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改めて矢沢永吉という人について想いを巡らせてみる

Posted by 高見鈴虫 on 16.2015 音楽ねた

ここに来て、失業生活のどツボの中にあって、
なぜかどうしても、矢沢永吉が聴きたくてたまらなくなる。

矢沢永吉。
その名前を聴くだけで、あの時代のことがまさに走馬灯のように蘇ってくる。
校内暴力、暴走族。
土曜の夜の湘南の、
憂国烈士バリバリ全開である。

少年犯罪の花盛りであったあの荒みきった時代においては、
まさにその主役たる元気の良い少年たちの中にあって、
この矢沢永吉という人は、ただたんにカリスマ、というだけでは収まらない、
まさに神格化される程の象徴として存在していたのだ。

あの時代から数十年、
正直に言って、この人の歌声を聴くのがちょっと辛すぎる、
と思っていたものなのだが、
これまで固く封印されてきたそんな過去の記憶が、
いまここに来てようやく解き放たれるかのように、
改めて一人のミュージシャンとして、
この矢沢永吉という人を見つめ直せるようになった、
という気もする。

という訳で、矢沢永吉である。

惜逝したジョニー大倉さん、
あるいは、ゆーやさんやらしょーけんやら、
その他の日本のロックの偉人たちとは、
しかし改めて歴然としたその存在の違い。

果たして、矢沢永吉は何故にここまでビッグに成り得たのか。

不良少年達のカリスマとしての看板だけが、矢沢永吉という人であったのだろうか。



そもそもロックというのは不良による不良のための不良な音楽であった、筈だ。

プレスリーから始まって、ビートルズからストーンズから、
ゼッペリンからピストルズから、ガンズからニルバナまで、
その主役たちはまさに判で押したように、
その時代時代の不良たちのアイコンであった。

で改めて、

ビートルズは、マッシュルームカットが不埒であったからスターダムに伸し上がったのだろうか?
ストーンズは、ドラッグとセックスの不良っぽさが愛された理由なのか。

ゼッペリンが、パープルが、
セックス・ピストルズが、クラッシュが、
ガンズが、STPが、ニルバナが、

いまも心に響き続けているのは、
演奏が上手だったからか、
パンク・ファッションがめあたらしかったからか、
あるいは、刺青だらけのトラッシュ野郎ぶりにシンパシーを感じていたから、
で、あったからだろうか。

あるいは、そう、我らが矢沢永吉、その前身たるキャロルが、
当時の不良少年たちのそれこそ神にも例えられるほどのカリスマと成り得た理由とは、
革ジャンにリーゼントが格好良かったから、それだけだろうか。

いや、それは違うだろう、と思う。
その見た目のファッション、それは勿論、大きな理由でありはするが、
がしかし、もっともっと大切なこと、根源的なものを忘れてはいないか、と。

つまりそう、それは、ただたんに、
まずは、曲が良かったから、それに尽きるのではないのかな、と。

ぶっちゃけ、やっぱり、それがロックであろうが歌謡曲であろうが、
あるいは、演歌であろうが、浪曲であろうが、
ミュージシャンが人々に愛されるその理由っていうのは、
なにをも推しても、まずは曲が良かったから、それがまずは第一。

思わず一緒に歌いたくなってしまう、そんな心に響く歌声、
それこそが最も大切なことであったのではないか。

ビートルズの何が凄いと言って色々と枝葉は着いてくるが、
やはりなにはなくとも、ジョンレノンの、というよりは、
やはり、あのポール・マッカトニーの曲、
そのモーツアルトと比較されうるほどの、あの素晴らしいメロディの数々。

これまでの人生でまさに何万回聴き続けたか判らないストーンズ。
が果たしてこのストーンズの魅力と言えば、
やっぱり、キース・リチャーズのキャッチーなリフと、そしてミック・ジャガーのボーカル。
歌うようなギターと、歌と言うよりは楽器をかき鳴らすようなあのボーカルスタイルが
絶妙のグルーブを産んでいたから、ではないのか。

ゼッペリンの個々の演奏技術は確かに目を見張るものがあるが、
ジョン・ボーナムも確かに凄いが、それだけではやはりモビー・ディックなだけであるし、
狂ったようにリフをかき鳴らすジミーペイジも、
ジョン・ポール・ジョーンズの支えがなかったらただの雑音である。

つまりそれはアンサンブル。
そしてそのアンサンブルの頂点に位置するのはまさに歌、
そしてメロディになる筈だろう。

やっぱり、ロックにしろ歌謡曲にしろ、
それが音楽である以上、やはり曲。まずは曲。
それが良くなくてはなにも始まらない訳だ。

がしかし、そんな名曲を、誰かがカバーしたとたん、

???? なんか違うだろう、と思うのも事実。

そう、なんか、違う。

あのカラオケの伴奏にもあるように、
メロディもなにもかもが一緒の筈ながら、
なぜかスカスカに聞こえるのは、
そこに音楽の最も大切な部分のなにかが、
根本的に抜け落ちているからなのだろう。

そう、やはり魂。
曲に込められた存在感、つまりは「ソウル」じゃないのか、
と改めて気付かされる。

つまりは、そのキャッチーなメロディーと、
そして、その曲を体現すべく、その実存があった、という訳でさ。

ロックとは、つまり、身から染み出してきたものを、その存在の証として、歌った。叫んだ、その証なのだ。

それが、あの血の滲むようなリアリティであり、そのリアルさが、聴くものの魂に呼応したのだな、と。

という訳で、我らがキャロルである。

長髪のヒッピールックの全盛であったあの時代に、
いきなり革ジャンにリーゼント。レイバンのグラサンに大型バイク。
まさに暴力的な男臭さをこれでもかと凝縮したようなその姿。
不良による不良のための不良な音楽、
その真髄だけをピュアに体現化したあまりにも荒々しくも猛々しいパフォーマンス。

キャロルの姿を見た時、あの汗みどろの叫びを聞いた時、
ああ、俺もこうなりたい、俺もバンドをやりたい、と思わず楽器屋に走り出したくなるような、
そんな熱情を確かに感じたものだ。

ドラム組むべよ、じゃないが、
上手いだ、下手だ、才能があるだないだ、よりも、まずはバンドを、あるいはキャロルをやりたかった。
話はそれからだ、と思っていたがガキども。
ロックは熱かった。
そんな魂の叫びが身体中にビリビリと感電していて、
オヤからセンコーからマッポからヤーコーからに追いかけられながら、
キミはファンキーモンキー・ベイビー、いかしてるーよー、と歌っていたのだ。

ではなぜ、あのキャロルがそれほどまでに少年たちの心を打ったかと言えば、
それはひとえに、キャロルが「俺達の」音楽であったからだろう。
ではキャロルの何が「俺達の」と言わしめたのかと言えば、
強いて言えば、俺達、つまりは、日本の少年たち、
俺たち、という日本語による、ロックンロールであったからなのではないか。

キミはファンキーモンキーベイビー
かっわいい~あのこは、ルイジアナ
そこでタクシー探し、早く彼女にホールド・ミー・タイト

すべての歌詞が日本語として、しかし完全にエイトビートに乗っかっている、絡んでいる、歌っている。

これこそが、日本中の少年たちに、俺達の、と言わしめた、その理由の最もたるものであった筈だ。

そしていま、あらためてキャロルを振り切った後の、矢沢永吉の歌声が響いてくる。

トラベリング・バス。ウィスキー・コーク。チャイナタウン。黒く塗りつぶせ。
世話が焼けるぜ、ガラスの街、時間よとまれ、RUN & RUN、
アイ・ラヴ・ユー・OKと、そして、長い旅。

それは、ロックというよりはポップス。
歌謡曲というよりは、むしろ演歌、
あるいは、8ビートという形態だけは周到しながらも、
その矢沢の歌声は、まさに演歌の深淵に迫るほどに、
まったく嘘偽りのない日本語であり、そして、そこに歌の最も大切なコアである、
「魂=ソウル」が、これでもかというぐらいに歌い込まれているのである。

いまにして改めて聴く矢沢永吉のヒットパレード。
ああ、全部歌える。歌えてしまう。
一字一句の間違えもなく、最初から最後までを、歌い尽くせてしまう。

正直、キャロルの曲は歌詞がうろ覚えのものが多いのだが、
この矢沢永吉の歌、
あれからまさに数十年が経ってるというのに、
アイ・ラヴ・ユー・OKから、キス・ミー・プリーズまでの、
全アルバムの全曲を、ことごとく、
なにもかもを、徹底的に、完璧に再現することができることに、我ながら驚かされる。

そっか、俺、やっぱ永ちゃん好きだったんだな、と改めて思う。
そう、あの時代、いついかなる時にも鳴り響いていたあの永ちゃんの歌声。
流行っていたものな、と思う。
まさに、あの校内暴力と暴走族の時代こそは矢沢の時代であったのだ。

そしていま、この数十年間、一言でも口にすることがなかったその言葉、
いまになって、ようやく明言することができる。

永ちゃん、俺は、あなたが、好きだった。

そう言って初めて、俺はあの辛く切ない過去の轍の、
あの重すぎる十字架を肩からおろせたような気にもなるのだ。

ちゅうわけで、うっしゃあ、
次のカラオケの時には、他人の迷惑顧みず、
思い切り永ちゃんばかり歌ってやろうじゃねえか、
と気合を入れて聴き込んでみれば、

改めて、この人、歌、上手いよなあ、と思う。

そして、まさに、惚れ惚れするほどに格好いいなあ、と思う。

あの不穏な昭和の時代を象徴したこの猛々しくも切なく、
そしてあまりにも土着的な、悲しいまでに泥臭いメロディ。
それこそがまさに昭和であったのだ。
もうつっぱりもぼーそーぞくもチンケと化してしまったこのへーせーという時代の
このオカマ公家ばかりの世にあっては、
まさにドキュンの戯言と一笑に附されてしまうだろうところを、
いまだに一人、気を吐き続けるこの矢沢永吉という人。

ここまで来てようやく、この正真正銘のロックンロールの偉人のありがたみが身に染みるような気がする。

そして今になって改めて言いたい。

ヤザワがビッグになったのは、つっぱりだったからでも、世の中ゼニ、昭和の体現者であったからでもない。

ただ単に、一人のミュージシャンとして、
まずは、歌が抜群に上手で、そして曲が良かったから、
そこに、魂が篭っていたからなのだ。

そして永ちゃんは、それを自身でよーく知っていたのだな、と気付かされる。

そうだよな、永ちゃんは、ストーンズではなくビートルズ。
そして、ジョンレノンではなくポール・マッカトニーを敬愛する人であったのだよな。

革ジャンだリーゼントだ、E.YaZawaのトレードマークだ、だけではダメなのだ。

ミュージシャンである以上、まずは歌が上手くなくては話にならない。
そして、まずは、その曲が良くなくてはダメなのだ。
そして一番大切なのは、そこに、魂がこもっていることなのだ。

改めてこの正真正銘のプロフェッショナルの、その辛辣さが身につまされる思いがする。

うーん、やっぱりカラオケで永ちゃんはやめたほうがいいな。
この歌唱力にお近づきになるには、あまりにも恐れ多すぎる。
俺はやはりまだまだ早いな、と思わざるを得ない。

がしかし、だからと言って俺はやはり、俺、或いは永ちゃん以外の人間に、
永ちゃんを歌うことだけは許せない気がするのだ。

つまり、カラオケの席で別のテーブルの奴が永ちゃんを歌った途端、
いぇーい、俺も永ちゃん大好きだぜ、カンパーイ、とやるどころか、
てめえ、このやろう、チームどこだ、こら、と、蹴りのひとつもくれたくなるような、
そんな気にさえさせられる。

そう、つまり永ちゃんはそういう人なのだ。

誰にも俺のヤザワには触れさせたくない。
誰もがそう思う人、それが矢沢永吉という人なのだ。

つまり、やはり、この矢沢永吉という人の名は、
あの頃の奴らと再会を果たすその日まで、
心の奥に秘めたまま、大切に大切にしまっておくべきなのだ、と思う。

改めてこの卓越した偉人に、
そして、俺達の、唯一絶対のヒーローに、
心からの敬意と感謝を込めて。
長い旅 ~ ああ、思わず泣いてしまった。






プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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