Loading…

イチローと錦織と、そして、中元すず香、その共通点とはなにか? ~ いま世界を震撼させるジャパンパワー、その真髄を探る

Posted by 高見鈴虫 on 10.2016 BABYMETAL☆ベビーメタル   0 comments
という訳で、
敗れたとは言え、我らが錦織圭選手、
ガチンコのフルセットの末、
遂に遂に、アンディ・マレイを撃破!

ここに来て、テニス界の頂点たるグランドスラムのトロフィに向けて、
我らが錦織圭、完全にロックオンである。

あと一歩。あと一歩だぞ、圭ちゃん。
百年に渡る日本テニス界のその執念とも言える全てが、
君の肩にかかっている。

そしてその夢の実現まで、世界の頂点まで、
まさに、あと一歩! あと一歩、なのである。

そんな錦織の晴れ姿、ようやく取れた休日の午後をすべて使って、
撮りためたDVRで見返しているのだが、
圭ちゃん、本当の本当に、立派になったよな、と思わず、
長い長い溜息をついてしまう。



実は、僻地暮らしの恩恵から、
俺はかの錦織選手に何度か、会ったことがある。

まあご本人はまったく覚えてもいないだろうが、
なんかニューヨークでガラの悪いおっさんに纏わりつかれて怖かった、
なんてツイッターされなかっただけでも幸いなのだが、
そう、錦織が初めてこのUSOPEN、ニューヨークはフラッシング・メドウに姿を見せてから、
俺はまさに、錦織の下僕。

でありながらしかし、実は俺、いちテニスファンとしては、
この KEI NISHIKORI という選手を、
正直なところ、当初それほど買ってはいなかった、のである。

理由はと言えば、この錦織選手。
あまりにも、あまりにも、これまで接してきた、テニス界の一流どころのプロの中のプロ、
そんな選手たちと、なにか一つ、決定的なものが抜けている、と思っていたのである。



かのジョン・マッケンロー御大に言わせるところ、
テニスはネットを挟んだボクシングである、という。

テニスは格闘技だ。
ネットを挟む関係で、本人同士が直接に接触することはないが、
しかし、コートを挟んで飛び交う黄色い弾を、打って打ち返してまた打ち込んで、
走って走らせて走りぬいて、その気力体力その全てを注ぎ込んだ死闘。

それを勝ち抜くためには、まさに、ファイター魂、
格闘技にも通じる底なしの攻撃性が必要なのだ。


確かに、これまで俺の垣間見てきたチャンピオンたち。

かのジョン・マッケンロー御大自身は言うに及ばず、
ロジャー・フェデラーから始まって、ラファ・ナダールからノヴァク・ジョコビッチから、
ロディックからヒューイットから、アガシからサンプラスからあるいはウィリアムス・シスターズまで。

まさに遠目に見ても見るからに運動神経の塊り。
その溢れ出るような野獣の香り。

一種の畏敬、近寄りがたさ、というか、
思わずその気迫に飲まれては、怖気づいてしまいそうな、
身体中から不穏な殺気を漂わせた、
そんな見事なほどの凄みを感じさせる、そのオーラ。

スポーツ選手というよりはむしろ、狂気をはらんだ博打打ちをも連想さえる、
壮絶にして鮮烈な、勝負師の姿、そのもの、であった筈である。

がしかし、我らが錦織圭。

そう言った意味では、彼の姿には、
テニスという修羅を勝ち抜くためのそんな殺気じみた攻撃性が、
これっぽちも感じられなかった、のである。



錦織圭選手。
その人気の極とも言える、その爽やかな笑顔。

そこには何の屈託も、怒気も、あるいは覇気さえも、
そう言った、闘魂を支える怨念じみた情念のようなものが、
影も形も見えない。

嘗て、錦織が故障に泣いては、
劣勢に次ぐ劣勢を強いられていたそんな折、
スポンサーの方々の主催した歓迎応援パーティの座において、
その主役でありながら、
しかしそのまるでスターのオーラの欠落した、
あまりにもあっけらかんとした飾らなすぎるその姿。

結果、いつの間にか誰からも声をかけられずに、
会場の真ん中にひとり、ぽつねん。
えへへ、と赤ら顔で照れ笑いを浮かべながら、
どことなく、居場所をなくした所存なき姿。
それはまるで、お母さんのあとを付いてきたままはぐれてしまった、
ちょっとお知恵の足りない大きな甘えん坊の姿そのもの。

とそんな姿を見るに見かねたうちのかみさん、
思わず目の前にしゃしゃり出ては、

圭ちゃん、がんばって!
君の肩には盛田さんから修三さんからの、
日本テニス界百年の執念がかかってるんだよ。

執念?なんか怖いですねえ、えへへ、と笑うその笑顔の屈託の無さ。

マッケンローがね、圭ちゃんのこと、
この子は強くなる。きっとグランドスラムを取るだろうって、
そう太鼓判押してたんだよ。
もっともっと、頑張んなくっちゃ。

え?マッケンローさんが? 本当に? 知らなかった、はははは。

そんなあまりにも、チャンピオンの畏敬からかけ離れすぎた、
もう見るからに甘い甘い、甘すぎるほどに甘い、少年の笑顔。

よりによってはうちのかみさんから、
ねえ、へらへら笑ってる場合じゃないでしょ?
しっかりしなさいよ、ファイト、ファイト、テニスは格闘技なのよ、
こっちは死ぬ気で応援してるんだから、
それを忘れないでね!

と肩を叩かれては、

あ、はい、どうも、あの、がんばります、と頭を掻いていた、
あの赤ら顔をした少年の姿。

そんな、どこにでもいそうでありながら、
いや、こんな、底抜けに素直そうな少年、
この時代、どこを探しても見つからない、
それぐらいなまでに、攻撃性やら殺気やら、覇気やら毒気やら、
そんなものから徹底的に遠い存在、
まさに、良い子。
本当に本当に素直で明るくて、蕩けそうな甘い笑顔を浮かべた、
絵に描いたような好青年、
世界中の母親が切望する、そんな見事な程の、優等生、
まさにそのもの、であった訳だ。



当時の錦織に決定的に欠けていたものは、まさにその、闘魂、であった。

総じて、テニスは、個人の個人による、個人主義者のためのスポーツである。

その国籍がどうあれ、口でなにを言おうが、勝った奴の勝ち。
すべてはコートの上で裁かれる、そんな、個人主義者の独壇場である。

そんな理由からか、テニスをやる奴ら、それも強くなればなるほどに、
ちょっと人間的には、思わず首を傾げたくなるような、
そんな、どうしようもない、極限的な個人主義者の巣窟、と言ったところがない訳ではない。

予約していた筈のコートにいきなりのしのしと乗り込んでは、
おい、へたくそ、てめえら、邪魔だ。さっさと失せろ、と顎をしゃくる無法者風情。

え?でも、ちゃんと予約して、お金も払ったし。

予約だ?ぬかせ。いいか、テニスは強いものが一番えらいんだぜ、
と、これみよがしに番長風を吹かせるアホ。

思わず、え、それひどい、と抗議しながらも、
ふと、まわりをみれば、誰一人としてそんな無法を咎める者もいない。

そう、テニスを愛するものは、その勝負の奥義の中に、徹底的な個人主義、を秘めているのだ。

無法に立ち向かうには、個人として強くなるしか方法はないのである。

そんな悔しい想いを重ねた後、俺もいつしかそんな流儀にも慣れてきた。

誰が強いって?おもしれえ。じゃあその、一番えらいっていう奴を、見せて貰おうじゃねえか。

コブシを握って殴りあう、その代わりに、俺達はそんな無法者に、テニスの試合での戦いを挑むのである。

勝った奴が全てを一人占め。面白い。やってやろうじゃねえか。

そう思ってこそ、初めて、テニサー的な闘争的人格が鍛えられて行くのだ。

ただ勝負は時の運、というよりも、正攻法の実力だけでは測れない。

実力で勝てない、と思った相手には、ありとあらゆる姑息な手段を使う。

おいおい、このハエの止まるようなサーブ、眠くなってきたぜ。催眠術でも使ってるつもりか?
ワキガだワキガ、このコートはワキガ臭くて窒息死そうだ、誰のワキガだ?言ってみろ!
おい、チャンコロ。ボールボーイじゃねえんだぞ、ちまちま邪魔だ。とっとと消えろ。
おい、そこのコクジン、場所間違えてんじゃねえのか?そこの芝生で墓穴でも掘ってたほうが似合いだぜ。
あのさあ、どうでも良いけどべたべたボールに触らないでくれるか。俺のラケットが臭くてなったらどうしてくれるよ。

挙句の果てに、
サーブのトスを上げた途端に、待った、おい、おまえの携帯鳴ってるぜ、から、
あの、メンヘラみたいなホームレス、もしかしてお前のかあちゃんが迎えに来てたんじゃねえのか、から、
なんかお前、パンツ茶色いぞ、くそ漏らしてんじゃねえのか?
からからから。

お前のかあちゃんでべそから始まって、ありとあらゆる罵詈雑言、
それをネットを挟んで叩きつけながら、
しかし、そう、勝負は全て、その黄色い弾、それによって叩きだされて然るべきもの。

がしかし、ひとたび勝負に勝てば、そんな下らない罵声のひとつひとつが、
全て倍返しとして敗者の背中にたたきつけられる。

おい、ボールボーイがどうしたって?
俺がボールボーイなら、お前はなんだってんだ?
ラインマンか?ゴミ掃除か?え?どうなんだよ。
ちょろすぎて退屈な試合だったが、まあ、笑わせてもらったぜ。
さっさと銭おいて帰りな。

そう、勝てば官軍。勝たねばそう、ゴミ以下、である。

それを突き詰めて突き詰め尽くして、つまりは勝負師、になっていくのである。



そう、錦織には、ほとんど全てのテニス愛好家に共通するべきの、
その、毒気、というものが、微塵もなかった。

試合前のリングで、ヘラヘラと照れ笑いしながら、
あのぉ、よろしくおねがいします、と頭をさげる、
そんなボクサーがどこにいるだろうか。

このテニス界において、錦織はまさに、そんな存在だった。

その神をも恐れぬ天真爛漫。
言っちゃなんだが、こいつ、ちょっと抜けているんじゃないのか?
とさえ思わせる、そのあまりにも間の抜けた、手付かずの笑顔。

この子、言っちゃ何だが・・・
つくづくテニスというスポーツに向いていなんじゃないだろうか?

そして錦織、見るからに日本人である。

まわりの選手たちのほとんど全てが、軒並み190、
あるいは2M なんてのがうろうろしている、まさに巨人の杜。
あるいは、見るからにビッグ・サーバーたるビッグマンたちの独壇場。

そんなバケモノ的に巨人選手たちの中にあって、
錦織選手の姿、言ってみればそう、単身短躯短足頭でっかちの典型的な東洋人。
そんな錦織の姿に、東洋人のプレーヤーがよく食らうあのやじ、

おーい、ボールボーイ、早くコートから出ろ、ぎゃはははは。

そう、錦織はまさに、ともすればボールボーイにさえ見えるほどに、
細く、小さく、虚弱に見えたのである。

やはり、東洋人に、このテニスというスポーツは、土台無理なのか・・・

正直なところ、そんな疑問をなかなか払拭することができず、
ともすれば、そんな西洋的ゴリ押しの中に四苦八苦して暮らす、
この俺自身の不甲斐なさと重ねあわせては、
ああ、錦織、頼むから、もうちょっとしゃんとしてくれ、などと、
要らぬことを考えては、泣き笑いを続けていた、そんな訳なのである。



という訳で、ご存知のように、錦織圭選手。
オリンピックメダルまで手にして、いまや国民的英雄。

テニス界のブルース・リー:マイケル・チェンをコーチに迎えてからこのかた、
今となっては、それ以前の全てのことが、まるで、悪い冗談、としか思えないほどの、
目も潰れるばかりの輝きようである。

押しも押されもせぬ、テニス界の一つのアイコンとなり得た錦織圭。

その姿に、日本はおろか全世界の東洋人の子どもたち、
普段から、身体の大きな白人黒人連中から、これでもか、と押しのけられて過ごしている、
そんなひ弱な、脆弱な、あまりにもセンシティブな、そんな東洋人の子どもたちにとって、
まさに錦織の姿こそは、希望の星、そのもの。

あるいは、柔よく剛を制す。

テニスは体格と、筋力のスポーツにあらず。

気迫と知力と、その頭脳と精神力こそが、テニスというスポーツのコアなのである。

そう唱える、テニスの殉教者たち。

そんな者たちにとって、この錦織圭選手。
そのプレースタイルそのもの、存在そのものが、
まさに、テニスの美学、その象徴なのである。

鉄の根性と、明晰な頭脳。
気力、知力、精神力。
磨きぬかれた技と、どんな状況においても自身を律する、その強靭な精神力。

それこそが、錦織選手の唯一絶対の武器、なのである。

でも・・・・

え?なんかそれ、どこかで、聞いたことがある、よね、と。

そう、それこそはまさに、かのイチロー選手に対する、賛美の言葉、そのもの。

とそして、もう一人、忘れてはいけない人物。

そう、待たせたね。相変わらず長い長い前置きであった。

言いたかったのは、つまりはこれ。

ベビーメタル。

この神をも恐れぬ独断と偏見から、
よりによって、錦織圭選手と、そして、ベビーメタル:中元すず香、

その共通点について、語ってみたい、と思いついた訳だ。



イチロー選手、
そして、錦織圭、
そして、我らがベビーメタル、すぅめたること、中元すず香。

今や世界中を震撼させる、この人類史上類まれな、日本人の天才たち。

それに共通するものとは、いったいなんなんだろう。

そしてその共通点こそが、ひとつの成功的体験として、

日本人が世界と戦うための、その真髄となりうる、俺はそう考えるのである。

改めて聞こう。

イチローと、錦織と、そして、中元すず香、その共通点とは、なにか?

前置きのあまりの長さから、悪い、もう、犬の散歩の時間が近づいて来た。

結論を急ごう。

イチローと、錦織と、そして、中元すず香、その共通点とは、なにか?

それはまさに、技の美。そして、精神の美。あるいは、自制心の美、つまりは、心の強さ、である。

この三人に共通するのはまさに、ストイシズム、それに尽きる。

体格的な劣勢を、補って余りあるその、頭脳と、
嵩にかかって挑みかかるその木偶の坊たちを、
まさに闘牛士を思わせる華麗な身さばきで、右に左に交わしながら、
いついかなる時にも冷静さを失わないその研ぎ澄まされた集中力、
それこそはまさに、精神の美、魂の強靭さに他ならない。

では改めて聞こう。

この三人の巨人、その特徴とされる精神力、その礎とはなんなのか?

それこそはまさに、徹底的な自制をもって行われる、その練習量の凄まじさ、
それをおいて他にはない。

全ての慢心を廃し、己の弱さ、己の弱点を考えぬいた末に、
それを武器へと転化させる、その頭脳、あるいは、知恵。つまりは、作戦力。

その全てが、実は、日々のたゆまぬ練習に支えられている筈だ。

では、その練習を支えるものとは、いったいなんなのか?

誤解を恐れずに言い切りたい。

日本人が世界に誇れる、その最もたる資質とは、素直さ、である。



スポーツ選手にとって、あるいは、ミュージシャンにとって、
観客を前にした晴れ舞台、その瞬間というのは、
実は人生の中の、ほんの一瞬に過ぎない。

幾万の観客を魅了するそのスターたちの、その日常とは、
実は、誰の目からも触れない、地道な練習につぐ練習、
それだけ、と言っても過言ではないと思う。

まるでタコ部屋に押し込められたように、
あるいは、まさに禅寺の修行僧のように、
スターたちの日常のその殆どは、
練習場、において費やされている筈、そうあるべき、である。

その弛まぬ練習を支えるもの。

始終、自分自身の弱さと向き合い、
その限界に挑みながら、
自省と自制と、更なる挑戦を続けては敗れ去り、
その極端なほどのストイシズム、
それこそが練習の全てを貫く最初で最後の支えであり、
そのストイシズムを支えるものこそが、
そんな境遇にに対する、謙虚さ、
あるいはそう、素直さ、である、べきなのだ。

そう、端的に言って、それを、真面目さ、と、俺達はそう教わってきた筈だ。

真面目さ。

ああ、そう、またそこに帰ってきたしまった。

がしかし、もうここまで来たら、そう言い切るしかないだろう。

世界をぶっ飛ばしたこの三人の天才達。
イチローと、錦織と、そして、中元すず香、
その共通点とは、

まさに、真面目さ、その一言に尽きる。

そう、ひとたび、日本人として生まれてしまった俺たちである。

体力、筋力、に明らかに劣る俺たちにとって、
武器となるものはまさに、頭脳と、そして、精神力しかない。

その頭脳と精神力、その支えとなるものは、まさに、素直さ、であり、
その素直さの根源とは、端的に言って、真面目さ、なのだ。

日本人は本来、真面目な、民族である。

あるいはその歴史的な背景から、その真面目さ、を疑わないで過ごしてこれた、
それも一つの地の利、恩恵であり、つまりは才能である。

真面目に生きることが徹底的にバカバカしくなる、
そんな屈辱を重ねてきた大陸型の民族の前に、
日本人にはまだまだ、傍目には「バカ」と思わせるほどの、
生真面目さ、というものを、しっかりと温存しているのである。

その生真面目さを失ってしまっては、もはや、この短躯の日本人には、
何一つとしてなにも、誇れるものなど無い、と思い知るべきである。

と同時に、日本人に誇れるもう一つの特性。

あの狭く閉鎖的な島国という牢獄の中で、熟しに熟しきっては、
煮詰まるに煮詰まり尽くした人間関係を支えてきた、一つの大きなる才能。

それは、気配り、である。

ではその、気配りの本質とはなにか。

ぶっちゃけそれは、他者を思いやる、心。

その他者を思いやる、というもの、翻訳すればなにか、

ホスピタリティ、とは敢えて言わない。

その思いやりを、戦術的に転化させるならば、

ひとえに、シミュレーション能力、と言っても過言ではない、と思う。

他者を思いやる、つまりは、他者がなにを考えているか知る。

そのためには、他者の立場に立った時、世界はどう見えるのか、

それを探る、想像力、である。

このツイッター時代、自分勝手なつぶやき、つまりは、骨髄反射的な戯言にまみれきった時流の中、
そこに、妙な軋轢を産むのは、まさに、この、他者を思いやる思いやりの心、
あるいは、思わず想像力を先走りさせては、相手の真理を深読みして、疑心暗鬼に陥ってしまう、
そんな事象のその全てが、実はこの、日本人という民族の持つ一つの特性、

気配り象徴される、想像力、如いてはシミュレーション能力、そのあまりにも卓越した能力によるもの、
と理解するべきなのだ。

つまりはそう、三人の卓越した日本人、
彼らはその日本人としての能力をいかんなく、
戦術として最大限に利用した、ということなのである。

ではその想像力が、最も効果的に発揮される場所とは何か?

試合中に、ああ、ここで勝っちゃったら、あの人ちょっと可哀想すぎるよね、
なんていう妙な気を回している筈もない。

そう、その想像力は、練習中において発揮させるものなのである。

いついかなる時にも、試合を想定してシミュレーションを繰り返す。
全ての練習が、試合を想定した中で行わている筈である。

その実践的なシミュレーション能力に貫かれた効果的な練習、
それこそが、この卓越した天才たちに共通する能力なのではないか、
と思うわけである。



改めて言う。

イチローと、錦織と、そして、中元すず香、その共通点とは、なにか?

この世界に名を轟かせる三人の天才たち。

つまりは、日本人が世界を相手に勝負をする時、

その武器になるのは、

技の美、つまりは、日頃の弛まぬ練習を支える、ストイシズムであり、
如いては、それを自身にしうる、謙虚さ、つまりは、素直さ。
ぶっちゃけ、生真面目さ、なのである。

と同時に、空気を読む、読める力、
つまりは、気配り、と表現されるその豊かな想像力:シミュレーション能力。

生真面目さ、と、気配り、

この、いかにも耳からタコが出てきそうなその言い古された2つの訓言。

それこそが、日本人が全ての人類に誇れる、才能、つまりは、唯一絶対の武器、なのである。

ひっくり返せば、そう、世界の中で、真面目さのかけらもない、
徹底的に好い加減で、自分を甘やかした、そんなどうしようもない輩が、
その身体のでかさと適当さ、だけを武器に、いかに楽して、効率よく、
なんてことばかり考えている、どうしよもない、アフォ。

と同時に、自分のこと以外、まったくなにも目に入らない、
猪突猛進というよりは、徹底的に想像力の欠落したバカ、

実は世界に出ると、そんなのばっかりというか、実はそれが、大陸気質、というか、
そう、ぶっちゃけ、そういう輩が、実に実に多い訳だ。

そんな、アフォ、あるいは、バカに対して、
妙に、日本人的なスタンダードから、ついつい、無駄な気を回しは、
妙な深読みを暴走させてしまったり、
あるいは、時として、バカの自信に貫かれたその強引、を前に、
ついつい押し切られてしまったり、
なんてこともあるが、
経験的に言って、そういう輩は、ただ、真面目さの足りない調子の良いだけのアフォ、
そして、徹底的に想像力の欠如した、バカ、ただたんにそれだけ、であることが多い。

そんな、牛並、あるいは、猪、あるいは、そう、虫、のような輩を相手に、
イタズラに、気を回すことが、バカバカしくも思えるが、
それは短絡、である。

俺たち日本人は、真面目さ、そして、気配り、それを徹底的に鍛えられた、
類まれな民族なのだ。

まずは、敵を愛すること、それこそが勝負の極意。
敵の心を読み、その思惑を理解することにより、
敵の存在そのものをすべてくるりと包み込んでしまう。

それこそが、日本人にしかできない強力な武器、
まさに杉山愛さんの美学、そのもの。

その日本人に特有する類まれな能力。
それを武器に転化するためにはどうしたら良いのか、
それをとことん考え抜きながら、
日々、馬鹿と言われるほどに生真面目に練習に励む。

そんな特殊な能力を持ち終えた俺達、日本人が、
ひとたび「悟り」を見た、その時、
勝負はもはや、手中にしたも同然なのである。



どうでしょう。

あまりにもジジ臭くも説教臭く、あるいは、そう、思わず聞き飽きたぜ、そんな戯言、
と、唾棄したくなる、そんなことばかり、な筈。

そう、俺だって、面と向かって言われれば、ああ、判った判った、と苦笑いを浮かべて背中を向ける筈。

ただ、そう、現実問題として、
イチローと、錦織と、そして、中元すず香、その共通点、
そこに共通するものが、その生真面目さ、と、気配り的な戦略の極意、
それがここまで、顕著に現れてしまった以上、

果たしてこの数十年における日本国の低迷の、その根源にあるのが、

実は、バブルの狂騒から始まる、その自制の美:ストイシズムからの、脱落であり、
と同時に、アメリカ通面した売国奴の軽口に騙された、
俄な、成果主義と、コスパ的効率ばかりの表層的短絡に奔走した結果、
と同時に、あの島国の中に、富と貧の二分化を図っては、
隣人を憎ませる、という疑心暗鬼の中で、日本国の底力であったチームプレイを軽視した結果、
その、全ての、軽率によるもの、日本人が日本人自身を軽視し、蔑ろにした結果、
と、言い切ってしまって良いかとおもう。

という訳で、反面教師的に、この三人の天才の中になにを学ぶか。

開き直ることだよ、日本人。

俺達には、知恵:頭脳、と、思いやり:真心、しかない。

生真面目さと、そして、気配り、そんな民族なのだ。

それに立ち返ろう、それ以外、このグローバル化の荒波を生き抜く方法は無い、、そう思い知るべきである。



ただ、そんな精神論だけに終始するというのも無責任であらう。

という訳で、またいつもの老婆心から、一歩踏み込んで、

であれば、どうする?その提言を申し上げたい。

では、その為に、まずなにをするべきか?

決まっているだろう!

まずは隣人を愛すること。そして、隣人を含めたうえでの、自分を愛すること。

そしてそのためには、その大いなるお手本をご拝見するべき。

ぶっちゃけ、それは、

ベビーメタルの東京ドームに行くこと!

それ以外、ないだろう、と。

日本の美、あるいは、その底力、その全てが、ベビーメタルの中に見出さる筈だ。

これが世界をぶっ飛ばした日本人のパワーそのものなのだ。

出来る限り多くの日本人たち、その美を取り戻すために、

ベビーメタルの東京ドームは、まさに、日本の復活を促す、歴史的な祭典なのであーる。

んだよ、結局そこに落としたのかよ、と。

お後がよろしいようで。



  • password
  • 管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

月別アーカイブ

検索フォーム