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アメリカの地方都市を訪れるたびに泣きたくなる

Posted by 高見鈴虫 on 18.2014 旅の言葉
アメリカの地方都市を訪れるたびに俺は泣きたくなる。

その空虚さの中に途方に暮れ、
なにひとつしてなににも、なにかを感じることができなくなる。

街道沿いに並んだモーテルの看板。
ファーストフードの灯りと、そして車のライト。

そんなアメリカの田舎の風景ほどに空虚な光景を俺は知らない。

そのあまりに茫漠たる風景。
なにひとつとしてなにも見るもののない風景。

たとえ砂漠の中であったとしても、
そこにはなんらかの美しさが宿っているものである筈なのだが、
アメリカの田舎の風景にはそれがない。

まるで建設現場のようなだな、と思う。
荒地の中にパワーシャベルが地面を掘り返し、
そしてそのまま放置してしまったような、そんな風景。

なにが始まる予感もなく、なにを目指した後もない。

俺はそこに、神の不在を見た気がする。

この場所に神はいない。

日本のように、そこかしこに神の存在に感づくような、
そんな気配がまるでしないのだ。

そんなアメリカの田舎には、殺伐、という言葉が実によく似合う。

空虚、殺伐、茫漠、行き先も帰り道も失ってしまった場所、

そこは土地ではなく地点。

なにもかもが移動中で、しかしどこにも辿りつけない。

あらためてそこに暮らす人々に目を移す。

この人たちはいったいなにが悲しくてこんな場所に暮らしているのだろう。

アル中で鬱病の、これでもかと肥満した人々。

ここ数年、鏡など見たこともないような人々。

どこも見ていない視線でなにもみるものも無く、
かと言ってなにかを見ていないわけにも行かず。

そんな人々ばかり。
そんな風景ばかり。

前も後ろもなく、上も下もない世界。

それはまるで無重力。始めも終わりもない空間をただただ漂い続けるばかり。

そんなアメリカの田舎町において、唯一居場所を見つけられるのは車の中。

コックピット感覚の流線型の車体の中に身体を滑り込ませ、
やにわにアクセルを踏み込んでフリーウエイを突っ走る時、
そこで初めて孤独を孤独として許容することができる。

という訳で、アメリカの田舎に行くたびに、
俺は一晩中、下手をすれば朝まで、
意味もなくフリーウエイを走り回って過ごしていた。

ホテルにチェックインして、スーツケースを引きずって一人の部屋に入り、
点けたテレビをまた消して、そしてタバコを一本吸う間に、
このホテルの部屋という空間につくづく嫌気が差してくる。

さあ出かけるか、と車のキーをポケットに突っ込み、
そして俺は宛のないドライブに出かける。

巨大なモールの無人の交差点から、
街道沿いに並んだモーテルの看板から、
ファーストフードの灯りと、そして車のライト。

誰もいない赤信号でふと隣に並んだ車に目をやる。

空虚な瞳でじっと見るとも無く前方を見やる人々。

まるで顔中に染み付いてしまったような、空虚と茫漠。

そして次の交差点、そして次の交差点。

その誰もが、行く宛もなく、ただ車を走らせる為に車を走らせている人々であることに気づいた。

そうかあんたたちもそうだったんだな。

アメリカの田舎町の、あの泣きたくなるほどのその空虚さの中に途方に暮れながら、
そして宛もなくただ闇雲にフリーウエイをぶっ飛ばしながら、

車というまるでカプセルの中に封じ込められたような空間ごしに、
決して交わることのないままに、互いの孤独を共有する人々に、
初めてある種の共感を感じることができたという訳だ。









プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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