。

はいはい、というわけで、
まあ、なんというか、
とどのつまりはまあ、損徳なんだよな。
はいはい、判る判る。

寂しい国から来た男

Posted by 高見鈴虫 on 25.2012 ニューヨーク徒然
久しぶりにTOKYOから友人が訪ねて来た。

会うなり、へえ、やっぱニューヨークもIPHONEなんだな、
と俺のIPHONEを取り上げ、

何だよお前
せっかくマンハッタンに住んでるってのに中身は犬の写真ばかりじゃねえか
と笑われた。

それならお前のにはなにが入っているか、
若い女ばかり、なんて訳はねえよな、
と替わりに取り上げてみると、
誰もいない新宿の街並みがたった一枚。

東京を出る寸前にタクシーの窓から撮ったのだという。
ひと気のない新宿。
噂には聞いていたが
東京って本当の本当に誰もいなくなcちまったんだな、と

しみじみと眺めた閑散とした新宿の街並み
それはまるで
だれも来なかった誕生会のように
空虚に豪華でそしてそのぶんたまらなく寂しい。

ふと顔を上げると、奴の視線がそこにあった。
ニューヨークはかわらねえな、と言った奴の目が、
ちょっと潤んで見えたのは気のせいだろうか

出張は旅行ではないが

Posted by 高見鈴虫 on 25.2012 旅の言葉
出張は旅行ではないが
それが移動である限り
それはやはり旅だ
それが旅であるかぎり
そこにはやはりドラマがある。

FACE UP! ROGER!

Posted by 高見鈴虫 on 25.2012 テニスねた
テニスの大勝負においは
上を向き、顔を上げて入場した方が
大抵勝つ。
勝負はラケットを手にする前から既にきまっているのだ

マレーにレンドル?の理由

Posted by 高見鈴虫 on 25.2012 テニスねた
フェデラがマッケンローだとすれば
ナダルは勿論ボルグ
で、その二人を席巻したジョコビッチは
まさしくイヴァンレンドル
オールマイティ型だが面白味がなく
不幸な国の生まれで可哀想な筈なのに可愛いげがないものだから誰からも愛されず、
となんとなく似てる所が多い。
なんてことを思いながら
そう言えばイヴァンレンドルはいまなにをしているのだろう
と思っていたら
なんとアンディマレーのコーチに雇われていた

マレーにレンドル?
なんとなく似合わない気がするのだが
と思っていたら、
そっか、打倒ジョコビッチという訳か
とふと思いついた。

ドストエフスキーとガルシア・マルケスとトマス・ピンチョン?馬鹿か。

Posted by 高見鈴虫 on 25.2012 読書・映画ねた
ドストエフスキーとガルシア・マルケスとトマス・ピンチョン?

この3人を並べて、いったいなんの共通点があるってんだよ。

とにかく長い?
登場人物がたくさん出てくる?
人物の名前が長い?

それぐらい、ってか?

もしかして、難解、つまりは、名前を挙げれば頭良さそうに思われそうな作家、という意味か?

あのなあ、馬鹿がすぐにばれるような見え透いたはったりは止めろって。
どうしても語りたいなら、せめてこの中の一冊ぐらいは読んでからにしろって。

まったく、見出しばっかりで生きてんだからよ。
そんな奴ばかりだから、ニッポンジンと話すの嫌になるんだよ、まじで。
つくづく情けない。

マルケスの「百年の孤独」の孤独の意味

Posted by 高見鈴虫 on 28.2012 読書・映画ねた
朝、目が覚めたときに、
ああ、また「百年」を読まねば、と思った。

これはつまり、そろそろやばいぞ、ってことだな、

なんてことを考えながら車を走らていたら、
ジョージワシントン橋を越えたところで、
いきなり、ああ、なんだそうか、と判ったような気がした。

「百年の孤独」の「孤独」の意味するところが、なんかいま、いきなり判ったぞ、と。

今まで何十回となく読み返しながら、
なんでいままでこんな簡単なことに気がつかなかったのだろう、
なんてひとりで苦笑いをしながら、
ああ、そう言った意味でも、
この辺りでまたじっくり読み返してみるのもよさそうだな、と思っていた次第。

という訳で、
俺はマルケスが好きだ。
と言うよりも、良く読む。
最初に読んだ「百年の孤独」は、
それから通算100回は読み返していると思う。

いつも机の上にページが広げてあって、
というのでもないのだが、
まあ本棚の一番目に付くところにいつもそれがあって、
ふとした折、
探し物をしている最中だとか、部屋の掃除の時とかに、
ふと本を開いてしまうともういけない、
そこがどこのページであっても、
そのまま持っていかれて1時間2時間、
ふと目を上げると日が暮れていた、なんてこともある。

つまり俺のマルケスの読み方はそんなだ。
それは小説やらブンガクなんてよりも、
なんとなくお題目に近い気がする。

しかしながら、巷で、
特に、ニホンジンの前で、マルケスが、なんてことをと言うと、
途端になにを勘違いしたのか、色々な奴らが妙な反応を示す。

ほうほう、とやけに関心してみせたり、
あるいは、こいつ、格好つけやがって、
やら、あの難解、と言われている小説がこんな奴に判る分けないだろ、とか、
あるいは、はいはい、俺もそうなんだよ、とまさか冗談だと思っていたり。

そういうことをされるたびに、
あのなあ、
と思わず口に出しかけ、
そして
ふと気がついたら右のアッパーが決まっていた、
なんてことにならないように、
極力、陰気な顔をした東洋人の一団の前では、
マルケスの話はしないようにしているのだが、
それでも、
マルケスに対するそんな誤解、というよりは、僻み根性というかけちな嫉妬というか、
そんな歪みをあからさまにされた気がして、
つくづくこいつらとは気があわねえな、と侘しい気持ちになったりもする。

という訳で、
改めて、
あのなあ、と言わせてもらえば、

俺が「百年」を読むのは、
別に俺がブンガクおたくだからでも、頭がいーからでも、
寺山修二的だなからでも、
難解な小説が好きだから、でも、
難解な小説が好きなふりをしたいわけでも、
難解な小説を好きだといって、よって俺はお前とは違う、なんてことを主張したい訳でも、
ましてや、
やたらと名前の長い登場人物の小説が好きだからでも、
ノーベル賞ととったからでも、
そう言うとなんか受けが取れそうだから、とか、
そんなのでは全然ない。

そう思いたければ思えばいいし、
ニホンジンでマルケスと聞いただけで、
そう思うだろう奴が多いことは知ってはいるが、
俺はいまさらそんな奴らに、何を思われようとなにも気にしない。

俺が「百年」を読むのは、
読まずにはいられない気持ちになることが多々あるからであって、
それ以上でも以下でもない。

ぶっちゃけ、俺はガキの頃から相当やばいところがあって、
ふと気がつくと右のアッパーカットが、ではないが、
まあみぞおちに蹴り、ぐらいなら日常茶飯事だった。
どうしてか判らないが、
ふと、たまたま天気の良い寝不足の朝に、
たまたま通りかかった男が肩先がぶつかったのにしかとで通り過ぎた、
なんてだけで、おい、てめえ、と振り返りざまに、
なんてことが、まあ良くあったような奴なのだ。

そんな訳なので、そんな訳のタイプの人間が、
通常の社会生活を送るにはそれなりのバランス作用が必要な訳で、
そう言った意味で、そんな俺自身にバランスを取らせるには、
この「百年の孤独」がまさに必要不可欠、という訳なのだ。

という訳で、
情けない話この歳になっても、
ああ、そろそろ「百年」を読まねえと、またなにかやらかしそうだな、
なんて予感がしてきて、
で、それをうっちゃっていると、
一度二度、あっと、思っていた時には、
ウエスタン・ラリアートではないが、
膝折りのローキック、
か、あるいは、
馬鹿かてめえは、いい加減に死ね、ぐらいのことは口走っていたりする。
という訳で、
ああ、
そろそろついに、本ちゃんでなんかやらかすぞ、
ああ、もう駄目だ、「百年」なくしてはもうちょっとやば過ぎる、
と思っていた時に、
ふと洗濯の待ち時間に、やら、お湯が沸く間に、
なんて時に、ふと目に付いた破れた表紙を広げたが最後、
あのマコンドの砂埃の舞う乾いた空気がすっと身体中に流れこんできて、
そして身体中に溜まったおりが、すっと洗い流されていく気になるのだ。

という訳で、
俺にとって「百年」を読む、とか、楽しむ、とか、解読する、
なんてことではなく、
ただたんに、生きるために「使っている」だけの話なのだろう。

まあそんな風なので、
俺は他の人間、作家やら批評家やらが、
「百年」についてなにを語ろうが、どう批評しようが、どう理解しようが、
そんなことはまるで知ったことではない。
そう言ったものに思わず目がいってしまうたびに、
馬鹿かこいつは、と思わず口走ってしまう。
それは、普段割りとまともなことを言っている筈の賢者先生でさえ、
なぜかことこの「百年」のことについて語りだした途端、
思わず、????? 馬鹿かこいつは、なんて大間違い野郎だ、
と、途端に気もちが冷め切ってしまる。

彼らが評し弄んでいる「百年」と俺の「百年」はそもそもその使用方が違う。
俺にはただ生きるために「百年」が必要なだけなのだ。

という訳で、
マルケス自身の書いたマルケス以外、俺はマルケスに関するものを読まない。

そんなものを読むたびに目にするたびに、そのあまりの認識の落差に、
落胆を通り越して、憎しみさえ感じるからだ。

改めて言おう。
俺が「百年」を必要としているのは、
ただ「百年」の中で書かれていたマコンドの風景や、
そして、その登場人物たちに囲まれて生きていたい、
その幻想の風景に戻りたい、と思っているだけなのだ。
それはもしかすると、
俺には故郷がなく、家族がなく、友もなく、子供もいないせいかもしれない、とは俺だって気がついている。
つまり、俺が一番欲しかったものが、「百年」の中に描かれているからだ、という訳なんだろう。
それはつまり、「愛」 つまりは、百年の「孤独」のその反意語だ、それがちょっとした皮肉だ、とも思っている。
「愛」に育まれて生きてきたマルケスが、ローマの貧乏アパートにたったひとり取り残されてこの小説を書き続けたように、
俺は「孤独」に育まれて生きながらマルケスの書いた「孤独」の中の愛を、自身の中の疑似体験としているだけか、と。

俺にとって、
ひとつの街の始まりから終わりまでの百年を、孤立でも、孤高、でもなく、孤独、と言ったマルケスの物語は、
縁側の陽だまりの上でおばあちゃんから聞かされた昔話、そのものなのだ。

そこには構成も哲学も理由も必然もない。始まりや終わりさえもない。
それはまさに半分寝ぼけたおばあちゃんの問わず語りで、
永遠と繰り返される脈絡のない小話と、そして、ほんのちょっとのペーソスと、教訓のようなもの。

もちろん俺には、縁側でおばあちゃんから昔話を聞かされた覚えなどない。
お袋や親父を「家族」つまりは自分の同一体として感じたこともなければ、
新興住宅地の寄席集まりの人々に愛着や共同体意識を持ったこともないし、
友がいた時代のことさえすっかりと忘れてしまって久しい。

そんな俺にとっては、マルケスの描いた「孤独」な家族と共同体の話こそが、
俺の持ち得なかった「家族」と「共同体」のそのものなのだ。

そこには愛すべきくそったれとどうしようもなく滑稽な現実に囲まれながら、
まあ、共同体なんだから、というどこかスコーンと抜けたふところの深さ、
つまりは、母性を感じてしまう。
その懐の深い母性こそが俺に極端に欠如したものなのだろう。

という訳で、
そう、
マルケスについて、ああだ、こうだ、言う馬鹿に囲まれて、
悪意と辟易の沼で喘ぎ喘ぎ、喘ぎ疲れて、、
つくづく馬鹿に囲まれて暮らすこの現実にうんざりしてしまったとき、
馬鹿を馬鹿として愛している人々、つまり、マコンドの人々から、
ほんの少しだけでも愛の記憶を分けてもらわなくては、
俺はいまにも干からびてしまうぞ、と思う訳だ。

俺にとっての「百年の孤独」はつまりはそれだけ、なのだ。
清涼剤というよりは栄養剤、というよりは、まさに点滴だ。

たとえ批評家気取りの方々が、
あんた、それは、マルケスの言おうとしたことと正反対だで、
とせせら笑ったとしても、
なにが悪い。放っておいてくれ、と思う。

ましてや、
「百年」を読んでいないやつ、読む気もない奴、読めなかった奴、読めないだろうと思って読みもしない奴、
は、論外。
さようなら、俺はあなたとは判り合えないしその必要も感じないし、
それにあなたがいなくても俺はぜんぜん困らないし、それはあんただって同じだろう。
だから、面倒なことになる前に早く俺の前から消えてくれ。それがお互いのため。
それならむしろ、「百年」のことなんてまったくなにも露とも知らないやつのほうがまだわかりあえる可能性がある。

あるいは、
「百年」を読んで、よく判らないと思った奴、その上で思わず批評家してしまいたくなった奴、
あるいは、正直に、もっとわかりたい、と思った人は、
頼むから、南米に行ってくれ。

南米とは言わず、そこはメキシコでもペルーでもキューバでもいい。
あるいは、ここニューヨークの夏、でもいい。
とにかくそこをひとりで旅立って、
そして「百年」に書かれたその世界を、
自分の目で見て、自分の肌で感じてみてくれ。
自分を包んだ自我(と思っているのは自分だけで実は安いCMとキャッチフレーズだけにラップされたただの洗脳)
という皮がペロリとむけたとき、
目の前に展開するそのラテン世界と、その登場人物たちが、
あれあれ、なんだ、そうだったのか、と思うに違いない。

なんだ、「百年」に書かれていたことは、
難解なパズルでも言葉の綴れ織でも、ノストラダムスのような黙示録でも、
ましてや哲学書でも現代詩でもなんでもなく、

つまりは、そこのおっさん、そこのにーちゃん、そこのおばちゃん、と、
そしてこのねーちゃん、に、
おいおいどこから来たのかこの足元のガキ、
え?お前の子?おいおい、まさか、あんたいくつだよ、18?18でなんでこんな子供がいるんだよ?
あれまあ、そういうことか、気に入った、ビールもう一本、え?あんたも、あんた関係ないだろ?
え、おごり?俺に?なんで、まあいいか、ご馳走さん、グラシア、グラシア、まあなんでもいいや、はい乾杯、サルー!

なんていうまあラテンアメリカのラテン的日常を、
ただたんに、だらだらと書き続けただけ、
ただそれだけ、という事実に気づく筈だ。

フェリーニの「アマルコルド」が映画理論だ思想だ、なんてことではなく、
ただたんに「わたしはみた」、つまりは、ただ見たことを撮っただけ、と同じように。
あるいは、
小津安二郎の作品が、ただたんに、ただたんの生活をただたんに描いていただけ、のように。
しかし、それが真実であるぶん、そこに虚飾も虚栄もないぶん、
それはとてもとてもとても胸に響く。

俺はただそのことを言いたいだけなのだ。



ニューヨーカーって本当にタチが悪い

Posted by 高見鈴虫 on 28.2012 ニューヨーク徒然
あらためて思うが、ニューヨーカーって本当にたちが悪いよな。

まあそれだけギリギリの生活をしてるってこともあるのだろうが、
氷雨にぬれそびれながら交差点で信号待ちをしているときに、
いきなりストレッチリムジンから水溜りの泥水をぶっかけられて、
くそったれ、と思いながら、いざ揉め事になったら、
事の善悪はまったく関係なく、ただ金のある奴が勝つ、つまり、それこそ、それだけが正義、
というこの現実、に、とことん腐敗し疲れきり、しかし、その現実にとことん打ちひしがれている、
というだけの話なのだろう。

というわけで、ニューヨークにおける現実主義者というのは、
どんな方法をつかってもとりあえずほんの少しづつでも正義を得ようとするし、
正義を得てからはそれを必要以上に振り回す、となるわけで。

都会やなあ、コンクリートジャングル

ニューヨークの台湾系

Posted by 高見鈴虫 on 28.2012 ニューヨーク徒然
ニューヨークの台湾系ってさ、なんかタチ悪いと思わねえ?
ただいたずらに仕切りたがっては、誰からも相手にされず、
で、台湾系ばかりで固まっては文句と陰口ばかり。
で、そんなに言うならと
いざ仕切らせると
賄賂やら媚やらばかりを要求してえばりたがった上に、
そもそも場を仕切れる度量も能力もないものだからすぐに倒壊。

で、また、台湾人ばかりで集まって人の悪口ばかり言っている。
つまりまあ、亡国人というか、打ちひしがれた被差別民族の匂いがぷんぷんするわけで。
そんで、台湾人はみんな共和党なんだよな(笑
つまり、反共の軍国マフィアを頼らないとやっていけなかっただけの話でさ。
で、そう、この中国ブーム。
もはや誰も台湾を守ってくれないし、世界中の誰もが台湾などあってもなくても別にどうでもいい、
と思っているし、北朝鮮ほどの話題にさえ上らない。
つまり、本当に透明化している、透明化しながらもやはりなにもない、癖に民族やらなにやらにやたらと拘る。
つまり、まあ、面倒くさい田舎者なだけ。

ニューヨークの台湾系には近寄らないほうがいい。

玄関のない暮らし

Posted by 高見鈴虫 on 29.2012 ニューヨーク徒然
当然の話ではあるが、
アメリカの家には玄関がない。

これは何故かと言えば、
ご承知のように、
アメリカ人には玄関で靴を脱ぐ習慣がないから
つまり、
家の中でも靴を履いて生活しているからなのである。

なんといっても、
人の家に土足で踏み込むのである。
通りで踏んづけた犬の糞もチューインガムも
痰ツバもタバコの吸殻もWELCOMEなわけである。
考えてみるとこれは凄いことだ。

という訳で、
何年このアメリカに暮らしていても、
どうも、この、玄関のない生活、ていう奴だけは、
どうしてもなじめない。

確かに、靴を脱がないで暮らすことは便利でもある。
なんといっても、玄関でわざわざ靴を脱ぐ必要がないのだ。
編み上げの鋼鉄入り安全靴なんてのを履いてすごしていると、
この玄関で靴を脱ぐっていう作業がえらく面倒くさくもあって、
狭い玄関でおじゃまします、と言ったあとに、
靴紐を解いているその不穏な間に変に焦りを感じてしまったりもする。

そういえば、
日本で貧乏アパートに暮らしていた頃、
あまりに部屋の汚さに辟易を通り越し、
ついにはこの靴を脱ぐ、ということの必要さえも感じなくなるに至り、
ついには玄関で靴を脱ぐことを止めてしまった時期があった。

幸い部屋が一階にあったことから、
外の通りからドアひとつ隔てた玄関はただの階段と化し、
畳の上にちらばった古新聞や古雑誌を庭石が割りにしていたのだが、
外から部屋の中がそのままつながったような気がして、
なんとなく、荒野でキャンプをして暮らしているような気にもなったものだ。

根がけにベッドの上で脱ぎ捨てた靴を、
玄関に向けて放り投げては、
ドアにぶち当たった鋼鉄製ブーツが立てる不穏な爆音に、
投げやりを通りこしたこの無頼に、
一種の小気味良ささえ感じていたものだ。

という訳で、アメリカの暮らしだ。

ここにきてまで、早々とそんな殺伐とした暮らしを演出する必要もないので、
外から帰って来た際は、やはり普通に玄関で靴を脱ぐことにしている。

それは犬も同様で、
散歩から帰った後は浴室に直行し、
水を張ったバスタブの中で、ごしごしと足を洗うので、
ドッグランで被ったあの犬の小便やウンコの匂いの染み付いた砂が、
家の中にばら撒かれることもない。

犬系の知人が我が家に来ると、
皆、決まって、あれ、犬の匂いがしない、と驚くのはそういった理由。

当然だろ、ニホンジンなんだからよ、とは思っているのだが、
さて、問題は、
そんなニホンジンにとって、
このアメリカの、玄関のない暮らし、というのは微妙に困ったりもする。

なんといっても、玄関がない、ということは、つまりは、靴箱もないのだ。
靴箱のない玄関で靴を脱ぐと、
ドアを開けたところに、靴の溜まりができてしまうことになる。

外から帰ってきて、あれ、ドアが開かないぞ、と思った時には、
大抵この靴が内開きのドアをブロックしているのだ。

或いは、アメリカ人の友達が遊びに来た時、
玄関で靴を脱ぐ、ということに、一抹の恥ずかしさ、を感じている風が見える。
つまり、彼らにとって、靴下は下着の延長なのだ。
下着のようにセクシーである必要はないが、
まあ、人には見せないことを前提としていることが多い。
案の定、アメリカ人のほとんどは、靴を脱ぐのは寝室の中で、
結果、大抵の家において、靴箱はなんと寝室にあったりするわけだ。

そんな風なので、
案の定、そのままテーブルを囲んでいるとき、
あれ、なんか、下から妙な匂いがするぞ、
と思いきや、それはつまり、テーブルの下の靴下から立ち上ってきている訳である。

と、その時、
ふと思いついて走り出した玄関先、
というより、ドアの前、
あまりに臭い靴に興奮したうちの馬鹿犬が、
こともあろうに野獣の抜け殻と勘違いしたのか、
その靴を一心不乱に噛み砕いていたりして・・

おっと~!!やってしまった!!
このときばかりはちょっとばかし本気で途方に暮れた。
  

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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