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「心の傷」

Posted by 高見鈴虫 on 01.2013 犬の事情   0 comments   0 trackback


今だからこそ笑っても言えるが、
俺は心に傷を持つ少年だった。

内的なものと外的要因が絡み合って、
自分と世界が45度の角度ですれ違っている、
というぐらいの違和感を感じて生きていた。

いまもその違和感がなくなった訳ではない。

違和感は消化するどころかますます広がり続け、
いまだにその軋轢の中でため息をつきながら生きている。
がしかし、
だからと言って、
いまにも身が張り裂けそうな苛立ちに呻き苦しんだり、
夜更けの街を自殺バイクでぶっ飛んだり、
気に入らないサラリーマンの脛を安全靴で蹴り上げたり、
あるいは、ほとんど自殺行為ともとれる危険の中に身をおかないと精神の安定が保てない、
などはしなくても生きていけるようにはなっている。
ただ違和感を抱えて生きることの術を学んだというよりは、
違和感を違和感として許容して生きることに慣れた、
というべきなのだろうか。

心の傷は消そうと思っても消えることはない。
消そうとすればするほどに余計な傷を増やすことになる。
心に傷を負ってしまった以上は、その傷を抱えて生きざるを得ないのだ。
その現実を容認することこそが必要なのだ。

心の傷とのバランスを保つために、
これまでどれだけ馬鹿げた徒労を繰り返してきたことか。

そして今、俺はそんな心の傷を抱えた子供達に囲まれている。

生まれた時から殴られ続けてきたもの。
頭から熱湯をかけられたもの。
身体を焼かれたもの。
手足を切られたもの。
餓死寸前まで放置され続けたもの。
金のために子供を生まされ続けたもの。

まさに、心の傷のオンパレードである。

そんなハードコアな傷に比べたら、
俺の抱えた問題などはまったく屁のようなものだ。
そんな傷を抱えながらも、懸命に生きようとする姿には、
まさに尊敬を感じる。

そんな子供達に囲まれて、俺は妙に幸せに生きている。
ボランティアの優越感に浸っているつもりはまるでない。
強いて言えば、それは俺自身の癒しなのだ。

心に傷を抱えたものと一緒にいると妙に気が落ち着くのである。
それはまさに、
少年の頃、帰る場所もない夕暮れ時に、
同じような境遇を抱えた子供達と過ごしたあの侘しさの中の親和感なのである。
心に傷を負ったものは同じように心に傷を負った者しか受け入れない。
心に傷を負ったものを癒せるのは心に傷を負った者だけなのだ。

と言う訳で、
ドッグランに集うそんなレスキュードッグに囲まれながら、
俺は妙に満たされた気持ちでボール投げにこうじている訳である。

大丈夫。判ってる。お前達を見捨てはしない。
おいで、身体を撫でてあげるから。痛いところはないか?痒いところはないか?
ほら、なんでも言ってみろよ、聞いてやるから。なんでも話してみろよ。
初めて心を開いたレスキュードッグたちに囲まれながら、
俺はそんな傷を嘗めあい、満ちてくる親和感の中で愛の記憶を導き出すのだ。

どうだ、生きているってそれほど悪いことじゃないだろ?

俺が捨て犬達に妙に人気があるのは、実はそういう理由なのである。

今日も俺の膝の上には、そんな傷だらけの犬達が甘えて腹を見せて寝転がっている。
思い切り甘えさせてやるつもりである。
思い切り甘えさせてもらうつもりである。
心に傷を負った者を癒せるのは心に傷をもった者だけなのだ。


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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