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大人である、ということ

Posted by 高見鈴虫 on 05.2016 今日の格言

俺はもう大人だから、友達など必要とはしていない。
俺は大人だから、独りでいることもさほど苦にはならない。
俺は大人だから、この世でたった独りになっても勝ち抜くつもりだ。
負けた奴のことなど知ったことではない。
奴らは弱かっただけだ。
弱いものが惨めなことになるのは当然のこと。
独りで生きていけない弱い者を助ける必要など無い。

それは残酷なことでも、冷酷なことでもなんでもない。
それは今に始まったことじゃないし、
これから先もその原則が変わることはない。

だから俺は負けない。俺は大人だからだ。



強いものがすべてを独り占めする。
弱い者には分前などあるわけがない。
そうして強いものはより強く、
弱いものはなおさら惨めなことになる。
それが自然の摂理という奴だ。

ただ、
そういうことをこれみよがしに吹聴する奴らに限って、
奴らの強さは奴らが自ら勝ち取ったものではない。
ただたんに既得権益。
金持ちの家に産まれたという、ただそれだけ。
つまり奴ら自身が強かった訳ではない。
つまり奴らが強かったことなど一度だって無い。
だからことさらに自分の強さを誇張せずにはいられないんだろう。

強者だ弱者だと、事さらに吹聴したがる奴に限って、
そんな奴ばかりだ。可哀想な奴らだ。

少なくとも自力で生き抜いて来た者達は、
負けることの恐怖といつも隣り合わせに生きてきたのだ。
そしていつから自分も負けるであろうことも知っている。

そうなんだよ、強者だ弱者だと事さらに吹聴したがる奴は、
負けたことがない。負けることなど決して無い、という前提の元に、
そういう大口を叩いているだけの卑怯者に過ぎない。

そんなことは判りきったことだ。
判りきっていながら、しかし俺達は負ける訳にはいかない。
そんな俺達だから、敗者に無駄な憐憫などかけたりはしない。

ただそんな俺達は、決して仲間を見捨てたりはしない。
強いからこそ、俺達は助け合える。
孤独だからこそ、俺達は互いを信じられる。
助け合いとはそういうことだ。
まずは自身が強くならならなければ、
助けることも助けられることもできない。

だからとりあえずは、たった一人で海を泳ぎ始めることだ。
そんなお前が、たった一人で大海を泳ぎ渡る者の姿を観た時、
初めて、よお、元気か?お互いにがんばろうな、
の一声をかけたくなるだろう。

助け合いとはそういうことだ。
愛とはそういうことなのだ。

愛は依存でも責任でもない。
孤独な戦いを続けるもの同志の、心の支えあいなのだ。

独りで道を極めようとするもの同志以外に、助け合いなどありえない。
ただ、そうしてたった独りで戦い続けるものにも、
他人の力が必要になることだってある。

バンドを例にとって見る。

ドラマーだけがどんなに凄テクでも、
太鼓だけではさすがに話にはならない。
ドラマーにはベーシストが必要で、
ベーシストにはギタリストが必要で、
そしてバンドにはボーカリストが必要で、
ボーカリストにはバンドが必要だ。

互いが互いの担当の楽器を極めながら、
しかし互いが互いを必要としている。
ただ互いに頼り合うことはできない。
疲れたドラマーをベーシストが肩代わりすることも、
声の枯れたボーカリストの代わりに、
ギタリストが歌をうたうこともできない。
ただ助け合うことはできる筈だ。
互いが互いをカバーし合う。
つまりは、協調。
或いは、互いが互いを大切にし合うということだ。

だから勘違いしてはいけない。

助けあうということは、頼り合うということではない。
何一つとしてなにもできない人間はバンドにさえ入れない。
あるいは、日々道を極めようとするものは、
何一つとして何もできない人間など、
あるいは諦めてしまった人間など、
はなから人間とは認めないだろう。

互いが互いの実力を認め合って、初めて助けあいが成り立つのだ。
そしてそこには、やはり競争があり、
自らの道を極めようとする孤独な修行があり、
そんな修行を続ける者同士だから初めてバンドとして吊り合う、ことができる。
その緊張感の中でこそ、初めて、独りだけでは成し得なかったもっともっと大きな物を、
創りだすことができるのだ。

つまりはそういうことなのだ。

つまりはそう、大人である、ということなのだ。

大人というのは、ただ大人しく礼儀正しく黙って座っていること、などではない。
大人というのは、夢を見ることもなく、現実を現実として真摯に受け止めてそれにただ耐え続けること、ではない。
大人というのは、ただただ周囲に迎合し、波風を立てずに調和を守っていられること、なのではない。

大人というのは、独りで生きていけるか、ということなのだ。

群れを離れて、たった一人荒野の中で餌を取り、敵から身を守り、生存し続けることができるか、ということだ。

それのできない奴らが、いくら寄り添って、大人しく周囲に迎合しながら、不条理な現実に耐え続けていたとしても、
集団の中では生きていけるかもしれないが、その集団そのものはいずれは存続することができなくなる。

独りで生きていける者たちが集まって、互いの力を相乗させることによって初めて集団に意味が生じるのだ。

ただそんな集団の人々は集団に依存しない。
そして集団に帰属しない。集団に盲従せず、必要以上に愛しもしない。

そんな者達にとって、すべての集団は仮の宿であり、ただ立ち寄っただけ、の仮りそめに過ぎず、
そんな者達の集まった集団は、いつも流動的で、絶え間なく変化を続け、そしてひとつところに留まることはなく、
それはある意味、集団とも呼べるものでさえないかもしれない。

集団とはその程度のもの。その程度であるべき、と思っている。

そうでないものを要求する集団を、俺は信じない。
近づこうともしない。気持ちが悪くなる。吐き気がしてくる。

俺はつまりはそういう人間なのだ。
そうでない奴らとは、まともに口をきくつもりもない。

そんな理由から、俺はこのニューヨークという街に着いた時に、
心底ほっとしたものだ。

ようやく俺の場所を見つけた、と思った。

という訳でそう、俺みたいな奴ら、
そんなところに密封されては、キャビン・フィーバーの中で狂死させられるぐらいながら、
早いところ泳ぎ初めてしまった方が良い。

まあいずれにしろろくなことにはならないのはどちらにしろ一緒なのだから。



プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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