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浅田次郎の語る「読書人」と日本が落魄したその真相

Posted by 高見鈴虫 on 01.2015 読書・映画ねた

浅田次郎の軽快なエッセイ、
以下の様なことさえも、わりとさらっと書いてしまう。

まさにそう、それこそが、常々感じていたことなのだよ、と思わず、
あっぱれじゃ!と膝を叩いてしまつた。

ちょっと長いが抜粋。


「読書人」という言葉がある。
一般的には読書が好きな人というふうに解釈されているが、正しくはかつて中国で科挙試験に合格して官途についた人、あるいはそうした家柄の教養人を指した。すなわち「士大夫」である。転じて「読み書きが十分にできる人」という意味にもなる。
これがわが国においては、「読書が好きな人」と解釈された理由は簡単で、つまりそれくらい国民の誰もが昔から、ある程度の読み書きができたのである。
江戸末期における国民の識字率が、世界最高水準であったことはよく知られている。これは民族的な好学心というより、少ない平地に人口が過密する国土の形がもたらした結果であろう。それだけ教育が授けやすく受けやすく、読み書きによる意思伝達が必要とされていたからである。ともあれ明治維新という人類上の奇跡は、この全国民的教養度の高さによって実現された。国家の方針を、国民がいち早く理解し、正確に伝達し合ったおかげで、日本は植民地にならずにすんだ。以降は多難な歴史ではあったけれど、それでも今なお世界第二位の経済大国であり続けているゆえんは、やはり狭い国土と過密な人口という宿命の中で、誰もが教育を受けることができ、盛んに読みかつ書くことによって意思伝達を行ってきた結果であろうと思う。
べつに日本人が民族的にすぐれていたわけではない。この国土の形のおかげで、私たちはみんながひとかどの「読書人」となりえたのである。にもかかわらず私たちは、日本人が民族的にすぐれており、本質的に勤勉であるという幻想を今も抱いているのではあるまいか。偉いのは日本人ではなく、日本人に勤勉を強いてくれた、このちっぽけで貧しい国土の形なのである。
そう考えると、もし今われわれが読むこと書くことを忘れて、いわゆるグローバル・スタンダードの名の下に記号的意思伝達の安易な道を歩まんとすれば、そもそも「読書人」であることのほかに何の取り柄もない日本人は、それこそ経済的にも文化的にも、アッという間に落魄してしまうと私は思う。もしかしたらその徴候は、すでに明らかなのではなかろうか。


WEBの糞匿名掲示板で蓄膿の鼻をふがふが言わせている、
オカマ公家的な腐れ愛国主義者たち、
あるいは、ろくに文章もかけないもちもちおばさんたち、
爪の垢でも飲ませてやりてえ気分になるだろう。

日本人の落魄は、つまりは、その読書力・文章力の衰退にあるのだ、という真実、
思い知るべし。



プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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