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キャバレー雑感 ~ ファッショの影

Posted by 高見鈴虫 on 18.2014 読書・映画ねた   0 comments   0 trackback
という訳で、ミュージカル版の「CABARET」

色々な意味で感無量であった。

そんな素晴らしいステージを見た日曜の午後。
放り出された休日の街並みを、なんか腹減ったなと近所の日本食屋によって、ラーメンとカツどん。

で、そう、なんか疲れたな、と思っていた。

なぜだろう。

サリー・ボウルズ役のミッシェル・ウィリアムスがあまりにも元気がなかったからか。
あるいは舞台のどんでん返しの衝撃がまだ残っているからか。

という訳で、改めてこの「キャバレー」で描かれた1930年代のベルリン、というその時代である。

つまりはそう、ファシズムの台頭、ということなのである。



こんなことを今更いう事さえおこがましいぐらいに
その事象はあまりにも顕著である訳なのだが、

改めて言えば、

巡り巡って、いま時代はまさに再びファシズムな訳である。
つまり、ファッショがちょっと「新鮮」な訳である。

なにからなにまで、この世界で目に映る全てのもの、
流行り廃りからテレビのニュースから新聞の紙面に踊るすべての事柄が、
いちいちそこに落ちるファシズムの影が、日に日に濃さを増しているように思えてならない。

それは日本、韓国、そして中国は言うに及ばず、
ここアメリカ、そしてヨーロッパ諸国からのひと人々も、
まったく同じ言葉を聴く。
ということは、それはまさに世界的な状況であるのだろう。

そう言えば、
以前、グローバル企業に勤めていた頃に、
会社内のジムのテレビで、どういう訳だからナチスの記録映画が映っていたことがあった。

なんだこれ、と思いながら、なんとなく、そう、なんとなく、だがどうしても、
その映像に目が行ってしまうのである。

それはナチス・ドイツが戦争以前、
国内の宣伝向けに製作したドイツの国家意識高揚映画で、
金髪の若者たちが緑の平原の中で、これ以上ないような爽やかな笑顔を讃えながら、
堂々と胸を張り、そして輝ける未来を誓う、といった趣旨のもの。

そのあまりにも華麗に映し出されたドイツの風景と、
そして見るも見事な、まさに人類の完成形と言わせるほどに美しい金髪碧眼の若者達。

正直、俺はちょっと羨ましいな、と思っていたのだ。

こいつら、ちょっと格好よい。

とそんな時、ふと隣りのグレッグがつぶやいた言葉。

こいつら、本当に幸せそうだよな。

そう、ファシズムという国家体制の中に、
ひとたび飲み込まれるだけ飲み込まれてしまえば、
そしてそのまま、
外の世界をまったく見ることさえ無ければ、
それはまさに、まるで夢のような世界である筈なのだ。

それはまさに繭。あるいは、羊水の中。

暖かく安静な国家という母体の中で、
誰に邪魔されること無く、清く正しく美しく、
同じものを愛し、信じる、と信じる者たちと共に、
絶対的な愛を育むのである。

それはまさに絶対的な親和感・・・

しかしその内なる兄弟達に向けた愛は、
ひとたび裏を返して目が外部へと向いた途端、
全てのものが平和な世界を脅かす悪しき敵、へと目に映り、
その恐怖は、直に狂気を秘めた敵愾心と、
そして、愛する母体を守るためならその身の危険を厭わず、
という自虐的な破壊衝動へと突き進んでいく。

なぜなら人と分かち合おうとするとき、
愛は必ず代償、時として犠牲を求めるものだからだ。

愛はそうやって、自身を、マンネリ、という腐敗から守るために、
新たな刺激を、時として「血」を必要として行くのである。

がしかし、と俺はそこでニヤリと笑う。

で、だから?な訳である。

そんなことたあ、ちょっとまともな奴なら誰でも判っていること。
まさに、耳にタコができるぐらいに聞かされ続けてきたことじゃねえか。

まあ確かに、他の奴ら、
例えば、本もろくに読まず、テレビでバラエティばかり見ている脳タリンたち、
貧乏で教育レベルが低くて知性と教養に欠ける躾のできていないあのドキュンの知恵足らずたち。
そんな奴らがいったい何を思っているかなどは、正直、誰の知ったことではない。

あるいは例の知恵足らずのネトウヨが、あるいは馬鹿さよが、
どこぞのWEBの与太記事を鵜呑みにしてはサルのようにいきり立って、
なにを使ってどんな格好でせんずりをこいていようが、
そんなことがなんの関係があるというのだ、

という訳なのである。

そう言えば、例の「CABARET」の中で、EMCEEが喜々としながら、
階上の観客席の人々に向けて、
「HELLO POOR!~ やあ貧乏人」と呼びかけるシーンがあった。

そう、そのその選民思想のあからさまな表現こそが、
それが例え、冗談であれ、
時代がナチズムに向けて転げ落ちてゆく、その明らかな兆候なのだ。

そう、俺たちは既に知っている。

そんなことは、これまで、まさに反吐がでるぐらいに
しつこくしつこく耳元で繰り返されてきたことではないか。

嘗て俺たちの爺さんたちがやらかした致命的な過ち。
その過ちを繰り返さないため、何度も何度も何度も、繰り返されてきたこと。

という訳で俺たちはそれを既に知っている。

ナチスがなぜあれほどの人気を勝ち得たのか。
あるいは、その時代の双璧とされた社会主義がなぜ敗れたのか。
と同時に、まったく逆のことが実に良くにた状態で起こっている。
つまりはソビエトにおいてスターリンがなぜあれほどの権力を握りえたのか、
なのである。
そしてその時、連合国側、あるいはアメリカが実はなにを考えていたのか。
そして日本という国がなぜ軍部の暴走に飲み込まれていったか。
そして、その後、ヒトラーがムッソリーニが、そして日本がどのような運命を辿ったのか。

いまさら本など読む必要などないだろう。
いまさら取ってつけたような、いかさま記事をWEBで漁る必要もないだろう。

俺たちはすでに知っている。その本質が何であったか、ということを。

そして、そう、悪魔が囁きかけるのだ。

どうだ、正しいことをするのはもう飽きただろう。
退屈はもううんざりだ。本音で話そうぜ。

で、どうなんだ、あんた、心の底ではそこのあいつ、
(ユダヤ人、ちょん、ちゃんころ、ニグロ、赤首、ドキュン、成金、ネトウヨ、馬鹿サヨ、
あるいは、そう、白でも、黒でも、黄色でも、なんでも良い、とりあえず自分とはなにかが違う筈の異質のもの)、
をどう思うんだ。

改めて言う。
時代の粗などいくら漁ってもなにも見つからない。
社会の真相など誰にも判ったりはしない。

人の世とは、本当に儚いものだ。
なぜならばこの人間という生き物は、
まったくもって頼りなく情けなく弱々しい、そいういう生き物なのだ。
そしてそんな人という物の歩んだ道のりである歴史とは、
かくも弱々しくも頼りなく、まさに過ちの繰り返し、なのである。

そんなどうしようもない人間達の歩みは、
その時代時代によって、美学も変われば、正義も変わる。

そしてそれと同時に、見方によっては、事実、あるいは歴史さえも、次から次へと様変わりしていく。

そして、かつてあった失敗を、
いや、実は、やら、正直に言えば、という甘言にそそのかされてはちょっと安心し、
そしてちょっと自分に自身が持てたとたんにその認識、そして土台がぐらつき始める。

歴史などと大げさなことを言うつもりはない。
人は、人の心は、そうやっていつも、ぐらぐらと揺らめいているもの。
つまりは本来、人間とはかくもどうしようもないものなのだ。

そしてそんな頼りない時代の流れに飲み込まれたくなければ、
あるいはそう、見ず知らずの他人の銭勘定につき合わされたくなければ、
ひとつの価値観に固執してはいけないのである。
いつも自分自身を疑っていなくてはいけない。
そして、そこにこそ、親和を見出すべきなのだ。
つまりは、俺もあんたもそいつもどいつも、まったくもってどうしようもないやからだよな、
とあきれ返りながら、それでも人間であることをやめられない悲劇を、
素直に受け止めるべきなのだ。

がしかし、俺たち「まともな奴ら」は、
そんなことにさえ気づけない馬鹿ども、
電信柱にバカ、と書いてあって、
それを自分のことだと思っていきり立つバカが、
なぜならばそれは、自分自身で自己をバカだ、
と思っているから、という自己矛盾に気づいていない、
そんな徹底的なレベルでバカな奴らが、
いったいなにを考えていようがなにをやらかそうが、
知ったことではないのである。

俺たちは違う。
しっかりと教育も受けているし、それが嘘であること、
あるいはどこぞの誰かの銭勘定の悪巧みであることも重々承知している。
そしてそんなことさえもすべてごく一般的な共通認識として丸め込み、
そしてさえも自分自身がそんな時流というものを傍観し、達観し、
そして時としてそれを茶化し、嘲笑ってきた、つもりであったはずだ。

そう、

それはまさに、キャバレー」の中における司会者、ジュエル・グレイの姿である。

全てを傍観し、茶化し、嘲笑い、そしてステージのネタ、つまりは飯の種にしてきたこのキャバレーの司会者。

タモリではないが、この「キャバレー」の司会者のとってきた、時代に斜を構え、全てを達観し、面白がる姿勢を保つこと、
それこそを一つの心情にしてきた。それをスタイルとしてきたのだ。

がしかし、2014年。

再演に再演を重ねたミュージカル「CABARET」の舞台の土壇場のシーンにおいて
そんな時代の道化役であったEMCEEが、ファシズムの激動の中でいったいどんな末路を辿ったのか、
いきなり目の前に突きつけられた、という訳である。

そしていま、改めて思う。

ファシズムを舐めてはいけない。

それはつまり、馬鹿たちを侮ってはいけない、ということなのだ。

一度、悪しき力がバカな烏合の衆を束ねたが最後、
そんな馬鹿たちはまさに津波のようなゾンビーの群れと化して、
喜々として、良識者たちを席捲し始める。

それを拒否するものは馬鹿たちに袋叩きに合い抹殺される。
そしてそれから逃げようとすればするほどに馬鹿たちは執拗に追いかけてくる。
なぜかといえば彼らは馬鹿だからだ。
馬鹿に道理は通じないのだ。
そんな馬鹿から逃れる方法は、馬鹿に飲み込まれそして率先して馬鹿を演じるしかない、のである。

例えそれから逃げ続けたとしても、いずれは、そしてそれは必ず、
なんらかの形で、そんな馬鹿による馬鹿たちの世界における、
なんらかの役柄を与えられ、片棒を担がされてしまうものなのだ。

そう、時代とはまさにそういうものなのだ。

それから身を守る唯一の方法は、そう、三歳で成長を止めて、
ブリキの太鼓を叩きながら子どものまま、
つまりは馬鹿も相手にしないような馬鹿に姿を変えて逃げ回る以外に方法は無いのか、とさえ思う。

という訳で、正直、俺は「CABARET」を見た時から、
実に、ちょっといやなものに気づかされた気分になっているのである。

つまりそのサインが、めぐり巡ってまさに、ちょっと洒落にならなくなってきている、
と感じるからなのだろう。

それを、あんたもきっと感じているはずだ。

それが始まってからでは、
そんなところで高嶺の見物をすることなど許されない。
そんなこと、とうの昔に知っていたことだろう。

止めるならいまだ。もう明日には手遅れになるかもしれない、
俺たちはたぶん、そんなところに生きているはずだ。


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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