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「デェーイ!」 浅田次郎。江戸っ子作家ここにあり!

Posted by 高見鈴虫 on 01.2015 読書・映画ねた
ニューヨーク市立図書館で借りた浅田次郎。

そう、ここ人種のるつぼニューよくにはなんでもある。

村上春樹もあれば山田詠美だってある。
で、この浅田次郎も何冊か見つかった訳だ。

なので、ブックオフで古本の山を漁る前に、
まずはこのニュヨーク市立図書館を探すのが得策。

だがまあ、待って待って待ち続けた挙句、
忘れた頃になってようやく届いたと思ったら
ページがごっそり抜け落ちていた、
なんてことも多いので、公共物に過剰な期待は禁物なのだが。

でふと手にとった浅田次郎。

なにより読みやすい。
そしてどれもこれもそれなりに面白い。
思わず引きこまれ、ぐいぐいと最後まで引きずり込まれる。
まさにこれ、職人芸と言わずしてなんといおう。

この浅田次郎、苦労人であるらしい。
崩壊家庭から不良の限りを尽くして自衛隊に入隊。
その後ありとあらゆる職業を転々とした後に小説家に。

その豊富な人生経験に裏打ちされたレパートリー。
ヤクザ・ピカレスク物から始まり、
人情物、歴史物、時代劇から、怪談まで、と、
まさになんでもありである。
まさに書の「大衆食堂」を自称される所以である。
そしてその大衆食堂で出される料理。
ことごとく美味しい。
読みやすく、起承転結がはっきりとしていて、
しかも読み進むほどに盛り上がっていく。
思わずついつい通い詰めてしまう、
まさに大衆作家の鏡のような人である。

その語り口の軽やかさ、の根本にあるのは、
まさに江戸っ子。東京者のべらんめい口調であろう。

江戸っ子作家と言えば、かの池波正太郎先生もそうであったが、
その歯に衣着せぬ語り口、いなせながらっぱち口調、
とそして筋金入りのダンディズム。
小気味が良いばかりである。

以下、エッセイ集「アイム・ファイン」よりの抜粋

私は素直ではないが従順な正確である。も少しわかりやすく言うなら、嘘はつくけど約束は守るのである。

他人にものを教わることが嫌いな私は、何でもかでも自己流である。

食間に服用という表示をつい先ごろまで誤解していた。食事と食事の間ではなく、食事の最中に飲むものだと考えていたのである。

私の経験によれば、災いがふりかかったときにはジタバタせずに、耐え忍んでいるほうがよい。災いが努力に寄って福に変わったためしはなく、耐えているうちにやってくる福を捉まえるのが上策であろうと思う。

どうやら「恥を知る」という日本人の道徳は死語となりつつあるらしい。狭い土地に多くの人々が暮らすために、二千年の時を経て醸成されたこの第一等の心構えが、私達の時代に崩壊しようとしている。

「デェーイ!」は、何か特別の力をこめるときの江戸弁の短縮形であるらしい。すなわち、「何言ってやがるんでえ」→「てやんでえ」→「デェーイ」というふうに、そのときの感情の緊急性、爆発性とともにより短く変化するものと思われる。

家長たるものは何か一言、定めゼリフを残さねばならない。私はこのときのじいさまの啖呵を覚えている。
「ヤロウ!いくらくすぶったてな、人間はウサギじゃねえんだ!」

宿命と戦って、勝てぬまでも負けないということは、人間のなしうる最高の成果だと思う。


やっぱねえ、この人、文章上手いわ。
職人というか、プロというか、
まさに、ベランメイの職人カタギの文筆家。

そこにはじとじと内向した自意識もなければ、
ひとりよがりのアーティスト気取りも、
ちゃちな俺様気取りもない。

つまり、平成になってから日本中に伝染病のように広がった、
あの腐った自意識満載の、腐れ公家のオカマたちの、
ねちねちとした俺ちゃま的陳腐さがまるでない、
面白えこととでっけえことと新しことが大好きな、
ちっせえことにはくよくよせず、
いなせでしゃいで、しかし情にもろい、
まさに、好男児。
つまりは、そう、ダンディズム。男の美学。
つまりは、そう、ちゃきちゃきの江戸っ子の真髄なのである。

改めて浅田次郎、
この人までに心底安心して読める作家、というのも早々といるものではない。

という訳で、良い物を拾った。これは大収穫である。
ニューヨーク市立図書館のものは全て漁ってしまった以上、
残りはブックオフという訳か。

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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