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ACT OF KILLING を観る 

Posted by 高見鈴虫 on 19.2014 読書・映画ねた   0 comments   0 trackback
ACT OF KILLING

正直、これほどまでに目が点々にさせられる映画を観たことがない。
非常に面白かった、とまずは言いたい。

そこに描かれているのは、
時として面白半分に人を「虐殺」する、という行為、
それを実践した人々の赤裸々な証言である。

普通の人間は、そんな「殺人者」の証言を聞けることはまずない。

最も興味があるのは、
そんな殺人者がいったいどんな人であるか、
ということだ。
そして聞いてみたい。
なぜ人々を「虐殺」したのか。
なにを考えていたのか。そしてなにを感じていたのか。

がしかし、そんなことを聞かれても当人たちは答えられる訳がない。

という訳で、作家は質問の方向を変える。

HOW?どうやって?
どうやってそれほど沢山の人たちを殺せたのか。
実際にやってみせてくれ・・

と聞かれたとたん、
殺人者たちは瞳を輝かせてその「虐殺行為」の記憶を喜々として語りはじめる。
そして、まさにカメラの前でヒーローになり切って、
自らが過去の「虐殺劇」の様子を雄然と演じはじめるのである。

この映画に比べては、SFXだか3Dだかしらないが、
ハリウッドの合成映像はすべて紙芝居、にすぎない、
とさえ思えてくる。

という訳で、まさにキワモノ中のキワモノ。
まったくとんでもないものを見せてもらった。

65年のインドネシアでの左派クーデター未遂を端に発した動乱。
その後、反共勢力であったスハルト派の巻き返しによる逆転クーデター。
その裏に隠された左派大粛清。
実に100万人もの人々を虐殺した、
その当事者である「殺人者たち」の証言の映画である。

作家は、当時の左派粛清の実行部隊であった自警団=ギャング団たち、
いまも政治家としてあるいは地元の権力者に納まるその幹部達に取り入り、
おだててすかして、映画監督と共に製作者の一員として、
その「虐殺」の現場の光景を再現していく、
という凝った構成になっている。

その風景は、話されている会話の内容さえ見なければ、
つまりは字幕さえ追わなければ、それはなんとも長閑な、
老人達が久々のクラス会で若き日の思い出を語り合うような、
そんな微笑ましい風景にも見える。

いちいち撲殺すると血が飛んで面倒なんでね、
針金で絞め殺すことにしたんだ。ほら、こんな感じでね。
これが一番手っ取り早い方法だったね。

その光景を見て、ああ、この人は本当にこうして次々に人々を屠って行ったのだな、
と確信させられる。
がしかし、その「虐殺者」が血に飢えた狂人かと言えば、まったくそんなことはない。

それはそう、ただたんに、そのあたりにいくらでもいる、
ちょっとやばそうな爺さん、ただそれだけなのだ。

なぜこの人たちは自分達の過去に対してそれほど無頓着なのか。
この人たちに罪の意識はないのか?血は通っていないのか。
どこか頭の構造がおかしいのではないか。

映画の宣伝にあるような、歴史に残る「大虐殺」の主犯者たちを通して、
人間の闇と大量殺人の狂気をあぶり出す、ってな枕言葉からは、
想像もつかないような、まさにのほほんとして、
自身のしでかした「大量虐殺」の思い出を語る老人の姿に、
正直言って、えっ !? と思った訳だ。

俺はこれとまったく似たような光景を見たことがある。
そして俺も、その「大量虐殺者」に出会っているのである。

%%%%

俺の田舎に「ババンのおじさん」と言われる親戚がいた。
母方の祖父の弟であった訳なのだが、
戦時中は全国的に勇名を轟かせた「皇軍の英雄」であった人、
であるらしかった。

子どもの頃、夏休みに母親と田舎に帰るたびに、
親戚一同の勢ぞろいした宴会の席で、
この「ババンのおじさん」から「戦争の話」を聞くのがとても愉しみだった。

ババンのおじさんの戦争の舞台は中国であった。

中国のどこか、は詳しくは覚えていないのだが、
「ババンのおじさん」はその戦場で大手柄を立てて、
英雄となったらしい。

酒が廻って座が乱れ始め、
いよいよ良い気持ちになると「ババンのおじさん」は、
並んだ子ども達を前に、
酔いに赤く濁った瞳を泳がせながら語り始める。

砂塵の煙る戦場。
ひゅんひゅんと頭上に響く弾丸の音。
火薬の匂いと爆音、そして血煙り。

どどーん、バンバンバン、バリバリバリバリ~!!

突撃~!という怒声とともにいっせいに響く鬨の声。

撃って撃って撃ちまくれ!
突いて突いて突きまくれ!
殺って殺って殺りまくれ!

手榴弾を握り締めて敵の戦車隊に突撃を仕掛けてな、
敵を皆殺しにした上で戦車ごと分捕って、
そのまま敵陣に突入だ、がはははは。

血沸き肉踊るそのコンバット噺しに、
幼い俺たちはまさに夢中になった。

丘の上に追い詰められて、
弾丸も底を尽き、
手に残るのは軍刀一本。
ああここまでか。
されば辱めを受けることなく、
ここで自決を、と覚悟した時、
頭上に響く「隼」の轟音。

友軍の爆撃が始まった途端、
敵兵の身体が木っ端微塵になってな、
ニンゲンの身体が、手や足がばらばらになって、
あの木の上よりも高くにまで吹き飛ぶんだ。
いやあ驚いたね。

よし、こうなったらこっちの物だ、
と、軍刀を空に掲げてな、
突撃だ、天皇陛下万歳、とばかりに、
逃げ惑う敵兵をばったばったと切り倒してだ。

軍刀一振りで腕が飛び首が飛び、
地雷に弾けて足が飛び、
敵兵の腸を頭から被りながら、
見たかこれぞ皇軍の心意気、
思い知ったか、がはははは。

子どもたちはもういても立ってもいられず、
はたきを小銃に見立てては取っ組み合い。
おばあちゃんやおじちゃんの背中に隠れながら、
バンバン、とやると、
「ババンのおじさん」はいつも喜々として、
ぐえええ、アイゴ~、と悲鳴を上げてのたうちながら、
敵兵である中国兵の役を演じてくれたものだ。

そう、それはまるで、この映画に描かれる無邪気な老人達のように。。。

###

この「ACT OF KILLING」に登場する老人達も、
まさに、この戦争自慢の「ババンのおじさん」そのもの。

つまりは名誉の勲章保持者の英雄、であり、
そして子ども達のヒーローであった筈だ。

そしてそんな光景は、我が家に限らず、
戦中派の人々がまだ達者であった頃の日本では、
割とありふれた光景であったのでは、と思っている。

そんな「ババンのおじさん」の話を聞きながら、
俺は心底、くっそう、俺も戦争に行きたいな、と思ったものだ。
なんで、戦争は終わっちゃったの?
と聞いては、大人たちの失笑を買ったものだ。

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がしかし、改めて言うまでもなく、
戦争の本質とは極限の暴力、つまりは「殺人」である。

そして、いま、こうしているこの瞬間でさえ、
クリミアで、ガザで、シリアで、イラクで、アフガンで、
そしてたぶん、世界の紙面に踊ることのないまま世界の実は津々浦々で、
似たような行為が続けられていることは誰もが知っている筈だ。

別にこの大量虐殺犯たちの肩を持つ訳ではないが、
ほとんどの喧嘩にルールも正々堂々もないように、
ほとんどの戦争にも、きれいごともジュネーブ協定も、
ましてや、正義なんてものもない。

この65年のインドネシアでの動乱において、
もしも左派のクーデターが勝利を収めていれば、
それこそ後のカンボジア・クメール・ルージュではないが、
それこそ国中で血で血を洗うような大虐殺が行われていたのではないだろか、
と容易に想像ができるではないか。

それが建前であったとしても、誰かさんの陰謀であったとしても、
現実問題として自らが虐殺の被害者にならないための戦いであった以上は、
やる方も死に物狂いであった筈だ。
民間に紛れ込んだスパイやゲリラを処刑することは重要な任務、
だが、そんな「汚れ仕事」を、正規の軍人にさせるのはさすがにやばい。
という訳で、駆り出された地元のチンピラにそんな「汚れ仕事」を押し付けた、
という図式なのだ。

そして世界中の戦争のそのほとんどの現場で行われているように、
そうやって治安維持という大義名分を与えられたチンピラたちは、
100%、必ず暴走を始める。

俺の知る限り、戦争で最も惨たらしいのは、
最前線での血泥に塗れた兵士同士の戦いよりは、
むしろ、そんな治安維持の名目で行われる、
秘密警察、あるいは、自警団による自国民への暴行である。

それは右派・左派に限らず、あるいは人種・宗教を問わず、
不思議なぐらいに似たような図式の中で、
うんざりすぐらいにまったく似たようなタイプの人々が、
この正義の大暴走をおっ始めるわけだ。

がしかし、あえて言わせてもらえば、
それを許した、あるいは炊きつけたのはまさに「権力者」なのである。

兵士は命じられたことを命じられたようにやっただけだ。
そして「権力者」は、治安維持の印籠をかざしたチンピラ部隊が、
暴走をすることも十分に承知していた筈なのである。
がしかし、そう、それは「戦争」の中での出来事なのである。
つまりは「戦争」という異常事態がそんな「虐殺」を必要とし、
そして「権力者」はそのピラニアのような暴力集団を、
強力な武器として上手く利用したのである。

改めて言えば、時代は変わる。時代が変われば価値観も美意識も変わる。

戦時下という異常な状況において行われた「英雄的な行為」が、
ひとたび戦争が終わったとたんに「犯罪行為」として裁かれる。

がしかし、戦争とはまさに極限の異常事態なのである。

そしてひとたび、戦争という状況になった以上、
平気で敵兵を「虐殺」できない兵士は、ヘタレの出来損ない、
つまりは「犯罪者」として扱われ、時として戦場で自国兵に密殺されることになる、
という事実を忘れてはいけない。

つまり、戦争とは本来そういうものなのだ。

虐殺が嫌なら戦争そのものを起こさなければよいのである。

ひとたび戦争が起こったとたんに、人々はそれを、当然の義務として、
あるいは「仕事」として、立派に「虐殺」を行うことを強要されることになる。
それが戦争の定義だ。

という訳で、この映画についての誤解を解きたい。

「虐殺」を通じて、人間の闇を抉る、というのは、
つまりは、戦場において「虐殺」を行った人間に対して、
平和時の観点から人道的な罪を着せる、というのはあまりにもアンフェアだ。

それはまさに、PTSDを抱えて戦場から帰った兵士を、
なぜ人を殺したんだ、と背後から石を投げる行為に等しい。

やらせたのは誰だ、が問題なのだ。

そして戦争という行為そのものが、
そういった「虐殺」を前提としている、ということを忘れてはいけない。

改めて言う。
これは戦争の話なのだ。

だてや酔狂で、あるいは、どこぞの知恵足らずのドキュンが、
面白半分に級友をいぢめ殺してしまった、というのとは訳が違う。

がしかし、と俺はここで再び話しをひっくり返す。

そのへんのバカのやりすぎたイヂメ、とは訳が違う、とは言いながら、
しかし、やっている行為そのものはまさに似たようなもの。
双方から針金、あるいは電気コードで「獲物」の首をしめて、
あるいは、耳の穴に火のついたタバコをつっこんで、
なんていう「猟奇殺人事件」が日本でもあったではないか。

そう、たぶん、その「虐殺」という行為そのものの方法は、
そしてあえて言えば、その「次元」も実は同じようなもの、なのだ。

という訳で改めて、
そうやって虐殺行為を喜々として語る人々。

まさに若き日の楽しい思い出、そのもの。

ここでこうして、何人始末したかな・・
そう語る狂気の殺人者である筈の元兵士達が、
実に好々爺然とした、ふつうのおじいさん、なのである。

それはサディズムとは違う、という。
異常行為でもない、という。
ましてや「虐殺」でも「殺人」でもない。
そう、それはそういった状況。
つまりは、戦争であったのだ、という。

本当にそうであろうか・・

悪いのは戦争である、という。
ニンゲンはひとたび、戦争という異常事態に閉じ込められ、
任務として「虐殺」を命じられたが途端、人格が一変する。

そしてギャング達は、時として愉しみながら、
あるいは、唄さえ歌いながらその「虐殺」を楽しみ始める。

が、たとえ戦時下であろうと、その光景はまさに異常だ。
いつのまにかその任務を、「虐殺」を楽しみ始める、
その心理こそが恐ろしいのである。

という訳で、刑の執行者に命乞いは効をなさない。
彼らはそれが仕事である以上、仕事としてそれをこなす。
が仕事ではあるが、あまりにも気の滅入るタイプの仕事なので、
時として羽目をはずしてしまうこともある。
そしてそれが暴走してゆく。

そんな執行者たちに、温情や道義を訴えても所詮無理な話なのだ。
処刑者が仕事である以上、
虐殺される側もそれを仕事としておとなしくいたぶり殺されるべきなのだが・・・

そのギャップこそがグロテスクなのである。

で、そう、傍観者である我々からは、
それでもなかなか納得することができない。

たとえ戦争という異常な状況であるとは言え・・
良心の呵責はこれっぽちも無かったのか?

そして改めて問う。
なぜ、なにがそれほどの狂気を現出せしめるのか・・

そして改めて問う。
この映画の中にある老人達が、異常だったのか?
彼らが特殊であったからあの惨劇が起こったのか?

俺はあえて、それは「違う」と言い切る。
事実、「ばばんのおじさん」の例を挙げるまでもなく、
「皇軍の英雄」たちは、当然のことながらごく普通の良識人たちで、
現に俺たちを膝の上に乗せては好きなものを取り分けてくれて、
強い子になれよ、元気に育てよ、勉強がんばれよ、
とひとりひとりの頭を撫でてくれた、本当にやさしい人であった。

改めて言う。
「ばばんのおじさん」はそれはそれは立派な人であった。
本当の本当に子ども達に良くしてくれた。
その生涯を通じて骨身を削って町の人々のために精力を尽くした、
まさに愛と理性に満ちた英雄であった訳だ。

ではなぜそんな普通の良識人たちが、
時と場合によって、とは言え、
そんな「異常心理」の中で「大虐殺」などしてしまうものなのか。。

という訳で、ここに来て、
まことに不本意ながらも、こう結論せざるを得ない。

それはたぶん、ニンゲンというの本来そういう生物なのだ。

人種を問わず、なにを問わず、
その良識と問わず知性を問わず、
そういう状況になれば、ほとんど大抵のニンゲンは、
たとえどんな残虐行為もまったく厭うことなく、
あるいは時として喜々としてそれをやってしまう、
そんなどうしようもない生き物なのである。

そしてそんなどうしようもない「人間」という生物が、
そんな困った本能をやたらめったらと暴走させないために、
「理性」というブレーキが備わっているのである。

つまり、「理性」のブレーキを取っ払うような状況そのものが、
ニンゲンをおかしくしてしまう。
そんな「理性」のブレーキを取っ払わせる状況を、なるべく作り出さないようにすること、
それこそが、人類がこれまでの長い歴史の中で培ってきたノウハウの全てなのである。

ニンゲンという生き物はかくも危険な部分を秘めた化け物なのである。
それを忘れてはいけない。

そして、その本能というパンドラの箱の蓋は、
そんな人類の理知の集大成である「歴史」というものの改竄を許したとたんに
緩み始めるに違いない。


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
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