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District 9 ~ 邦題「第9地区」 を観る

Posted by 高見鈴虫 on 23.2015 読書・映画ねた

District 9 という映画。
噂には聞いていたが、いやはや、面白かった。
SF映画という看板なのだが、その中身はと言えば、
ブラック系ユーモア満載の現代社会への強烈な風刺。
というよりも、ここまで来たらもろに現実そのもの。

何故か、よりによってジョハネスバーグなんてところに不時着したエイリアンの飛行艇。
乗組員であったエイリアンたちを「人道的」な理由から収容したのは良いのだが、
いつしか「エビ野郎」と呼ばれるようになったこのエイリアンたち。
収容された第9地区はすっかりスラムと化してギャング化の一途。
でそんなスラムなエビたちを持て余しては為す術もない人々と、
そんな「エビ」をネタに一儲けを企む政治家、
そしてそんな「エビ」たちのゲットーで下層ビジネスに暗躍するナイジェリア系ヤクザ。

とまあ、そう、つまりはぶっちゃけ、
これもろに「アフリカ問題」、そして「移民問題」なわけだろうと。








と、そう言えば、
先日イタリアからやって来た友人の言葉。

来る日も来る日も押し寄せてくるボート・ピープルにイタリア中が右往左往。
命からがら救助された人々も、感謝しているのは最初の三日。
一週間も経つと飯がまずい、シャワーがぬるいだ、狭いだ臭いだと文句を言い始め、
一年も立てば立派にギャング化してそこかしこで悪さを始める。
司法が取り締まれば暴動が起き、
事情を知りもしない人権団体が、やれなんのかんのとくちばしを挟むのだが、
では彼らをどうしたら良いのか、という具体策はどこからも出てこない。

まったく・・そう、この問題、本当にタチが悪い、と。

で、この移民問題。
実はイタリアだけに限らず、ヨーロッパ、しいては全世界のまさにホット・トピック。

スウェーデンやノルウェーやベルギーなどの、
これまで人も羨む高度福祉国家であった筈の国々が、
いまや移民のゲットー化と極右テロとの間で大揺れ。
街の治安は日に日に悪化する一方で、
と同時に、極右テロ集団による実力行使。
爆弾テロから機関銃乱射からと、まさに国中が戦乱の巷。

そういう日本もあの馬鹿なネトウヨなんて奴らのヘイト問題も、
結局は社会の中の異分子、つまりは、移民、
この映画における「エビ」=エイリアンに訳も判らず過剰反応するアホたちそのもの。

今後、そんな移民たちと共存することとなれば、
治安の問題から始まって、維持費に使われる税金の額、
果ては、エビどもに仕事を奪われた、どうにかしろ、という輩が騒ぎ立て始めては、
下層同士の鬩ぎ合いが深刻化するのは必至。

つまりはこの映画に描かれている世界がまさに現実化していく訳で、
このグローバル化した世の中、国境を跨いでまるでネズミの大群のように押し寄せる移民たちと、
インターネットがその情報網で世界中をリアルタイムに繋いでは
誰も知らないところで知っているひとだけが勝手に一大コミュニティを作り上げてしまう。
そんな混乱の中でどの国もただ右往左往するばかりで、
誰一人として策をこうじることが出来ないでいる、ってことなんだけどね。

で、実は、そんな異人種間衝突に置いては大先輩であるところのこの移民大国アメリカ。
どこにいっても、一皮めくれば人種差別問題がマグマのように煮えたぎっている。

で、そんな人種差別問題。
実はこのニューヨークこそがその最前線。
摩天楼の城壁に囲まれたこの箱庭都市の中に、
それこそサラダボールのように世界中の人々が犇めき合っている訳で、
がしかしこのニューヨーク、
どういう訳かそんな様々な人々を、
なんてこともなくすんなりと受け入れてしまう妙な懐の深さがあって、
ぶっちゃけそれは、ニューヨーカーに特有するこの珍し物好き、のお祭り好き気質、
あるいは、他人のことに極端に干渉しないそのドライさと相成っては、
エイリアンであろうがエビであろうが、
なんでもかんでもそのまま受け入れてしまうってところが無きにしもあらず。

そう、このニューヨークという街は異端児であることを前提とした街。
全米から、あるいは全世界から、「俺は俺」という筋金入りの個人主義者が集まっては、
「金」というただそれ一つだけの倫理の元に、その他全てはみな平等。
エビであろうがカエルであろうが、
黒であろうが茶であろうが黄色であろうが、
「金」を持っている奴、持ってくる奴が全て善。
後のことは全て二の次な訳だ。

と、そんな流民の街であるここニューヨーク。
だがしかし、そんなニューヨークの中で生まれ育った流民の子孫たちの間で
よく聞かれる言葉が「アイデンティティ」

アイデンティティ、直訳すれば「自己統一性」。
つまりは、俺ってなに?ってことなのだが、
この移民社会アメリカで生まれ育った日系二世たちが、
年頃になったとたん必ずこの「アイデンティティ」の問題に直面する、
という訳なのだ。

アイデンティティってお前、アメリカ国籍持ってんじゃんか、と言えば、
まあ、そうなんだけどねえ、と曖昧な表情。
でもほら、俺って、親はふたりとも日本人だしさ。日本人として日本食食べて育てられてはいるんだけど、
そう、まあ、そういう訳で血は日本人なんだろうけど、国籍はアメリカ人。なんかどっち付かずと言うかなんというか。。
だったら適当に良いところ取っちまえばいいんじゃねえのか?
と言えば、うーん、とまた微妙な表情。
つまりは、そういう簡単な打算主義だけで割り切れるということでもなさそうな訳である。

俺って日本人なんだけどアメリカ人で、
アメリカで生まれたって言ってもやっぱりほら、見た目は完全に日本人。
英語が母国語なんだけどアメリカ人になり切れず、
日本人なんだけどやっぱり俺の日本語すごくおかしいし、
つまりなにもかもがどっちつかず。
俺っていったいなんなの?なんで俺がアメリカにいなくちゃいけないの?って
実はずっとずっと思ってきたんだよね。

ふーん、つまりはそういうことか。
つまり、アメリカに生まれ育っても、
アメリカの教育を受けても、アメリカ人の友達やガールフレンドに囲まれていても、
しかし結局は、俺は「日本人」ってところに戻ってきてしまう。
そしてここアメリカでそれなりのステイタスを築いていようとも、やはり心の中は日本人。
だが日本という国の本質を実は知らない。
で、双方の文化の中で、お前やっぱり日本人だよな、あるいは、やっぱそういうところがアメリカ人なんだよな、
とそこかしこで見えない壁にぶつかりまくっては、だからお前は俺達とは違う、と放り出されてしまう。

そんな根なし草的な不安さをずっと感じ続けてきた、というお話。

アイデンティティか、俺はそんなこと考えたこともねえけどな。

だから、それはあんたが、押しも押されもしない「日本人」だって確信があるからなんだよ。
俺にはその「確信」が無いんだ。それが不安なんだ。

俺は日本人って言っても、もう人生の半分以上こっちにいる訳で、だからと言ってそれほど英語も喋れないが。

でもやっぱりアメリカ人じゃないでしょ?オリンピックだってワールドカップだって、やっぱり日本を応援するじゃないか。

まあねえ、それは、まあ、そうだけど。

俺にはそれが無いんだよ。俺には心から応援する国が無いんだ。

まあでも、それがアメリカの現実って奴なんじゃないの?

そう、それがアメリカ。それが移民の国って奴なんだけどね。
そう、この国の人達はみんなそうなんだよ。
表向きは、アメリカ国家を歌って国旗掲揚なんてやってるけど、
心のうちではみんなもう一つの祖国の間でどっちつかず。

と、そんな日系人の愚痴を聞きながら、なんとなく昔似たような言葉を聞いたことがあるぞ、
と思い返してみる。

あ、そっか、つまりは在日の奴ら。

日本で付き合いのあった在日の奴ら。
少年時代にはやれ切った貼っただと繰り返していたのだが、
そうこうするうちにすっかりとお友達。
蓋を開けてみれば何人であろうと、良い奴も居れば嫌な奴も居る訳で、
その垣根を取っ払ってみたところ、いつの間にか俺の周りにはそんな在日の奴らばかり。

トラブルのたびに助け助けられしている内にいつしかすっかりと兄弟仁義。

ただそんな奴らと心底胸の内をおっぴろげて見れば、
そこにあるのはしかし、どうしても越すに越えることのできないこの人種という物の壁。

なんだかんだ言いながらも、彼らは彼らでやっぱり心の何処かにもう一つの祖国があって、

でもさあ、俺、実はハングル語も喋れなければ韓国なんて行ったこともない訳でさ。
で、韓国に帰って見ても、ちょっぱりだって言われて、で日本に居ればチョンだろ?
なんか、ほんと、居場所がねえっていうかさ。

そんな奴らの訴えるその底なしの孤独感というか疎外感と言うかは、
しかしどれだけ聞かされても俺にはどうしても理解出来なかった訳で、

ま、そう、色々あるんだろうけど、どうでもいいんじゃない?
ぐらいのことしか言える言葉はなく。

そう、まあ、何人であろうが、取り敢えず俺達はダチ。それ以上なにが必要っていうかさ。
まあ、世間の連中がなにを言おうが俺は気にしねえ、ただそれだけ。
なにがあっても俺達がダチであることには代わりはねえ、と。

とそんな曖昧さの中で、やれ兄弟だ、マブダチだ、と契りの盃を交わしては、
そんな奴らの熱い仲間意識に助けられ、というよりは、
まさにおんぶに抱っこでぬくぬくと守られてはちゃっかり利用していただけ。
奴らの心の中にあったその消すに消せない心の闇を、
しっかりと理解しては受け止めてやることができないでいることの、
その疚しさを感じなかった訳ではない。

という訳で、そう、このアイデンティティ。

自分の祖国を持てない人々。
そんな異分子な人々が、実は社会のいたるところでぶち当たる差別、あるいは区別。

そしてその後、俺が祖国である日本を追い出されては辿り着いたこのアメリカという場所。
そうなって見てまさにこの俺自身が移民、あるいは流民として扱われることになった訳で、
いやはや、この移民たちがそこかしこでぶち当たる壁。
まさに日常的にぶち当たっている壁な訳だが、まさに、そう、この見えない壁。
そのあまりの執拗さには未だに辟易を続ける日々を送っている訳だ。

そんな壁にぶち当たるたびに、しかし、やはり俺は最後のその根っこの部分ではどうしても日本人な訳で、
いまさら帰ることなどできないのだろうが、やはり心の底には、どうしても生まれ育ったあの日本の風景が、
そこで教わり、時として腹を立てて来たこの日本の慣習と、そして消すに消せない日本人の血という物に
これでもか、と気付かされることになる訳で、
この心の底の部分にどっしりと根をおろしている日本の血。
まさに、離れるに離れきれない祖国という奴。

がそう、つまり、こっちで生まれた奴らは、
俺の日々苦労しているこの厄介な日本人としての血、つまりは原体験的な部分を、
実は彼らはすっかりと喪失しているってことに対する、その心もとなさ、なんだろうな、とは思っていた。

という訳で、このアイデンティティを喪失した人々。
まさにこのグローバル社会の最前線に居る者達。

今後、ますます国境が希薄になっては、怒涛のように世界中に拡散していくであろうこの流民たち。

がしかし、そんな流民たちは、異国に生まれ、異国で教育を受け、
そして自身の言葉をすっかり忘れてしまったとしても、
その民族の血のような轍には一生を通して縛られ続けることになる訳で、
あるいは、彼の地でそんな見えない障壁にぶち当たるたびに、

ああ、わが見ぬ祖国よ、と、イニシエの祖国へと舞い戻る幻想を日々膨らませていくことになる。

という訳で、移民として欧米にやって来た人々が、
その喪失したアイデンティティの中の、まだ見ぬ原風景を求めて、
ああ、俺のマザーシップはまだなのか、と待ち続けている救世主。
あるいはノアの方舟。
それこそがまさに、かの「愛しす」の吸引力そのものなのではないのかな、と思ってみたりもする訳で、
そう、この移民の、そしてその子孫たちの「アイデンティティ喪失」こそが、
現代世界のキーワードとなっている訳だ。

という訳で、この「第9地区」

ただSF映画なんて、とんでもない。

ブラックな笑いに包みながら、そんなどんづまりのグローバル社会の中の闇を暴き立てたまさに衝撃作。

そう言った意味からも、実に深い深い意味を持っていた訳であって、

異星人、の立場から、あるいは、人間の立場から、果たしてアイデンティティとはなにか、
それを失った人々がいったいなにを求めているのか、
そして社会はそんなエイリアンたちをいったいどう受け入れるべきなのか、
それについて、改めて、真剣に、深く深く考えてみるべきところに差し掛かっていると思う。

という訳で、知恵足らずのネトウヨ諸君、およびその黒幕たるあべせーけんの方々、
及び、そのあまりにも浅知恵なシンクタンクの方々。
下らない暴言を垂れ流す前に、
改めて、この映画、実はもうすでに立派な現実なのである、ってところで、見なおしてみるべきなのではないかな、
と思っていた訳だ。


プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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