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超絶品の番茶に悶絶こくニューヨークの正月

Posted by 高見鈴虫 on 01.2016 ニューヨーク徒然
正月の午後、
例によって友人宅でのおせちパーティである。

故郷を遠く離れたニューヨーク。
孤独な流人の集うこの街において、
家族とはまさに「友達」を指して言うものだ。

という訳で、そんな家族である友達を誘い合っては、
互いに腕によりをかけた自慢の手料理を持ち寄っては、
マンハッタンの摩天楼を見下ろしながらの、
ニューイヤー・パーティと相成る訳だ。

でそんな中、ここぞとばかりに本領発揮のプロの料理人の方々、
その自慢の腕を振るったプロの作る家庭料理。

その絶品さと言ったらまさに目からウロコがボロボロ。
思わず、一口ごとにうんめえ、と身悶えてしまうような絶品ばかり。

で改めて思ったのは、この超絶料理の数々。
化学調味料が使われていない!

つまりそう、プロの方々、お客に召される料理には、
これでもか、とぶち込んでいる筈の料理酒から化学調味料からが、
こと家庭料理には鬼の敵のように一切使われていない訳で、

その控えめながら、噛みしめるごとにじんわりと広がっては打ち寄せる深い味覚の波。

いやあ、日本人って本当に凄いな、と思わず涙が滲むばかりである。

で、そんな中、そうそうそう言えば、と出された番茶、つまりはほうじ茶が一杯。

その何気ない茶碗を覗き込んだその時に、まさに、後ろ頭を金属バットで殴られるほどの衝撃を受けた。

な、な、な、なんだ、この番茶は!!!!

ああ、それ?それねえ、なんかこないだ来た京都のお坊さんとやらが、
おみやげにどうぞ、なんていう戴き物なんだけどさ、
ほら、普段はビールやらワインばっかりで番茶なんてあんまり飲まないでしょ?

こういう機会があれば好きな人もいるのかな、と思って持ってきて見たんだけど。

でその番茶である。

まさにその香り、コク、そして味の深さが、
一口すするごとに二層三層になっては、
波を打って押し寄せてくる訳で、
それはまさに、芸術品。

これか、これを茶の湯と言うのか。

茶の湯、お茶は抹茶でしょ?それはほうじ茶。つまりはただの番茶でしょう、と失笑を隠せない面々。

おまえ、これが番茶であろうが、屑茶であろうが、そんな看板はどうでもよい。
がしかし、このお茶が、とてつもなく素晴らしいことはこの俺様が一番良く知っている。

これ、凄い、この番茶凄過ぎる、と熱狂をする俺に、

あのなあ、ここ数日手間ひまかけて仕込んでは年越しさえも寝ないでこれだけの料理を作りながら、
いきなり番茶が美味い、なんて言われた日にはなあ、とヘソを曲げる板前某氏。

いやあ、だから、四の五の言わずにこれちょっと飲んでみろよ、と飲みかけの茶碗を差し出すに、

むむむむ、と板前某氏。ああ、これは美味い。確かに美味い。凄い。素晴らしい番茶だ。

という訳で、だったら全員にとばかりにポット一杯の番茶。

飲みかけのワインを脇に押しやって、思わず、両手を添えてずずずずっと一服。

うーん、美味い。
確かに良い香り。
ああ、酔っ払って無かったらもっと美味しかっただろうに。くっそう損した、
とまさに本末転倒ながら、いきなりのこの茶の湯的な瞬間。

思わずその深い風情の中に喉を鳴らしてはふと訪れる沈黙。

いやあ、日本人だよなあ、と。

見下ろすマンハッタンの摩天楼の夜景に、
風にそよぐ竹林の囁きが、さらさらと流れ行くような気がしたもので。

という訳で改めて、幸せとはなにか。

それは、暖かい友達と、そして、得も言えぬ良い香りのする番茶であったりもする訳か。

そうかほうじ茶か。ちょっと調べて見ようかな、とまた新年に向けて新たな課題が増えた。



プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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