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人種差別だ?そんなものは、あ・た・り・ま・え だ、と。

Posted by 高見鈴虫 on 18.2015 テニスねた
ヤフーの記事からの飛ばしで辿りついた記事。

錦織圭とコーチ(マイケル・チャン)が受けた「人種差別」

錦織圭が人種差別にあっていた、ってな記事。

思わず、むむむ、と唸ってしまった。

これ現代ビジネスって雑誌?
この現代って、あの日刊ゲンダイとかと関係するのかな。

俺的には日刊ゲンダイって、最近の日本のメディアには珍しく、
割りとちゃんと仕事をしようとしている人々、という認識なのだが、
果たしてこの現代ビジネスの記事、まったく頂けない。

つまり、

なあにを甘えたこと言ってるんだ、馬鹿、な訳である。

人種差別?そんなものは、あ・た・り・ま・え だ、と。





最近ちょっとご無沙汰ではあるが、
この人種のるつぼはニューヨークにおいて、
日夜草テニスに励んでいた俺。

そんななかで、国際的状況における戦いの真髄を肌で感じ取って来たつもりではある(笑

まずはニューヨークの草テニスのコート。

信じられないことだろうが、人種差別、どころか、まさに、なんでもあり、である。

まずプレイをするコート、一応予約制とかにはなっていはいるが、
そこにごまかし、が発生し、当然のことながら係員の買収、
および、腕づく、という状況が度々にして見られる。

よい大人がたかがテニスごときのことで、とは誰もが思いながら、
そう、つまりはそういうことをしゃらっとしてしまうのもテニサーの業である、
と勝手に判断していた向きもある。

というわけで、これまで、それこそ世界津々浦々の人種の人々と、
数限りないほどの罵り合い、あるいは、掴み合い、を経験してきた俺としては、

人種的偏見?んなものは、あ・た・り・ま・え と敢えてしゃらっと言ってしまう。


まず、間違ってもらって困るのは、テニスはお上品な由緒正しきご貴族さま御用達の、
品位と格式を重んじる、なんてものでは、ぜーんぜんない。

かのマッケンローも言ったように、テニスはネットを挟んだボクシング。

つまりは、ぶん殴り合い、あるいは、ダイレクト・コンタクトの許されない格闘技、というのがその基本。

そう思っていない人間は、まずはテニスでは絶対に勝てない。

その買ったばかりの純白のテニスウエアで、華麗にプレイを決めることはできても、
しかし、いざ試合、とくに、金のかかった勝負、とかになると、
そんな品位と格式の格好ばかりプレイヤーは、逆立ちしても勝負には勝てない。

かの松岡修造大先生もおっしゃられている通り、

試合中はなんでもありだ。ばれない限りは。

コートチェンジの途中で、ガンをくれる、なんてのは当然のこと。

お前のかあちゃんでべそ、から始まって、んだよ貧乏人のガキ、臭えぞ、
から、このサル野郎、場所間違えてるんじゃねえ、早く動物園に帰れ、
やらと、
まさに、ダイレクト・コンタクト以外であれば、使えるものならまさになんでも使う。

テニスってのはもともと白人の始めたゲーム。

そこに東洋人がのこのこ顔を出す以上、軋轢は当然。そう、人種差別はまさにあ・た・り・ま・え、なのだ。

それはまさに、日本の国技、相撲とかに参戦する外国人選手でも同じことだろう。

そこに白人、黒人、あるいは、モンゴル人が顔を出せば、
当然、競技とは関係ないところで余計なことを言い出す奴も出てくる訳だ。

がしかし、そう、勝負事はいつも優しい。

つまり、なにがあろうとも、たとえ、外野がなにをほざこうが、勝てば良い、のである。

そう、どんな手を使っても勝てば良い。それが勝負事の第一の原則なのだ。

正々堂々と力の限り戦いました、でも負けました、で、拍手をされるのは教育的指導が目的である筈の高校野球まで。

プロの勝負師はそれでおまんま食ってるのである。

それで銭を稼いでいる以上、それも、勝ち続ければ人並みどころか腰を抜かすぐらいの収入が得られる以上、

この、なにをしてでも勝てば官軍、勝たねば、なにをしても負け犬の遠吠え、という事実は変わらない訳だ。

マイケル・チェンと出会った錦織が変わったのは、まさにそこである。

それまで、おぼっちゃま選手としてちやほやされていた錦織が、勝負に勝つ、ということの意味を思い知らされた結果、

今のあの姿がある、と俺は思っている。

なので、天才だ、なんだ、とわけも分からず囃し立てては、
ガキの運動会を声援するパパ・ママのつもりで、温かい目で見守ってください、なんていう勘違いで甘やかせば甘やかすほど、
勝負師はヤワになっていく、というところに気づいてほしい。

負ければ無一文の勝負師の世界。

観客だって金を払って見に来ている訳で、あるいは、裏で賭けでもしているかもしれない以上は、
負ければ罵声を浴びる、それが当然のことであるし、
同じ立場にある相手選手の応援団にしても、それこそ全身全霊を込めて、敵方の選手を呪い尽くそうとする、
ガキでもわかる当然のこと。

そこにスポーツの醍醐味がある。勝負の厳しさがある。
子供の頃からそれを学んでこなかったのか?

というわけで、人種差別?ちゃんちゃらおかしい、訳である。

俺は草テニスの最中、あるいは、それが草テニス、それもニューヨークのようなところであったからなのだが、

このチビ、から始まって、犬とチャイニーズはテニスコートに入るな、から、魚臭くてやってやれねえ、から、
それこそありとあらゆる罵声を浴びせられたものだが、

そこはそう、そっちがそう来るなら俺ににだって言い返す権利がある。

うるせえ、チーズ臭えぞ、から、てめえが触るとボールがワキガが臭くなる、やら、
あるいは、てめえこの唇べろんちょ、きたねえ土人野郎、とっととアフリカに帰りやがれ、
ぐらいは平気で言っていた。

が、そう、なにがあったとしても、勝てば良いのだ。

そんな罵声罵倒のつけは、すべてコートで返す。
きっちりとコートで落とし前付けさせていただく、というのがテニスの極意。

というわけで、人種差別だ?甘えたこと言ってるんじゃねえ、な訳である。

あるいは、この記事を書いた記者、

もしも会場中のすべてが錦織に罵声を浴びせているような状況で、

自分ひとり、たったひとりで、圭、がんばれ~、俺がついているぞ、と日の丸を振る度胸があるのか?

それですべてが変わることだってあり得るのだ。

かつて、孤立無援のコートで徹底的な劣勢を強いられていた伊達公子さんに、

かの松岡修造大先生は、たったひとりで、日の丸を振った人なのだ。

あの修造さんの姿にこそ、国際社会の中でひとり戦い続ける者同士の、強い絆を見る思いがした。
思わず涙があふれた。
この人には一生でも頭が上がらない、と思い知らされた。

そう、人種差別をされた、と女々しい泣き言を言う前に、
観客の一人として、たったひとりで日の丸を振る度胸があるのか、を問い直して欲しい。

コートの中では誰もが孤独だ。

しかし、それを支える観客も、しかしその孤独をわかちあい、そして励まし合うチームの一員なのだ。

泣き言を言う前に、それを忘れてはいけない。

がしかし、

そう、実はここからが本題、一番書きたかったことなのだが、


そこにまさに、杉山愛さんの伝説、が登場する訳だ。


そんなギスギスぎっちょんちょんの勝負師たちの世界にあって、

かの杉山愛さんは、始終絶やさぬ笑顔。

己の敵を愛し、そして罵声をあげる観客を愛し、その深い愛で世界を包んでいたあの愛さんの姿は、

テニスだけに限らず、国際社会の中で日本人がどう生きるか、その明確な姿勢を打ち出してくれた、

それはまさに、愛。愛ですべてを包む、その見事なまでのスポーツマンシップ。そして人間愛。

それこそはまさに、深い深い人徳の成せる技。

この杉山愛さん、まさに、偉人の中の偉人、と俺は思っている。

俺はここニューヨークで、人種間の軋轢の中で身悶える時、

いつも、あの杉山愛さんの姿を思い浮かべることにしている。

あの杉山愛さんのお姿こそは、

人種軋轢の中でめそめそと泣き言を言いながら、
無様な自閉の中で誰にも聞こえぬ声で自画自賛を続けるような、
そんな、情けない奴らのまさに、対極にある。


杉山愛さんに学べ。

微笑みの勝負師、孤立無援の世界でひとり闘いぬいて来た、あの愛さんの姿こそが、真の国際人の歩む道なのだ。

と、俺はいつもそう思っている。



プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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