Loading…

錦織、サムライたれ!

Posted by 高見鈴虫 on 06.2015 テニスねた
マッケンロー言わせるところ、
テニスはネットでの挟んだボクシング、
だそうである。
つまりは、ダイレクトコンタクトの無いぶん殴り合い。
ネットを挟んで対峙しては、
ラケットという拳に渾身の魂を込めてボールを叩き、
相手を完膚なきまでにノックアウトするまで、
ひたすらにぶん殴り合い続ける残酷な格闘技。

そう、テニスは格闘技なのだと言う。

あるいは、テニスを格闘技だ、と認識していない選手は、
どうせろくなタイトルは掴めない、ということなのだろう。







確かに、テニスは過酷なスポーツである。

時間無制限の三本先取。
時として焼けたフライパンの上を思わせる炎天下で、
下手をすれば5時間6時間かそれ以上、
まさに気力と体力の限りを尽くし殴りあう完全ノックアウトルール。

まさに死闘を前提としたスポーツなのだ。

しかもそのコートにおいて、存在するのは、
自分と、敵と、
そして黄色いボールのみ。

水を飲ませては肩を揉みながら、
良し、いいぞいいぞ、いい感じだ。
いいか、足を止めるな、次はボディーブローを狙っていけ。カウンターに気をつけろよ、
お前も疲れているように相手も疲れているんだぞ、それを忘れるな、さあ行け、
などと声とかけてくれるおせっかいなセコンドもいない。

テニス選手はまさに誰一人として頼る者のいないコートの上で、
まさに孤立無援。絶体絶命の土壇場の中で、
己というもの全てをさらけ出しながら、
死に物狂いのぶん殴り合いを続けるスポーツなのである。

とそんなことから、テニスというスポーツには、
まさに超人的な精神力を必要とされる。

テニスをやる人間が、同じテニス仲間を自然と見分けがついてくるのは、
つまりはその、隠すに隠せないほどに滲み出してくる、
その強靭なまでの我の強さである。

気力体力技術力は言うに及ばず、
緊張に負けない糞度胸。
自責の念に囚われない底抜けの楽天さと、
相手の弱点を探し出しそこを執拗に攻め立てる冷酷さ、
試合の流れを冷静に分析する明晰さ、
そして、その飽くことのない程の攻撃性と、
体力の限界を過ぎてもなおも走り続ける底なしの根性。

それだけのものの揃わない人間はテニスというスポーツには向かないのである。

そこに要求されるのは強烈な程の自我。

徹底的な個人主義者であり、
鼻持ちならないナルシストであり、
どんなに高いリスクを負っても強気で押し通す勝負師であり、
しかし、己の弱点をも知り尽くす冷徹な観察者である。

そんなまさに自我の塊りであることを要求される孤独な勝負師。

我が我によって我の為に我があり、そこにテニスがある。

テニスがそんなスポーツである以上、
試合に勝つ、以外のことはすべてが蛇足だ。

例えば、何にもまして他人との和と協調を尊ぶ、
なんていうどうにも情けない倫理を持った社会の価値観で測れば、
そんなテニス選手はまさに徹底的に嫌なやつ、
ともすれば、完全な社会不適合者となりうる訳で、
つまりはそう、テニスをやる人間とは、
そんな他力本願な甘え文化とは正反対、
例えどんな方法を使っても、勝負に勝つことだけを優先する、
超がいくつついても足りないぐらいの自己中野郎、
社会性の全てから逸脱してもなお自身の自我を優先させるような、
そんな人間性を必要とされるスポーツなのである。

歴史上のテニス選手名選手達、

あのジョニー・マックことジョン・マッケンローは言うに及ばず、
ロジャー・フェデラー、
ラファ・ナダール
ノバク・ジョコビッチ、
アガシにレンドルにベッカー。
クリス・エヴァートにマルチナ・ナブラチロア、
そしてまさに怒れる野獣そのもののようなセリナ・ウィリアムス。

そのどれもこれもが、まさに、狂気にも近いような自我の強さが身体中から溢れでているような、
まさに、意志と闘争心の塊りのような面構えである。

そんなテニス選手たちが、
例えば格好ばかりは小綺麗なユニフォームに身を包み、
試合の終わった記者会見では、いつもこれ以上なく爽やかな笑顔を振りまきながら、
タフな試合でした。相手選手のXXさんはまさに尊敬に値する素晴らしいプレーヤーでした。
こんな試合に勝てた幸運を噛みしめるばかりです。
なんて歯の浮いたようなセリフをしゃーしゃーと言ってしまうのは、
つまりはそう、テニスというスポーツが、言葉などでは言い表せない、
まさに人間の気力の限界に挑むような、
とてつもなく残酷なゲームであることを身にしみ切った選手たちが、
普通の人間たちにはこのぐらいのことを言っていればいいのさ、
本当のことはコートで殴りあってきた俺達が一番良く知っている筈だ、
と全てを紳士的なベールに密封してしは、
全ての真実を普通人の目からシャットアウトしてしまうから。

つまはそう、彼らが常人には計り知ることのできない、
まさに筋金入りの勝負師であるからなのである。


つまりはそう、
テニスを極める為には、
通常の社会人としては根本的に相容れないなにかが、
要求されるのだ、と考える。
そしてその根本的な違いとは、まさに、狂気にも近い強烈な自我、なのである。

という訳で、長い長い前置きになった。

我らが錦織選手である。

錦織選手は、そんなテニスの強豪たちの面構えとは似ても似つかない。

誰がどう考えても、ぶん殴り合いやら格闘技なんて言葉とは、
最も遠い所に生きているような、まさに徹底的に天真爛漫で素直で良い子、そのものである。

錦織選手が眉毛を落として剃りこみを入れては、
教師の顔に唾を吐いたり、
街のチンピラ相手に割れたビール瓶を振り回して大立周り、
じゃんけんぽんでおんなを回しては山に捨てて来よう、
あるいは、
対峙する人間を完膚なきまでに叩きのめし、
振りかかる血しぶきの中を眉一つ動かさず、
時として薄笑いさえ浮かべながら、
その息が途絶えるまで徹底的に殴り続ける、
なんて姿はワニが逆立ちしても思い浮かばない。

錦織は強いて言えば逆の立場である。

腕立て伏せ1000回、と言われれば、
まさに死に物狂いで腕立て伏せを続け、
そこで三年逆立ちしてろ、と言われれば、
誰もが忘れ去った頃になっても、
雑草だらけになったヒビ割れたコートの隅で逆立ちを続けている、
そんな馬鹿がつくぐらいに正直すぎるような、
そんな真っ直ぐさが感じられる。

がそんな、馬鹿がつくような素直さ、
なにがあってもくよくよせず、
年上の人にもしっかりと挨拶ができて、
後輩たちにも決して意地悪などせずに、
女のこたちにも、
おおねえちゃん、俺にも一発やらせろよ、知ってんだぜ、誰とでも寝ちまうってさ、
なんて言葉はダチョウがバンザイしても絶対に吐かないに違いない。

そんなまさに、お母さんの宝物、を絵に描いたような錦織選手である。

どれほど過酷なぶんまわしにおいても、
最期までまるで馬鹿のようにボールを追い続ける、
まさに、天真爛漫を絵に描いたようなすがすがしい笑顔。

がしかし、ふと見渡せばそんな選手はテニス界にはひとりもいない。

その爽やかな笑顔はこの世でもっともえぐい勝負師であるテニス選手たちの、
世を欺く偽りの偶像の姿であり、
あの爽やかな顔をした一流選手たちが、
しかし一皮むけば、どんなギャングでさえ冷汗をかくような残酷なことも、
あの爽やかな笑顔を浮かべたまま平気でやり遂げてしまうような、
そんな不気味なほどのサディスティックさを秘めた、
まさに冷酷な野獣そのもののような面構えではないか。

つまりそう、そんなサディスティックさが微塵もないところが、
錦織選手の最大の魅力でもある訳なのだが、
そしてそのまるでサディスティックなイーヴィルさを感じさせない、
その筋金入りの良い子さが、
錦織選手の最大の弱点となってしまっている気がするのだ。

筋金入りのサディストであるそんな番長ヅラの選手たちに、
これでもか、というぐらいにまで苛められて苛められて苛められながら、
耐えて耐えて耐え続け、
がしかし、どんなに陰惨なシゴキに痛めつけられても、
あの天然ボケを極めたような天真爛漫さで、
そんなサディストたちのイーヴィルさはまったく気にもつかないように、
あっけらかんとした笑いを振りまきながら、

いやあ、タフな試合でしたが勝てて嬉しいです、

とそんな言葉を吐いては、まさに馬鹿がつくぐらいに天然ボケした笑いを振りまいてしまうのである。

という訳で、俺はそんな錦織選手に、おいおい、このおぼっちゃま、大丈夫かよ、とはいつも思いながらも、
がしかし、こんなおぼっちゃまだからこそできるとんでもない火事場の馬鹿力をいつも期待してしまう訳で、

つまりそう、錦織選手は、火事場の馬鹿力を出さない限りは、グランドスラムには勝ち抜けない、ということなのだ。

つまりそう、余裕を持って、やら、王者の貫禄、やらとはまさに正反対。

絶体絶命で、尻に火が着くどころか、身体中が真っ黒に焼け焦げてしまった後に、
さああ、もう失うものはなにもない、というところまで追い込まれないと、
真の実力を発揮することができない、アンダードッグを宿命付けられた選手、
つまりは、良くてアームストロングどまりのMR.QTR FINALで終わるはずの選手が、
しかし、持ち前の並外れた天真爛漫さから、あのアーサー・アッシュ・スタジアムの殿堂に、
もしかしたら手が届くかも、届かないかも、というぐらいの選手でしかない筈なのだ。

という訳で、去年のUSOPENの、
あの深夜のラオニッツとの死闘。
あのワウリンカとのぎりぎりなまでのぶん殴り合い、
そして、あのジョコビッチとの、まさに徹底的な劣勢の中で、全てをかなぐり捨てた集中力。

己の精神をいつもあの域に、あのぎりぎりなところに保ち続けない限り、
この先、ろくなことにはならない、と思うのだ。

錦織選手は、世界的なレベルから見ればやはりベストスリーになれる器の選手ではない。

地味な地方大会をドサ回りを続けてランキングを保ち続けても、
そんな長いツアーの疲れを引きずってはグランドスラムでは戦えないだろうし、
ましてやこれから、その弱点を徹底的に洗い出されて行くのである。

今回のUSOPENのように、その気負いと、真っ直ぐ過ぎるぐらいのまっとうさを逆手に取られて、
徹底的におちょくられて揚げ足を取られ、
なんてこしゃくな技にもこうも安々とハマり込んでしまったり、
とそんなことが続く筈である。

がしかしかと言って、
あの地獄の根性男・マイケル・チェンに付き合っては、
毎日毎日体力の限界までトレーニングを続けていれば、
そのうちに身体中がボロボロになって故障続きとなるのは目に見えている。

これほどまでに思い入れた選手だ。
良い意味でも悪い意味でも、
100年にもわたる日本のテニス界の期待の全てがその肩にのしかかっているのである。
そんな錦織選手には、一発屋のセミファイナリストとして終わってほしくない、
というのは誰もが共通する思いだろう。

という訳で、最初に戻る。

そう、テニスというスポーツはまさに勝負師の勝負師による勝負師だけの世界だ。

あの馬鹿なマスゴミたちのような、
普通の人間たちの普通の世界の戯言に惑わされはいけない。

錦織選手、悲しいかな君はもう少年ではない。

全てを忘れて天真爛漫に笑っていられる天才少年であった時代は既に過ぎてしまったのだ。

これからは真のプロとして、汚濁に塗れた銭づくめの勝負師達の世界で、
これでもか、とこしゃくな策をこうじられては、あの手この手でその足を引っ張られることになる筈だ。

この地球上で、最も自己中でサディステックで嫌なやつらの集まったようなこの過酷なテニス界の中で、
唯一の日本人プレーヤーとして孤独な戦いを続ける為には、

サムライたれ、である。

全ての試合に、今日が死に時、とばかりに、
全ての邪念を振りきっては、死を覚悟して戦いに望むような、
そんな凛としたサムライの死生観の中で生きる、
正真正銘の勝負師であって欲しい。

その、あのデビュー当時のフェデラーの、あの白い鉢巻を締めたサムライ・ルックのように、だ。

来年、また錦織選手の晴れ姿を見れることを心から待っている。
一皮もふた皮も向けて、すっかりと大人になった君の姿が見られることを望むばかりだ。

いつの日にか、錦織の決勝をコートサイドで見るぞ、
その時まで、俺もコートサイドにふさわしい男になっていてやる、
それが俺の目標となりつつある。

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

月別アーカイブ

検索フォーム