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STUDIO 54 で「CABARET」を観る

Posted by 高見鈴虫 on 18.2014 読書・映画ねた   0 comments   0 trackback
遅く起きた日曜日の朝。
昨夜は深夜まで、DVDでウルフ・オブ・ウォールストリートを観てしまったからだ。

で、いい加減に犬に起こされてセントラルパークに散歩。
時刻は11時近く。
普段ボール遊びをしているシープスヘッド・メドウの緑の芝生も、
いまやすっかり観光客や家族連れに占領されている。

頭の中はいまだウルフ・オブ・ウォールストリートの超成金モードのままの俺たち、
いやあ、つくづく貧乏人の姿は見たくないな、とばかりに、
そのままタバーン・オン・ザ・グリーンの裏手のカフェに避難。
木陰のテーブルで遅い朝食を取った後、いざ帰ろうとすると、犬が嫌がる。
いや、そっちにはいかない、と言い張って聞かない。

どうせ大した予定がある訳でもなく、
こんな良く晴れた午後に家で掃除洗濯をするのも気が引けて、
ならばと犬の言う方向に連れられていけば、
そのままずんずんと手綱をひっぱられ、いつの間にかコロンバス・サークルからブロードウエイを南下を始める。
どうもカフェの店先から誰かの姿を見て、その後を追いかけているらしい。
日曜の雑踏の中をくんくんとその痕跡を追いながら、
喜々としてこっちだこっちだ、と引っ張って行ったのだが、
いい加減にタイムズクスエアの混雑に入り込んだところでその足跡を見失ってしまった。
どうもこの辺りで地下鉄に乗ったということなのか。

という訳で、いきなり取り残されてしまった雑踏の中。
ふと観ればシアター街である。
この辺りにはよほどの用がない限りは足を踏み入れることのない地獄の観光客用地域。
地図を片手にきょろきょろするおのぼりさんの行き交う通りは、いつ犬の足を踏まれるかと気が気ではない。
へへへへ、ごめんね、と照れ笑いを浮かべる犬と見詰め合って途方に暮れながらも、
まあそれなら西側の川沿いに抜けてリバーサイドパークにでも行くか、
と54丁目の角を右に曲がれば、
ふとSTUDIO54の正面のドアが開いている。

STUDIO54と言えば、言わずと知れたCABARETである。
これまで何人かの日本から友人から、
ニューヨークに行ったらCABARETが観たい。チケット取っておけ、
とリクエストを貰いながらも、良い席は常時完売状態。
当日券を探す以外に方法はない、と諦めてきた演目。

その「CABARET」に、どういう訳か犬がその扉から奥を覗き込み、
さかんに振り返っては中に入ろうと促す。

で、ちょっとした悪戯心からそのまま中に入り込んで見れば、
BOXオフィスの中に灯りが見える。
で、またまたちょっとした悪戯心から、そのチケット売り場のガラスの向こう、
売り子のお姉さんに、
もしかして、当日券、ある訳ないよね、と話しかけてみれば、
実は本日のマティネの席にキャンセルが出たらしい。

がしかし、このSTUDIO54のキャバレー。
席が取れなかった理由はと言えば、
まさに、テーブル席、である。

この「CABARET」
物語りの舞台であるベルリンのキャバレー「KIT-CUT CLUB」を、
それをそのまま再現した趣向で、
ステージの前のテーブル席、と、
それを取り囲む観客席との間にまさに雲泥の開きがある。

でこの「CABARET」
関係者の全てから、どうせ観るのであれば絶対にステージの前のテーブル席にするべし、
との提言を受けていたのだ。

そう、観客席であればいつでも席は空いている。
問題はその、ステージ正面のテーブル席。
これが開いてなければ見る意味がない訳である。

で、物は試しと聞いてみれば、なんとステージまん前のテーブル席がちょうど2席だけ開いている、とのこと。

値段は162ドルとかなり高額ながら、サリー・ボウルズ役である人気女優ミッシェル・ウィリアムスの降板が囁かれているおり、観るならこの時期を逃して他はない。

昨夜のWOLF OF WALL STREETの煽りを食ってか妙な成金気分。
まるで魔が刺すように、
うっし、どうせなら特等席でCABARETを観るか、とそのまま大枚を叩いてしまった訳である。
という訳で、
犬の散歩の途中、いきなり「CABARET」を観る事になってしまった。

聞けば開場まで一時間足らず。
慌てふためいて犬の散歩もいきなり中断。
外の通りでてタクシーを拾って家に飛んで帰り、
シャワーを浴びて髭を剃ってと大童。

マティネとは言い、普段の犬の散歩用のTシャツ短パンはまずいだろうと、
えいやあと夜のお出かけ用の服装に着替えてちょっと気合を入れる。

そう、このCABARET、実は俺的にはかなりの思い入れがある。

なぜかと言えば、このCABARETの原本となった映画「キャバレー」
このキャバレーこそが、俺の最も好きな映画のその筆頭。

トラウマと言えばもうこれ以上のトラウマはないぐらいに、
ベスト映画と言えばもうこの「キャバレー」を除いて他にはない、
というぐらいにまで思い入れのある作品なのである。

舞台は1930年代のベルリン。

当時、大戦前のヨーロッパにおいて、パリと並んで欧州の中心都市であったベルリン。
花の都と言われたパリに対して、このベルリンは背徳と退廃の都。
一次大戦の敗北から経済的に破綻した末期的状況の中で、
ヨーロッパ中の汚濁の全てが吹き溜まったと言われたこのベルリンは、
今で言うところのセックス ドラッグス ロックンロールの世界で一番やばい街。

夜ともなれば街中に娼婦が並び阿片とコケインが蔓延して治安も最悪。
がしかし、ベルリンにはそんな都市の退廃を求めてやってくる人々向けのキャバレーが立ち並んで大盛況。
そしてこのキャバレーこそが当時のヨーロッパのサブカルチャーの中心となった所で、
この「キャバレー」に描かれる舞台となった「キット・カット・クラブ」もそんな人気キャバレーのひとつ。

物語りは、訳あってそんなベルリンを訪れたイギリス人の作家志望の文学青年ブライアン。
彼が流れ着いた安下宿。
その安下宿の住人であった「キット・カット・クラブ」の踊り子、アメリカ人娘のサリー・ボウルズに出会う。

堅物の文学青年であったブライアンと、蓮っ葉ないけいけガールであるサリーはしかしなぜか妙に気が合って、
ブライアンはそんなサリーに導かれるままに夜のベルリンの世界に迷い込で行くことになる。

そんな二人の周りには、ユダヤ人の富豪の娘を狙ういなせな詐欺師である友人のフリッツ。
そしてドイツ金融財閥の御曹子のマックスが取り巻くのだが、
そんな人々の周りにまるで潮が満ちるように台頭してきたファシズム・ナチスの影。
激動の時代に翻弄される人々の人間模様を映し出したまさに逸品。

そう、俺はこの「キャバレー」という映画に囚われ続けてきた。
一番影響を受けた映画は?と聞かれれば、俺は(良い意味でも悪い意味でも)、
この「キャバレー」を置いて他にはない、というぐらいに、まさに人生のテーマと言ってしまっても良い。

この映画「キャバレー」が封切られたのは1972年で、もちろんその当時に劇場で映画を観た訳ではない。
が、まだ小学生の頃に、テレビの名作洋画劇場で観たのだが、
それ以来、俺の人生は一種、この「キャバレー」という映画に描かれた美学に運命付けられてしまった、と言っても過言ではない。

俺の中にある美意識、そしてその美意識に導かれる人生の選択、
ビートルズよりもストーンズ。ジャイアンツよりもドラゴンズ、
ホンダよりもカワサキ。ヤマハよりもパール。村上春樹よりは村上龍。

その後、俺がルーリードのTシャツを着て世界を彷徨ったのも、
それもアメリカではなくアジアを目指したのも、
そしてそんな俺がLAではなく、ここニューヨークという街に落ち着いてしまったのも、
多分にこの「キャバレー」における美学の影響がある。

という訳で、俺の人生に置いてこの「キャバレー」はまさに呪縛であり、
そしていつも妙な具合でエポックにもなり得る運命的なものなのだ。

ちなみに、日本で会社勤めをしていた俺が、くそったれもう辞めてやる、
と思っていたその矢先、ふと開いたドアから顔を覗かせた女の子。
おおお、サリー・ボウルズ!!
と思わず唖然として頭がスパーク。
その瞬間に、俺はこの子と結婚するだろう、と確信したのがいまのかみさん。

そう言えば、俺がニューヨークに着いてすぐに、イーストビレッジの古本屋の棚の中に、
この「キャバレー」の原作である、クリストファー・イシャウッドの「ベルリン・ストーリー」を見つけて、
思わず手に取ったところを、やあ、と声をかけられたパンク・ロッカーのビリー。

今晩CBGBでギグがあるんだが来ないか?と誘われて、
そこで紹介された奴らとすべて一瞬のうちに大の友達となり、
という具合に俺の人生の扉は、いつもこのキャバレーがきっかけとなって開いていく訳である。

という訳で、俺にとってまさに運命的な作品である「キャバレー」

そのストーリーの素晴らしさも然ることながら、やはりこの「キャバレー」をここまでの名作に仕上げたのは、
まさにこの映画の登場人物たち。その配役の素晴らしさである。

サリー・ボウルズであるライザ・ミネリ。
文学青年・ブライアン役のマイケル・ヨーク。
結婚詐欺師のフリッツ。
妖しい富豪のマックス。
そして、キットカット・クラブの司会役であったジョエル・グレイ。

まさにはまり役、と言ったらこれ以上のものはない。

あるいは、この役者さんたちの全てがこの映画以上の配役を期待することはできない、ぐらいに、
もうはまり役もはまり役。まさに出演者の全てがこの役を演じることが運命であった、
というぐらいの凄まじいばかりの極め役である。

事実、この作品の出演者の全てが、その後の仕事の全てをこの映画と比べられることにもなり、
当然のことながら、その出演者の全てが、その後、この映画以上の作品を作ることができなかった。

と同時に、このキャバレーという映画自体、この配役によって決定付けられたイメージの呪縛から、
それ以上の展開を望めるものではなくなってしまったのである。

そんな究極の打ち止め的な映画であった「キャバレー」が、なんとミュージカルとしてリバイバルされると言う。

しかも、映画の中にある「KIT-CUT CLUB」を再現するという。1998年のことである。

が、演出はボブ・フォッシーではなく、そして当然のことながら、
その配役は映画とはまったく違う。

当時、俺はたぶんに懐疑的であった。

ボブ・フォッシーもライザミネリもいないキャバレーを再演することになんの意味があるのか?
な訳である。

もう「キャバレー」はあの映画ですでに完成品、打ち止めな訳である。
なにがどう転んでも、あの映画以上の何が期待できる訳でもない。

がしかし、確かに、この映画「キャバレー」とはもともとはブロードウエイのミュージカルである「I AM A CAMERA]を基にしたものである。

がしかし、であった。

そう、俺にとって、サリー・ボウルズはライザ・ミネリを外にしては絶対に考えられず、
ブライアン、しいては、原作者であるクリストファー・イシャウッドは、
かのマイケル・ヨーク以外には絶対に考えられない。
という訳で、ずっと気にはしていながら、俺はこのリバイバルの初演を敢えて避け続けていたわけである。

が、後に 司会EMCEE役であったアラン・カミングが98年のトニー賞を受賞するに当たり、
このリバイバルの「CABARET」もが、ニューヨークのブロードウエイ界では伝説となりつつあった訳で、
それの公演が幕を閉じてから、心の片隅に大きな後悔が残ることになった。

とそんなこんなで、この「CABARET」。
リバイバルのリバイバルが今年2014年の春から期間限定で再上演されることになった。
そしてMCEE役は勿論アラン・カミングである。

TVドラマ、映画に限らず、彼の出る作品では必ず強烈な印象を残す、まさにキワモノ的な役者である。

映画におけるジョエル・グレイとはかなりイメージが違うが、脚本・俳優・歌手、と全てをこなす鬼才であるこのアラン・カミングのことである。
確かに彼であれば、キャバレーの解釈においても、あのジョエル・グレイ役の司会者がいったいなにを象徴していたのかを、すべて正しく理解してくれている、と期待できそうである。

という訳で、遅ればせながらこの2014年の再演の再演であるところのミュージカル「CABARET」。

今度だけは外せないな、とは思っていたわけなのだが、いざチケットを買おうか、と思うといつもテーブル席は売り切れ。

ちゅう訳で、例によって前置きばかりが長くなった。

夏の日曜日の午後のマチネ。
観客はすべておのぼりの団体さんばかり、というまあ言って見れば「キャバレー」を見る上では最悪のシチュエーションではあったのだが、ステージ目の前の特等席。いやはや、正直、心の底から満喫した。

確かにキャスティングについては少々がっかりさせられた。

が、敢えて、映画におけるライザ・ミネリやマイケル・ヨークのイメージを一掃し、
サリーボウルズを「イギリス人」のちょっとナードな女の子、
そして、ブライアン役の文学青年を、まさに、典型的な田舎のアメリカ人として、クリフォードという別名を宛ている。

つまりは、サリー・ボウルズとブライアン(クリフォード)の役柄を、まったく別のタイプの別のふたりによる、まったく別のドラマに仕立てている訳だ。

映画において、マイケル・ヨークの演じたブライアンは、まるでナードな文学青年の典型。
知的である分、青白くひ弱でみるからに神経質そうな世間知らずのがり勉タイプ・草食系タイプ。
実はこのブライアン、原作者のクリストファー・イシャウッドがそうであったように、
実はゲイ。あるいは女性に対する一種の性的不能者を心の影として抱えていた訳である。

それに対するサリー・ボウルズは、まさにアメリカ娘の典型。
天真爛漫ではちゃめちゃに元気があっての愛嬌の塊り。
まさに爆弾のようなセクシーさを持ったいけいけの女の子。

この二人のアンバランスさこそが映画「キャバレー」の魅力であった訳なのだが、
ミュージカルの「CABARET」においては、そのイメージが逆転する。

つまりサリー・ボウルズは、知的で神経質なイギリス人。夜の世界に疲れたアル中でジャンキーの踊り子。
そしてブライアン、ならぬ、クリフォードは、アメリカの典型的な田舎青年。
つまりは、質実剛健で、実直で勇ましく、見方を変えれば、単細胞で頭の固いバカなJOCKの典型。
文学青年、というよりは、そのままノルマンディーの空でパラシュート降下していた方が似合っているというタイプ。

確かに、このKIT-CUT CLUB。
世界各国から色々な踊り子さんが働いていて、そんな踊り子さんの中には確かにそんなカップルもあっただろう、
ということなのだろう。

で、このミュージカル版のおふたり。
まあ役者さんのイメージもあるのだろうが、鬱病のジャンキーの踊り子と、
アメリカの田舎のJOCKという設定は、
なんともあまりにも無理がある、というか、
それにもまして、そんなJOCKのクリフォードが、ゲイの世界に引き込まれ、
という設定にも役者のキャラ的にかなり無理がある。
で、こんな二人の恋の行方にも、なんとなくあまり興味がもてないというかなんというか・・

つまり、ブロードウエイのメインの観客である「田舎のアメリカ人」の美意識に合わせている、ということなのだろうが、
うーん、このキャスティング、ちょっとあまりにも無理があり過ぎて、正直この二人の出番が来るとかならず眠くなってしまった。

がそう、この主役である筈の二人、と双璧を成すアラン・カミング。
つまりは、ハレとケ。
昼=現実的な日常生活であるところの安下宿を舞台としたクリフォードとサリーの世界と、
夜=非現実的な祝祭な空間である「CABARET」という舞台におけるEMCEEの司る世界。

この対比こそが見ものな訳で、
当然のことながら、安下宿の中、金に困って仕事を探すクリフォードとの世界と、
毎夜毎夜の乱痴気騒ぎに明け暮れるEMCEEによる「CABARET」の世界との対比がますます鮮やかに浮き彫りにされ、
そしてサリーは再び、夜の闇に蠢く妖しい世界へと舞い戻ってゆく訳である。

という訳で、俺的には大不評であったブライアン、ならぬクリフォード。
がしかし、アラン・カミングスとの対比において、
このクリフォードの役柄が辛気臭ければ臭いほどに、
EMCEE役であるアラン・カミングスの素晴らしさが際立って来る訳で、
この二人の男優のガチンコ勝負という意味では、
まさに文句無くEMCEE役であるアラン・カミングの大圧勝。
クリフォード役が大根ぶりが良い引き立て役となって、
EMCEEの姿がますます妖艶に輝いてしまう訳だ。

そして特筆すべきは、この辛気臭い昼の世界の舞台を梃入れした形になる、安下宿の住人達の人間模様。

そしてその女大家さん(Linda Emond)と、ちゃっかりその愛人に納まろうとするユダヤ人の中年男の店子(Danny Burstein)、このベテラン二人による遅咲きの恋模様の絡みがまさに素晴らしかった。

この二人の役柄は映画にはないものであったが、ファシズムに席捲されるドイツの日常がこの二人の動向と通して浮き彫りにされる訳で、舞台にまさに「深み」を与えていたと思う。

という訳で、よく練られた脚本であったなあ、とその裏味を噛みしだいているところ。

そして極めつけは、これも映画にはない土壇場でのどんでん返し。
まさに度肝を抜かれた訳で、舞台後の挨拶時にはちょっと涙が滲んだりもした。

というわけで、
鬱病のサリー・ボウルズであるミッシェル・ウィリアムス。
そして、大根役者の典型であろうクリフォード役のなんとかさん、
の二人のカップルがあまりにもNGであった分、
やはり素晴らしいのはEMCEE役のアラン・カミングス。
まさに、アラン・カミングに始まりそして終わる、といっても過言ではないこの「CABARET」。

がしかし、このアラン・カミングの妖姿を見るだけでも十分に価値のあるステージでありました。

という訳でこのミュージカル版「CABARET」
期限限定という筈だったが、来冬までの延演が決まったらしい。
ということは、アラン・カミングはまた暫く映画やらテレビの仕事は取れない、ということか、
とちょっとそれはそれで複雑な心境にもなるが、そんなアラン・カミングの姿が見れる、
というだけで、この「CABARET」の舞台は十分に意味がある。

で、改めて言わせて貰えば、この舞台。
やはり絶対にステージ前のテーブル席で見なくては意味がない。
自身がKITCUT CLUBに居ることを錯覚すること、こそがこの舞台の意味そのものなのだ。
遠目の観客席とステージ前の特等席であるテーブル席。その臨場感だけでも差額は十分にペイできる筈だ。

もしニューヨークに来る機会があれば、30年代ベルリンの安キャバレーのテーブルに身を浸してみるよも良い。



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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
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