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ニューヨークのトイレの匂い

Posted by 高見鈴虫 on 01.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
会社のトイレに行くたびにかなり臭い思いをする。
さすがに世界の人種が集まるニューヨーク。
つまり食っている物も千差万別ならば、
出てくる物の匂いもまさに千差万別。
結果、
こいつら本当にいったい何を食ってるんだ!
と思わず両隣の壁にパンチを入れたくなるぐらいに
それはそれはとてもつもなく臭いうんこをする奴もいる、ということ。
それに加えて、
出す物が出たらすぐに流せば良いのに、
それもせずひりっぱなしのままにIPHONEなどいじっているから、
この様にトイレ中、思わず気を失いそうになるほどの臭気が立ち込めてしまう訳だ。
トイレはすぐに流せ!
など、今更そんな公衆道徳について言ったみたところで始まらない。
やる奴はやる。やらぬ奴はやらぬ。
全ての人々をひとつの決まり文句で従わせるなんて、
そんな甘いことはこのニューヨークでは通用しない。

という訳で、文句があったら人に言うよりは自衛手段を講じるのが手っ取り早い。

トイレの臭い対策にはまさにマッチ。
ポケットのタバコにはさみこんだマッチを一本。
しゅっと摺ったとたんに匂いが消えうせてくれる。
のだが、
トイレの中から火薬の臭い、と警察やらテロ対策特殊部隊とかが突入してきたら
それはそれで厄介だ。

がしかし、そう、糞の匂いなどはまあしかたがない、としてもだ、
これだけは許せないのは、便座の上から小便をする奴。

下手をすると便座に座ったとたんにじっとりと濡れているなんて
まさにとんでもない事態が起こる可能性がある。

なので便座に座るまえにちぎったペーパーで存分に吹くことになるのだが、
この忙しいのに、お前らの小便をなんで俺が掃除しなくっちゃいけないんだよ、
とまじめに腹が立ってくる。

で、こうして念入りに拭き拭きしても、
いざ座ったとたんにツンと来るアンモニア臭。

さては昨夜のうちに便座にぶっかられた小便が乾いていただけだったのか。

あのなあ、と思わず。
お前ら、本当に人間としての教育を受けて来たのかよ、と。
が、そう、ここはニューヨークである。
人種も違えば常識も違う。
つまり、
ケツが他人の小便のアンモニア臭い、なんてことを気にしないような所からやってきた人々も沢山いる訳だろう。

お前それは甘いぜ。
うちの会社なんか、便所どころか廊下にうんこするやつまでいるぐらいでよ、
ぐらいな話なら、某赤い旗の国に行けばいくらでも出てきそうではないか。

という訳で、そんな千差万別の人々を相手に、
いくらトイレをきれいに使え、とどれだけ貼り紙をしようが社内報が回ろうが、
やるやつはやる、のである。
という訳でやはりこの多民族都市の公衆道徳の規定化は
とても難しいものがあると言わざるをえない。

という訳でトイレに備え付けの使い捨て便座カバーをすることになるのだが、
実はね、うちの会社のトイレ、
どういう訳か水が自動になっていて、
そう、この便座カバーを敷いた後に、
さあ、と座ろうとした途端にジャーと水が流れてしまって、
せっかく敷いた便座カバーも同時に水に流されている、と。

いやはや、なかなか難儀なわけである。
という訳で、
そうまでして会社でうんこをする必要性があるのかと改めて首をひねらざるを得ないことになり、
いつしかうんこはすっかりと引っ込んでいる、という訳だ。

なんてことを考えながら、
そう言えばこの公衆トイレ、あのエグゼクティブの方々もお使いになっているのだろうか。
誰かが小便をぶっかけた便座の上に、あの上層部の方々も鎮座増しましてらっしゃるとすれば
それはそれでちょっと小気味が良い気がしないでもない。

お偉いさんこの惨状をごらんになってどう思われ?
と改めて聞いてみたくもなるのだが。

がしかし、そう、もしもエグゼクティブであれば個室にトイレがあったり、
あるいはエグゼクティブ専用トイレなんてものもあったりもするのか。
いやあるべきなのではないのかとも思ったりする。
うんこしながらうっかり電話で話したことをとなりでやはり糞していたエグゼクティブが聞いていたり、
あるいはその逆も、なんてちょっとなかなか面倒くさい。

という訳で、そう、もしも俺がエグゼクティブの部屋を与えられた暁には、
もしかして自室に俺専用のトイレを作ってもらうだろうか。

でもさ、そうなると、
そのトイレの臭いはまさに俺以外の誰でもない、ということになって、
したら部屋に入ってきた奴が、うっぷあの部屋はいつも臭い、
などと変な陰口を叩かれそうでそれはそれで難儀である。

が、そう、ここはニューヨーク、
他人の糞の匂いなど、気にしているのは多分俺ぐらいなものなんだろうな。

なんてことを考えながら便座に座ってIPHONEを弄っていたら、
おっとまたミーティングに遅れそうだ。

「暖かいご飯」

Posted by 高見鈴虫 on 01.2013 日々之戯言(ヒビノタワゴト)   0 comments   0 trackback
最近シリアルばかりを食べているのだが
つくづく暖かい飯のありがたみに気付かされる。

暖かいご飯とはまさに暖かい生活、
強いては暖かい人生の象徴ではないのか。

冷たいご飯ばかり食べていると性格まで冷たくなっていってしまうような気がする。
鍋がそれを囲む人々の心を暖めるのはつまりはそういうことである。

ホクホク、熱い熱いと頬をふくらませては、
お互いに交わす視線と視線。

大丈夫?
ひょっとひまはなせない
とお互いに笑い合って。

アメリカの飯って、なんかそういうあたたかみかけるきがするのだが

人間は食べ物に似る

Posted by 高見鈴虫 on 01.2013 今日の格言   0 comments   0 trackback
やはり人間は食べ物に似る。
日本人がよく魚に例えられるのは
まさに魚ばかり食べていたからに違いない。

最近のガキは食が落ちて内臓が弱りまさにカイワレ草食系。

アメリカ人が牛に似ているのは周知の事実。

犬を食った韓国人がまさに狂犬病のバカ犬のようなところがあるし

親以外は何でも食べる中国人は大別すると鶏と豚だろう。

イスラム系は羊ばかり食っていたがラクダに似ていた。
多分羊もラクダと似たようなキャラなのか。

という訳で俺の現在の食生活である。

来る日も来る日もシリアル、つまりコーンフレークである。

このまま行くとなにに進化していくのだろう、とちょっと楽しみな訳である

腰痛騒動記

Posted by 高見鈴虫 on 02.2013 チャーリーホースは真夜中に疾る   0 comments   0 trackback
「鍼治療とはいったいなんだったのか」
鍼治療とはぶっちゃけ究極のマッサージであった。つまり身体を走る筋肉の筋道、それが硬質化、あるいは緊縛しているところのその中核に向けてぶすっと針をぶち込み、そこに電流を流して筋道の血行を促進して緊縛した筋肉を解きほぐす。皮膚の上から脂肪の層を通して行われる通常のマッサージよりはより直接的にまさに筋肉の核そのものを解きほぐそうという究極治療な訳である。

「鍼がなぜ怖いか」
しかしながら俺にとってこの鍼治療はかなり不愉快な経験であった。あの不気味な小部屋で身体の中に針を刺されて電流を流される、なんていう拷問もどきの目にあうぐらいならほとんど大抵のことは自主的に行おうという気にもなってくる。なにがそれほど不快であったかと言えばまさにその治療法である筋肉そのものに電流ビリビリというのはつまり、俺が普段あれほど恐れていた筋肉の緊縛、つまり攣る、という状況を故意に現出させている訳なのである。
「攣るという状態」
筋肉の攣りは突然訪れる。それもいつも不意打ちである。なんか妙なところがピクピクするぞ、と思っていたら、いきなりガチン、と鉄の轡を嵌められるように筋肉が石のように硬直してしまう。まさにLOCKUPという状態。おおお攣った攣ったという時にはまずはそれを忘れることである。動かすな、動かすな、とまずは横になる。変なところを動かすとまた別のところが攣る。その攣りの連鎖を避けるため、とりあえず身体の筋肉をなるべく弛緩させようとする訳だが、その方法はと言えば筋肉が攣っているという事実を忘れることなのだ。忘れろ忘れろと自分に言い聞かせながら、空を見たり誰かと話したりしながらなるべく注意を攣った筋肉から気を反らそうとする訳だ。そうこうするうちにいつのまにか筋肉の緊張が解けそしてふっと風が吹くような静寂が訪れる、おお悪魔が去った、となる訳なのだが

「鍼治療と緊縛」
今回のこの鍼治療中とはまさにその攣った状態を故意に現出させているものに近い。しかもそれが永遠と続く訳だ。当然のことながら身体中の筋肉はすべて繋がっている。そのつながりが思いもしらぬ繋がり方をしている訳でその分岐点と言うのがツボという奴なのだろう。鍼の治療中、この訳の判らない筋肉のつながりから、妙なところを動かすと治療中の鍼を打った場所を直撃する訳だ。右足の小指をちょっと動かすと左足のしりたぼに激痛が走るという具合。つまり下手に動けない。しかも小指一本動かすこともできない。こんな状態でくしゃみなどしたらいったいどうなるのか、と思わず戦々恐々な訳である。今回の治療でそれが三十分続いた。

「鍼を刺されたまま放置プレー」
という訳で今回の奇跡の名医である。忙しいのは判るのだが、そうやって身体に鍼をぶちこみ電流を流し始めた途端、はい、どうもとどこかに消えてしまった訳である。えええ、これはいったいなんなのか?と疑問に思ったままそのままどれだけ待っても誰もなんとも言ってこない。カーテンの中で尻に針をさされたまま完全に放置プレーな訳である。知りたがりの俺としては、この治療はなにを目的としているか。どういうことをどのくらいの時間どのように行うか、と聞いてみたいのは山々なのだが、そういう説明は一切なし。えいやあ、と針をぶっ刺してみるからにレガシー風な装置を繋ぎ、おっとなんか始まったと思ったとたんにもう誰もが掻き消えていたわけだ。いったいこれはなんなのか。。。と疑問に思ったままちょっとでも身体を動かそうとすると不気味な痛みが電流に乗る。それが三十分ほど続いたわけだが、まさにいやはやであった。

「鍼は効いたか?」
という訳で鍼が効いたか効かなかったか。回答を言えば効いたのである。痛みが夢のように全て掻き消えた、という訳ではないが、ふと気がつくとこれまでできなかったことができるようになっている。つまり靴の紐を結んだり立ったまま靴下を履いたり、或いはストレッチの色々なポーズができるようになっているのである。

「ストレッチ」
腰痛改善に一番必要なのはストレッチである、ということは判っている。判っていながらそれをしないのは、つまりは腰痛が原因でストレッチができない、あるいはとても苦痛な訳である。ストレッチができない、苦痛であるからストレッチをやらなくなり腰痛を加速させるというこの悪のスパイラル。そして身体の筋肉はますます硬質化し硬質化した筋肉が腰をしめつけそして歪めて行く訳なのだろう。とりあえず今回の鍼治療によってこのストレッチができるようになったというのは確かである。これを礎にしなくてはいけない、と胸に沁みるわけである。
という訳でまずはストレッチである。そもそもストレッチができないというのからしておかしかった訳である。とりあえず筋そのものに電流びりびりやって解きほぐしたところがまた固まらないうちに十分に伸ばし始めるべきだと思い知る。

「ラジオ体操」
つまりは一日一回でも良いからあの薄らみっともないラジオ体操を始めるべきなのである。そしてもうひとつ。何ゆえの腰痛かとその原因をつくづく考えた結果、月並みな言い方ではあるがそれは姿勢ではないのか、と思い当たった。

「足を組む姿勢」
どういう訳か俺は脚を組む癖がある。メールを打ちながら電話をしながらチップスを食いながら、ふと気がつくと必ず足を組んでいる。ふとすると立っている時以外のほとんどの時間をそうして足を組んで過ごしているようなのである。その足を組んだままの姿勢で長時間居ると、身体は自然とでろりと背もたれにもたれかかってしまうか、あるいは上半身そのもので机によりかかってしまう。この姿勢こそが腰に負担をかける、というよりは、腰をゆがめているのではないだろうか。ほら、いまこうしている時にも俺は脚を組んでいるではないか。つまりはそうか、実はそういう事なのか。という訳でまずは足を組まないことではないのだろうか。なんだそんなことだったのか、とは思うのだが、思っていながら、ふと気がつくと俺は足を組んでいる。おっとしまったしまった、と思いながら、ふと気がつくとやはり組んでいるのである。まさに、これこそが問題であったのか、と今更ながらに思い知るわけなのである。

「姿勢を変えることの難しさ」
という訳で姿勢を変えなくてはいけない。しかしながら姿勢とはすなわち生きる上での態度つまりは根本にも関係する訳でそう思ってみると俺は普段からいつも足を組んでだらっとそっくり返って腰骨がゆがむほどにしゃにかまえて生きていたということだろう。しかしながら、俺はもうそういうのはやめた。やめたいと思っていながら今更やめれない状況にあったからなのだが、今はもう辞めても良い状況にあるので率先してそういう斜構え的な態度を改めようとしているわけだ。つまり不良はもう飽きた、ということだろう。姿勢を変えるとはつまりはそういうことだ。あるいはそれは、そっくりかえって座ったり人前で足を組んだりガムをかんだりするような安いポーズなどではないということか。

「足が組みたい」
とういうわけで昨日から足を組むのを極力辞めているのだが、しかしながらそれはそれで無性に足が組みたくなる。足を組む理由とはなにか。第一に楽だから。なぜ足を組むと楽か。身体がゆがんでしまっているから、となる訳で、足を組めば組むほどに身体がゆがむという悪のスパイラル。なのでこの足を組みたいところを我慢するのはつまりは矯正になるわけでつまりは治療、よって苦痛を伴うのである。ああ早くよくなって思う存分足が組みたい、と思っている。

おいらはドラマー その一

Posted by 高見鈴虫 on 03.2013 音楽ねた   0 comments   0 trackback
最初に断わっておきたい。
俺はドラマーである。
ドラマーである以上は、
「音楽を聴く時、その大部分はドラムの音を聴いている」
ということである。

どんなジャンルの音楽でも、まず一番に耳に飛び込んで来るのはドラムの音だ。
それはどれだけ、そうならないように努力してもどうしても、いつのまにかそうなっている。

一時期はそれがどうして嫌になって、
元々ドラムが入っていない音楽ばかりを聴くようにもなったのだが、
そうなればそうなったでこれにドラムをいれたらどうなるかと考え始めるてしまい、
たちどころに脳内にドラムがセットされそして手足がが勝手に動き始める。

つまりそれは俺がドラマーだからである。

よってドラマーである以上、
音楽の良し悪しをドラムの良し悪しで判断することが多い。

ドラムの音がいいからという理由それだけでその曲を聴いていることもある。
かわりにドラムが嫌いだからという理由で聴かない曲も多い。

ドラマーとはつまりはそういうものである。
ドラマーである以上それは変えることできない。
ドラマーとはそういうものだと思っているし、
そうでないドラマーのことはあまり信用できない。

これはまさに、ドラム至上主義とも言える、
どうしようもなく偏狭かつやっかいな性癖である。

がしかし、
俺がドラマーである限りそれは変えることはできない。
俺がドラマーである限りそれを変えるつもりもない。

おいらはドラマー その二

Posted by 高見鈴虫 on 03.2013 音楽ねた   0 comments   0 trackback
俺はドラマーである。
ドラマーである以上は、音楽というものを聴くものとしてよりもプレイするもの、
として捉え、
音楽を聴く時にはドラムで叩いたらどうか、あるいは、
このドラマーが実際どうやっているかなにをやっているか
何故なんためになにを考え何を目指しているのか、
と、どうしても考えてしまうものだ。

ドラマーにとってドラムは、音を作り出すための道具であり、
大切な手足であり物を語る口であり舌だ。

ドラムの音を聴くだけで
その声色から叩いているドラマーの人柄から感情から血から魂から想いからが滲み出してくる。

そしてそうあるべきものだ、と考える。

少なくとも俺はそうやってドラムを叩き、そうやってドラムをそして音楽を聴く。

俺がそうやって音楽を聴く以上、そうでない音楽にはあまり興味がない。

ドラムが打ち込みであったり、ドラマーが己を表現できるまでには熟達していなかったり、

あるいはさらから、ドラマーがドラマーであることを求められていないタイプの音楽であったり。

実のところそれほどまで、つまりドラマーの息吹そのものを感じ取れる程に、
ドラムの音に気の配られた、あるいはそれが許されたテイクというのは早々と存在するものではない。

一般聴衆においてドラムの存在がそれほど重要視されない以上、
ドラムばかりに時間や予算を割けず、よってあまりにもドラムが蔑ろにされたテイクばかりが世に溢れ、
一般聴衆はますますドラムを学習する機会が減り、よって理解度が鍛えられず、
ますますドラム音痴な人々ばかりが音楽ファンを自称するようになる。

日本の音楽に興味がない理由もそれだ。

注目に値するドラマーが少ないのも確かだが、
他のメンバーや会社側、技術屋も、やはりそれほどドラムに趣きを置いていないのだろう。
悲しい現実である。

世界一リズム感の悪い民族=日本人は果たしてこうして生まれる訳である。

「姿勢の話 ニューヨークの雑踏で日本人がすぐに判る理由」

Posted by 高見鈴虫 on 04.2013 ニューヨーク徒然   0 comments   0 trackback
どういう訳かやはり、
ニューヨークという人種の坩堝においても
日本人というとすぐに目に付いてしまうところがある。
さすがに女の子は化けるのが上手いので、
2-3日もすればすっかり無国籍なニューヨーカー面で
おすましを決め込んだりもしているのだが、
どういう訳か男、特におっさんにいちゃんは、
どうも生まれ持っての性がなかなか抜けないものらしい。

という訳で、ニューヨークの雑踏の中での日本人である。
集団でいらっしゃっている方は、
もうまとめてドーンとまるっきり農協さんの団体なので、
思わず微笑んでしまって、
ああ、どうも、
と手を振ってしまったりもするのだが、

ことにその、駐在員と言われている人々に関しては、
もうどうにもこうにも目について仕方がない。

なぜか、と言えばなぜだろう、
とは常々思っていたのだが、
つまりはそれ、日本の会社、というものが個人に要求する、
その主体性の無さ、なのではないだろうか。

とりあえずどうにもこうにも、
日本人駐在員というのはすでに圧倒的に影が薄い。
あまりにも影が薄すぎて逆に目立ってしまう訳である。

どこにいっても何をしていても、
どうもそのいかにも挙動不審げ、
というか、
言ってみればそのおろおろとした雰囲気。

見てくれからすれば、
生まれてこの方、一度もまともに走ったことがない、
という、未熟児的奇形体型の虚弱児童風から、
なにを間違えたかまるっきりただのおっさん、
そのままらくだのシャツに腹巻をすれば、
りっぱなくまさんはっさんのような小太りおじさん。
あるいは、
完全になにかを間違えているテレビの中のフリークス。

まあ言ってみれば、押しなべて影が薄い、
というよりは、まさに、生命力の脆弱さ、なのではないだろうか。

そんな日本人が、人種の坩堝といわれるニューヨークの雑踏を、
いかにも迷子の子供のように、頼りなく落ちつかなげにきょろきょろしている様を見ると、
思わず、この人ほんとうに大丈夫か?と思ってしまうわけである。

という訳で、いったいぜんたい何故なのかな?
と改めて考えてみて思い当たったのは、

まさに姿勢が悪さなのではないだろうか。

言うまでもなく日本人は姿勢が悪い。
そして歩き方はと言えば、いかにも「歩く」という動作自体に慣れていないような、
前かがみでひょろひょろとまるで道端の小銭でも探しているかのような有様。

がしかし、実際に日本人が歩きなれて居ないのか、と言えばそれは嘘である。
日本人ほどに健脚な民族を俺は知らない。
それが証拠に、先の東京出張の際には、
地下鉄の駅を降りる度に、
なんでこんなにエスカレーターが長いのだ!辟易していた筈だ。
がしかし、そこは日本人である。
あの長い長い長い地下鉄のエスカレーターを、
しかし黙って立って待っている、なんてことができる筈がない。
思わずちょっとすみません、と脇を登り初めてしまって、
が、しかし途中で息が切れても足がつっぱっても、
途中でやめた、あきらめた、と見られるのが癪で、
結局は最後まで登り切ってしまう。

日本人というのはそもそもそういう民族であった筈である。

では、それならばこそ、なぜなのか、
なぜ日本人はこうもニューヨークの風景になじまないのか。
と言えばやはり、その筋骨そのものなのかもしれない。

草食系だかなんだか知らないが、
ニューヨークで細身の身体に柳腰。折れそうな手足にアクセサリーをジャラジャラ、
というのはまさにしくゲイだけである。
がしかし、ゲイなるものの中でもやはり男性美を磨き上げているゲイは、
まさしくそれでいて筋骨隆々、あるいは、朝晩ジョギングで鍛え上げているために、
日本人の、あの、まさに奇形魚のように白々しくも弱々しいその歪んだ骨格は、
なんというか、まさに、フリークス以外のなにものでもない。

それはつまりは、つきつめて見ればその歪んだ社会構造、
敷いて言えばその教育制度にあるのではと見ている。

つまり駐在員なる人々は日本でもエリートコース。
つまりは学歴優秀ということは、
やはり血気盛んな青少年時代を、
ひたすら机にかじりついて受験勉強ばかりやっていた筈である。
よって、その身体が歪んでいても当然ということなのだが、
いやはやである。
見ていて哀れ、というか、それを通りこして気味が悪くもある。

改めて言えば、アメリカはマッチョの国である。

兵隊の行進ではないが、肩を張り背筋を伸ばし、
顎を上げて首筋を伸ばし視線は遠くを見ながら
いかにもさっそうとして歩くことが社会人のまず第一である。

出会い頭にはしっかりと目と目を合わせ、そして白い歯を見せて笑い合い、
ガッチリと握手をする。
その握手はあらためてガッチリである。
なよなよと力のない握手はそれこそゲイ。
暗にオカマ掘ってください、と言っているようなものだ。

ガッチリと握った手で、まさに相手の手を握りつぶさんがばかりに
思い切り握り締める。
これが、アメリカ流の挨拶なのである。

奇形魚、じゃなかった日本のエリートの方々、
ニューヨークに来る前に、
英会話の勉強と一緒に、
ジムで筋トレ、それも特に「背筋」を鍛えるトレーニングをしてきたほうがよくないか?
と思うわけである。

「姿勢の話 姿勢の良し悪しこそが品格の表れ」

Posted by 高見鈴虫 on 05.2013 チャーリーホースは真夜中に疾る   0 comments   0 trackback
例の腰痛騒ぎから、姿勢について考えざるを得なくなった。
自慢じゃないが俺は姿勢が悪かった。
猫背、になるほど背も高くないのだが、
折々につけてふと自身の姿を鏡に見るとこれはいかにも姿勢が悪い。

という訳で、ニューヨークについてからすぐに通い初めたジム。
そんなこんなでいつの間にかそれなりに身体はできたのだが、
そんな頃に日本に帰った時には、
親からおずおずと、お前、ニューヨークで金に困って、土方でもやっているのか、
と聞かれたものである。

その後10年以上はなんだかんだでジムに行き続けていたのだが、
そうこうするうちにトレーニング中に手足が攣るようになり、
ちょっと様子を見ようか、と休み始めた途端、
あっというまに身体中がデロデロになってしまった。

まあそんな身体でも、
こと日本人の中にいればまったく気にならなかったりもするのだが、
いざそんな日本人村を出て、米国人ビジネスマンの仲間入りをすれば、
ふと当たりを見回せば、白人も黒人も、得てしてスーツを着ている人々は
極端過ぎるぐらいに姿勢が良い。

あるいは姿勢の良い人間はそれだけで格が上がって見える。

会社の面接ではないが、
普段からぴしっと背筋を伸ばして座る習慣をつけないと見くびられるな、
と思い知らされる訳である。

とふと隣りを見れば、うちのかみさん。
そう言えば昔あれだけしゃんと伸びていた背筋が、
どうも最近その気張りが抜けてきたような。

え、ああ、ハイヒール履いてたからね、と一言。

ハイヒール?
そう、ハイヒール履くと背筋が伸びるんだけど、疲れるよ、足が。

という訳なのである。

そうか、と思わず膝を叩いてしまった。

日本の男はサンダル履きに慣れているからあの歩き方になる訳であった。

つまり、日本人の姿勢を矯正するのは、ハイヒールなのである。

という訳でうっし、
ジェームス・ブラウンやらボブ・マーレーやらのような、
あのたか~い靴を履いてみようかな、と思っている訳である。

「食事を残す人々」

Posted by 高見鈴虫 on 06.2013 ニューヨーク徒然   0 comments   0 trackback
食事を残す人が嫌いである。
これはもう習慣というよりは日本人としての性癖という奴だ。
なぜならば俺たちはそういう教育を受けてきたのである。

給食を残したら食べ終えるまで残された。
きれい空っぽの皿を前にごちそうさまをするまで食事の席を立つことは許されなかった。

もし残そうものなら、あるいは、こんなものまずくて食えない、
などと文句を言おうものなら、

次は飯抜き。
あるいは、その場でひっぱたかれた。

そのような教育を受けた日本人として、
俺はなにがどうあっても飯を残すことができない。
そして、飯を残す奴を許すことができない。

ここアメリカは飽食文化の国である。
機械で大量生産された食物しか知らない人々は、
まさに使い捨て製品をぽい捨てするように、
食い物を徹底的に粗末にする。

俺がこれほどに大好物のピザをあまり食べたがらないのは、
よくいるピザのヘタを残す奴をみるとどうしてもむかついてくるからである。

それが日本人であればなおさらだ。
日本人でピザのへたを残している奴を見ると、
思わずこの非国民が!と横面を張飛ばしたくなる。

そういう訳で日本人である以上は、
そこがアメリカであろうが東南アジアであろうが、
食べ物は粗末にしてはいけないのである。

集まりの席で盛大に料理が残った時には、
ドギーバッグにしてもらって持ち帰る。
あるいは店を出たところで最初に見つけたホームレスにくれてやることにしている。

と言う訳で俺は飯を残さない。

俺が飯を残すのはまさに敗北である訳で、
俺はこの点においてだけはとても負けず嫌いである。

結果、俺が残すのはカップラーメンの汁と魚やフライドチキンの骨、
天ぷらの海老の尻尾、ぐらいな物である。

最近、食い物にうるさくなったかみさんが、
忌々しげに取り分けた肉の脂身の塊りを、
そのまま一口で食ってしまったりするのはさすがに顰蹙ものではあるが、
それでも食事を残すよりはましだと思っている。

がしかし、
たまに行く高級レストランの席で、皿に残り汁一つついていない、
下手をすればそのまま別のテーブルに出されるぐらいにきれいに空になった皿に、
片付けにやってきたウエイターが唖然とする様を何度も見ている。

ウエイターたちはテーブルに並んだ白く輝く皿を見て、
いやはや、と苦笑いを浮かべ、
そしてテーブルの人々、つまり日本人客の顔をさらり、
と見るわけだが、
その視線の中に明らかに侮蔑の表情が見て取れる。

つまりここ米国においては、
料理を残すことはまさしくマナーなのである。

料理を残さず食べることは、卑しい、そして、はしたない行為である訳なのである。

そう言えば昔、中国人の友人から、
驚いたよ、噂には聞いていたが、日本人って本当に飯を残さず食べる人たちなんだな。
ああ、それがマナーだからな。残したら周りの人に失礼だし、神様から罰があたる。
あれまあ、と中国人の友人。
中国ではそれはまるっきりの逆。
出された飯をすべて平らげたりしたら、それこそ、お前のところの飯は量が足りなかった、
このみみっちい奴め、という意味になってとても失礼にあたる訳だ、という話。

だから中国では、
とにかく盛大にオーダーして、そしてそれを盛大に残す、
これがなによりも大切なマナー。

と言われて正直、目をぱちくりさせたことがある。

という訳で、ここニューヨークでもそのマナーは中国に近いと見える。

確かにニューヨークにおいて人々はほとんど大抵飯を残している。

汚らしく食い散らかした皿をウエイター達がうやうやしく取り集めるのを、
済ました顔をしてデザートのメニューなどを見ていたりするのだ。

日本の感覚から言えば、
あのなあ、お前ら、そんなことをして恥ずかしくないのか?
店の人たちに悪いと思わないのか?
お前らいったいどんな教育を受けてきたんだ。張り倒してやろうか、
と未だに思ってしまうのだが、

ふと見ると隣のテーブルの家族連れ。
金持ち、というほどではないが、それなりに品は良さそう。
だが、そんな中、
きかん坊ざかりの男の子が、最後に残ったハンバーガーの一口に手を伸ばしたところ、
子供に母親が冷ややかな声で言い放った。

やめておきなさい。ブタみたいにみっともない。一口分ぐらい残しなさい。

という訳で叱られたこどもを見ると、
それでもやはり未練がましくハンバーガーを見ていたのだが、
いきなり指の先でバンズの中から肉だけをつまみだしてパクリ。

残されたバンズとレタスの切れ端が転がっている様を見て、
母親がよしよし、と。

これにはさすがに苦笑いが漏れたのだが、
ふとそんな母親がちっと俺たちのテーブルに横目を走らせる。

まさに空。ブタが食ったようにまったくの空っぽである。

そうこうしてやってきたウエイターが、やあ、と笑う。
随分きれいに食べたな、と皮肉にも取れる一言。

ああ、おいしかったよ。ありがとう、と笑うのだが、
そう、そんなウエイターの目には確かに、
なんと声をかけて良いのか、という動揺と、
そして明らかに嘲りの表情が浮かんでいるのである。

バカタレが、と俺は思う。
俺は日本人だ。思い知ったか。

が、しかし、そう現在は既に飽食の時代だ。

そんな日本にも、
飯を食わない草食系の虚弱児童や、
徹底的にお菓子しか食わない全身アトピーの少女が増えたと聞く。

という訳で、飯を残さず食う、という昭和の伝統は、
既に世界の常識の中ではまさに非常識の中の非常識。

それならば、と思わず。
大いに食べ散らかして食い残しで一杯になった皿の上から
丸めた紙ナプキンを積み上げてやろうか、とは思うのだが。。。

が、どうも俺にはできない。
してはいけない気がするし、
している奴をどうしても許すことができない。

それはまさに悲しいサガである。

何年アメリカに住んでもこれだけは絶対に変えられないだろうと思うし、
妙にアメリカ化された日本人が食事を残しているのを見ると、
そのままスタスタと歩いていって後ろ頭を叩きたくもなるのは変わらない。

あるいは同席した人間が飯を残したら、
俺はそいつとは二度と飯を食わないだろう、と思う訳だ。

それがいかにマナー違反と言われようが、
品格に欠けると言われようが、
はたまたブタのようだ、と言われようが、
なんと言われようが、

俺はたぶん、いや、確実に、
それは一生変わらないであろし、
そして変えるつもりもさらさらない。

という訳である。

そしてあらためて言わせてもらう。

あのなあ、米粒一粒の中には八百万の神様が宿っているんだぞ。
残したりしたらバチが当たるんだぞ。

「ティアファナの絵葉書売り」

Posted by 高見鈴虫 on 07.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
貧困というものについて考えるときにいつも思い出す光景がある。
風光明媚なサンディエゴからボーダーをくぐってたどり着いた国境の街・ティアファナ。
そのダウンタウンのメルカードで絵葉書を売っていたインディヘナのおばはんたちのことだ。

いったい誰がこんなものを買うのだろうという印刷の悪い絵葉書を風にひらひらさせながら、
観光客たちを見つけては、買わないか?買わないか?と馬鹿の一つ覚えのように繰り返してまとわり着いてくる。

そこかしこに群れるそんな絵葉書売りは、しかし誰もがまったく同じものを売っていて
そして誰もが一様にこれ以上なく埃まみれで疲れきりつまりは貧乏そうだ。

あるものは赤ん坊を背中に背負い、
あるものは子供たちに客引きの手伝いをさせている。
そんな絵葉書売りの人々はどう考えてもちっとも幸せそうに見えない。

なぜもっとろくな仕事を見つけないのか。
見つけられないにしてももう少し他との差別化を図るやらなんらかの工夫を考えはないのか。
人の作ったものを人に言われた金額で人と同じように売ろうとしてもそれは無理という話だろう。

つまりこの人たちは徹底的に損をしていのだな、というのがあまりにもあからさまに見えてしまう。
そのあまりにも赤裸々な貧乏な姿、
つまりあなたが貧乏なのは貧乏になるべくして貧乏になっているその必然的な結果なのですよ、
というまさに典型的な姿な訳である。

いくら夜明けから深夜までこの仕事を続けて、
神様私はこれだけがんばっているのになぜいまだに貧乏なのでしょう、
と言われても神様は困ってしまうに違いない。

まあ金以外で幸せに思えるように思考の転換を計ることだね、
ぐらいが堰の山であろうし、
事実宗教というのはそのようにして存在している。

がしかし、
ここではたと思う。
つまりはこれこそが資本主義のもっとも判りやすい縮図なのだ。
つまり上下に差はあるにしても資本主義社会で生きている限り
この縮図からは逃れられないのではないか、
という自己懐疑である。

という訳で、そういうお前はどうなんだよ、と思いつくわけだ。


ぐらつき

Posted by 高見鈴虫 on 07.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
なんかまたぐらついてないか?

とりあえず俺がどこから来たか、
どこに行こうとしてるのか、
その過程としての今は果たしてどのあたりなのか、
を良く考えること。
人の価値観に惑わされるなよ

貧困感ってつまりは損させられている感なんだ。
損得というのはまさに価値であって、それは自分で決めること。

事実、
世の中ほとんど全ての人々にとってはただの汚いバカな雑種に過ぎないうちの犬が、
俺にとっては己の命よりも大切な宝物であったりもするわけだろう。

価値はそれぞれの人々によって違う。

まずはそれを良く考えろ。

そして、自由でいたいのなら他人の目を気にしないことだ。
やりたいことをやりたいようにやってそれに満足すること。

それに他人の価値観を入れるとすぐに束縛が始まる。
そしてそれは罠だ。

が、しかし、
ホームレスでも幸せならよいというのはまた問題があるわけで、
つまりは要はバランスということなのだが、

まっそういう訳で、
B型気質もたまには必要よというぐらいなものだ。

とりあえずの所、
職場における幸せとは、良い人々と良い仕事をして良い結果を出すことだろ。
職場でよい関係を作るためよいバランスを作るための給料査定と考えたほうがよいのではないのかな?

安い給料で人の三倍働いたらみんなから尊敬されるか、
つまりよい関係が保てるかというとそんなことはない筈。

つまりバランスだな。
が、それは俺一人が張り切ってどうなるものでもないだろう。
上司を信用すること。
信頼できる上司、あるいは仲間と共にチームが組めることがとても大切なんだよ。

とりあえずは余計な干渉に踊らされてストレスを貯めないことだろ。
俺のこの豚のようにがっちい性格から言って、
いいんだよ俺はこれぐらいで、ぐらいがちょうどよい筈だ。

「15664人のフルーツバスケット」

Posted by 高見鈴虫 on 07.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback

入社から半年。

いまだに日々は研修ラッシュ。

次から次へと新しい仕事を覚えねばならず、
と大変なことも多かったがとにかく全てが真新しくそしてそれはとても面白かった。

と言う訳で半年が過ぎた。

水曜日の午後、ついに初めてのパフォーマンス・レビューを終えた。

いまだ研修中と言うことで通常の評価はできないが、
まあこれまでのところとてもよくやっている、
つまりこれからも伸びるであろうとの判断から、
と前置きして、
なんと入社半年目にして早くも給料もアップ。

加えて異例のボーナスさえも支給されたってなことで、
まさに驚き桃の木の嬉しいことずくめ。

実は入社以来ずっといつクビにされるか、
と日々戦々恐々であったのだが、
今回のこのレビューで、ついに正式入社、
つまりはようやく列記とした新前社員として認めてもらえたということ。

これはまじめに嬉しかった。

この半年我ながらよくがんばったなあ。
よしちょっとお祝いしようか、などと思っていた水曜日の夜。

朝の会議でも、と言う訳ではい執行猶予は満期です。
これからは晴れてお仲間の仲間入り。
これからもよろしくね、と暖かい言葉を頂いていた、
まさにその最中、

突如その手元に妙なメールがひとつ。
見慣れぬ宛先をよくよく見ると、
これはなんと俺の上司の上司のその上司のそのその上司のそのそのその上司みたいな人から、
タウンホール、とある。

なんだその、タウンホールってのは、
と辺りの人々に聞いてみるが、

つまりはそれ、社員全員集合の大会議だという。

なんの予告もなしにいきなりのタウンホール・ミーティング?

皆一様に、むむむ、なんだこり、と首を傾げるているばかり。




「許せないポイントを列挙してみれば」

Posted by 高見鈴虫 on 08.2013 嘗て知った結末   0 comments   0 trackback
今更選り好みをする立場に無いことは重々承知しているのだが、
ここだけの話こう見えても実は割りと好みにうるさい、というよりか、
ぶっちゃけ、実は許せないポイント、なんてものが実は数多く存在したりする訳だ。

まずデブが駄目である。
巨乳が嫌いな訳ではないのだがそれにデブが付随するとすれば
貧乳でも痩せているほうが良い。

あと馬面が駄目だ。
面長の人はそれだけで不思議と視線から外れてしまう。

ついでに言えば鼻ぺチャが駄目だ。
あとエラが張っているのも駄目。
出っ歯や受け口も好きではない。
目が吊っている人もどうかと思う。
加えて言えば運動神経が鈍そうなのは駄目だ。
猫好きとも気が合わない。
姿勢の悪い女は駄目だ。
と言えば食べ方の汚い女はまさに論外だ。
強いて言えば頭の悪い奴と性格の悪い奴は出来る限り遠慮させてもらいたい。
声の甲高いのは頭が痛くなる。
極めつけはブスが嫌いだ。
ブスが嫌いというより、自分をブスだと思っているような女は嫌いだ。

と言う訳で。。
うーんとあたりを見回して、
いちいちこれがいやあれがいやとやっていると、
そのうちにそんなこんなでいつのまにか一人もいなくなってしまう訳で、
これはとまさしく途方に暮れてしまう訳だが、
ふと思い出させば、あ、そうか、と思いついた。
そっか、かみさんか、となる訳である。

がしかし、それに気付いたとたん、
やれやれと心の底からうんざりする訳である。

もてない男ほど選り好みが激しいというのは、まさに事実のようである。
つくづくもてない男のようである。

まずはそこがニューヨークであること

Posted by 高見鈴虫 on 09.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
問題はねえ、
ニューヨークに暮らすことであって、
ニューヨーク以外のところでなにをやっても
いくら貰ってもどんな宮殿に住もうが、
それは同じ、つまり意味はないのよ。

でもそれがニューヨークであれば、
靴磨きやろうがテックサポートやろうがそれはそれでOK。

赤首州で野原眺めて暮らすよりはずっと良いわ。

まずはね、そこがニューヨークであるってことが一番大切。

やっぱ、そう、そうだよな。
まずは、そこがニューヨークであるってことが全てなんだよな。

そうそう、と皆が頷く。

まさにそれこそがニューヨーカーとして当然の見解、らしい。

いやあニューヨーカーだなあ。

でも。。もしクイーンズに暮らすのは嫌だろ?

と言ったらみんな苦笑いしていた。
やはりクイーンズはニューヨークではない、
というのも共通見解らしい。

ニューヨークの春 2013

Posted by 高見鈴虫 on 09.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
三月を過ぎ、季節外れの大雪の三日間の後
その週末はいきなりやってきた。
雲一つない青空の下、気温はみるみる50度まで上昇。
いきなり転がり込んできた春の訪れに
待ちきれなかったように人々が街に繰り出す。
疑わしげに羽織ってきた冬物のコートを持て余した人々の間を、
これ見よがしに白い肌をさらけ出した気の早い若い女たちがすり抜けてゆく
それはまるで泥炭にちりばめられたダイヤモンドのように目に眩しい。
真夏と真冬の交差する街角。
遠いビル街にこだまするパレードの喧騒。
ニューヨークである。
ニューヨークがいま目を覚ましたのだ。

という訳で改めて思う先日知らされた会社側の発表。

家賃高騰のニューヨークを離れ、
オフィスがNCに移転するらしい。
こちらが物怖じしてしまうほどの破格値の待遇も
このニューヨークを離れてまで保持しなくてはいけないものとも思えない。
あるいは例え百万ドルの金があっても
このニューヨークを離れてしまっては
一文の価値もない筈。
ニューヨークを知らぬものは
このニューヨークという街の魅力を知らな過ぎる。
様々な事情からニューヨークを離れる決断をした同僚を職を失って
明日をも知れぬ身の上になった我々は可哀想に
とお悔やみの心をもって送り出すことになる。

というわけでまた失業である。

またレジメを片手に町中を駆けずり回るのか、
とため息をつきながら、
このタフでビッチな都市に改めて戦いを挑むことになるのだ。
ああたかがニューヨークされどニューヨーク。

ニューヨークの春 2013 その2

Posted by 高見鈴虫 on 09.2013 日々之戯言(ヒビノタワゴト)   0 comments   0 trackback
ニューヨークに春が来た。

冬物のコートを脱いだ人々。
いきなりタンクトップとはいかないまでも
目を見張るような美女たちの
しかしそのお尻が揃いも揃ってでぶんでぶん。

が不思議なことに、
このデブンデブンが夏を迎える頃には
すっかりとあのキュートなスリムのジーンズに
収まってしまうというのは
いったいどういった魔法なのだろう。

ある種の生物のように、
季節ごとに毛がすっかり抜け替わったり
あるいは抜け殻の残して脱皮を果たしたりする訳か。

朝目をさますと、
もぬけのからになったベットに脂肪の抜け殻が、
なんてなかなか凄い。

なんてことを考えていたら、

実は女たちは女たちで
男の腹について同じことを考えているのかもしれないな、とふと思った。

「シリアルらいふ」

Posted by 高見鈴虫 on 12.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
糞、帰ろうと思ったらまた電話会議で残業である。
と言う訳で、助かった、引き出しの中にシリアルの箱。
とは言うものの、
そう言えば朝もシリアル、昼もシリアル。
となると、まさに、
朝昼晩3色共にシリアルとなる訳である。

という訳でシリアル。
つまりはコーンフレーク。

このところ朝も昼もシリアルなことが多く、
今日のように夜に会議がはいると、やはりシリアル、になるわけである。

俺はこれでも割りと食べ物にはうるさくない方で、
単食系ではないにしても、
それが食えるのであれば、別になんであれ気にしないところがある。

タイではカオパット、インドではマトンカリー、インドネシアではナシゴレン、

それだけでも十分生きていけた訳だが、
ここアメリカ。
徹底的にピザばかり食ってる奴とか、マクドオンリーやら、
昼も夜もフライドチキンだけ、とかいう奴らに囲まれていると、

なんともこの貧しい食生活にも嫌気が差してくる。

それに加えてそう、アメリカの飯は油断がならない。

下手をすると体重20キロ増し、あるいは顔が緑になって、
なんてこともありうるので、
やはり自衛に気を配ることが第一である。

という訳でアメリカで最も信頼できる食事と言えばシリアルである。

スーパーに行くとそれこそ壁のようにさまざまなシリアルが並んでいるので、
そのたびに違うのを買って、あるいは、
いざ同じものを買おうとしても見つからなかったりもするわけだが、

まあそういう訳でシリアルらいふである。

がこれ、まず甘さが鼻につき始め、
そのうち指先に塩一粒でもいいからしょっぱいものが食べたい
と思うようになる訳だが、
しかし甘さ控えめのシリアルはまさにドッグフードの味わいに近いものがあり、
つくづくこれは食事ではなく、餌なのだ、
という現実を思い知らされることになる。

このような暮らしを続けていると、
果たして最近、小便からうんこからが甘ったるい臭いがし始めていて、
多分体臭もそうなっているのかもしれない。

塩分控えめな分、苛々は減ったのだが、
その分、なにをやるにも元気がないのは事実。

俺の友達で20年間、毎日プロテインばかりを飲み続け、
食べるということから徹底的に遠ざかっていた元ボディビルダーがいるが、
この歳になると身体中がボロボロになってしまったそうで、
いやあ、やはり人間、飲んでばかりじゃだめだ、食べなくてはダメだ、
というあたりまえのことを力説していたりするのだが、
いやはや、アメリカ、まさに単食系民族の国である。
まさか20年間シリアルだけ?
いくらなんでもそれはちょっと無理だと思うの。

という訳で、ああ、またシリアルか。

ああ納豆が食いたい、としみじみ思う。

決して口にしてはいけない言葉を口にだしたとたん・・

Posted by 高見鈴虫 on 13.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
その昔、
つまりはずっとずっとその昔から、
いつの日にか、釣りをして暮らしたいな、と思っていた。

俺にとって、釣りとは幸せそのもの。

だって、釣りだぜ。
そう、まさに、のほほん、の象徴なのだ。

つまり、そう、
俺にとって釣りをやって暮らす、とは、
将来に対して、なんの心配もなくなったとき、
もう人生のすべてにけつをまくってしまったとき、
おもいきりのほほん、とした顔で、
いるのかいないのかわからない魚が、
ひっかかってつくるのをひたすらに待ち続ける釣り、
というものをやってみたいのだ。

そして永遠と待ち続けた末に
もしもようやくなにかが釣れたとしても、
急いで針を外してすぐに逃がしてやるのである。

こんなもの、犬でさえあまりに退屈して、早く帰りたい、
と言い出すにきまっている。

が、しかし、それで良いのである。
なんてったって、もうなにも心配することはないのだ。
そう、だから、もう大丈夫なのである。

俺にとって釣りとはまさにそういう物だった。

いつの日か、そうやって暮らせる日が来るのだろうか、
きたらいいな、とは思っていた。

のだが、

どうも俺にとって、釣りをして暮らそうかな、という言葉は、

決して口にしてはいけない禁句のような気がする。

なぜかと言えば、これまで、この言葉を口に出すたびに、

トンでもないことが起こって、
そしてその末に、まさに釣りどころではない自体に追いやられる羽目になるのだ。

という訳で今回である。

これまでのたびたびに渡るどんでん返しやらしっぺ返しから、
よほどに相当のことがないかがいり安心をすることがなかったわけだが、
今度という今度はまさにぜったい大丈夫だろう、
ようやくこれで長い旅が終わったのか、
と思ったやさき、
寝がけに、隣のかみさんに向けて、
ああ、これからは釣りをして暮らそうかな、とつぶやいてしまったのだ。
釣り?あなたが?なんで?いままでそんなこと言ったこともないのに。
そう、言えなかったのである。
が、そう、もう大丈夫。ここまで来ればもう大丈夫だ、
と思った俺が、ついに、
そう、実は、いつか釣りをして暮らしたいってずっとずっと思ってたんだ、
と口にだしてしまったのである。

そしてその翌朝。
いつものようにチームミーティングの最中に、
あれ、なんかいま変なメールが来たぞ、
緊急連絡?なんだろ、これ、とみんなして首をかしげたときにはじまったこの大騒動。

いまになって思えば、つまりは俺のせいなのだ。

俺が、言ってはいけない呪いのことはを言ったがために・・・

という訳で、これから先、どうなるかさっぱり判らず、
まさに釣りどころの騒ぎではないところに逆もどり。

くそったれ、もう一生、釣りをして暮らそう、なんて、
口が裂けても言わないぞ、と心に誓った。

梅が咲きました

Posted by 高見鈴虫 on 14.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
このところ日本との電話会議がれんちゃんである。
日本向けである以上、当然の事ながら時差があり、
会議は業務終了後の夜になる。
おまけに夏時間が始まり、日本との時差が短くなり、
よって会議の開始が遅くなる。

というわけで連日連夜の深夜帰宅。
帰ってから夕飯の支度をするのも面倒で、
大抵は晩飯ぬきか、あるいは誰もいなくなったオフィスの机でシリアルをたべる日々。

まあ別にそれに不満がある訳ではないが、
そう、前の仕事に比べればこれでもまだまだ人間的な扱いはして貰っている筈なのだが、
3日4日と犬の顔を見れない日が続くごとに、
どんどん顔が肌が、そして心が、乾いていくのが判る。

という訳で今日は朝から、
くそったれ、今日という今日は、絶対に5時に帰って、
そしてブーがもう勘弁、というまで散歩してやるぞ、
と思っていたのだが・・・

2時を過ぎたところで、いきなり再び電話会議の呼び出しである。

勤務先が米系である以上は勿論すべて英語、
しかも米人相手である以上は情け容赦無く徹底的に早口で
正直、分からない単語や言い回しばかりである。

でいきなり、
はい、ではどう思いますか?
と振られる訳で、つまり片時も油断できず、そしてほとんどの場合、
それが一時間2時間、下手をすると一日中続くたりする訳で、
いやはや、である。

で、ようやく終わって5時前。
まじで吐き気がする。
5時15分前になったのに、
やり残した仕事が満載である。

通常ならば、電話会議を横で聞きながら、
のながら仕事ができる訳で、
実はこの長い長い会議も、
そのながら仕事を前提としてのことなのだろうが、
このながら仕事、始めたとたんに会議の内容がちんぷんかんぷんになってしまう。
で、そういう時に限って、おい、と呼ばれる、
あるいはそういう会議に限って、
後になってから議事録はそちらで書いてくれ、
なんてことになるわけだ。

という訳で、
例え電話会議といっても気が抜けない。
あるいは、
電話会議だからこそ尚一層気が抜けない。

悲しいことに俺はまだ、
電話会議を聞きながらのながら仕事、
ができるまでには仕事に慣れていない。
つまり、必死の思いで2時間電話会議にしがみついた後、
ようやくほっとしたところの目の前に、
半日分の仕事が山積みになっている、という訳である。

これは辛い。

というわけで,
電話会議を録音するわけである。

で会議終了後に録音を聞き直し、
聞き直しながら再び何かを始めると、物の見事にまた分からなくなり、
巻き戻してもう一度とやっているうちに時計はすでに7時近く。
まったくやれやれである。

ああ、ブー君、また寂しがっているだろうな、
と思うと、本当に涙が滲んでくるようである。

そんな時、ふとメールを開けてみると、
日本からのメッセージ。

梅が咲きましたよ、だそうである。

梅か。。日本はもう春なんだな。

武器としての英語

Posted by 高見鈴虫 on 15.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
ぶっちゃけ、問題は英語だろ。

何年いたって、普通に暮らしているだけでは、英語は上手くならない。
例の42丁目のジミヘンと一緒だ。
ただいたずらに弾いているだけではなにも進歩はしないのである。

楽器も英語もやることは同じだ。

ロックにルーディメントは必要ないように、
ダチのロック野郎との日常会話では英語は上手くならない。

エイトビートを繰り返すことも必要かもしれないが、
エイトビートの中には、裏音があり、TIPNRINGがあり、
つまりは、モーラーの基本動作を抑えていなければ、
エイトビートでさえ雑な音、つまりは偽物なんだよねえ。

俺は基礎もやらずにライブハウスで8ビートをぶっ叩くだけ、
のドラマーで、それでは誰にも相手にされなかったように、
ただ取り敢えず単語並べてしゃべっているだけ、
という英語とまったく同じだ。

モーラーを知っているからと言って、
良いビートは叩けないが、
やはりモーラーを抑えている奴のビートは美しい。

モーラーを抑えるには、
モーラーが何かをしっかりと学び、
そしてそれを徹底的に反覆することである。

それは英語も同じだ。

プロを辞めてから基礎をやり直したように、
俺は、改めて英語の基礎を学ばねばならない時期に来ている。

で、果たしてドラムにおけるモーラーとは英語におけるなにか。

まさしく、
文法と発音である。

それをライブでどう表現するか、はまさに、プレゼンだろう。

業務英語とは、まさにスタジオ・ミュージシャンのようなものだ。

楽譜=台本のドキュメントが、あり、それを、楽譜=台本通りに、美しく話す。

テンポもリズムも必要だ。

つまりはそういうことだ。

書見ができなくてもドラムは叩ける。が、書見ができないとスタジオでは誰にも相手にされない。
同じように、
台本がしっかり読めなくては、プレゼンでは通用しない。

という訳で、能書きはここまで。あとは実践である。

発音の基礎、と、基礎単語のアクセントの位置を再確認。

ジョニー大倉ではないが、聞いたものをそのまま声に出す、
コピーのセンスである。俺は耳は人並み以上に良い筈だ。やってみろ。たぶんできる。

つまりは、単語、及び、センテンスにおけるアクセントの位置と、
R L の発音、及び、子音なのである。
要は反覆が必要である。
ドラムに比べればそれほど大変ではないはずだ。

ピンクヒーラー

Posted by 高見鈴虫 on 16.2013 犬の事情   0 comments   0 trackback
冬枯れのリバーサイドパーク。
会社から帰ってもまだ明るいのは日が長くなったせいではなく、
サマータイムが始まったからなのだが、
いやはや、連日連夜のこの寒さ。
サマータイムもないものだぜ、とは言いながら、
夕暮れのハドソン川沿いの遊歩道をそぞろ歩き。

オーストラリアン・キャトル・ドッグは別名をブルーヒーラー。
黒の混じった銀色の毛並みが、
空の青さを反射して青く輝くことによるこの別名。
嵐の過ぎ去った後の、淡い色彩の滲んだ夕空の下、
ブーの身体がピンク色に染まっている。

今日のブー君はピンクヒーラーだな。

え、なんだって?誰がおピンクだって?
とボールを咥えたまま振り返るブッチ。

ピンクヒーラー、こいつには似合わねえな。

「ブッチ・ザ・テネシー」

Posted by 高見鈴虫 on 17.2013 犬の事情   0 comments   0 trackback

日曜の朝のセントラルパーク。
まだ暗いうちから公園中をこれでもか、と走らせた後、
さあ、いい加減そろそろ帰って朝飯にしようか、と手綱をつないだところで、
ペディキャブの自転車こぎのにいちゃんから、おい!
と呼び止められた。

おい、それ、キャトルドッグか!?

ああ、確かに、と答えてから、
あんたよくキャトルドッグなんて知っているな、と思わず振り返った。

ああ、俺はキャトルドッグのことならなんでも知っている、
とその現代の無法者を絵に書いたようなタフそうな兄ちゃん。

オーストラリアン・キャトルドッグ。
スーパー・アクティブ、スーパー・エネルギッシュ、
スーパー・タフで、そして、スーパー・インテリジェンス。
まさに犬の中の犬だ。

さあ、おいで、と自転車の上から手を伸ばすにいちゃん、
がしかし、そう、そこはキャトル・ドッグである。
飼い主以外の人間は決して信用しない。

なんだこいつ、と訝しげな表情で身構える犬に、
良い子だ、まさにキャトルドッグだ、と満面に笑みの兄ちゃん。

ネバートーク トゥ ストレンジャー。
まさにキャトルドッグ。良い犬だ、
と翳した手をくるりの一回転、
つまり手の甲を翳してブーの鼻先に近づける。

クンクンクン、ねえ、こいつ一体何者?と俺を振り返る。

その人は大丈夫、と頷いて見せると、ならば、とばかりに改めておすわり。そしてお手、のサービス。

かわいい犬ね、とペディキャブの客。

はい、これはオーストラリアン・キャトル・ドッグと言ってね、
スーパー・アクティブ、スーパー、とまったく同じことを繰り返す。
つまりは犬の中の犬。
この毛並み。白、というよりもシルバー。まさにシルクの肌触り。
これがね、青空の下だと、空の青さを反射して、青く光る。
ニックネームはブルー。
ブルーヒーラー。本当に美しい犬だ。

まあこいつは雑種だけど、と俺。

がしかし、とその運ちゃん、こいつは見れば見るほどにまさにキャトル・ドッグ。
と自転車を降りた兄ちゃん、
といきなり頭をゴシゴシ。そして鼻先に顔をくっつけて、いきなりブーの鼻の頭にぶちゅっとキス。

普段ならそんな不届き者からは一瞬のうちに飛び退いて、はたと戦闘態勢を整えるはずのブッチ、
なぜかこの兄ちゃんには思わず心を開いてしまって、
身体中をくねらせては飛びかかろうとしている。

ほら、どうした、そうか、やるか、よしよし、と大喜びの兄ちゃん。

いまどのくらい走らせてきた?
ブーにかがみこんだ途端に飛びつかれて顔中べろべろ。
まあ、2時間ぐらいだけど。
ほら、2時間走ってもまだこれだけの力が有り余ってる。
と身体をゴシゴシ。
うん、いい筋肉をしている。運動も十分だ。可愛がられているね。
散歩大変だろう?
まあねえ、確かに、と俺。
それにこの毛並み。この滑らかな美しい毛並み。
毛が抜けてな、家中が毛だらけだ。
そうなんだよ、ほんと掃除が大変で。

とそんな話をしながら、頭を掴んでゴシゴシ、
ヘッドロックはする、挙句に抱え上げて首に巻いてやあ、とプロレスごっこ。
ブーくんはまさに大喜び。
ブーくんが俺以外の人間にこれほど甘えて見せるのは本当に珍しい。
うちのアパートのドアマンなどもう2年もおやつをあげ続けながら
いまだに頭ひとつ撫でさせては貰えないのに、だ。
まさに奇跡を見るようだ。

そんなブーを見て、かわいい!カメラを手にほら、おいで、と手を差し伸べたとたん、
危ない!と兄ちゃんが一言。
この犬は相当に犬に慣れた人間でも扱いに苦労する。
ヘタに手をだすと、噛まれる!
といきなり厳しい顔。

だよな、と言われて、まあ噛みはしないけど・・と俺。
ちょっとシャイなところがあって。

いや、シャイじゃないんだ。つまり用心深いんだ。
やすやすとはストレンジャーを受け入れない。
まさに犬の中の犬だ。

と立ち上がった兄ちゃん。
身体中にまつまりついた白い毛をパタパタ。
いかにも慣れた風。

あんたもキャトルドッグ飼いか?

いや、俺は、つまり、まあ、故郷に置いてきた。
もしかして、テネシー?
そう、そうだよ、なんで判る?アクセントか?俺のアクセントでテネシーだって判るのか?
いやいや、と俺。
こいつもテネシーから来たんだ。そう書類に書いてあった。

そうかあ、と男。
お前もテネシーからか。

おすわり、とやった途端に喜び勇んでおすわりをするブー。
俺を振り返りながら、なんかこの人、大好きみたい、とさかんに尻尾をふっている。

そんなブーと見つめ合いながら、
そうか、お前もテネシーからか。
ふと見ると兄ちゃんの目がうるうる。

散歩を十分にしてやってくれ。思い切り走らせて、思い切り遊ばせてやってくれ。
さもないと・・
ああ、判っている。それだけはね。
そう、大暴れだ、とケラケラと笑う。
さあもう一回キスしてくれ、という兄ちゃんに、まさに飛びついてキスキス、
滲んだ涙をペロペロと舐めている。

ペディキャブの客がこれでもかとばかりに写真を撮っている中、
こいつ、と胸に抱きしめたブーの毛の中に顔を埋め、
本当だ、こいつ、テネシーの匂いがするぞ。

ブッチ・ザ・キャトルドッグ。
まさに草原の匂いのする犬だ。


という訳でキャトルドッグである。

犬の本業とは、まさに可愛がられること

Posted by 高見鈴虫 on 19.2013 犬の事情   0 comments   0 trackback
夜の散歩を終えてご満悦のブー君。
今日もよく遊んだね。
なんてするうちにすっかりおやすみモード。

そんなブー君を胸に抱いて腕枕。
ふとするうちにいつのまにかぐっすり。

その無邪気な寝顔を眺めながら、
お前はいいねえ寝てばかりで、と思わず。

というわけで、ふと、
果たして犬の仕事とは何だろう、
と考えて見た。

寝ること、食べること、近所にお散歩にいくこと、
公園中を走りまわること、ボールを追いかけること、
顔をペロペロなめること、おやつをねだること、
外で人が騒いだらワンワン吠えること。

どれもまあその通りなのだが、
さてそれが本業か、というとどうもそうでない気がする。

では果たしてブー君の真の仕事とはなにか。
それはまさに、可愛がられること、なのである。

と言いうわけでブー君。

お休み中とは知りながら、
失礼してお腹のあたりを撫で撫で。

すると寝ぼけながら、
前足を広げて、胸を撫でて,と催促。
はいはい胸むね、と撫で撫で。
やめるともっともっととまた催促。
本当にこいつ、どんどん図々しくなって、
とは思いながら、
どうしてもやめられないこの可愛がり。

ブー君、しっかり可愛がられているか?

はいはいそうそう、
お前の仕事が可愛がられる事ならば、
これほど仕事熱心な犬も早々といないはず。

しっかり可愛がられてやってるんだい、仕事だからな、

というわけで、
その寝ぼけた顔の鼻の頭に思わず ちゅっ。
くそう、こいつまったく可愛すぎるな。

せいぜい思う存分に可愛がらせてもらいますので、
今後とも末長くご健勝のほど何卒よろしくお願いだよブー君。

俺が舐められる理由

Posted by 高見鈴虫 on 19.2013 犬の事情   0 comments   0 trackback
これがアトピーという奴か、
いつの間にやら顔中がボロボロ。

という訳で先日の健康診断時に処方された
ステロイド系の塗り薬をつけている。

そんな事情から、ここ暫くの間、
ドッグランの可愛い犬たちにも、
顔をペロペロはちょっとご遠慮頂いている。

俺の姿を見かけるや、
喜び勇んで一目散に走り寄ってくる犬たち。

まさにほとばしるような愛しさを込めて、
夢中になって顔中を舐め回そうとするのだが、
ちょっと待った!
とした途端、え!?とまさに驚愕の顔つき。

なんで!?なんで!?

いやさあ、お前らに舐められているから、
という訳でもないのだが、ちょっと顔があれちゃって、
薬つけてるんだよ。

ああ、そうなんだ、と犬達。
だから代わりに身体を値でてあげるから、
とやった途端に、俺もわたしもと大集合。

が、ふと不思議なことに、
顔を舐めないで、とやったとたんに、
誰も俺の顔を舐めようとしなくなった、訳だ。

そうか、そうだったのか。

つまり俺がいつもいつも犬達に顔をなめられる理由は、
顔をなめられることを嫌がらなかったせいなのだ。

へえ、そういうことなんだ。

まっててね、この薬でアトピーが治ったら、
また思う存分舐めさせてあげるからさ。










「アメリカのターニングポイント」

Posted by 高見鈴虫 on 20.2013 アメリカ爺時事   0 comments   0 trackback
ドッグランでの顔見知り。
なんか最近の日本の話題で面白いことないのかな、と聞かれて、
そう言えば体罰問題がね、という話になった。

いやあやっぱり日本は遅れているなあ、と言ったところ、
いやそんなことないよ、という話。

つまりそれって時代じゃないのかな、と。

俺もガキの頃は良くひっぱたかれたと言うので、
おいおいアメリカでそれをやったら警察沙汰だろう、
と言うと、それはつまりは70年代も半ばになってからのこと、らしい。

少なくとも60年代からそれ以前に育ったガキは、
とりあえずは至る所でよくひっぱたかれた、ということである。

自分の親は勿論のこと、学校の教師から近所の人からと、
そこら中で引っぱたかれた。
あんまり日常茶飯事なんで気にもしなかったがな、
ということらしい。

ってことはあんまりにも体罰が酷いので、
敢えてそれを法律化せざるを得なかった、ということだろうか。

という彼は確かに鼻が潰れている。

ああ、これか?ああ大学の時にな。

フットボールかなにかで?

いやバーで喧嘩したんだ。
昔は週末の夜と言えば殴りあいの喧嘩は日常茶飯事だったぜ。

でも俺、アメリカに来てかれこれ20年になるが、
それこそ殴り合いの喧嘩なんか見たことないぜ。

ああ、それも80年代に入ってからだろう。
それまでは週末の夜は喧嘩をするものだと思っていたよ。

ついでに言えば俺の若い頃はレイシズムもセクハラも日常茶飯事。
まったくね、今から思うとまるで開拓史時代の話みたいだがな。

まさに目から鱗である。

あんたこう見えても色々やってたんだな。

いやアメリカが変わったのさ、と一言。

ある日を境に、アメリカは変わったのさ。

そのターニングポイントはなんであったのか、と聞いても、

さあな、と苦笑いをされて逃げられてしまったが、

多分それは、ベトナム戦争だったのだろう。

アメリカが始めて負けた戦争である。

つまり戦争に負けてアメリカは変わったのだな。

ふと、戦争に負ける前のアメリカを見たかったな、と思った訳だが。

人間観察などやればやるほど面倒くさくなるばかり。やめとけ

Posted by 高見鈴虫 on 20.2013 とかいぐらし   0 comments   0 trackback
この歳になると、
まあ大抵のことには驚かなくもなるのだが、

人間観察などやればやるほど面倒くさくなってこっちが辛くなるだけだろう。
俺は霊媒ではないので人の不幸を吸い込んでも自分がダメージを受けるだけだ。
やめとけ。

兎夢の声を聞くだけでその底知れぬ悪意に心底辟易してしまう。
俺は悪意にとても敏感なところがあるので、ちょっとこれは溜まらない。
が、出歩も言っていたが、人はツールなのである。
つまり個人はここのゴールに向けて生きている訳で、
他人はまさに2次的なものとして存在するに過ぎない。
つまりツールとして使っていれば言い訳なのである。

が他人は他人でまたここのゴールに向けて生きている訳で、
お互いにお互いの資産をツールとして利用し合う、というのが正しい見解。

他人はそれ専用のツールではないし、時にはバグもあるが、
まあ使える部分をツールとして使い、あとは切り捨てる、というかタッチしない。

学べるものの多いツールとして出歩や真育は非常に優れたツールなのである。
たぶん出歩は選りすぐれたツールたろうとしてきたのではないだろうか。

やはり人間的な意味では真育よりも出歩に魅力がある。
つまり謎なのである。がとてもとても魅力的な謎を持った人である。

兎夢やペギラが嫌なために出歩や真育と離れなければならないとしたら
それはとても損な選択である。

出歩や真育がとても魅力的、つまり得るものが多い分、
それ以外の人々が多少バグが多くても目を瞑ろうと思う。

つまり損得だ。

出歩からこれほど多くのものが学べる以上、たまにはPAYBACKも必要である、
と考えるべし

「印度人論 その壱」

Posted by 高見鈴虫 on 20.2013 旅の言葉   0 comments   0 trackback
「印度人論 その壱」

幸か不幸かインド人との付き合いは長い。

古くは学生の頃にバイト先にいたインド人との付き合いから始まり、
その後のインド旅行ではこれでもかとばかりに辛酸を舐め、
そして最近になり、IT関連の職場ではそのインド人がパートナー、
時としてボス、あるいは顧客となりうる機会も増えた。

と言う訳で、これまでの私の経験に基づく、
独断と偏見に満ちたインド人論を展開してみたい。

とは言うものの、
私はステレオタイプが嫌いである。
あるいは、安易なステレオタイプに陥らないように、
と日々自身を戒めているところがある。

日本人にもいろいろなタイプがいるように、
アメリカ人にも韓国人にも中国人にも、
そして当然のことながら、
印度人にも色々なタイプがいる。

が、しかし、一般論というのも存在する。

とりあえずはこの一般論的な解釈における印度人論から始めてみたい。


「印度人はB型である」

B型にも色々いるのだろうが、
とりあえず印度人はB型気質の人間が多い。
よって、印度人の謎のほとんどは、
B型人間の謎としてそのまま流用してしまっても良い気がする。

そう、つまり、印度人はB型、それも超のつくB型気質なのである。
これだけでなんとなく理解のついた人も多いのではないだろうか。


「印度は奴隷と貴族の国」

印度人の中には2つの人格がある。
奴隷と貴族である。
それは例え、バラモン出身であろうがクシャトリアであろうがハリジャンであろうが代わらない。
印度人は押並べてその中に奴隷と貴族が共存しているのだ。

やたらと高慢に気位が高そうにしているかと思うと、
上の人間、とくに白人が加わると、
まるで手のひらを返したように奴隷に変身してしまう。

これはまさに、英国に統治されていた時代から身についてしまった、
奴隷根性の賜物である。

よって印度人は、そのB型気質と相成って、

立場が上、と見れば、限りなく威張りつくしては、
上の立場を利用して、ありとあらゆる特権、利権を独り占めにしようとする。

そしてひとたび立場が下になれば、
ここでは極端なまでの奴隷根性。
つまりは、表向きは嫌味なぐらいに媚びへつらいながら、
それはもう極端なぐらいまで仕事から逃げ回る訳である。

それを攻めたとたん、
印度人は突如として、あの印度人特有の訳のわからない印度英語でもって、
考えうる限りの言い訳という言い訳を捲くし立て始める。

この印度人気質を、まったくどうしようもない、
と表現するのが常であるが、
しかしそれは、やはり、印度人が、
まったくどうしようもない人々であるだからである。



「印度人は個人主義者である」

印度人が個人主義者である、という声はよく聞くが、
どうもそれは違うのではないか、と思っていた。
個人主義、というよりは、
極端に視野が狭すぎて、
自分のこと以外はまったくなにも目に入っていない、
と判断すべきである。
印度人には集団、あるいは、仲間の概念は、ない。
例え同じチームで同じ問題に取り組んでいても、
彼らは自身のパートを生めることだけが仕事であり、
基本的には個人個人の集まりなだけ、である訳だ。

ましてや日本のように、自分と他人が曖昧なところで、
互いが互いを補いながら力をあわせて、
なんてことは、まったく彼らは理解できない訳だ。

印度人は強調ができない。個人主義だからではない。
自分以外のことには一切目に入っていないだけ。
そこを間違えると大変なことになる。


「印度人にとってのベストウエイ」

印度人と仕事をしていると、良く「ベストウエイ」という言葉が使われる。
書いて字のごとく、最善の方法ということな訳だが、
上記したように、印度人は本来、個人主義というよりは、
自分自身以外はまったく眼中にない人々である。
よって、印度人が言うベストウエイとは、
その印度人にとってのベストウエイ、
強いては、その印度人以外のことはまったく関係ない意味での、
つまりは、俺にとってはそれが「ベストウエイ」なのである。
そこには、わがチームにとって、やら、わが社にとって、
やら、このプロジェクトにとって、という概念はない。

そしてまた、奴隷根性の賜物でもある印度人は、
まさに、もっとも自分が楽をできる方法、ばかりを模索している所がある。
よって、後先のことは考えず、これが一番、その場を、楽に済ませられる方法、
という意味であることが多い。

そこを間違えると、まさにとんでもないことになる訳だ。



「印度人は嘘つきである」

よく言われることだが、印度人は平気で嘘をつく。
なぜならば、印度にも多く存在するイスラム教は、
嘘も方便、であることを高々と歌っている宗教である。

商売のためなら嘘も方便。アラーの為なら嘘も方便。

それに加えて印度人の一般宗教であるヒンドゥ教は、
一神教という厳しささえもない。

つまり、嘘をつくイスラム教徒に対して言う、
「おう、そういうなら、アラーに誓うか?」
というあの伝家の宝刀の嘘発見方が使えないのである。

クリシュナには嘘をついたが、シバにはそれはOKだろう、となる訳だ。

まったくああ言えばこう言うの権化である印度人は、
その場限りの言い訳の方法がいくつ考えられるかが
頭の良さと判断されるような人々な訳である。

と言う訳で、契約は守らず、金は誤魔化し、
約束は全て反故、というあのはちゃめちゃな印度人ぶりが
目を離せばとたんに手を抜き、叱れば臍をまげ、
口を開けば言い訳ばかり、てんぱると途端にけつをまくって姿をくらます。
そんな印度人らしさがとことんに発揮されるという訳である。

がそんな印度人を攻めてはいけない。
印度人はつまりはそういう人たちなのである。
それを知らずに印度人を信用した側が無能なのである。

改めて言う。

極端なB型気質で、しかも奴隷根性の塊であり、
しかも、嘘つきである印度人は、
日本人の社会的信用に支えられた概念とはまったく種を異にする人々である。

それを十分に理解したうえで、改めて印度人との付き合い方を考えるべきなのである。

「印度人論 その二 ###印度人の扱い方####」

Posted by 高見鈴虫 on 20.2013 日々之戯言(ヒビノタワゴト)   0 comments   0 trackback
###印度人の扱い方####

と言う訳で、印度人とつきあう上で一番大切なのは、
最初に上か下か、をはっきりさせることなわけであるが、
以上のことからもわかるように
極力、印度人を上の立場におかない方が無難である。

B型気質で個人主義者で嘘つきである印度人は、
つまりは、
チームワークの概念に疎く、あるいは、無く、
独断と偏見ですべてを判断して、
そしてそれがとてつもなく極端である上に、
一度嫌気が刺せば、後先も考えずにプイ、と横を向いて脱走を図る。

ひとたび自分の立場が上だ、と判断した あるいは勘違いした印度人が、
勝手に暴君と化した末に勝手に個人の特権ばかりを拡大解釈し、
挙句に会社の金を持ち逃げして消えた、
やら、

あれもこれも、と手を広げた挙句、
その仕事をすべて下に押し付け、
そして予想通りプロジェクトが頓挫したとたんに、
人の失敗を挙げ連ねて言い訳を並べ立てた上に、
よって俺は悪くない、と開き直る。
(まあそういう奴は日本にもごまんといるが)

あるいは、
責任問題を言及した途端、
プイ、と横を向いたかと思うと、
そのまま全てをほったらかしてどこかに消えてしまったやら、

挙句に、
なんか珍しく神妙に仕事をしているなあ、
と思えば、いきなり、完成に近くなったが、この辺りで給料を上げろ、
給料を上げないと、すべてぶっ壊すぞ、みたいなことを言い始める。

まるでカルカッタのタクシードライバー。
やれ、ガス欠だ、ガス代を出せ、やら、車が故障した修理費を出せ、
とやった挙句、野原の真ん中で車を止めて、
金を払わないならここで降りろ、と言い出すあれである。

印度人のよくやるこの混ぜ返しは、
その社会的地位に関係なく、
印度人という種族全てに共通する常套手段である。
印度人はたとえどんな金持ちでもこれをやる。
しかも理由のまったく判然としないまったくケチなところで、
つまり、生活における全ての側面でこれをやる。

が、しかし、この混ぜ返しを始めた印度人を、
まったくこいつら、とお手上げになっても埒があかない。
ましてや彼らの要求を飲んで追加金など払おうものなら、
また少しすると再び同じことを言い出すだけである。

なぜなら彼らはそれを美徳としているのだ。
神様、私は見事に交渉勝ちしました、となる訳だ。


と言う訳で、印度人である。
まったく困った人々である。

がしかし、それでも印度人と付き合わざるを得ないところがある。

なぜかと言えば、端的に言って彼らは頭が良いのである。
そして、まあ、こう言ってはなんだが
その困ったちゃんぶりが、なんとも面白い訳である。

何度も言うが印度人はB型気質である。

何事に対しても独創的で極端である分、
まかり間違って、妙なところを極端に特化させた人々というのが存在する。

計算の天才、言い訳の天才、嘘の天才、交渉の天才、
そして最近話題の、プログラマーとしての資質である。

つまり印度人は使えるのだ。
その使い方さえ間違えなければ話ではあるが。
バカとはさみではないが、
印度人は使い方を間違えれば毒蛇と化すが、
上手く使えばそれはとんでもない武器にもなりうる。

以上のことを踏まえたうえで、印度人の使い方について、
再度熟考されることをお勧めするばかりである。

「印度人論 その三 ###印度人会話###」

Posted by 高見鈴虫 on 20.2013 日々之戯言(ヒビノタワゴト)   0 comments   0 trackback
###印度人会話###


「印度人は巻き舌である」

往々において印度人にまず驚かされるのは印度人の話す英語である。
その意味も無く強調されたRの発音。
Rが全てゥルと強調される訳であって、
ただでさえRの使用度の高い英語において、
これはまさに暗号に近い。

よく言うのは、ハンバーガーをハンバルガルというように、Rは全てゥルであり、
そこに極端なアクセントが勝手に置かれる。



「印度人は早口である」

それに加えて、印度人は早口である。
本来とてつもなくおしゃべりな人種である印度人は、
よってその話すスピードが半端ではない。

印度人同士の会話を聞けば、
もうそれは誰が聞いても絶対に英語とは思いがたいわけであるが、
そう、印度の公用語はまさしくこの英語なわけである。

まるで嵐の中に踊る一様の枯葉に目を凝らすような、
そのぐらいの集中力で彼らの言葉に耳を傾けて初めて、
それが実に英語であることを発見する訳である。


「印度人の声は高い」

印度人はキンキン声である。
日本でも過去、電話で話す時には1オクターブ声色をあげるように、
と訓練された時期があった。
その方が相手にとって印象が良い、とのことだったが、
正直言ってそれはとても気持ちが悪かった覚えがある。

と言う訳でこの印度人。
まさにこの一オクターブ発声法で会話をする訳である。
それは公的、つまり、人数が増えれば増えるほどに声が跳ね上がり、
まさにキンキン声の男と女が、鳥、あるいは、猿が騒ぐように
いっせいに声を裏返させる訳である。


「印度人は茨城弁である」

それに加えて、印度人のあのおかしな抑揚である。
まるで波打つようなあの抑揚。
聞いているだけで船酔いがしてきそうである。
が、しかし、
この妙な抑揚、どこかで聞いたことがあると思ったら、
それはなんと、茨城弁であった。
短いセンテンスごとにその語尾に向けて極端に尻上がりになり、
それが何度も何度も繰り返される訳である。


「押しなべて言えば、印度人は土浦のチンピラ語であるということか」

と言う訳で、
一度ふざけて茨城弁のイントネーション、
それも巻き舌を多用して、
そして思い切り早口で、
つまりは、土浦のチンピラが因縁をつけている、
ような口調で印度人と話したことがあるが、
なんとそれは驚くほどにスムーズに進行した訳である。

まさに印度人風の英語とは土浦のチンピラ言葉風な訳である。

よって、印度人と会話をする時には、
土浦のチンピラになったつもりでやると上手く進むのである。
その途端、目の前の印度人はまさに、
交通違反で捕まって、焦りまくって言い訳を並べる土浦のチンピラ、
そのものになる訳である。

心の狭さ

Posted by 高見鈴虫 on 21.2013 今日の格言   0 comments   0 trackback
つまるところ、それって、心の狭さ、だろ?

最近の日本のごたごたの、ほとんどすべてが

心の狭さ、

で説明がついてしまうような。。



  

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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