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そっか、クーバが開くのか、で想うこと。

Posted by 高見鈴虫 on 12.2015 旅の言葉   0 comments   0 trackback
そっか、クーバが開くのか。
感無量である反面、うーん、と考えこんでしまうことがない訳ではない。

これまでクーバは「楽園」であった。

少なくとも俺は、クーバほどに「安全」な場所を他に知らない。

街中は徹底的な廃墟。
暇を持て余した連中が路端に群れていて、
というまあ中米諸国ではどこででも観る風景ながら、
しかしクーバに置いては、
そんな連中から小銭をたかられたり、
あるいは、オラ・アミーゴと声を掛けられたとたんに滅多打ち、
なんてことが、ない。

そう、クーバの治安はまさに世界一だったのだ。





何故か、と言えば、クーバの人々が良い人だから?

とかということを真面目に言っている人がいたが、
そういう人を相手にするつもりはないのでさようなら。

そう、幼気なツーリストの動向を、当局が徹底的に監視していたから。
そしてクーバの人々がそれを知っていたから、に他ならない。

当局が国民を徹底的に監視している国を、
この世の楽園、と呼んでいた人々もいたが、
そういう人々を相手にするつもりはないのでさようなら。

そう、クーバはきつい国だった。
知れば知るほどにそのきつさが身に沁みた。

クーバの人々が何気なく口にする言葉が、
事情が判ってくるにつれてまるでボディブロウのように効いてくることになる。

ガルシア・マルケスの言った「糞でも食うさ」な訳なのだが、
果たして、誇りを守るためにあえて自身から糞を食うことを選択することと、
糞しか食うものがないから糞しか食えない、のではやはり事情が違う。

クーバは誇りのために糞でも食うことを選択しながら、
いつのまにか糞しか食うものがなくなってしまった。

糞しか食うものがないことに文句を食う連中は、問答無用にブタ箱。

当局は繰り返す。

誇りのためには糞を食おう。俺達は誇りに満ちた立派な糞喰らいなのだ。
さあみんなで糞を食おう。これを幸せというのだ。糞を食って幸せになろう。

そんな状況を「楽園」と称した人々がいることも知っている。

実は俺もその一人。そう、人間誇りのためなら糞でもなんでも食うべきだ。
奴隷にされるよりはマシではないか。

とそんな俺に、これまで一度も見せたことのない冷ややかな視線でかみさんが言った。

バカも休み休み言ってなよ。
この人たちがどんな思いをしてこの国で糞を食い続けているかあんたには判ってるの?

スペイン語がまったく喋れない俺と違い、かみさんは実はスペイン語の通訳をしていた人である。
が、かみさんはそれを表に出さなかった。
互いが下手な英語に四苦八苦しながら、
しかしかみさんはそんな人々のスペイン語でのため息をしっかりと聞いていたのだ。

今の人、なんて言ったの?
ああ、この人達は石けんの匂いがするなあ、って言ってたのよ。

この人、奥さんがアル中なんだって。
うつ病とアル中とエイズがこの国の最大の問題なんだって。
娘も息子もお母さんも娼婦だったんだって。
でも、身体を売ってお金が入ってもラムしか買うものがないんだって。

クーバの人が明るい?
酔っぱらってるかセックスしてるかしかやることがなにもないんだって。
へらへら笑っているぐらいしかなにもできないんだって。

でも、みんなマルケス知ってたりして、割りとインテリだぜ。
だから、とかみさんは言った。

マルケスとゲバラぐらいしか、読ませてもらえないからよ。
それしか読ませて貰えないからそればかり読んでるってだけの話。

つまりそう、そうなのである。

クーバの人は野球が上手い。
クーバの人のサルサはすごい。
ドラムが上手い。踊りが上手い。
医者と詩人が沢山いて、
みんな陽気な酔っぱらいで、
たった10ドルで誰とでも好きなだけセックスができる。

つまり、それ以外にはなにも無かったからだ。許されなかったからだ。

糞を食って酔っぱらって売春しながら笑って暮らすことを強要される国。
それを俺たちは「楽園」と呼んでいたのだ。

そしてそんな状況に暮らすことを余儀なくされながら、
しかし、本当に明るさを失わなかった人々もいるのだ。

そう、私はそれでも幸せよ。

クーバとはそういう人々の暮らす国だった。

それがわかった途端に、いままで出会ってきたクーバの人々の、
その明るさ、その親切さ、その健気さの、本当の意味がまさにドシンと背中からのしかかって来た。

後にも先にも、訪れた国を去る時に涙が溢れて来たのはクーバだけだ。

さらばクーバ、と振り返りながら、ごめん、俺にはなにもしてやれない。
まさに、友を見捨てて逃げを決める卑怯者の気持ちにさえなったものだ。

ただしかし、
その後、クーバ以外のラテンの国々を訪れる度に、
そこですっかりと奴隷にされ、奴隷にされながら糞しか食えない人々と対峙することになった。
そんな人々は、
奴隷でありながら糞しか食えない、という自身の境遇さえも思い知っている。
つまりは、誇りさえも奪われた糞喰らいの身に甘んじるしかない人々。

これならば、少なくとも「誇り」という言い訳があっただけでもましではないか、とも思ったのだがな。

という訳で、南米からのフライトがクーバの上を通る時、
俺は楕円形の窓からそんなクーバの島影を眺めながら、
誇りのために糞を食居続ける人々について考えをあらたにしていたりもしていたものだ。

そんなクーバが開く。

いったいどういうことになるのか、とこれまで幾度も想像を試みてきたのだが、
開くと決まった以上はもう開くしかない。前に進み続けるしかないのだ。

それはまるで未開人の部落を探検隊が尋ねた途端に、持ち込まれた疫病にバタバタと人々が倒れるように、
まるで疫病のような米国の消費文明が、クーバの人々を完全にノックアウトすることは目に見えている。

そしてそんな幼気な人々は、消費文明の根本の部分にいち早く気付き、
そしてその最も汚濁した部分をこれでもか、と吸収してしまう筈である。

これまでクーバの地で培われ、幽閉されていた様々なこと、
野球と、サルサと、ドラムと、ダンス。
医者と詩人と兵隊たちが一挙にアメリカに流れ込み、

そこにドラスティックな改革を齎すだろう。

が、しかし、そんな特殊技能を持たない者達、
つまり、酔っぱらって踊ってセックスしているだけで幸せになれると信じていた人々、
そんな状況に甘んじ、諦め、そして諦めることに慣れ、諦めて暮らすことに適応していた人々、
そんな人々が、いったい米国の競争社会の中でいったいどうやって暮らして行くのだろうか。

かつて訪れたクーバ以外のラテンの国々。

男はギャング、女は娼婦になる以外に生計を立てる道がなく、
まるで野良犬のように荒みきった顔つきをしていたあの人々。
クーバがそんな状態になってしまった時、
あの生真面目なクーバ人のことだ、
いざそうなってしまった時、彼らは最もドラスティックかつ最も効果的な方法でそれやり遂げようとするに決っている。
クーバの人々が、ピザと石鹸の代償はあまりにも高かった、と判った時には、
もうあの「楽園」に戻ることはできないのである。

そうか、クーバが開くのか。

そう、前に進み続けるしかないのだ。
なにがあったとしても。

それでもあえて、俺は、おめでとう、と言いたい。

VIVA CUBA。ようやく会えるな。

俺はなにがあってもクーバが好きなのだ。好きだったのだ。





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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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