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妻子を捨てて旅に出よ

Posted by 高見鈴虫 on 21.2015 日々之戯言(ヒビノタワゴト)

古き悪友から手紙が届いた。

クリスマス・カードのつもりなのだろうが、
相変わらず口が悪い。

こうして古き友人からの手紙を見るたびに、
果たし俺はその昔、それほどまでに悪行の限りを尽くしていたのか、
とつくづくあの若き日々の、「業」について考えてしまうことになる。


グローバルブラック社会の本音と建前

Posted by 高見鈴虫 on 22.2015 とかいぐらし
最近ようやく仕事の見つかった後輩。
良かったじゃねえか、とお座なりなことを言えば、
でもさあ、となんとも微妙な返事をされる。

なんか、ブラックっぽいんですよね、と。

ブラック?ブラック企業?
この空前の人不足の世にあって、いまだにブラック企業?ありえねえだろう、
と答えれば、
あのねえ、と思わず殴られそうな気配である。

今日日、ブラック企業じゃない会社なんて存在しないの、知らないんですか?と。

でもさあ、と俺。

株価はバブルはじけてからの最高値。
冬のボーナスも期待できそう、とか、
日本人、割りとウハウハやってんじゃねえのかよ、と。

としたところ、いきなりいきり立つ後輩。

そんなのはねえ、嘘!と。
嘘、嘘、うそ、ばっかり。

という訳で、なんとなくその後輩の愚痴を聴いてみた。


~~~~~~~~~~

職場の上司から、毎日大変だねえ、と言われる。

勿論大変である。なんと言ってもこの給料なのだから。

まあせいぜい頑張りなよ、というお座なりに済まされる前に、
一度で良いから、どうしてですか?と聞いてみたい気がする。





犬の持つ予知能力、について

Posted by 高見鈴虫 on 22.2015 犬の事情
深夜、ふと頭をもたげた犬が、
なにやら神妙な顔つきで外の気配に耳を澄ませている。
ぐるぐると喉の奥を鳴らし、明らかに不機嫌そうな様子。
また奥の部屋の酔っぱらいが帰宅したのか、
あるいは、近所に住む犬同士で、
人間には判らないシグナルを送りあって居るのか。
果ては、このアパートの中ののどこぞの部屋の中で、
あるいは地底の底、もしくは空の果てで、
何かのっ引きならない事態が持ち上がっているのか、
今にも起きようとしているのか。

人間よりも遥かに聴覚に優れる犬たちは、
人間には聞こえない音の中から、
人間には計り知れない情報を受け取っている。

それはまさに、超音波、あるいは、テレパシーのようにも思え、
しかしそのように伝達される犬同士の情報の正確さに、
驚かされることも度々。

例えば、仲良しのサリーがバケーションから帰って来た時、
住んでいるのは数ブロック先である、というのに、
飼い主のジェニーから、いま帰ったよ、と電話が来るその遙か以前に、
既にその情報は近所中の犬達の間に知れ渡っている。

或いは、友人宅を訪ねる約束をしている時、
部屋を出る以前から互いの犬たちの間ではすっかりと話が行き届いている。
さあ出かけるか、という以前からドアの前ではしゃぎまわっている犬。
そしてそれと時を同じくして、
友人宅においても、おっ、ブッチが部屋を出たぞ、と判るやいなや、
ドアの前に頑張っては、待ちきれない待ちきれない、とばばかりに
キャンキャンと甘えた声を響かせ始めている、という次第なのである。

まったく犬って不思議よね、とつくづく関心した風なかみさん。
やっぱり予知能力とか、テレパシーとか、そういうのあるのかな。

何を馬鹿な、と鼻で笑う俺。

それはつまるところ、つまりは音。
音による情報量が、違うだけの話なのだ。

そして、そういう俺達も、
嘗ては実はよく似たような状況に生きていたではないか。



RESPECT! ~ アメリカ社会における水戸黄門の印籠

Posted by 高見鈴虫 on 23.2015 ニューヨーク徒然
リスペクト、という言葉がある。

RESPECT!

言わずとしれた、
あーるいーえすぴーいーしーてぃー
R-E-S-P-E-C-T

そう、例のあのRESPECTである。

が実は、この使い古された言葉が、
ここアメリカにおいては、まさに水戸黄門の印籠、
つまりはまあ、この人種差別社会における伝家の宝刀、
いわゆる一つの「人権の主張」、な訳である。






アメリカの社会というこの人種の坩堝において、
一度このRESPECT!という言葉を聞かされると、
立ちどころに胸を手に当てて、星条旗よ永遠なれ、を歌い出す、
なんてことではないが、
まあそう、その先にあるところの、裁判沙汰、の面倒臭さを思いやって、
ああ、はいはい、判った判った、いやあ、俺はそんなつもりがあった訳じゃなくて、
というまあ例の言い訳、というか、詭弁のこね回しが始まる訳なのだが、

当の俺、つまりはこの俺、
言ってみれば、そんな人権擁護などからは最も遠い人種である筈のこの俺、

んだよこの臭えコクジン、から始まって、
豚、赤首、そこどけ、デブ、やら、
あるいは、っだからこの糞ジューの奴らってのはまったく、やら、
うるせえぞ、このアイタリアーノ、から、メキ公、から、スピックから、
ロシア人、おまらそのワキガだけでもどうにかしてくれねえかな、とか、
挙句の果てに、てめえ、このちょーせん、やら、
あのなあ、ちゅーごくじん、お前らほんと、どうしかしろよ、とかなんとか、
目くそ鼻くそも極まれりの暴言を、これでもか、と、吐きまくっている訳だが、
だがしかし、それは日本語だけのこと。
つまり、英語になると、そんなことはおくびにも出さず、
自由と平等と博愛主義をこよなく愛する模範的市民を演じたりもしている訳なのだがな。

という訳で、アメリカ、この人種のるつぼ。
取り敢えず、奴らの言葉でなにを言われていようがそんなことは知ったことじゃない。
ただアメリカ語、つまりは公的なところでそれを言わないかぎりは、
なにを言っても許されるという、つまりはそう、内なる差別は野放し状態を承知の上で、
上辺だけは、はい、人種差別はいけませんねえ、その通り、とやっているだけに過ぎない。

という訳で、リスペクト、である。
互いが互いを尊重し尊敬し、という例のあれである。
まじめに考えればちゃんちゃら可笑しいのであるが、取り敢えず良い意味でも悪い意味でも、
この言葉、使い方さえ間違えなければ、いついかなる時にもつかえるまさに殿下の宝刀。

という訳で、遅々として進まぬ会議中、
誰もが好き勝手に好き勝手なてめえの事情ばかりをぶちまけやがって、
いつになってもまったく司会進行役である俺の言うことなど誰も聞いてくれはしない。

あのなあ、はいはい、判った、ちょっと黙って黙って、とやってみたところでまさに焼け石に水。

とそんなときに、思わず、リスペクト!である。

つまり、お前、俺を尊敬しろ、馬鹿野郎、な訳である。

これが効いた。一瞬のうちに静まり返る面々。

なぬ?リスペクト?ってことはこれは人権問題な訳か?

馬鹿野郎、俺の言うことを聞かねえと人権問題で訴えるぞ、とそんな無茶苦茶な話もないのだが、
まあそう、取り敢えずこの一言で、今日の議題は無事終えることが出来そうである。

バカタレが。

犬におすわり、アメリカ人にはリスペクト。

これは使えるぜ。








2015年 12月24日の脳内BGM ~ このやるせない日常のささやかな救済

Posted by 高見鈴虫 on 25.2015 音楽ねた
なんとなく、今年のクリスマス・EVEの一日に脳内で鳴り響いていた曲の羅列。



ユーミンのベルベットイースター。




朝遅く起きてセントラルパークに犬の散歩へ。
曇り空を見上げながら、なんとなくこの曲が鳴っていた。

良い意味でも悪い意味でも、
俺らの世代はユーミンと郷ひろみの呪縛からは逃れることができないのである、
なんてことを考えていた。



ニューヨークのクリスマスはチャイナタウンでテレマカシ~!

Posted by 高見鈴虫 on 25.2015 ニューヨーク徒然
ちゅうわけで世間はクリスマスである。

アメリカにおいてクリスマスってのは、
言うなればごく宗教的な行事で、
つまりは、キリスト教徒のキリスト教徒によるキリスト教徒の為の、
という訳で、
キリスト教徒どころか筋金入りの無神論者である俺のような偏屈者には、
ジングルベルも赤鼻のトナカイもサンタクロースも、
別になんの意味がある訳ではないのだが、
いまだに人類の殆どがキリスト教徒、という迷信が罷り通るこのアメリカ、
このクリスマスはやはりナショナル・ホリデーってなことになっていて、
まあ理由はどうあれ仕事が休みになるというのは嬉しい。

がしかし、このクリスマス。

人種の坩堝・ニューヨークにおいても、
ナショナル・ホリデーというからには全てがお休み。

ついでに、労働者という労働者がこの日ばかりは休暇を取るとあって、
さすがに地下鉄・バス等のライフラインは動いているものの、
商店からレストランからほとんど大抵のものは軒並みのお休みとなるわけで、
下手をすれば警官の姿さえあまり見かけない、と来る。

とそんな時、アメリカに家族のいない我々のような移民、あるいは放浪人、
つまりはニューヨーク流民たち、
なんとなく、見捨てられた気分にもさせられる訳で、
しまったなあ、グローサリーの買い物忘れたらどこもかしこもCLOSEで食うものねえよ、
と相成る訳で、
せっかくニューヨークでクリスマス休暇を、なんて楽しみにしながら、
蓋を開けてみればどこもかしこも閉店づくめ。
食うものも無し、飲み物もなし、とかなり寂しい聖夜を迎えることにもなりうる。

と、そんな時。
唯一の味方はチャイナ・タウンである。

中国人というこの異様な程に空気の読めない人種。
クリスマスであろうがなんであろうが知ったことかとばかりに、
そう、このチャイナタウンだけはクリスマスとは無縁の別世界。

そんな中国人たちの、問答無用なとっぱずれ方が、
こんな時には唯一の救いにもなったりもするというがやたらと可笑しい。

という訳で、ニューヨークの流民たちのとって、
クリスマスと言えばチャイナ・タウン、
というのは、実は一種の定番であったりもする訳だ。




ニューヨークで唯一見つからないもの。それは普通の床屋、であったりする

Posted by 高見鈴虫 on 28.2015 ニューヨーク徒然


ニューヨークに20年もいて、未だに難儀していることがある。

つまりはぶっちゃけ、床屋である。

言わせてもらえばニューヨークにはろくな床屋がいない。

ヘアーデザイナーやら、なんたらアーティスト、
なんてのは履いて捨てるほど居るのだが、
普通の意味での床屋、つまりは、あの日本の駅前とかにいた、
ハサミをチャキチャキチャキ、と軽やかに鳴らしながら、
良くもなく悪くもなく、ごく無難に普通の髪型、というやつにしてくれる、
つまりは凡庸な、しかし基礎だけはがっちりと押さえた、
職人としての床屋さん、というのが存在しないのである。

確かに、金を払えばそれなりの人もいるのだろう。
奇抜な髪型、しかできないが、そればかり、というタイプの似非ゲイジツカ気取りのアホ。

がそう、俺はそういう人ではない。
ガキの頃から床屋が大嫌いで、
つまりは、てめえの髪型なんてものに拘っている、なんてところは、
微塵も出したくはない。

そう、所詮はたかが床屋である。
たかが床屋であるべきなのである。
そんな俺が、自分の髪型などにそれほどの金など、使う気は更々ない、
あるいは使ってはならないのである。

がしかし、だったらその当たりで、と、適当な床屋に入ったが最後、
いきなりバリカン。
おおおっと、という驚きの声も上げる間もなく、
見る見るうちにテカテカのミリタリー刈りにされてしまった上に、
虎刈りであったり、
穴が開いていたり、
左右の長さが違ったり、
とまあ、つまりは、そのスキルがとてつもなく低いことを思い知らされる。

という訳で、そう、
あーてすとだが、でざいなーだか知らないが、
取り敢えずは一応の、基礎、を押さえた上で、
それなりの風呂敷を広げてくれないか、
あるいは、
てめえ、仕事する気がねえなら金なんか取るんじゃねえ、と。



馬鹿に関わるべきではない

Posted by 高見鈴虫 on 30.2015 今日の格言


馬鹿を馬鹿として放っておく、ということができない性分、
つまりは、おい馬鹿、お前はどうしてそんなに馬鹿なんだ、
とわざわざ聞いてしまったり、
あるいは、
いや、待てよ、もしかしたらもしかしたでもしかししたら
いわゆる一つの紙一重であったりもするかもかも、
なんて妙なところで期待をしてしまったり、
あるいは、
そう、人間皆平等である筈、なんていう誤った認識から、
馬鹿にも人権を、と妙な仏心を起こしてしまったり、
あるいは、そう、ムカつく馬鹿に痛い目を見せてやろうか、やら、
そうで無ければ、
いや、そうそうと馬鹿な人間なんてのが居るわけがないではないか、
つまり俺の了見が浅いだけの話だろう。
馬鹿であってももしかしたらなんらかの利点もみつかるやもしれず、
馬鹿には馬鹿の正義があり、
つまりその馬鹿の正義というやつを学んで見るのも悪くないかもな、

なんていう理由からか、
ついつい馬鹿に話しかけてしまったり、ということにもなるのだが、
敢えて結論だけ言わせてもらえば、

馬鹿には関わるべきではない。

俺が馬鹿ではないにしても天才でもない限り、
俺が馬鹿だと思ったやつを、大抵の人々もやはり馬鹿、と思っている。

大抵のお利口人は、馬鹿には関わるべきではない、と思っていることから、
よって大抵の馬鹿はなんだかんだいって誰からも相手にされず、孤独である。

そんな所に、こんな俺がひょこひょこ顔なんて出してしまうものだから、
なんだこいつ、馬鹿な俺を馬鹿にしているのか、
あるいはもしかしてこいつも馬鹿なんじゃないのか?
なんていう誤解を招いた末に、そんな馬鹿から絡まれ付きまとわれしがみつかれ、
挙句の果てに、
なんだよお前だって馬鹿の癖して、どうして俺みたいに馬鹿やらしく馬鹿ができないんだ?
なんていう妙な理屈から、つまりは足を引っ張られることになる訳だ。

そんなこんなで、そんな馬鹿との無益な干渉の為に、
俺はどれだけ馬鹿な思いをさせられなければならなかったのか。

つくづく俺は馬鹿だなあ、と思う訳で、
そっか、俺ってやっぱり馬鹿だったんだよな、と思い知る次第。

という訳で、馬鹿を馬鹿と割りきって関わりあいを持たない、
ってのは、生きる上でとても大切なスキルであったりもするのか、
どうして誰も教えてくれなかったのかな、と改めて思ったりもしている。

ちゅうわけで、良い子の皆さん。

馬鹿に関わりあってはいけない。

こいつ馬鹿だな、と思ったら、極力その馬鹿からは逃げまわるべきだ。

馬鹿にどんな馬鹿なことを言われても、言い返したり、あるいは、戦ったり、
あるいは、ぶちのめしてしまったり、など、絶対にするべきではない。

相手は馬鹿なのだ。
関わりあってもろくなことはないし、
何れは足を引っ張られて同じ馬鹿の穴に引きずり込まれそうになる。

馬鹿がどうしても馬鹿であること、それを悲しいことなどと思う必要もない。

馬鹿は所詮馬鹿なのだ。そしてそれは俺のせいではない。

馬鹿に構うな。放っておけ。面白がってちょっかいを出すなんてそれこそ大馬鹿だ。

とは判っていながら、どうしたわけか、
そんな馬鹿を見ると、ついついちょっかいを出したくなってしまうのは、
つまりは俺が馬鹿だということなんだろうがな。

という訳で、そう、俺はもう馬鹿に関わっている暇などない。

馬鹿よ、頼むから俺を放っておいてくれ。
馬鹿にちょっかいを出すような俺はつくづく馬鹿なのだ。
そんな馬鹿には関わらない方がいいぞ。

馬鹿に関わらないこと。

馬鹿を馬鹿として放っておいてやること。

馬鹿になにを思われようが気にしないこと。

まずはそれを、2016年の課題としてあげたい。







孤独な石に

Posted by 高見鈴虫 on 30.2015 今日の格言
転がる石に苔は生えず。
新しい挑戦、努力を続けている人間は愚痴など言わない。
それを思い知れ。

全ての悪条件を逆利用すること。
全ての最悪の経験から教訓を刻みこむこと。

そして、邪魔なバカには金輪際かかわらないこと。
口をきかぬどころか目も合わせるべきではない。

経営者に求められる一番の資質は、
孤独に耐えうる能力である。

そして孤独に耐えられることは一種の才能、資質なのである。

バカとかかわらない生き方、とはつまりはそういうことだろう。

また逆に、一人で生きられる人間は、人にあーだこーだなどと言ったりもしない。

つまりそう、みな孤独で己の人生を生きているのだ。

努力を続けるものは他人に干渉しない。

つまりそう、すべてひっくるめて、自分自身を甘やかすな、ということなのだ。

自分を甘やかしていない人間以外、人にやさしくなどできる訳がない。

弱い人間同士のやさしくし合いなど、所詮は傷の舐め合い。

何れは弱い者同士・バカ同士で足の引っ張り合いが始まるだけだ。

てめえを強い、と思っている奴らだけが仲間を探すことができる。

そして強い人間こそが自身の弱さを知っている。

強くなるためには、まずは自分を甘やかさないことだ。

てめえを甘かしているような野郎とは、関わらないことだ。

へえ、凄いんですねえ、じゃ、とそれだけで十分だ。

とかなんとか言いながら、そう、馬鹿とかかわらずに過ごすことができたらどんなに幸せか、
と誰もが思って生きている。

だが敢えて言おう、それを甘えって言うんだよ。



ちゅうわけで、この糞野郎が生きている限り、俺は死ねねえ、ってことだ。







ライブハウスというあの空間

Posted by 高見鈴虫 on 31.2015 音楽ねた
ロックを辞めて既に5年が経つ。

俺の言うロックというのは、
つまりはぶっちゃけライブハウスというあの空間のことである。

触れる手にべっとりとタバコの脂が染み付くような、
あの据えた匂いの立ち込めた埃の積もった地下の密室。

一体どれだけの時間をあのライブハウスという空間で過ごしたのだろうか。

できることならばここに住みたい、とまで思っていた、
あの不穏な気配の立ち込めた落書きだらけの薄汚れた地下室。
響き渡るバスドラとスネアの音、
鼓膜が張り裂けそうな轟音の底。
俺はあの場所に居る時が本当に幸せだった。
心の底から安息を感じることができた。

俺はそんな安息から、いったいどれだけの間、遠ざかって生きてきたのだろう。

素肌に着る革ジャンと、汗に湿った髪と、そしてじっとりと脂ぎったジーンズ。
そんな裏寂れた都市のドブの底の匂いが、無性に懐かしくなる今日このごろである。

そんな時、嘗ての仲間からメールが届く。

メリクリもあけおめも言わないうちから、またツアーを回っている、とある。

つくづく懲りねえな、と苦笑いを浮かべながら、
まあせいぜいがんばりや、とは思いながら、
そんな時にふと、あの新宿LOFTに立ち込めていた匂いが、
ありありと鼻腔に蘇って来たりする。

という訳で、新年の挨拶だ。

元気そうでなにより。
俺はすっかり引退モードだ。
この歳こいて今更ながらのカタギ修行だ。
毎日ネクタイ締めて変身モード。
せいぜいバンド極道の成れの果てが、と後ろ指さされねえねえように、
それなりの銭が作れるまではがんばろうと思っている。
ただな、いまだにギグが恋しいぜ。
カタギはつまらねえぞ。
できることなら死ぬまでギグやって過ごしたかったぜ。

とここまできて、我ながらやれやれ、
思わずクソッタレ、とモニターにパンチをくれてしまう。

ちゅうわけで、
ロックを辞めた俺がいったいどこに向かっているのか。
ロッカーにとっての安息の場所とはいったいどこなのか。

ばかたれ、敢えて安息の地を求めないことこそがロックって言うんだろ。

やれやれ、新年そうそうこんな事を言ってる
もしやお前、まさかまたあの場所に舞い戻ろうなんて、
考えてる訳じゃねえだろうな、
と我ながら苦笑い。

という訳で、次にステージに立つ時は、
いったいなにをやらかしてやろうか、
なんて不穏なことを考えながら、
迎える新年ってのも悪くはねえだろう。

で、なにがやりたい?
決まってんだろ、アナーキーだよ(爆





  

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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