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芥川SHOW! やってくれるなあ!

Posted by 高見鈴虫 on 20.2015 読書・映画ねた
なんかテレビに出てるゲーニン、
つまりは、世の「バカ」を代表するような「漫才芸人」なんてものが、
芥川賞を取った、ってなニュースを読んだ。

で、まあ、
その作品など読みもしないでただただ、賛美、
つまりそのストーリー性だけで、すごーい、と手を叩いているハープー、
あるいは、
自称文学通(痛 なんてのが、
そんなもの、文学でもなんでもねー、と、やたらとトサカを立ててる、

ってな図式な訳で、あれまあ、またまた、このあくたがわしょー、
まったく、相変わらずやなあ、な訳である。



改めて、
例えは悪いが、

今日はじめてラケットを握った素人が、
いきなりウィンブルドンで優勝する、なんてことがあるだろうか。
あるいは、
街の喧嘩自慢がいきなりリングに上がってチャンピオンベルトをゲット、
なんてことが、実際に起こりうるだろうか。

或いは、
IPHONEでまぐれに撮れたちょっと良い写真が、
いきなり木村伊兵衛賞を受賞してしまった、
なんてことが、本当に起こった試しがあるのだろうか。

それを言えば、
引きこもりのゲーマーが密室的俺様論で書きなぐった駄文が、
論文の書式はおろか、科学の1-2-3の予備知識もないままに、
いきなりノーベル物理学賞を受賞した、なんてことが、
実際に起こりうるだろうか。

ちゅうわけで、
何も知らないド素人が、百戦錬磨のプロフェッショナルを差し置いて、
いきなり最高栄誉賞を勝ち取ってしまう。
そこにロマン性があるかないかは別として、
現実問題として、
その道をを志した鉄人たちが日々骨肉の争いを続ける、
厳しい「プロフェッショナル」の世界に置いては、
そんな夢物語、答えとしてはまあ、ノーである。
あるいは、ノーである筈、
ノーでなくてはいけない筈、なのである。

何故ならば、
才能があるなしに関わらず、
その道においてそれなりの王冠を手にするためには、
日々、それなり、では測りがたい、
まさに、気の遠くなるような努力、
つまりは、修行が必要とされるからである。
その修業の中、
優れた才能はより磨かれ叩き上げられる。
その質を見極める厳しい目によって、
新人が育成され、クオリティが保たれ、
そして伝統と栄誉が守られ、
より優れた次元へと昇華を続けていく、筈。

スポーツなどの勝負事は、
残酷なぐらい明白にその勝敗が明らかになるのだから良いとして、
それがいったいどんな「審査」にもとづいていたにしても、
「見るもの」が見れば、それが本物か嘘っぱちか、
ぐらいはすぐに判断ができて然るべきものじゃねえか。

がしかし、
実はそんな夢の様に「陳腐な」シンデレラ物語が、
ほとんど、常習的慣習的に、巻き起こっている世界がある。

言わずと知れた「芥川賞」。

新人作家たちの登竜門、というよりは、
まさに、文学賞の中で最も注目を集める「冠」である筈のこの芥川賞こそが、

まさしく、どんなドシロウトでも、いきなりチャンピオンに祭り上げられる、かもしれない、
そんなシンデレラストーリーの舞台なのである。

改めて言えば、現日本文学会に置いては、
最も話題性を攫うこの芥川賞。

がしかし、その歴代の受賞者は、と言えば、

麻薬中毒のヒッピーが、
SM嬢が、
パンクロッカーが、
犯罪者が、
女子高生が、

その話題性だけを最大の武器にして、まさかの栄冠を手中にする、
というパターンを繰り返してきた。

ここまで話題重視性があからさまになってきてしまうと、
文学、なんてことは、まさに二の次三の次、

そのうちに、
そのうち、シャブ中の通り魔が、
AV女優が、現役スポーツ選手が、芸能記者が、
それでもなければ、犬が、猫が、宇宙人が、文学賞を受賞、
なんてことも十分にありえるわけで、
異種格闘技、どころか、ここまで来れば、
話題さえでっち上げられれば、まさになんでもあり、なのである。

いやはや、この文学界というやつ。

お固い学者さんたちの爺むさい薀蓄の極みかと言えば全然そんなことはないようで、
それが証拠にこの芥川賞、
権威の象徴でありながら、その権威を屁とも思わない、という反骨ぶりに、
改めて、この文学界の懐の深さ、に敬服申し上げる訳なのだが、

あるいは、そう、ぶっちゃけた話、
それはまさに、この出版会そのものの断末魔。

文学のクオリティーやら、業界の威信、なんてものは、
とうの昔にかなぐり捨てるぐらいにまで、
徹底的に追い詰められた、
まさに、恥も外聞どころじゃないところまでドン詰まった、
この活字を中心とする業界の存亡事態が致命的な危機に陥っている、
というこの惨状。
そんな出版会の絶望的な零落ぶり、を目の当たりにしてしまう訳で、
がしかし、その恥も外聞どころじゃないほどのジタバタぶり、
まさに自分で自分の首を締めるどころか、
自身の乗った船底にドリルで大穴を開けるようなこの無様さ。
なんとなくスラップスティックな可笑しみさえも感じてしまうのは俺だけではない筈。

挙句の果てに、
広告代理店上がりのまさに動物霊がとり憑いたような提灯作家に、
誰がどう考えても、悪い時流を悪趣味に煽り立てているだけ、
という「ツリ」小説に便乗して身銭を稼ぎ、
あるいは、子供の生首を切り取った殺人狂に匿名のままに自分本位な手記などを書かせ、
挙句の果てに、
テレビの漫才芸人に擦り寄っては、芥川賞かよ。
もう、これはこれは、まさしく、失笑・冷笑、ぐらいしか
出てくるものはない。

がしかし、と俺は敢えて言う。
それで良いのだ。
文学など、それでよいのだ、ボンボンバカボン、なーのである。

考えても見よ。

これまでにあくたがわしょー、が世に出した大作家たち。

かの村上龍でさえ、デビュー当時、
「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を受賞した当時は、
糞味噌、どころか、日本中から総スカン。

米軍キャンプに屯するフーテンたちの、
ロックと麻薬とセックスを赤裸々に描いた衝撃作。

あのなあ、こんなもの、文学じゃねえ、から始まって、
それこそ、国賊に近い扱いまで受けながら、
しかし、
そんな村上龍の熱い支持者であった俺たちパンカー世代、
つまりは、文学なんてものは縁もゆかりもなかった若い読者層は、
この小説が否定されるのであれば、「文学などいらない」とまで言い切ったものだ。

少なくともそこには、
現国の教科書に乗っているどうでもよい立派な文章、
あるいは、当時の大家であった、
おーえけんざーぶろーやら、きくばりのすすめ~、やら、
時代錯誤の老害たちにはない、まさに、
リアルな空気と、
そして、目を反らしようにも反らしきれない、格好良さ、があったはずなのだ。

ちなみに、
当時、基地の街で育った俺は、
夜な夜な渋谷の練習スタジオと新宿のライブハウスを行き来しながら、常時宿なし。
放浪と集団暴走集団乱闘不純異性交遊と薬物不法所持、
道を歩けば職質に辺りを繰り返しては、
そんな絵に描いたようなドキュン小僧が、
肩に引っ掛けた特攻服のポケット、あるいはスティックケースの中には、
パープー不良少年にはあってはならない秘密のお守り、
つまりは「文庫本」が隠されていたわけで、
擦り切れて擦り切れて擦り切れきった
この「ブルー」の文庫本を、いつどんなときでも肌身離さず持ち歩いては、
下手を踏んでパクられた取調室のパイプ椅子で、
あるいは、右翼の宣伝カーの中で、ライブハウスの楽屋で、
俺はこの本を端から端まで読み千切っていたものだ。

そしてそんな俺はいつも、
こいつら、大人ども、徹底的になんにも判っちゃいねえな。
少なくとも俺には判っている。
少なくとも俺には、俺の周りを囲んだこんな馬鹿どもよりも、
村上龍が正しい、ということだけは、判っているつもりだ、
と嘯いていたのを思い出す。

そんな村上龍が、世間中から総バッシングを浴びる中、
おうおうおう、と開き直った人々。
そうまで言うなら、文学など、賞など、批評家など、現国のセンコーなど、
誰もいらねえよ。

俺達に必要なのは「村上龍」なのだ。
村上龍が文学でないのなら、それも結構。
村上龍以外、なにも要らない。
つまり文学など要らない。
社会などいらない。国家などいらない。
それで良いではないか。

若い俺達はそう言い切った。

そう言い切った者たちが、
当時の文学界から総スカンを食っていた、
後にダブル・村上と言われることになる二人の巨人、
村上龍と、そして、村上春樹、を育てたのだ、と思っているし、
結果は、まあ、そう、見ての通りだ。ざまーみろ。

という訳で、

そうそう、芥川賞の話であった。

良い意味でも悪い意味でも、
この芥川賞ってのは、喧々諤々の話題を産んでなんぼ。

その後には、
コインロッカー・ベイビーズをまさに地で行っていたようなパンクロッカー、
かの、町田町蔵&INU のカリスマであり、
そして知る人ぞ知るの天才詩人であった、かの町田康氏の芥川賞受賞においては、
思わず思わず思わず、不覚にも涙が滲んでしまったものだ。

不遇のドブの底を這いずっていた、
この稀代まれなる天才が、ついについに救われた!
あくたがわしょー、ばんざーい!

一度はみんなまとめて死に腐れ、とまで言った「文学界の方々」に、
思わず手を合わせたくなるほどの「恩義」を感じたものだ。

ちゅうわけで、この芥川賞。

強いていれば、
やりすぎてしまった食い詰め者が、
最後の最後になって、一か八かの逆転ホームランを狙う土壇場でもあった訳だろう。

事実、テレビをまったく見ない俺は、
ピース・マタキチの名前など、これっぽっちもなにも知り得なかった訳で、
つまりは、俺的には終始まったくの無名で然るべきもの。
これまでもこの先も、なにひとつの接点も持ち得なかったであろうこの芸人が、
なんの因果かこういった形で話題をさらったことによってのある意味でのコラボ。
と同時に、生まれてこの方、文庫本など読んだこともないパープーたちが、
これによって、活字からもなにかを知ることができるのかも、ってな可能性に気づくかもかも、
ってなところで、十分にお釣りが出てるんじゃないの?という気がしないでもない。

ちゅうわけで、芸人が芥川賞?
やれやれ、相変わらずだなあ、と苦笑いしながらも、
まあ良いんじゃない?
あるいはつまりは、
それ以外の作品があまりにもつまらなかった、ってことでもあるんでしょ?

となんとなく、選考委員である、もとSM嬢作家さまのご苦労さえもを垣間見てしまう思いがする。

そうなんだよね、つまり、俺が日本を出た本当の理由って、
日本の人々、とくに俺の周りにいた日本人たちが、
あまりにもちんけでつまらなくなったから、というのが本当の理由な訳で、
俺はより村上龍的、あるいは春樹的、あるいは、藤原新也の全東洋街道にに乗せられるがごとく、
東京漂流から転げ落ちた末に、日本という国をおん出ていまだ帰らず(笑
それを思えば、芥川賞なんてのがそういうレベルに落ちてしまうのも当然の結末。

まあいいよ、と俺はひとこと。

村上龍と、村上春樹と、
最近の寝る前には浅田次郎、
そして、過去の遺物、池波正太郎から司馬遼太郎から、
だけでも、十分に「文学」させてもらえるストックがまだまだたんまりある訳でさ。
まさにブッコフバンザイ、と。

なので、わざわざ、高い新書コーナーの単行本の、
小学生の作文みたいな文章を読まなくっちゃいけない義理も悪趣味もない訳でさ。
そう、文庫で十分。網棚セールで十分。

つまりそう、新人賞?要らねえよ、そんなもの、でも済んでしまうってところなんじゃないの?

ちゅうわけで、活字を印刷して本屋で売るっていう産業構造そのものが、もはやとことん陳腐になっている、
って現実に早いところ気づいて欲しいんだけどね、まあどうでもよいけど、ってのがまあ正直なところでした。

で、そうそう、このピース・またきちの花火、じゃなくて、火花?まあいいや、

これ、どっかでPDF、ダウンロードできねえかな?

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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