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なぜ黒人は犬に道を避けないのか

Posted by 高見鈴虫 on 19.2015 日々之戯言(ヒビノタワゴト)
朝も早くから犬の散歩の道すがら、
ふと、黒人は犬の道を避けないよな、
と思い当たった。

黒人は犬に道を避けない。



まあイスラム教徒が犬を不浄な生き物扱いしていたり、
という事情はあるものの、
あるいは、
自身の暮らしぶりがまさに「犬以下」であることへの心の危うさなのか、
とも思ってしまう。

がしかし、金持ちの黒人、
つまりは、カナダグースのダウンジャケットなんてのをさり気なく着こなしている、
なんていう輩は、なんとも自然にステップアサイドしては、
ハローパピー、とまさにスマイル・アンド・マネー。

つまりはそう、貧乏な黒人と金持ちの黒人のその最もたるものは、
着ている服でも、身のこなしでもなく、
つまりはそう、犬に道を譲らない、譲ることもできない、心の狭さ、
というか、ぶっちゃけ、
「被害者意識」なのでは、と思い立った。

強者が当然のことながら、被害者意識とは無縁なもの、
あるいは、なにがどうあっても、この被害者意識を徹底的に拒否しよう、とするもの。

と同時に、まさにこの「被害者意識」こそが、弱者の弱者たる所以なのではないのか。

で、この被害者意識の根源にあるものは、
つまりは、人種差別の歴史であったりもする訳だが、
いまや黒人の大統領が出現する時代になってもなお、

人種差別だ、なんだと屁理屈ばかり並べては、
生活保護のEBTばかりを宛てにする被差別民族暮らし。
つまりは奴隷根性。

つまりは、被害者なんだから

恵んでもらって当然。
保護されて当然
そして、道を譲ってもらって当然

強いては、犬にさえもそれを要求してしまう、というていたらく。

つまりはそう、奴隷根性というよりは、乞食根性。
いまやすっかり乞食王、
不可触民を気取っては、
朝も早くからゴミ箱を漁っては、忙しい人々の人通り邪魔してばかり。

結局はこの「被害者意識」こそが諸悪の根源なわけであって、

ではこの被害者意識がどこから来るか、と言えば、
それはつまりは、不幸な歴史を前提に、、
可愛そうね、可愛そうね、本当に可哀想な人達ね、
と要らぬ憐憫をかけられては、
なんやかんやと甘やかされて来た、そのスポイルの歴史そのもの。

つまりは、可哀想、と憐憫をかけることこそが
被害者意識を呼ぶその要因となるものなのではないだろうか。

例えば、テニスの試合に負けた時、

可愛そうね、寝不足だったのね、やら、
可愛そうね、あのサーブ、アウトだったわよね、やら、
そんな無駄な憐憫の中にほだされると、
そうだ、負けた理由は俺のせいじゃないんだ、なんて方向に道を誤っていく。

ルーザーには慰めの言葉はかけてはいけない。
それは最も残酷な仕打ちだ。
なにより、憐憫をかけられてその詭弁にはまりこんだ者は、
いつになっても勝てないからだ。

ばーか、ルーザー、勝手に死に腐れ、とうっちゃられていた方が、
時としてずっとずっと気が楽。

或いは、女の子にしても、

まさか、勝った奴と手に手をとって、じゃね、ばーい、とやられるのはあまりにも過酷ながら、

妙な慰めを言うぐらいならば、無視、あるいは、、
ほらよ、水。なっさけねえなあ。次はがんばんなね。倍返しにしてやんなよね。
ぐらいは言ってやって、初めて男が立てる、というもの。

つまりはそう、いらぬ憐憫をかけない、ことこそが最も温かい気持ちなのだ。

そんな健全な暖かさに育てられた者は、

くそったれ、次の試合にはなんとしても叩きのめしてやる、と思う訳で、
そう思えない奴、テニスコートに帰ってくる資格はない。

がしかし、それを教育に転用するのは実は大間違い。

人間には色々いて、

その憐憫の中でぬくぬくしていることが本当に好きなやつ。
つまりは、ねえ可哀想と思うならなにか頂戴、と言ってきたり、
あるいは、次はもっと弱いやつとやって、その時には威張りまくろう、やら、
挙句の果てに、ボールをネコババしたりコートに痰を吐いたりネットを切ったり、
なんて嫌がらせまでし始める、
まったくクズの中のクズのような奴もいるには居るわけで、

つまり、突き落とされたら自力で這い上がってくる、
どころか、
その穴の底でじっと、あるいは、もうもっともっと穴の底に穴を掘っては、
まさにゴミ以下、土の中のミミズやら虫やら以下のものに、
いとも簡単に成り下がってしまう、しまえる輩というのも存在する訳だ。

だって、僕可哀想なんだよ、誰も僕を特別扱いしてくれない、
だって、僕は僕は、凄く凄く、可哀想、可哀想なんだよ。

穴の底でずっとそう叫びつつけながら、そしていつしか、
犬に道を避けない、どころか、犬にさえ憐憫を求めるような犬以下の人間に成り下がっている訳だろう。


という訳で、この被害者意識である。

被害者意識とはなにか。

それはつまりは、恨み、であったり、妬み嫉みつまりは、嫉妬。
あるは、悲しみの、やら、非業の、やら、
まあ、そういう見出しのつくもの、全て。

この全てを、甘え、と言ってしまうと確かにあれで、
しかもそれを、やったのはお前だ、と名指しされている奴が、

いやきみ、それは甘えだよ、なんて言った日にはただの責任のがれ、
とまったくたちの悪いことになることは重々承知しているのだがだが、

しかし、この、社会的弱者の皮を被った、
この被害者ぶりっ子の恐喝の手口こそは、
かの宇陀屋人、あるいは、黒人、あるいは、
そう、在日なんとかの人たちに共通してあるもの、な訳で、

四の五の言っている暇があったら、人の何倍も努力して見返してみいや、
という教育を受けてこなかった人たち、ということなんだろうな。

という訳で、この被害者意識を「国民感情」レベルにまで高めてしまった国家。

例えば、そう、いくつも上がるよなあ、そういう国。

そういう国こそが、いっちゃんたちが悪い、ということになる訳で、
いつまでたっても、くれくれ、しか言ってこない、ってのも、

要らぬ憐憫によって骨抜きにされて、ヒステリックに騒ぐ以外には自力ではなにもできない、
という被害者意識症候群。

実はそこに理由があるのでは、と思った。

という訳で、虫国、いい加減、云十年も前の焼き直しで反日思想を煽るのは、
つまりは国民に被害者意識、強いては、負け犬根性を植え付けるだけ。

あるいは伊豆。
まあ確かにもう100年も前につらい目を見たのは判るが、
その間に有る事無い事何でもかんでも膨れ上がらせてしまったその被害妄想にあぐらをかいては、
いつまでも被害者の皮を被っては、自らのやられたことよりももっと酷いことを続けているってのは、
まったく下の下。目も当てられない醜悪さ以外のなにものでもない。

という訳で、ふと、

ではなぜ、日本の戦後は、この「被害者意識」の中に陥ることがなかったのか。

日本人は恨みを長く引き摺れる程に、根気の良い民族ではない、ということもあるのだが、
つまりはまあ、なんとなく、マッカーサーによって「天皇」が生かしておいて貰えたからなのではないかな、
という気がしていたわけだ。

あの時、もしも天皇が処刑されていたら・・・ と考えると、うーん、日本の復興は多分難しかったと思うのだがどうだろう。

がしかし、
ここに来て、21世紀の日本。

そんな地の底の底のような状態から奇跡のカンバックを遂げた根性頭脳集団であったはずの日本が、

ジャパン・アズ・ナンバーワン、とまでがなったあのバブル期の絶頂の後、

いつの間にか日本中が負け犬根性、つまりは、この被害者意識にほだされ続けてしまっているというのはどうしてなんだろう。

可哀想にな、宇陀公に騙されちまったのか、
あるいは、金男のいかさま博打にだまされちゃったんだろうな、

とかなんとか言いながら、実はただの言い訳って気もするんだがな。

日本人が徹底的にこの被害者意識の根にあるもの、
あるいは憐憫の残酷さ気がついていたら、
まさかこんなことにはならなかったのではないだろうか、
という気がする訳で、
その、憐憫にほだされた汚濁の膿が、例のネトウヨの似非愛国というか、
現実味のない自画自賛はつくづくみっともない、という事実を思い知って欲しいものだ。

そんな女々しい自画自賛こそが、まさに「弱者」の戯言であるのだから。

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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