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「犬の自己認識について」

Posted by 高見鈴虫 on 15.2014 犬の事情   0 comments   0 trackback
我が家には沢山の鏡があるが、
果たして我が家の犬がそれに関心を持つことはない。

そこであらためて、犬の自己認識について考えてみる。

犬は自身をどう認識しているのだろう。

IMG_7210.jpg

あるいは、人間がもし鏡や硝子、或いは水面が無かったとすれば、
自身をどのように、また、どうやって、認識するのだろうか。

当たり前のことながら、自分の目で唯一見ることのできないもの、とは、つまりは自分自身である。
自身の顔や後姿こそは、普段から周りの誰もが知っていながら、自分自身だけは見ることのできないもの。
自分で一番良く知っているつもりの自分自身を、実は自分が一番良く知らなかったり、もする訳だ。

例え鏡が無くても、相手を前にして、その大きさや重量などはある程度比較することはできる。
或いは顔以外のパーツのみであれば、その違いが判ったりもするだろうう。

がしかし、例えば相手の鼻の形の違い、とか、目の色がどうか、とか、
あるいは、口の大きさやホクロ、そしてそう、似た顔をしている、とかそうでないとか。
実は鏡の上で予め自己認識が成されていないと、ほとんどが判らない筈なのである。

そんな中で、例えば犬はどうやって自身を認識しているのだろう。

俺にはこいつと、そしてこいつの対峙している犬を当然のことのように比較できるが、
当の犬同士は自身と相手とを比較できない筈なのである。

がしかし、犬は自分自身で自己を確認しようとしない。
或いは、それを鏡、つまりは視覚に頼らない。

これはしかし、なんとなく不思議である。

そして改めて思いつくのは、実は犬は自意識がない、或いはそれを必要としていないのではないだろうか。
ってことはだ、
つまりそれって犬は自己認識がない、あるいは必要ない。それでなけば、既に別な方法で自己を認識しているってこと?

そう思った時には、犬の住む世界の不思議、あるいは、深みに触れたような気にならないだろうか。

とそんな時、ふと、古の昔にインド亜大陸を彷徨っていたころ、片目片腕のジョニーという乞食から言われた言葉を思い出した。

俺は鏡を信じない。
なぜってここにはろくな鏡がないからだ。
ここの鏡は全て歪んでいてまったくあてにすることができない。
映るものは嘘ばかりだ。
それを信じる輩もいるがね、
それを常識と定義する奴もいるが、
しかし俺はそれを信じない。
この鏡は歪んでいるんだ。
そう思っている。

そんな鏡のない世界で、俺がいったいどうやって自分自身を認識することができるかって?

それはな、お前さ。

とその片目片腕の乞食は言った。

俺の鏡はおまえなんだ。

俺はお前の瞳を通して俺自身を見る。

俺を前にしたお前の表情で、俺がいったいどんな顔をしているのかを探すんだ。

お前が笑っていれば、俺はたぶん笑っているのだろう。
お前が不機嫌な顔をしていれば、俺もたぶん不機嫌な顔をしている筈だ。
お前が顔をしかめれば、俺にはお前に嫌われるなんらかの原因があるのだろうし、
あるいは、俺達がこうして顔を突き合わせてのもね、
つまりは俺たちがお互いになにかあるってことなんだよ。

それはつまりカルマ=業という奴なのかな?
いや、俺は字が読めないんでね、難しいことはよく分からないが、ほら、例えば、

とまるで壁に開いた穴から中を覗き込むように、
ほら、こうしてみれば、そう、お前のその黒い瞳の中に、ほら、俺が映っているじゃないか。
そしてその俺の瞳の中に、俺が映っているだろう。

お前は俺の鏡。そして俺はお前の鏡。

幸せになりたければ、まずはお前の目の前にいる人間に笑いかけることだ。

旅の間、俺はジョニーに言われたその言葉 ~ YOU ARE MY MIRROR についてずっと考え続けていた。

そしてことあるごとに、それを実践し、そして俺の周りの世の中はいつの間にか、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだが、少しはまともに回るようにもなった、と感じたものだ。

と言う訳で、鏡の無い国に生きる男・ジョニーに言われたこの言葉。

YOU ARE MY MIRRORを、ふと、我が家の駄犬にもあてはめてみた。

つまり、犬が笑っている時には、俺が笑っているから犬も笑っているのである。
俺が犬が不機嫌なのは、俺が不機嫌な顔をしているからなのだ。

そしてそれは犬もしかり。つまり、犬自身も、自分の存在が周りに与える影響をよく知っているのではないだろうか。

そして犬は、周囲の人々のそんな表情によって、自分自身がこの世にとっていったいどんな存在であるのかを知ろうとしているのではないだろうか。

犬の自己認識とは、つまりは あなた自身であるのかもしれない。

そして、それに加えて犬のすぐれた感覚である。

そのすぐれた嗅覚に寄って、人間の感情の変化、それに伴う発汗作用の匂いをかぎ訳、
そのすぐれた聴覚から、息遣いの乱れから、心臓の鼓動の変化までを聞き分ける犬。

顔で、あるいは、言葉で、どれだけ誤魔化そうとしても、犬のそんな感覚を騙すことはできない。

と言う訳で、犬である。

今日も笑っている。思い切り笑っている。まさに幸せ一杯に笑っている。

あのなあ、と時として思わずため息をついて、お前はいいねえ、いつも笑っていて。俺はそんな場合じゃぜんぜんなかったりするんだけどね、とため息をつきながら頭を撫でる時、

ねえ、だから、とまるで語りかけるように片手を上げて肩を叩く。

だから、笑えって。そういう時こそ笑うんだよ。ほら僕を見ろよ。ほら、笑えって。一緒に笑おうよ。

そして俺は思わず笑ってしまう。判った判った。可愛い奴だよな。

そして犬の瞳の中に、笑っている俺が映っていたりするのである。

犬の自己認識とはなにか。

あるいは、人間を含めた上で、自己認識とはなんなのだろう、と改めて考える。

或いは、犬にとって、自己認識、あるいは、自己というものは実はそれほど大切なものではないのではないだろうか。

自分があって、あなたが居て、なのではない。

そんな自己、あるいは、自意識などに拘るな。

まずはあなたがあって、そこに自身が映る。それが自分自身なのだ。

それこそが、まさに、片目片腕の乞食であったジョニーの言った言葉なのだ。

己の自意識の殻を破り、心を開け。隣人を愛し、信頼しろ、ということなのだ。

なんともやさしい言葉である。

そんな優しい言葉を、一介の不良ツーリストであった俺に与えてくれたジョニーとはいったいどんな男だったのだろうか。

がしかし、あの言葉を聞いたとき、はっとした俺の顔と、そんな俺を見て、さも得意そうに片方だけの目を細めて笑ったジョニーの表情はいまも俺の心に刻み込まれている。

つまりジョニーは、俺の表情の中に、彼が俺に与えた愛が広がっていくのを観たのだ。
そしてその愛が、ジョニーの元にも帰っていくのを俺はこの目で見た。

旅の出会いに限らず、あるいは、犬と人間との付き合いに限らず、
人間と人間との付き合い、あるいは、世間とは、すなわちそんなものなのではないか、
と思い返してみる。

自意識など、自己認識など、どうでも良いではないか。

大切なのは自分、ではない。自分を含めた上での回りの人々全てなのだ。

さあ、笑えよ、と犬が言う。さあ、そんな時こそ、笑えよ。僕を見て、僕の笑顔に笑顔で返してよ。

犬がとてもとても大切なのは、そのことを俺に思い出させてくれるからなのである。

つまりは、そう、犬のその姿こそが、自意識に邪魔されることの無い本当の姿なのだ。

犬は心の鏡。そう思ってもう一度犬の顔をみつめてみないか?



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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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