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ワグナーと天津丼 ~ 男のズボラ料理という禁断の花園

Posted by 高見鈴虫 on 11.2016 日々之戯言(ヒビノタワゴト)   0 comments

「トリスタンとイゾルデに誘発された突如の天啓」

という訳で、かみさんのいない週末。
この月曜日がコロンバス・デイの祭日で、
待ちに待った三連休である。

金曜の夜から例のベビーメタル東京ドーム、
その究極の海賊盤とやらと朝まで格闘した後、
一抹の達成感の中、眠らぬままにセントラルパーク。
普段の犬仲間との会話の中で、
ああ、そう言えば今日、
メトロポリタン・オペラ12時からのマチネで、
確か、サイモン・ラトルが、ワグナーのトリスタンとイゾルデを演る筈、
なんて情報に思わず驚愕。

おおお、ワグナーか、しかもトリスタンとイゾルデ、
言わずと知れた、オペラの最高峰、その終着点、という奴であらふ!

ただ、お手頃のファミリーサークルの席は発売と同時に売り切れ、との事で、
流石にオーケストラ席に500ドル払う気はないものの、
でも大丈夫! 立ち見だったら当日券で20ドル、
とさらっと言われて思わず絶句した。

そう、まさしくのワグナーである。
言わずと知れた長文、ならぬ長曲の人である。
あの四時間の地獄の長丁場を、
ただでさえ寝不足でふらふらのまま、
立ち見でご鑑賞、ってのは。。。
うーん、さしもの俺もちょっと考えてしまう。

ただなあ、サイモン・ラトルだしなあ。
しかもトリスタンとイゾルデである。
ああ、あのプレリュード、
”果てしない官能の海を、
あてどなく漂流しているような、
あのなんともいえない浮遊感と陶酔感・・・”

その前奏の10分だけでも、まさに一生もの、
であらふ。

などと考えていた、その矢先、

それはまさに、魔がさした、といふのであらうか、
突如として、この秋晴れの青空のした、
いきなり稲妻に打たれたかのような、
その衝撃の中に我を失ってしまった、のである。

そのいきなり押しよてせてきた激情。
狂おしいほどに、
生々しくも迸るほどのリアリティを伴っては、
一瞬のうちに全てを押し流してしまった
この圧倒的なまでの熱情のイメージ。

あの艶やかに輝く、滴るような飴色の蜜に覆われた、
これ以上なく滑らかな、柔らかくふっくらとしたお椀型の、

唇を寄せた途端、熱く立ち上るその濃厚な芳香。
噎せ返りそうに、甘く、酸っぱく、そして・・

ああ、そう、そうなのだ。
それはまさに、悪魔の囁き、
果てしない官能の海をあてどなく漂うような、
あの、熱い陶酔のその記憶、

それはまさに、トリスタンとイゾルデに誘発された、
妖しくも豊満なひとつの絶対的な啓示。

ああよりによってこんな時、
妻のいない週末の、この清廉な秋晴れの下で、
久しく忘れていた、その狂おしいまでの悦楽の記憶、
固く閉じた瞼にありありと蘇るあの魔性のお椀型、
嗚咽を噛み殺しながら、身を引き絞りながらも、
しかし、今となっては絶望的なまでに遠い存在である筈の、
しかしなんとしても抗いきれない、この切実なまでの幻惑。

そう、ここニューヨーク、
世界中からの選りすぐりの文化がしのぎを削る、
そんな、世界の坩堝のような街であったとしても、
金さえ払えば、どんなものでも手に入る筈の、
この背徳の都。
で、ありながら、
しかし、あの、甘酸っぱい蜜に浸された魅惑的なお椀型、
それだけは、さしものニューヨークと言えども、
手に入れることは不可能であった、
その忘れかけていた欲望の形。

私は妻を呪った。
なぜよりによってこんな時に、お前はここに居ないのだ。
そして私は、この不幸の元凶ともなった、妻の母、
つまりは私の義理の母、
娘が帰国をしたその直後に、
玄関先で滑って転んで手首を折ってしまった、
その老いた母の面影にさえも、
思わぬ舌打ちを響かせながら、
そして、こんな時に限って、
いきなり押し寄せてきたこの厄介な欲情の津波。

その、あまりに絶望的な熱情を心の底から呪いながらも、
しかし、いまや胸のうちにありありと蘇る、
火傷するほどに熱い、濃厚な飴色の蜜に浸された、
あのたまらなく滑らかなあの禁断のお椀型。

いまにも五臓の全てから怒涛のように鳴り響く地鳴りを全身に感じながら、
思わず、この摩天楼の渓谷の底から、激情の雄叫びを迸らせていたのだ。

ああ、天津丼が、食いたい!





「天津丼というこの未知なるもの」

改めて天津丼である。

今更ながらこれがなかなか不思議な食べ物である。

中華料理でありながら、中国には存在しない。
丼、と称されながらどんぶりには盛られない。

そう、天津丼こそは、中華とは謳いながら、
日本の生んだオリジナル、日本風中華料理、なのである。

肉や魚、というメインの主役が存在せず、
玉子の下には普通の白いご飯である。

このあまりの宙ぶらりんさ、
その大いなる欠落に、
玉子にカニかまを入れてみたり、
あるいは、ご飯を炒飯にしてみたり、
と色々やりたくもなるが、
だがしかし、
天津丼のその王道は、
白いご飯と、玉子、そして、あの究極の、甘酢餡かけ、なのである。

そうなのだ、天津丼のその主役たるものは、
実はご飯や玉子ではなく、ましてやグリーンピースでもなく、
まさにその、甘酢餡かけ! それ以外にあろうか。

だがしかし、と考える。
天津丼の甘酢餡かけ、あの熱々のとろとろこそが、
うなぎの蒲焼きのタレ、と同じくして、
まさに、職人芸の極み。

素人には早々と手出しできる代物ではないのではないだろうか、
そんな臆する心に、しかし、それが難しければ難しい程に、
狂おしくも止めどもなく湧き上がってくるこの激情。

あああ、天津丼、てんしんどん、天津丼が食べたい!

と、そう思った時には、既に、
ワグナー?なにそれ?
ってなぐらいまで、
この身も心の全てが、既に天津丼、
その果てしない官能の海をあてどなく漂流しているような、
あのなんともいえない浮遊感と陶酔感に満ちた甘酢餡かけの芳香の中に、
なにもかもがすっかりと、掻き消えていたのであつた。





「背徳の都の唯一の欠落」

という訳で、散歩の帰り道に、友人に電話をしてみた。

そう、この人種のるつぼのニューヨーク、
世界中のありとあらゆる欲望の吹き溜まりである。

天津丼ぐらい、無いわけがないではないか。

天津丼? んなもの聞いたことねえなあ、
と友人がいう。

だってさ、ジャパレスだろ?
どんなになんちゃってかましたって
一応は和食屋。
そんな寿司だ刺身だ天麩羅だってところもって来て、わざわざ天津丼なんていう、
中華物を頼む客、あんまいないだろと。
まあどんぶり物専門店てのもあるにはあるが、
それにしたって、丼ものの王道、と言えば、
言わずと知れた牛丼、あるいは、カツ丼、
うな丼、天丼、そして海鮮丼。
わざわざ天津丼などという、中華とも和食とも取れない、そんな中途半端なものを、頼むシチュエーションがなかなか思い浮かばない、
というのも判らないではない。

どうしてもと言うなら、
どこぞの高級チャイニーズに、
餡かけの蟹玉子を出している店があるから、
それをご飯にぶっかけたらどうだ?
ただ、30ドル、とあるけどな。

三千円の天津丼。
つまりは、最高級天津丼、という奴か。

中華丼なら聞くけどさ、あんななもの、自分でもすぐに作れるだろう。

作る?中華丼って、自分で作れるのか?

だってあれ、野菜炒め、だろ?野菜炒めて飯にかければいいだけじゃねえか。

いやでも、あのとろとろしたのとかは?

ああ、あれ、片栗粉だろ?水に溶かしてぶっかければいいんだよ。

片栗粉?片栗粉ってこっちでも売ってるのか?

ああ、コーンスターチだろ。

コーンスターチと片栗粉って同じなのか?

いや、厳密には同じじゃないらしいが、代用できるというか。

そうか、そういう物か。

あのなあ、と友人が言った。

おまえ、そんなことグタグタ言ってないで、なんで自分で作らねえんだ?

自分で作る?料理をか?

ああ、自分で作れば良いんだよ。アパートにキッチンあるんだろ?

ああ、でも、な。

普段から奥さんにおんぶにだっこで、料理なんか作ったことねえんだろ。
いいか、21世紀、男だって料理は作れるんだよ。
そう、設計図がある。クックパッド、知らない訳じゃないだろ?
その通りに作れば良いんだよ。
楽譜や、プラモデルや、システム構築とおんなじ。
その気になれば簡単なものさ。



「料理というその禁断の花園」

なにもかもが図星であった。

俺はここ数十年、まともに料理を作ったことがない。

嘗ては、止むに止まれぬ金銭的な事情から、
何度かトライをしたこともあったのだが、
そのたびに、心の底から悔やむ、どころか、
小銭をせびった共同出資者である友人からの罵声を浴びることにもなった、
あの痛恨の極み、その苦い思い出。

んだこれは!?辛すぎて食えねえ!
貴重な財産をすっかりゴミにしちまいやがって

そう、俺は料理が下手、なのである。

どういう訳かなにをしても、ついつい、やり過ぎてしまう、のである。

という訳で、かみさんと知り合って以来、
俺はこと料理に関しては、手も足も、そして口さえも、出したこともない。

かみさんから出されたものは、文句も言わず平らげる。

出された料理は、精一杯、力の限り、美味しそうに食べる。食べ尽くす。
それだけが、唯一の取り柄、というぐらいにまで、
俺はその、大食らいと、そして、早食い、強いてはその神をも恐れぬ悪食には、
ちょっとしたプライドさえ持っている。

ただそう、それもこれも、自分では料理が作れない、あるいは、
自分で作った料理が死ぬほど嫌いで、そんなもの一生でも食べたくない、
そう思い知らされてきた、過去の偽ざる苦い教訓からの処世術であったのだ。



「甘酢餡かけという聖域」

だがしかし、そう、いまの時代、この21世紀、つまりは、インターネットの時代である。

人類の英知の全ては、
インターネットのデータベースの中に吸い上げられ、
いや、蓄積、されている、その筈、である。

という訳で、友人からの助言に従って、天津丼、と検索をかけてみた、その途端に、

な、な、なんだって、というぐらいにまで、ずらりと並んだ 天津丼の作り方、である。

いったいどんな訳で、世界中でこれだけの人々が、
天津丼の作り方について薀蓄を並べ立てる必要があるのか、
というぐらいにまで、次から次へと、私の天津丼、そのレシピが勢揃い。

そうか、この広い世界には、
多分、俺の同じように、
秋晴れの青空の下、ワグナーの調べの中で、
いきなり、汝、天津丼を食さん、
ってな啓示を受けてしまった奴ってのが、
沢山いる訳なのだな。
ああ、これをシンクロニシティと言わずしてなんといおう。

下手をすれば、いまこの時点で、
世界の何処かにいるであろう、天津丼が食べたい!と思い立った、
名前も顔も知らない同志と、天津丼の作り方について、
共同学習、なんてことさえもできる、そんなご時世である。

という訳で、天津丼である。

きくらげ、たけのこ、かにかま、ねぎ、グリーンピース、とあるが、
そんなもの、俺にとっては、まさに取るに足らない二次的な問題である。

ぶっちゃけ、天津丼の真髄、その隠れた主役たるものは、
まさに、餡かけ、つまりは、あの必殺・甘酢餡かけ、である。

で、この甘酢餡かけ。

出汁、醤油、砂糖、酢、そして、その秘法の極みであるところの、
とろとろ、つまりは水溶き片栗粉。

つまりはそういうことであったのか。
これがあれば、なんとか、なりそうな、そんな気がしないでもない。

出汁汁、これがなんの為に必要なのか今ひとつイメージが沸かないのではあるが、
ふと見れば封を開けたまま放置されていた訳のわからない本だしのような粉末。
どうも舐めてみると、鰹だし、のような気がしないでもない。

そして醤油、と、米酢、そしてごま油。
これは、普段からの吾輩の唯一のレパートリーである冷凍餃子、
これに使用するために常時揃えてある。

という訳で、近所のスーパーで、玉子とコーンスターチ、
そして、冷凍グリーンピース、を買い揃えて、
いざ、と思ったところで、おっとっと。
そう、我が家には、砂糖、が無かったのである。

俺は珈琲に砂糖は入れない。
あるいは、甘い料理そのものがあまり好きではない。
しかもそう、嘗てのバンドマンであった俺は、
まがりなりにも一応は常時ダイエット中、その心得は持ち続けてしかるべきもの。

そうか、我が家には砂糖というものが存在しないのか。
しまったな、ただ、今更わざわざ砂糖など買いに行く気もしない。

という訳で、キッチンシンクの下から発掘されたみりん。
これ、いったいいつ買ったものなのか、とは思いながら、
アルコール含有である以上、早々と腐るものでもないだろう。
そしてついでに、と閃いた、うなぎの蒲焼のタレ。
隠し味たるオイスターソースの代わりに、
このうなぎの蒲焼のタレ、
これで甘みはかなり補充できる筈、である。

という訳で、時は満ちた。乗るか反るか。
出費としては、玉子とコーンスターチ、それと冷凍グリーンピース。
たかだか5ドルにも満たない。

俺はもうすでにカタギなのだ。
それぐらいの出費でうだうだと悩むこともないではないか。

やってみることだ、まずはやってみることだ、
そう、せいやそいや戦うんだ。

ゆけ、究極の東京ドーム海賊盤のベビーメタル、
これをBGMにしていれば、怖いものなど、なにもない、その筈じゃなかったのか!?




「もっと素直に生きてください!改めて蘇る耳痛杉の苦言」

という訳で、結果から言えば、大失敗、であった。

そう、甘酢餡かけは、できた。

コーンスターチで代用されたそのとろとろ風味、
これも、かなりたまたまのドロドロ、オタマジャクシの卵、のようにはなったが、
一応それなりにそれなり、ではあった。

玉子焼きも、ついついかりかりのパサパサになってしまったものの、
それなりに玉子の味、だけはするようである。

が、
問題は餡かけ、その量、である。

そう、俺は餡かけを、作りすぎたのである。
作りすぎたのは判っていながら、またいつものズボラの虫、
思わず、フライパンごと、ドバーっと、ぶっかけてしまった、のである。

結果、ご飯、あるいは、玉子そのものが、
完全に餡かけの海の中に埋没するような形となり、
これは天津丼、というよりは、ちょっと見、ラーメン、
あるいはそう、天津丼風のリゾット、と言った趣。

まあ良い、一応、そう、それらしき香りはするではないか、とは想いながらも、
口を開けたとたんに、うっと、咽そうになるその強烈な甘酢の芳香。

そして、もう、ヒタヒタというよりは、
そればかり、という甘酢餡かけの風味に、
玉子の味もご飯そのものも、完全にかき消されてしまっている。

そうか、そういう訳か。

そう、何事もや過ぎてしまうこと、
これが、俺の美徳でもあり、
そして、俺の人生の間違いにおける、
そのほとんど全ての元凶となる、困った資質、である訳か。

それに加わる、もう一つの真理を、俺はこの天津丼の中に思い知らされることになった。

俺は、言われたことを、そのままに、素直に、実行することが、できない、のである。

なぜ、こんなことになってしまったのか。

理由は簡単。書いてある通りに、それを行わなかった為、である。

ほらここに、出汁汁150CC 醤油小さじ1、砂糖大さじ2、酢大さじ2、
そして、水溶き片栗粉、1:1 と、しっかり、ここに、書いてあるではないか。

そう、原因は、大さじ、小さじ、ってのが、いったい、どれを指して大さじ、小さじ、というのか、
その曖昧な表記を見た瞬間に、これは、もう、自分でアレンジするしかないな、とタカを括った結果、
それがこの、あまりにも膨大なオタマジャクシの卵、
ならぬ、餡かけドロドロ、その失敗の原因になっているのである。

つまりはそう、ぶっちゃけ、真剣さ、
及び、このレシピ、という秘法の書に対する、尊敬が足りなかった、
そのせいなのである。

俺はいついかなる局面においても、真摯さ、そして、謙虚さが足りなすぎるのであるな。

嘗て聞いたあの、俺自身に対する辛辣なる苦言が蘇る。

もっと謙虚に生きてください、

あの、耳の痛杉の大金言的な苦言、
そのまさに、そのままに、俺はこの人生において、
謙虚さ、というダークスポット、
そのあまりにも辛辣な罠の中でもがき続けていた、
それだけだったのではないか。

改めてこの天津丼、これは人生訓、
というにはあまりにも強烈なしっぺ返しであった。

うーん、これは、ひとつ、学んだな。

そう、俺は思い知ったのである。

俺はもっと、謙虚に生きるべきだったのかもしれないな。
この、もはやラーメン、どころか、
地獄の甘酢雑炊と化した天津丼を前に、
これを機会に心を入れ替えてすべてをやり直す、
そう思い知らされたのである。



「もっと謙虚にクックパッド、という真理」

という訳で、大失敗に終わった天津丼。

もう一生、甘酢餡かけだけは見たくない、
そう思えるほどに、
こと甘酢餡かけだけは、思い切り、まさに一生分、堪能させて頂いた。

ではあったのだが、学んだことは多かった。

汝、謙虚にあるべし、と、同時に、一つの可能性、である。

その気になれば、俺でも料理が作れる。

つまりはそう、謙虚にあること、
ぶっちゃけ、書いてあることをそっくりそのままやれば言い訳なのだろう、と。

今更ながら、これは俺にとって、まさに、とんでもない大発見であった。

かみさんが居ないと、飯が食えない、
このあまりにも大きな人生の箍の中から、
俺はついに自分自身を解き放つことに成功した、のであある。

料理か、と思った。

そうか、俺にも料理が作れるのか。

そう、21世紀である。人類の英知はすべて、インターネット、
そう、今回で言えば、このクックパッド、というサイトに、
それこそ山のように蓄積されている、のである。

もっと謙虚にクックパッド。

この嘗て知り得なかった新しい世界、
つまりはそう、料理、という未知なる世界への、挑戦が始まったのである。



「必殺・ハラペーニョ・青椒肉絲」

という訳で、

さっそく次なる挑戦は、いきなりの青椒肉絲である。

俺はずっとどういう訳か青椒肉絲が気になっていた。

がしかし、ここアメリカにおいては、
いまだに俺の思い描く究極の青椒肉絲、というものには巡り合ったことがない。
ぶっちゃけ、味の素のクックドゥを買ってきてきてしまえば良いのであるが、
そこでまず第一にぶち当たる障壁、
つまり、アメリカには薄切りの肉、
なんていうチマチマしたものは、売っていないのである。

そんなものステーキ用の肉を細切りにするだけではないか、
と言われてみればそうなのだが、
それは果たして、ロースなのか、リブアイなのか、
あるいは、フィレミニヨンなのであろうか。
そう考えれば考える程、
うーん、それってちょっと、俺的には難易度が高すぎねえか?なわけである。

という訳で、事もあろうに、挽肉、で代用することにした。
理由は簡単、切る必要がないからである。

しかし、次なる障壁はまさにピーマンである。

こちらのスーパーにあるピーマン。
ぶっちゃけグリーンペッパーであるのだが、
嘗て日本で知ったあのピーマンとは似ても似つかない、
つまりはそう、大きすぎる、のである。

この何事においても、わびさびに欠けるアメリカ。
なにもかもが、大きすぎ、ずぼら過ぎ、
そして、ご多分にもれず、全てが大味、なのである。

あの片手にも余る、しかし、そのエキスを濃縮したような、
日本の小ぶりなぷりぷりとした可愛らしいピーマンちゃん、
そんな日本の美の象徴たる、小さく可愛く美しく、に比べ、
こちらの米国産のグリーンペッパー、
それはまさに、バケモノ、というぐらいにまで、
どわーんと、ボワンボワンに大きい。
ただただ無駄に大き過ぎる、のである。

クックパッドにある、ピーマン、3つ、というその度合が、尺度が、
ここアメリカではあまりにも違い過ぎる。

くそったれ、何から何まで、と思わず舌打ちである。

これはまさに、アメリカン・バイトである。
日本の常識が一切に渡って通用しない。

だがしかし、と唇を噛みしめる。
こんなことはいまに始まったことではない。
ここアメリカという土地に来て以来、
なにかにつけてぶち当たってきた、
あまりにも歴然としたこの二つの文化の障壁。

こんなところで負ける訳にはいかない。

子供電話相談室ではないが、絶望は愚か者の結論である。

人間を絶望から救うものは、せいやそいや戦うんだの飽くなき闘志と、
そして知恵、である。

でそう、こうなれば、とまた、いつもの挑戦者としての血、
ぶっちゃけ、人に言われたことをそのまま実行する、
という謙虚さに対する嫌悪感が立ち上ってくる訳である。

バカタレ、このくそピーマンめが、
その掟破りにでかすぎるピーマンこそが、
全ての常識が通用しない無手勝流の土壇場の象徴である。
俺の置かれたこの状況の中においては、
どうしてもこの、言われたとおりに謙虚に生きる、
その姿勢そのものが、通用しない訳なのである。

俺はやはり、俺の道を行く、べきなのだ。

それがたとえ、雑炊状態の天津丼、なんてものに化けてしまったにしても、
俺はやはり、そんな失敗の中から、俺なりの方法という奴を見つけ出す、
その知恵の7つの柱、その構築がどうしても必要な宿命、であるようなのである。

という訳で、ふと閃いたのが、よりによって、ハラペーニョである。

ハラペーニョ。
言わずと知れた、メキシコを原産とする、
あのお化けのように巨大な青唐辛子。

その一欠片、誤って口に入るだけで、
全ての味覚が吹っ飛ぶほどの、まさに強烈な激辛の逸品である。

そしてこの掟破りのハラペーニョ、
まさにこのメキシコの青唐辛子が、大きさから言うと日本のピーマンと、
割と似ていないこともない。

そう言えば嘗て、なんちゃって四川料理屋で出てきたあの青椒肉絲。
なんとピーマンの代わりに、このハラペーニョが使われていたのを思い出したのである。

あの口がひん曲がるぐらに辛い辛い辛すぎる青椒肉絲、
あれはあれで、なかなか食い出があったではないか。

という訳で、ハラペーニョと、そして、牛肉の挽肉を使った青椒肉絲。

前回の失敗に懲りて、その調味料の分量、その比率だけは謙虚に謙虚に。

つまりは、醤油大1、味醂大1、酒大2、
砂糖のかわりに味醂、そして、オイスターソースの代わりにうなぎの蒲焼のタレ。
片栗粉と水の比率は1:1である。

テカテカに熱したフライパンにごま油を引き、
牛肉の挽肉の上から、えいやあとばかりに細切りにしたハラペーニョ、
そして上記の調味料を投入。
じゅわじゅわと立ち上る香ばしい白煙の中、
そして必殺水溶き片栗粉をまぶしてはかき混ぜるだけかき混ぜて出来上がり。

という訳で、結果、である。

これはもう、自分で言うのもなんだが、まさに絶品であった。

そのハラペーニョの香ばしい、その強烈な辛味、
そして、牛肉の旨味の凝縮されたとろとろの餡かけ。
ご飯がもう、山のように進む進むで、丼三杯がぺろりとなくなった。

なんだそうか、そういうことか、なのである。

これはなかなか面白い。
思ったほどに手間もかからず、いや、手間は掛かるのであるが、
その結果が割とあっさりと得られること、そしてこのなんとも言えぬ達成感。

このささやかな達成感の中に、ちょっとした幸せ、なんてものも、感じられない訳ではない。

そうか、料理か。男のずぼら料理。これはこれで、一つのテーマではあるな、と。



「仕事として家事をこなす、この金言」

これまで頂いてきた聡明なるコメントの中に、ひとつの金言、
名前も顔さえも見知らぬ、その賢人からの、まさに、珠玉の名言があった。

「仕事として家事をこなせ」

そう、そうなのである。

家事を舐めてはいけない。
家事は女のもの、と舐めてかかるところに全ての間違いがある。

そう、男たるもの、家事を仕事としてこなすこと。
その、覚悟が必要なのである。

つまりは仕事。
真摯に、そして、謙虚にそれと向き合い、
綿密な計画とシュミレーション、そして、妥協を許さぬ姿勢。
そしてその結果の中から、辛辣な経験則を積み上げること。

そう、家事に対し、仕事として積極的に対峙すること、

これが、21世紀の男道、その、新たな緒:いとぐちになるのではないだろうか。

そしていま、俺はこの名言、仕事として家事をこなす、その礎を持って、
このシングル・ダディの暮らしに果敢に挑戦をするべきなのである。

そのひとつのきっかけが、天津丼の啓示から始まる、
男のズボラ飯、その料理に対する開眼であった。

という訳で、料理である。

信じられないことここの俺が料理をしている。
それも割と楽しんでいる、のである。

改めて言う。料理は割と面白い。
そこには明らかな挑戦、欲望と、閃きと、計画と、実行。
イマジネーションからシュミレーションを繰り返し、
綿密な計画と下準備の元に、敏速かつ抜け目ない実行。

そして齎される結果。
その結果を、できるかぎり真摯に受け止めることにより、幾ばくかの経験が積み上げられていく。

そう、これこそが、人生、あるいは、男の仕事、そのものなのである。

という訳で、料理である。

これまで、かみさんの独壇場の中で、
出されたものを食する、
その受動的な姿勢でのみ享受してきたこの聖域に、
ついに、俺は新たなる挑戦を開始したのである。




「男のズボラ料理にベビーメタル、この究極のカップリング」

という訳で、食った食った、俺もなかなかやるじゃねえか。
といきなり調子づいた俺。

この余った食材を使ってなにか出来ないか、と知恵をひねっては、
そうか、カレーか、と思い至る。

カレーはそう、キャンプファイヤーで作ったではないか。
つまり、肉を炒めて野菜をぶち込み、水を入れて煮立ったらカレーのルーを入れる。
そう、そんなもの小学生だってできるんだぜ。
しかもカレーだ。辛いなら辛いだけでOKではないか。

という訳で、余った挽肉をオリーブオイルで炒め、
その上からニンニクパウダーを山ほどぶっかけては、
細切れにしたハラペーニョ、
構うことはねえ、と種も取らずにそのまま投入。
鍋いっぱいに水をドバドバと注ぎ、
煮立つまで待つのも面倒くさく、そのままカレーのルーを叩き込んで、
とやりながら、

リビングから響いてくるベビーメタル。東京ドームの究極海賊盤。

最近久しく、スピーカーから音を出して音楽を聴く、
という行為そのものから遠ざかっていたよな。

そしてそう、新たな発見である。

すぅの声は響く。

こうしてキッチンに篭って料理をしながら、すぅの声だけは、ドアどころか壁、
あるいは、ちょっと、生ゴミを捨てに、と外に出た、その廊下にまで、
まさに、凜々と響き渡っているのである。

改めてこのまるで超音波のようなすぅの美声である。

部屋に帰った途端に、思わずボリューム最大、まさに大音響のベビーメタル。

煮立った鍋から立ち上るカレーの香りと、そして響き渡るベビーメタル。

ああ、これを幸せと言わずしてなんと言おう。

男のズボラ料理にベビーメタルのBGM。

これがまさに、絶品というぐらにとてつもなくマッチしているのである。

賢明なる諸氏、ベビーメタルを聞きながら料理をしてみるべきである。

まさにそう、スカスカ、さくさく、全てが敏速かつスピーディでありながら、
驚くほどの聡明さ、謙虚さで、ことにあたることができる、
まさに、魔法のBGMである。

これはまさに、ひとつの発見であった。



「ベビーメタルに乗って挑戦は続く」

次なる挑戦は、豚肉の生姜焼き、である。

ポークソテー、というよりは、ポーク・ステーキ用の厚切り肉にを、
うなぎの蒲焼のたれをふんだんに使った甘辛生姜醤油に漬け込んでおいて、
それに加えて、辛いもの好きの俺、
どうせ俺しか食うもののいないズボラ飯、その極みである。
誰になにも気兼ねすることもなく、
次なるはハラペーニョの代わりに、シシトウ、これを山ほど使っては、
ピリ辛シシトウのその辛辣をサイドに加え、まさに珠玉の逸品。

おいおいおい、これはまさに、美味!
それも、割と、おい、凄いの作っちまったぜ、
と世界に向けて自慢したくなるほどの見事な出来栄えである。

そして、パスタ、である。

これまでパスタといえば、瓶詰めのトマトソース、
あるいは、混ぜるだけのたらこスパティに依存していたこのパスタ料理。

今回は、ベーコン、トマト、に加えて、
犬の散歩の途中に出くわした、ウィークエンド・マーケット、
そこに山になった産地直送の生ベイジル。

これを見た途端、まさに、天啓に呼ばれるように、
嘗て、学生時代のバイト先であった恵比寿駅前、
あそこで迷い込んだこじゃれたパスタ専門店、
バイト先の上司とやらにご馳走してもらった、
忘れもせぬ、あの今日のランチスペシャルの、
青しそ風味の絶品スパゲッティ!!

今になって、あれが、どうしても、どうしても、
食べたくなったってしまったのである。

という訳で、究極のバジリコ・スパゲッティである。

その新鮮な食材の風味を最大限に引き出す為に、
敢えて調味料は一切使わず、
その代わりにちょっと多めの塩を加えて茹で上げるパスタ。

そのパスタを茹でる間、こそが勝負である。
火にかけたフライパンに、まずはベーコンの細切れ、
にするのもベタベタして面倒くさく、
そう言えば、と嘗てアジアのストリート屋台で見たあの料理法、
つまりは、カンカン熱々のフライパンの上から、
ハサミを使ってベーコンを一センチ大にちょんちょんちょん、と切り落とし、
途端に火を吹くようにジョワジョワと騒ぎ始めるフライパン。
熱して熱して、熱し切ってはベーコンの油がひたひたに溢れでたところに、
狙いすましてざく切りのトマトを投入。

それがべちゃらないうちに、ちょうど茹で上がったパスタ。
モウモウと湯気を立ち上らせる茹でたてのパスタをえいやあとぶち込んでは、
片手に抱え上げたフライパン、
せいやそいや、と、掛け声を響かせては、
混ぜる混ぜる、まさに、ひとりでお祭りのような賑わいである。

そしてベイジルである。

何事にもやりすぎてしまう俺は、予想通り、
どう考えてもこんなベイジル、いったいどうやって食うんだよ、
というぐらいまで、まさに山のように買いすぎてしまったのだが、
こんなもの冷蔵庫に置いても腐らせるだけである。
構うことはねえ、と、鷲掴み、どころか、
いきなりそのベイジルのパンパンに詰まったビニール袋、
それごとを逆さまにしては、その丸ごとをそのまま、
パスタに埋まったフライパンの上にぶち撒けて、
とこれはもう、小気味よいばかりの究極のズボラ戦術である。

なんだこれは、もう、バジリコばかりでなにも見えないではないか。
下手をすれば、天津丼と同じ運命、
つまりは、バジリコ・スパゲティどころか、
スパゲティを具にしたバジリコ炒め、となってしまうのではないか?

そんな不安に駆られながらも、今更ビビってどうなるんだよ、と。
ここまで来たらやるっきゃねえんだ、とばかりに、
その後はまさに、男の独壇場。

これはもうヤケクソ、というか、一種の筋トレ、というぐらいにまで、
フライパンを振り回すに振り回したした挙句に、
キッチン中にベーコンの破片からパスタそのものまで、
これでもか飛び散らせながらの大奮闘。

という訳で、出来上がった究極のずぼら・バジリコ・スパゲッティ。

あれ程の英華を誇ったバジリコの山が、
いつの間にかしんなりとパスタの中に埋没しては絡み合いながら、
そのもうもうと立ち上る白い湯気から、
思わず悶絶をこきそうなぐらいの良い香りが立ち上っているではないか!

そして男の料理、その骨頂として、
まさに、パスタはフライパンごと食べる!のである。

下手すれば立ったまま、片手に持ったフライパンの中に顔を埋めては、
ぞぞぞぞぞぞぞぞ!とばかりに、象も腰を抜かすような轟音を響かせて、
すすってすすって啜り上げるそのバジリコ・スパゲティ。

その赤白緑のトリコロール、その鮮やかな見栄えと相成って、
まさに、まさに、これ以上なく厳かな味わいである。

薄味のパスタの中から、ベイジルの、そしてトマトの、そしてベーコンの、
そのひとつひとつが、一口食するごとにまるで、ホノグラムとして立ち上がるように、
絶妙の味が口中に広がっていく。

思わず膝が砕けるほどの感銘の中で、思わず、これは、やっぱり皿に盛ろう、
と俺らしくもなく神妙なことを考えては、

ねえねえ、それなに食べてんの?と隣に座った犬を侍らせながら、
フォークとスプーンで上品に味わうこの究極のバジリコ・スパゲティ。

それはまさに素材を活かしきった絶品。

一口啜るごとに頬張るほどに噛みしめるほどに飲み込むほどに、
次から次へと新たなる味覚の波が押し寄せては舌の上から、五臓六腑から、
そして髪の先のその隅々まで、このバジリコとトマトとそしてベーコンの香りに、
ひたひたと満たされていくような。

勝った!と思わず。

そう、これはもう、凄い、まさに、凄い。
俺が凄いわけではなく、ただたんに、あのウィークエンド・マーケットのバジリコが、
とてつもなく新鮮で、無茶苦茶に良い香りがしていた、
それをまさに、掟破り、というぐらいにまで無茶苦茶な量をぶち込んだ、
ただそれだけの理由であったのだが、
いや、理由はどうあれ、これはもう、大勝利!
男のズボラさだからこそ実現した、まさに、奇跡、である。


という訳で俺はその無敵なまでの調子づきの中で、
一人暮らしでついつい余ってしまう素材を最大活用。
バジリコ・スパゲティのその残り油の中に、
そのまま余ったベーコンとトマトとハラペーニョをぶち込んでは、
のその上から、カラを割る、どころか、握りつぶした卵を一つ二つ三つ。
それをぐちゃぐちゃ、とかき混ぜて、そのぐちゃぐちゃ、のままでハイ出来上がり。
これがもう、まさに口に入れたとたんに目の前が真っ白になるぐらいに、
美味い美味いの、ピリ辛オムレツ。

そう言えば、と覗き込んだ冷蔵庫。
例の生姜焼き用に買ったステーキ用のポーク。
前回が醤油なら次は味噌だ、とばかりに、
適当に味噌を塗りたくってはラップに包んで入院状態。
あるいはそう、おろしニンニクを塗りつけては、
パター風味のニンニクソティ、なんてものを画策しては、
しめしめしめ、と冷蔵庫に寝かしてはその姿を見るたびにニマニマしてしまう。

なんかさ、俺ってもしかして、料理、天才なんじゃないだろうか。

成功品、失敗品、そのどれもこれも、
食い残しはそのままパックに入れて冷凍しては、
週日の忙しい時にそのままチンして召し上がれ、の非常食に早変わり。

とそんなこんなでいつのまにか冷蔵庫がすっかり空になり、
かわりに冷凍庫は食い残しを詰めたビニール袋でぎっちぎである。

人間、貯蔵庫に詰まった食物を見るときほどに、安心を感じることはないに違いない。
ああ、これで暫くは侘しい思いをしなくても済む、
それこそがまさに、人間の安息、その根本なのだ。

嘗て、売れないバンドマンとして貧窮の底をのたうっていた当時、
バイトの給料のその封を開けないうちにえいやあと買った米の大袋。

あれを肩に乗せて帰宅の途を辿りながら、
ああ、これで、なにがあっても餓死だけはしないのだな、
そう思って見上げた夕暮れの千歳船橋の町並み。

あの、重く苦い徒労感の中に、つかの間に訪れたささやかな幸せ感の甘い香り。

久しく忘れ去っていた、あの荒みきった日常の中の、
切なさに涙の滲むような、あの、切ないまでの安堵感。

あの投げやりな思いが、なんとなくも湧き上がって来るように、
そう、この男のズボラ料理、
このシングル・ダディの侘しさを紛らわせるには、
ちょっとした贅沢すぎる道楽を見つけたな、
そんな気にもなっていたのだが。



そんな訳で、料理と飽食と惰眠の中で、この三連休も終わってしまった。

見る見ると冷たさを増した冬の夜空。

犬の散歩の中、川沿いの散歩道から見上げる摩天楼の窓明り。

夏の間の賑わいが嘘のように、
今となっては誰も訪れるものもなく、ただ風に晒される遊歩道のベンチにひとり、

そう言えば、と、
これまで認めたズボラ料理のその一品一品の証拠写真、
これを、思い切りの皮肉を込めて、
かみさんのメアドに、えいやあ、と送りつけてやった。

どうだ、恐れ行ったか。
俺にだった、その気になればこのぐらいできるんだぜ!

へーん、美味そうだろう、食べたかったらさっさと帰って来んかい!

と、そんな妙な充足感の中で、意気揚々とボールを咥えた犬と見つめ合いながら、

ただな、と思わず。

どんな美味いもの食ったって、一人で食うのはただのエサ、に過ぎないだろう。

それがたとえ、豆腐と納豆だけ、のおかずであっても、
かみさんと囲んだ食卓、それに勝るご馳走はあり得ない、あってはいけない。

つまりはそう、男のズボラ料理、それこそが、
シングル・ダディの侘しさのその結晶なのだ。

くそったれ、と思わず。

飯なんて一生食わなくたって良いから、早くかみさん、帰ってこねえかな、
そう思った途端に、まるで胸の内を冷たい風が吹き抜けるように、
この人生の全てが、徹底的にバカバカしくなったニューヨークの秋の夜更け。

男ってさ、つくづく、消耗品なんだよな、と思い知りながら、
その孤独を敢えて愉しむことこそが、
中年の男の色気の全てなんだぜ、
と、妙なところでまたやせ我慢。

くそったれ、の舌打ちを必死に噛み殺しながら、
そうやって男は、徒労を徒労と知りながら、
やせ我慢の限りを尽くして、一人で歩きつづけるのである。

ニューヨークに秋が深まっていく。





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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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