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沈黙のオスカーナイト

Posted by 高見鈴虫 on 23.2015 読書・映画ねた
今日はオスカーナイトである。

オスカーナイトってのはアメリカでは、まあスーパーボール・パーティの女版、みたいな感じで、
まあとりあえずは友人と集まっては、飯を食いながら酒を飲みながらチップスをつまみながら、
そしてテレビのオスカー授賞式を前にぴーちくぱーちくやるわけだ。

が、しかし、今年はそんな話が出なかった。
まあ、時間が遅いというのはある。
ハリウッドは西海岸であって、当然ニューヨークとは時差がある。
終わるのが12時過ぎとなると、ちょっと明日の仕事が、を気にする年齢なのである。
がしかし、理由はそれだけではない。

考えて見れば、このシーズンほど新作映画をみなかった年もない。

そう、ここ数年、本当に映画館に行かなくなった。
最近で映画館で見たのは、もしかしたら、アメリカン・スナイパーだけ、なのではないだろうか。

少なくとも、今年のアカデミー賞にノミネートされた作品を、俺はほとんどなにも知らない訳で、
これではさすがに、オスカー・パーティもクソもない。

つまりみんなそんな感じだったのだろう、と思う。

それってつまり、そう、
DVDからON-DEMAND、あるいはYOUTUBEに媒体が移行していく中で、
映画が既に魅力を失い切っている、
あるいは、実は映画という形態自体が、すっかりレガシーになってしまっているのではないのか、
と言う思いを新らたにした訳だ。

という俺は、言っちゃなんだが、実は自称映画通であった。
ガキの頃から実は映画ばかり観ていた、と言っても過言ではない。







そう、俺は映画少年であった。
ガキの頃はテレビで映画を観るのがなによりの楽しみだった。

映画はまだ見ぬ世界への窓であり、
愛とはなにか、冒険とはなにか、ロマンとはなにか、
格好良さとはなにか、格好悪さとはなにか、
男とは、そして女とはなにか。
ついでに実は一番関心のあった、
恋とはなにか、あるいはそう、性とはなにか、
なんてことまで、
全て、この映画から学んでいたようなところがある。

果たしてそれがトラウマとなり、
あるいは、永遠の憧れとなり、
そして、それはいつしか人生の価値観、美学、とも成り得た訳だ。
俺の冒険は映画から始まった。
俺の恋は映画から始まった。
俺は人生を映画で学んだのかもしれない。

という訳でそう、それはまあ世代だろう、と思う。
既に映画に大してそれほどの思い入れを持つ必要もない。
つまり、映画ってのはあの時代にすでに盛りを過ぎてしまっていたのではないか、
とも思う訳だ。

つまりそう、その後、人生を連ドラで学ぶ世代が現れ、
そして、世界を、アニメで学ぶ世代が現れた訳だろう、と。
で、いま、世界の全てがゲーム、である方々が既に社会に進出なさっている、という訳で、
つまり、そんな人々は、もう映画なんてあってもなくても良い、と思っているに違いない、と考える訳だ。

がしかし、
この元映画少年であり、自称映画通であった俺が、
果たして2014年から2015年を通して、
いったいなにを観ていたのか、というと・・・

ぶっちゃけそれはドラマな訳である。

実はここのところ、ずっとずっと、NETFILXで借りていたのは、

遅ればせながら、BR-BA
つまりは、アメリカのドラマ、BREAKING BAD であった。

このBR-BA、世の中でとんでもなく話題になっている、とは知っていた。

友人の映画通たちからも、

いやあ、最近全然映画見てなくてさ、
なら、何見てるの?と聞けば、それはまるで判で押したように、
いやあ、BR-BA。もうはまっちゃってさ。

という話を、まさに耳タコであった訳だが、
ついつい最初の方を見逃してしまったことから、
最後まで終わるのを待って一挙に観よう、と思っていた訳で、
果たしてこのBR-BA、見始めてしまったが最後、まさに麻薬。

こんなものをテレビでヤられてしまった日には、
まさに、映画なんていらない、と心底痛感した。

ああ、これでもう、映画は完全に息の音を止められたのだな。
少なくとも、BR-BAがあるうちは、どんな映画もまったく観る気にならない、
というぐらいにまで、嵌りまくっていた訳だ。

という訳で、そう、グラミー賞に加えて、アカデミー賞が年々虚しくなる。

もうだれもそんなもの気にもしていないだろう、というか、
つまり、アメリカの歴史の伝統が、いつの間にかすっかり復古主義の懐メロに成り下がってしまっていた、
という訳なのかもしれない。

この映画の衰退がなぜ始まったのか。

そう言えば今年のオスカーには、例のSFXというか、CG満載映画がひとつも入っていなかった気がする。

確かに、CG満載物は観ていてつまらない。
全ての撮影が青い箱の中で行われるのでは、さすがの名優たちも演技もクソもない。
そのちぐはぐで脈絡のない演技と、そして必然性から絡みからうねりからがなにも感じられないお粗末な脚本、
これが映画を完全にダメにしてしまっているというのは年々感じては居たのだが、
今年のオスカーを見る限りは、
映画が映画の基本である、脚本と、そして演技力、に回帰しつつある、という訳なのだろうが、
それをやればやるほど、映画はやはり、ドラマに太刀打ちできなくなる、とも思うのだがどうだろう。

という訳で、あ、それ、まさに日本、な訳である。

日本の映画は本当につまらない、のは、
つまりは、演技が下手であり、撮影はすべてCMっぽいのばかり、
つまりは、テレビと大して代わりないところの二時間の無理やり短縮版ばかりだから、な訳だが、
テレビで観ていてもあのお粗末な演技と、ずさんな脚本では、
大写しのスクリーンに耐えられるとはまるで思えない訳で。
日本の映画などは、PCのモニターの片隅の小窓でみて十分、みたいなのばかり。

つまりそう、アメリカもそうなりつつある、ということなのかな。

まあ唯一の救いは、かのアモーレス・ペロスの監督である、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥが総なめにした、
ってことで、つまりはそう、いまさらまじめに映画なんかにこだわっているのは、この外国人ばかり、
ということなのではないだろうか。

つまり、ロックは中国、ジャズは日本とヨーロッパが主流の音楽界。
映画もすでに、ちょっと遅れた第三国の方々にバトンタッチ、ということなのだろうか。

まあ、それもいいかもね、とも思ってはいる。

音楽も映画も、それを最も必要としている人々の情熱こそが支えになるのだから。

ちゅうわけで、俺的には、そろそろ、ファティ・アキン あたりに頑張ってほしいな、と思っているのだが、どうでしょう。

あるいは、
そう、実はこれが一番言いたかった訳だが、

イニャリトゥ、あるいは、ファティ・アキンも、そろそろ本腰を入れてドラマ制作を初めてもらえないか、
ってことだったりする。

そう、ON-DEMANDで映画を観るぐらいなら、じっくりとドラマを作って貰ったほうが、ファンとしてはずっとずっとうれしかったりするのです。

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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