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中年の心得 ~ 格好よい中年が存在しないその理由

Posted by 高見鈴虫 on 15.2012 日々之戯言(ヒビノタワゴト)
いつの間にやら40を過ぎていた。

10代20代と、なにをやってきたのか、割と鮮明に記憶をしているのだが、
こと30代となると、果たしてなにをやっていたのかさっぱり記憶がない。

多分仕事をしていたのだろうが、
日々の仕事に追いまくられるばかりで、
なにをした記憶もないままに、いつのまにか10年が過ぎていた。

40代と言えばこれはもう立派な中年である。
40代を中年と言わずして誰を中年と言おう。
40代こそが中年の代名詞であるわけなのだが、
果たしてここに来て、さっぱりと中年の自覚がない。

自覚がない、というよりも、
いったいぜんたい中年とはなんなのか、
どうあるべきなのか、なにをするべきなのか、
まったく検討がつかないでいるのだ。

まあ別に、無理して大人にならなくてもいいんじゃない?
で、10代のまま20代をやり過ごしてしまい、
何の記憶もないままに30代をすっ飛ばしてしまった以上、
自分としての自覚がかすかに残るのは、
そろそろまともに銭を稼がなくてくてはな、
いつまでたってもその日暮らしではさすがに疲れる、
と思った20代後半のいくの日か。



という訳で、
ドカンもリーゼントもそろそろ卒業か、ではないにしても、
いけすかねえチンピラを一撃でノックアウトしていい気持ち、
なんてことをやってると本ちゃんで務所に入るんだな、
なんて思っていた頃から、
大して自覚もないままにいつのまにかの40代な訳である。
まさにタイムスリップという訳だが、

別にそう、
中年の自覚がないのであれば、無理して中年する必要もなく、
それに気づかなければ気づかないでも良い訳で、
膝の破れたジーンズに袖をまくったTシャツに革ジャンをつっかけて、
で済むのならそれはそれでそのままで良いわけなのだ。

という訳で、40代である。

問題は、スリムのジーンズも、肌に貼りついたTシャツも、無造作に掻きあげた髪も、
徹底的に似合わなくなっている、という現実なのだ。

思えばさすがに40代である。

普段からあまり鏡を意識しない生活を送っているものだから、
久々にこうして、風呂上りに鏡の前に立ってみたりすると、
あれまあ、この人はいったいだれなのか、というぐらいに、
まったく見ず知らずの中年男とご対面することになる。

薄くなった髪、彫り、というよりは、皺の目立つ不機嫌そうな顔。
筋肉というよりはあきらかに肉の弛んだ体。
40年間、休むことなく新陳代謝を繰り返してきた末、
染色体にもさすがにBUGが見え始めたその結果である。

どおりで、ジーンズもTシャツもロン毛も似合わない訳だ。

気持ちばかりが18歳であろうが、30代の記憶がなかろうが、
髪の薄くなった中年太りのチビ、
これこそがまさにまぎれもない現実の姿である訳なのだ。

それを認めようとも認めずとも現実は変わらない。
現実主義者である筈の俺は、やはりその現実を、
手前勝手な気合いや妄想的なその気で誤魔化すのは良しとはしない。

という訳で、ここに来て、心底思い知った。

俺はすでに、押しも押されもせぬ立派な中年男なのだ。
これほどまでに中年の男を具現化した外見をした俺が、
中年を自認せずしていったい誰が中年であるべきなのか。

という訳で40代である。
いまさらながら途方に暮れている。
いったいぜんたい、この薄くなり始めた髪と、弛み始めた腹と、皺だらけの顔で、
どんな面をして世の中を渡って行くべきなのか。

ふと気づけば、
んだよ、この汚ねえおっさんは、と思った男がすでに俺よりも年下であったりもするのだ。
よお、ダチ公、元気かよ、とつるんでいる筈の奴等が、実は俺の息子の年齢であったりもする訳なのだ。

そんな時、ふと鏡を見れば紛れもせず、
場違いな所に紛れ込んでしまった中年男がひとり、ぽつねんとしている、という訳だ。

という訳で、40代である。
いったいどうすれば良いのか。
どうあるべきなのか、なにをするべきなのか、
いまだに検討がつかないままだ。

少なくとも、俺が二十歳の頃に思っていた中年という種族は、
こんな人間ではなかった筈だ。
もっとなにかを悟り、もっと何かをあきらめ、もっとなにかを築き上げていた筈だ。
つまり、少なくとも二十歳の俺とはまったく別の種族であった筈なのだ。

が、そう、自分でも判っているように、
俺は二十歳の頃からしてそれほどに成長したようにはどうしても思えない。
まあ実際に二十歳の俺とご対面してみれば、それなりに変わったところもあるのだろうが、
少なくとも、これ、というぐらいまで、二十歳の俺に対してつきつけられるような実証を持ち合わせてはいない。
実証を持ち合わせてはいないままに、姿形だけは立派な中年になってしまっていた訳だ。

という訳で、
まだ二十歳からの実証を持ち合わせていない以上、
やはり二十歳の頃と対して変わらない程度の美学も欲求もいまだ持ち合わせているつもりだ。

格好よくありたい、というのがそのもっともたるもの。

さすがに、スリムのジーンズに袖をまくったTシャツが似合わなくなってしまったことは十分自覚している。

それにしてもだ、
それがなくしても、なんとか、それなりに格好をつける方法があるのではないか。

が、しかし、と改めて鏡を見る。

この弛んだ腹は、一日腹筋200回でもやれば、一月もせぬうちにある程度までは復活できる自信ぐらいある。

がしかし、
この薄くなった髪、と、そしてこの皺だらけの顔、これだけは、これだけはどうしてもいかんともしがたい。

一体全体、どこに、頭が薄くなっても格好よい男がいるのだろうか。
いったいどこに、顔中に皺が弛み、目の下にべっとりとクマを刻んだ美男子がいるだろうか。

いるのであれば会ってみたい。
つまり、格好よい中年の見本、という奴にあってみたいものだ。

がしかし、現実には、いない、のである。

格好よい中年などいない。

いるとすれば、その格好よさは、少なくとも美しい、やら、セクシーだ、やら、やばい、やら、
そういう類の格好よさではない筈だ。

ではなにか、中年の格好よさとはなんなのか。

カンダマサキのようにヅラでもつけるか。
ポールマッカートニーのように皺伸ばしの整形でもするか。
あるいは、
かみさんの化粧品でも借りて、まいにちお肌の手入れとスキンケアにみっしりと時間をかけるべきなのか。

うーん、と考える。そして呟く。浅ましくそして見苦しい悪あがきだ、と。

しかしながら、
そういう見苦しい悪あがきを諦めた今、
すでに俺は、格好よく生きる、という、二十歳のころ一番大切だったそのテーゼから、
完全に脱落してしまったのだ、という事実を認めなくてはいけない瀬戸際に立たされているのだ。

つまり、この先の俺は、格好よく生きる、ことを除外視した生き様というものを探さなくてはいけないのだ。

格好よくない男の人生、これはまさに、盲点だったかもしれない。

金かな、とちょっと思う。
余裕だろうか、とも思う。
深みかな、とも思う。

がしかし、あいにくながらそのすべての持ち合わせがない、
というよりも、よりによってそれだけには徹底的に手持ちがない。

という訳で、そう、それこそが、俺が最近訳が判らなくなった理由なのである。

身の置き場がない、とはまさにこのことか、と悟るべきなのだ。

そうこうしていると、

50代に入り、すでに老年を前にしながら、
どっちつかずに、ただただ、安いカッコウをして煮詰まってしまったみすぼらしい男、に成り下がってしまう姿が目に見えるようではないか。

それがいやならば、どんな方法をつかっても、50代までに一億を貯めるべきだ。
あるいは、いつ死んでもいいぐらいの、自分史の金字塔作品を作り上げるべきなのだ。
あざわいず、
俺は一生を、みすぼらしい格好をしながら心ばかりは黄金のつもりの飢えた少年狼、つまり、ボンビー系のままですごすことになるのだよ。

一億貯めるか、
あるいは、
なにかを作り上げよう、
それ以外に、もう逃げ場はない、と思い知るべきなのだ。

中年にもなって、格好よさ、なんてことに格好つけている場合ではないのだ。
格好の良い中年がいない理由は、まさに、それなのだ。

中年は、格好よくないことにこそ、美学、つまりは、格好よさを求めるべきなのだ。



プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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