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死神の死 ~ 追悼 PACO DE LUCIA

Posted by 高見鈴虫 on 26.2014 音楽ねた   0 comments   0 trackback

生きているうちに神様に出会える機会というのはそうざらにあるものではない。

しかも筋金入りの無神論者であり幽霊さえも信じないこの罰当たりな不届き者は、
例え誰がなんと言おうと既存の神など信じたりはしない。

がしかし、神は確かに存在する。
そう認めざるを得ない状況に時として遭遇することもある、ということだ。
普段はどこにいるやも知れぬこの曖昧な神という存在が、
なんらかのきっかけに地上に降臨したが最後、その強烈なオーラの中に世界の全てを飲み込みんでしまう
そんな状況というものがこの世には確かにある。
そしてそんな瞬間に立ち会えることこそが、生きる喜びそのもの、まさに至福の瞬間という奴なのではと思い知らされる。

そしてこの世には、そんな奇跡的な瞬間を意のままに創出することのできるという、まさに生き神のような人物が存在するのである。

それを人々は天才と呼ぶ。あるいは、なんたらの神様、という表現を使う。

PACO DE LUCIAというフラメンコギタリストは、そう言う意味でまさに神であった。
そのあまりにも陰気な風貌から、時として死神、あるいは貧乏神と称されることもあったこのギターの生き神様。

改めて言えばことギターという楽器に関して言えば、このPACO DE LUCIAという人を以ってして完全に打ち止め。
これ以上の達人は、これまでにも、そしてこれからも決して出現することはないであろう、と確信している。

そのあまりにも偉大であったギターの神様。
そのあまりにも突然の死を悼む意味でも、この稀代の天才音楽家のことについて駄文を認めたい。



PACO DE LUCIAを初めて観たのは、90年代の初頭、とある南部の田舎街でだった。

なにを血迷ったか真夏のさ中に開かれた野外コンサート。
普段田舎暮らしの退屈に身を奴し切った人々が訳もわからずわんさかと集まっては来たものの、
気温が100度(摂氏40度)を上回る殺人的な炎天下の中、
誰もがうだりきっては悪戯にビールばかりを飲みすぎてすっかり悪酔状態。
慣れぬ人混みに辟易してはそこかしこでいさかいが始まり、悪ふざけを始める者にいつどこの馬鹿がショットガンをぶっ放すか、と気が気ではなかった。
そんな中、肝心のステージの上はまさにしらけ切りも甚だしく、
はなから期待はしていなかったもののそのあまりに間の悪い進行に促されては次から次へと出てくる凡庸かつ退屈な余興の数々。仕舞いにヤジまで飛び始めビールの空き瓶が投げ込まれるたびにお回りとのいざこざが起こり、それをちゃかす酔っ払いの罵声やら泣き叫ぶ赤ん坊やら。
少なくとも音楽を聴く上でこれほどまでに最悪の状況はありえないという中、
そのフラメンコギタリストはたった一人、
白いシャツに黒いベスト、あの陰鬱な死神のような表情をぴくりとも変えぬまま
用意されたパイプ椅子に組んだ足の上にいかにも身体に馴染んだという風なアコースティックギターを乗せて
そんな誰からも忘れ去られたステージのうえに静かに座っていた。

司会からはなんの紹介もなかった。
あるいは、あの状況ではそんなものは誰の耳にも入らなかったであろう。
主催者そのものにしたってプログラムの内容も知らずそれが誰であるか知らないかあるいはいかにもメキシコ人たちの喜びそうなフラメンコなんてものには大して興味もないが、とそんな感じだった。
どうせまたいつものラテン野郎だろう。
首から洗濯板をぶら下げて靴底のビールの栓でちゃんちゃかやかましい音をだす、どうせそんなものだろう。
聴衆も全くそんな感じだった。
あまりの無知に裏打ちされた独善さで世界の全てを白と黒とに即断してしまうこのあわれなほどにいたいけな馬鹿。
南部とはつまりはそんなところなのであった。

かく言う俺にしたってあのときは仲間の愚連隊ロッカーたちと一緒であったと思う。
そんな南部の保守性に徹底的に抗った箸にも棒にもひっかからないどうしようもないはぐれ者たち。
流れ者、ドラッグディラー、前科者、不法移民、逃亡者、そして、正体不明のブルースリー野郎。
連れていたトップレスバーの踊り子たちが悪酔いの果てに辺り構わずうくだを巻き始め、
冷やかした通行人にいきなりつっかかっては殴りかかり、挙句にゲロを吐きちらしは、
いたずらに吹かしまくった安いジョイントでバッドトリップ、まさに哀しくなるぐらいにどうしようもない状態であった筈だ。
つまりそれが南部におけるはぐれものたちの日常であったのだ。

そんな最低最悪の真夏の午後。悪酔いの果てに誰か景気付け派手な喧嘩でもおっぱじめねえか、なんて思っていた矢先、
そんな俺達の間を、いきなり冷たい風が一陣、さっと吹き抜けたような気がした。

その衝撃にはっと息を吸い込んだ時、耳、というよりは頭蓋骨そのものが、ビリビリと震える感覚があった。

そのステージの上の死神面のギタリストが、なんの挨拶もなしに唐突にギターを爪弾き始めたその瞬間、まさに電気、あるいは稲妻、あるいはそう、まさにエーテルのようなものが一瞬のうちに人々を包みむのが見て取れた。

誰もが思わず息を飲んで立ち尽くしていた。

突然訪れた静寂はまるで深い海の底に落ち込んだように冷たくそして澄み切り、
その空間に流れるギターの調べはあまりに鮮烈且つぎりぎりなまでに辛辣であった。

人々のざわめき、子供達の金切り声、酔っ払いの怒声、車のクラクション、
屋台のラジオから流れる安っぽい歌謡曲、クーラーのモーター音。
そんな物音の全てが一瞬のうちに静寂の中に吸い込まれ
そして奏でられるフラメンコギターの調べの中に、巻き取られ絡み取られ溶け込み混じりあい、
そして世界は完全な親和感の中に包み込まれてしまった。

ふと見れば、あたりを埋め尽くした群集たち、
メキシコ人の酔っ払いが、ハーレーに乗った無法者が、
音楽のおの字も知らないような田舎の赤首たちが、
ぐづつくガキが、性的欲求不満に気の触れかけたティーンエイジャーたちが、
いまにも死に掛けた老人が、臭い黒人が、テンガロンハットのKKK野郎が、
そして正体を失くすまで泥酔していたトップレス嬢が愚連隊ロッカーたちが、
その場にいた全ての人々が呆然と立ち尽くしていた。
ただただ硬く息を殺してステージの上のその一人のギタリストの姿を見つめていた。

意識が無くなるまで酔っ払っていた筈のミリアムが、いまにも崩れ落ちそうになる身体でもたれかかりながら、
おお、神様、と真顔で呟いた。

しっ静かに、と俺たちは言った。
こいつは本物だ。こいつこそは正真正銘の本物だ。俺たちはいままさに目の前にとんでもねえものを見ているんだ。

そこにあったのはまさに神の姿だった。
まさに生きる神。
ギターという6本の弦を張っただけの楽器を通じて、
世界を一瞬のうちに包み込んでしまう、まさに神の姿だった。

すげえ、と俺は呟いた。
OMG、世の中の全てを嘲笑しきった筈の無法者のジャンキーどもが、
まさに度肝を抜かれたままぽっかりと開けた丸まま。

そして水を打ったような静寂の中に、ギターの最後の音が吸い込まれていった後、
あまりのことに完全に我を忘れていた群衆の間に満ちていたあの不穏な沈黙。
誰もが拍手することさえも忘れて、思わず聞きほれるというよりは
まさに魂を抜かれた状態にされていたあの恐ろしいほどの静寂。

ステージの上の死神は、そんな観衆の反応にいっさいの関心を払うそぶりさえ見せず、
そしてまたなんの前触れさえもなしに新たなる旋律を奏で始めた。

とんでもねえよ、と俺たちは溜息をついた。とんでもねえものを見ちまった。。。
それは愚連隊ロッカーであった俺たちに限らずその場に居合わせた人々全てに共通するものであっただろう。

よくわからないが、この目の前で起こっていることがいったいなんなのかさっぱり判らないが、
まるで魔法にかかったみたいにこの旋律から逃れることができない。
そしてその旋律に浸っていることは、この世に生まれて一度たりとも経験したことのなかった、
まさに奇跡的霊的な経験。つまりは、至福、つまりはDEVINEであったのだ。

真夏の最中、まさに暴動寸前であった人々の前に忽然と姿を現したこの死神然としたギターの神様は、
そうやって一瞬のうちにありとあらゆる人々の魂を完全に抜き去ってしまったまま、
目くるめくようなフラメンコの調べを奏で続けていたのだ。

神は実在した。そして奇跡は確かにこの世に存在した。
いままさに、この目の前に展開されている状況こそがそうなのだ。
誰もがそれを認めざるを得なかった。

ジーザスもマリア様もいるのかいないのかわからないが、とりあえず神は存在する。
その名は、PACO DE LUCIA。
誰もがそうう認めざるを得ないほど、その存在は、そして彼の奏でるフラメンコギターの音色は、
まさに、絶対的にして圧倒的であった。


果たして あの時のPACOがいったいどんな曲を、どれくらいの間演奏していたのか、まったく記憶がない。
曲の始まりにも終わりにもなんの挨拶も解説もなく、
ただ無言のまま、ましてや笑顔のひとつも見せぬまま、
ただ黙々とギターを爪弾き続け、そして例によって目の前の観衆にはありがとうの言葉どころか一瞥さえもくれることもなしに、
まるで夢のようにステージから姿を消した。

後に聞いた話では、その時のライブはPACO本人にとっては決して満足の行くものではなかったらしい。
演奏の最中に後ろに立てた飾りつけの観葉植木が倒れてね。
そのときだけ集中力が途切れてしまって、という話だったのだが、実は俺はそのことさえも記憶がない。

ただただ、まさに稲妻に打たれたように、完全に意識を喪失していたのではないか、と思う。

フラメンコギターどころか、PACO DE LUCIAの名前さえ聞いたことのなかった俺は、
その時始めてこの一人の生きる神の姿を目の当たりにするに辺り、
己のそれまでの音楽観の全てが完全に裏返ってしまったことを知った。

それはまさに、正真正銘の天才の姿だった。
天才とはつまり神。
有無を言わさずすべてを包み込む絶対的なパワーを持つもの。
そして音楽は、そんな奇跡的な状況を作り上げられる神聖かつ絶対的なパワーを秘めたものなのだ。

PACOを聴いた後となっては、この世に存在するすべての音楽がまさにちーちーぱっぱだった。
ジャズがロックがソウルがサルサが、巷に氾濫するすべての音楽という音楽が、
ものの見事に幼稚園の児童唱歌に聞こえて来てしまう。

その旋律、その音色、そのピッキング、そのリズム、
全てにおいてPACO DE LUCIAは完璧であり、完結していた。

まいったな、と俺は心底へたりきった。
まったくなにを以ってしても太刀打ちできるはずもない。
なにしろ相手は神様なのだ。
あれを神といわずしてなにを神というのか。

そしてあの時のPACO以来、当然のことながらそんな神の光臨したステージをこの目にすることは二度となかった。

その後、ニューヨークに戻った後、PACOがこの街を訪れるたびに必ず足を運んだ。

PACOのステージはどれも極限までにシンプルそのもの。
なんの飾りもないステージの上には舞台の飾りつけどころか照明のスポットライトさえもなく、
伴奏家であるギタリストたちの並ぶ椅子と、それに囲まれた半円の空間。
ギタリストたちは一様に片足を組んだ椅子の上で一心不乱にフラメンコ、
あの強烈なアルペジオをアンサンブルを奏で続ける。
旋律は次第に互いに絡み始め、熱を帯び、重なり合い引っ張り合い、
そして綴り織られた流れが次第にうねり渦を巻き押えきれない濁流となって天に昇り始めた矢先、
突如、まさに弾かれたように、一人の踊り子が中央に進みでて、
そしてあの魔に憑かれたような踊りの中で踵を踏み鳴らし始める。

溜まりにたまりかねた胸の底の熱情が、まさに堰を切ってほとばしるように、
歌い、そして踊り、そして恍惚とした陶酔の中で、天に向けて登り始める。

それはまさに神降ろしの儀式。
生き神であるPACO DE LUCIAは神を呼び降ろす魔術師であり、
そして全てを操る神そのもの。

それはまさにコンサートいうよりはまさにある種の宗教的儀式にも近く、
そのステージはどれひとつをとってもまさに圧巻のひとこと。
なにが凄かったか、などと余計な御託はまったくなんの意味も成さないほどに、
記憶そのものを全てかき消してしまうぐらいに、
とてつもない迫力と壮絶なぐらいの緊張感、
それを貫く悲壮なまでのストイシズム。
その中には無駄なものの入る余地をなにひとつとして許さない徹底的な必然性と、
そして何人にも有無を言わせぬ圧倒的な絶対性に貫かれていた。

そんなPACOにステージには、例えその値段が幾らであっても必ずステージのまん前、
つまりはかぶりつきと決めていた。
あるいは、当日直前に放出されるVIP特等席の為に仕事を休んで朝からその列に並んだ。

なるべくPAを通さぬ生音に触れたかった、というのがその理由だ。

PACOの生音は本当に凄い。音のバイブレーションが骨から神経を伝わってビリビリと震え、
神経から血液からリンパ腺からが波打つような気さえしてくる。
PAから出ている音はまさにその外枠だけに過ぎないのだ。
改めてその生音とPA音との差異、そして生音の持つパワーそのものに叩きのめされることになる。

たかがギターじゃないか、と思う。
たかが、木箱に6本の弦を張っただけの、原始的な楽器ではないか。
がしかし、ひとたびPACOがその楽器を手にした途端、それはまさにこの世のパワーの源泉そのもの、
まさに神の力をもって聴衆たちを虜にすることになる。

PACOのステージの前、俺はいつも妙な胸騒ぎを感じて思わずこみ上げてくる不安な気持ちに苛まれたものだ。
開始直前になってから俺は何度も思わず貧血を起こして倒れそうになるぐらいの緊張を覚えた。
自身のステージにおいても感じたことのないそんな緊張感の中、
がしかし、ステージの上にPACOの姿を観たとたんに、まさに息が詰るような衝撃が走る。
思わずおおお、と雄たけびを上げてステージの前に倒れ伏すどころか、
そのままあわわと気を失ってへなへなと崩れ落ちそうにさえなる。
ああ、俺はこのままどうにかなってしまうのではないか、というぐらいまでの極限までの緊張の中、
その演奏が始まったとたんに頭は真っ白。
そしてパコのオーラに完全に浸りきった末に、まさに虹色のシャワーに包まれたような
至福感の中に浸りこむことになるのだ。

すげえ、以外の言葉は何一つとして出てこない。
言葉にして言えることなどなにひとつとして生まれては来ない。
ただたんに、すげえ、と呟いて、そして知らぬ間に涙が滲んでいることに気づく。

そんなPACOのステージは俺にとってはまさに、音楽鑑賞というよりは、
信仰の一環、つまりは、洗礼そのものであった。
そして音楽とはそもそもそういうものであったのだということに気づかされる。

とそんな生き神さまであったPACOもその後いろいろあったのだろう。

終生に渡って絶対的な存在であった父親の死の後、
メキシコへの移住の影響もあってか、
ちょっとその表情も和らいで、髭を伸ばしてみたり、髪を伸ばしてみたり、
とその死神ルック一辺倒であった風情にも変化が見られ始め、
音楽的にも、クラシカルなフラメンコスタイルだけに拘らず、
ジャズ系のアレンジを施したシクステットや、
あるいは、若手のミュージシャンをずらりと揃えては練習曲のようなことまでやっては、
その表情は道を極め切った一人の生き神様から、
いつしかあまりにも偉大な好々爺と言えるぐらいまで落ち着いてきたようにも思う。

そんなPACOのコンサート、というよりはリサイタルに行くたびに、まさに死と再生を体験し、
俺は再び舞い戻ったこの世の全てがまるで真夏の夕立に洗われた街路樹のように、
みずみずしく息を吹き返すのを感じていた。
そして心の底から、生きていてよかった、と思ったものだ。

このまさに正真正銘の天才、100年にひとりどころか、
人類史上唯一無二、これまでもそしてこの先も、
これほどまでにギターという楽器を極められる人間は、
決して現れないであろうこの生き神と同じ時代に生きることのできたこの幸運を、
まさに神に感謝せずにはいられない気持ちにさせられた。

蛇足だが改めて言わせて貰えば、
そのあたりのよく判ってもいない自称音楽通が知ったかぶってぶち上げる、
あの悪趣味なスーパーギタートリオ、なんていうのは、
まさに茶番というよりも性質の悪い冗談、あるいは冒涜に近い。

YOUTUBEでその公演の録画を見ればすぐに判るだろう。わからない奴は音楽を語る資格はない。お前にはなにも判っていないということだからだ。

アルデメオラはPACOを前にしてまさに恥のど壺の中に叩き込まれているようではないか。
ジョン・マクラフリンにしたって、そのあまりのクオリティーの差にまさに絶句を通りこして、
自嘲どころか、心底驚嘆しまくっている。

その音色からピッキングの張りからなにから、
演奏技術そのものも言うに及ばず、その音楽そのものの全て、
本質的なクオリティがあまりにも違いすぎるのだ。

アルデメオラやマクラフリンはまさに邪魔者。
この清廉なるパコの調べをぶち壊す不届きな乱入者。
心底その凡庸なプレーが反吐を催すほどに不快に思えてきて、
ばかやろう、へたくそ、邪魔するな。パコだけに弾かせておけば良いのだ、
と誰もが思うはずだ。

ちなみにこれは余談だが、
アルデメオラがパコにコラボを申し込んだ際、
パコはてっきり、自身が校長を務める音楽学校への入学志願かと思ったそうだ。
まあ初心者クラス、つまりは小学生たちに混じって初めて貰おうか、
ぐらいに思っていたに違いない。
マクラフリンに至っては、手拍子から始めろと言われた、とどこかのインタビューで語っていた覚えもあるぐらいだ。

(がしかし、その手拍子が実は普通に考えられる手拍子ではなく、一人が叩いた音に裏打ちで己の手拍子を重ねる、それを33222の12拍子のコンパスに乗せて超絶的な速さにまで繰り返すという奴で、つまりはリズム練習の基礎の中の基礎、つまりはアンサンブルの根源である。ポップミュージック界のものでこれができる人はまずいないであろうと思う。その片鱗はCARLOS SAURAの映画の中にもかみまみることができる。映画そのものは糞だが脇役で出演しているPACOの姿がやたらと微笑ましい。興味があれば'ご参照されたし)

改めて言えば、アルデメオラもマクラフリンも、
自身の能力でまさかパコデルシアに対抗できる、などと思っていたとは考えられない。

ただたんに、物凄い人を見つけた。この人を世に知らしめなくてなにが音楽家ぞ、
とただ素直にパコデルシアに驚愕し、そして心酔した上に、
教えを請いた、というのがその真相だと思う。

がしかし、パコはまさに生き神である。
その共演者の実力がどうであれ、生徒たちの才能ががどうであれ、
パコがその場にいるだけで人々の全てはそのオーラの中に包み込まれる。
そしてそこにまさに神と共にいる至福の瞬間を味わうことになる。

あのスーパーギタートリオとはまさにそういうアルバムだったのだ。

と言う訳でPACOは逝ってしまった。

人類はまたひとり、正真正銘の天才を失った。

がしかし、幸運にもテクノロジーの恩恵か、そんなパコの片鱗は
しっかりとCDとして刻まれている。

生音と比べてしまうとあまりにも違いすぎて悲しくなる気もするが、
やはりそれだけでもパコの持っていたあの壮絶さのその片鱗ぐらいはしっかりと感じることができる。

最後にパコのドキュメンタリーからの言葉。

小学校を途中で辞めることになって、それからは一日中ギターが弾けるようになった。
一日18時間は練習したかな。そのほとんどは単調なスケール練習だった。
それを永遠と繰り返しては、夜は夜でおやじのステージの伴奏を勤め、
その後には必ずミュージシャンたちが家に集まって朝までギターを奏でてね。
その繰り返しだった。それは今でも変わらない。

いかにも話ベタでシャイそうなPACOの口から漏れるそんな冒頓とした言葉を聴きながら、
この正真正銘の天才の力量がつまりは終ることのない基礎練習の反復に裏打ちされていたことを知るのだ。

終生において一日18時間ギターを引き続けた男。

死神のようにこれ以上ない陰気な風貌、
まさに禅の修験者を思わせるようなその溢れ出るばかりのストイシズム。

ステージの上で一度も笑うことなく、曲の紹介どころか、
グラシアスの一言も残すことなく去っていったこの正真正銘の天才。
もうこんな人の姿をみることはこの先にも二度とないであろうと確信している。

それは人類の大いなる損失であろう。

心からこのギターの修験者・生き神様、それを貫き通したこの稀代の天才に限りない尊敬と感謝を申しあげる次第。

PACOは今頃は、あの長年の相棒であったカマロン・デラ・イズラとの再会を心行くまで楽しんでいるに違いない。

合掌。


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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