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秋の夜更けの軟体気分

Posted by 高見鈴虫 on 17.2016 日々之戯言(ヒビノタワゴト)   0 comments
かみさんが里帰りしてからというもの、
今更ながらこの欠落感というか脱力感というか、
まじ半端ではない。

普段からは顔を合わせれば喧嘩ばかりでありながら、
いなくなった途端に、
人生の張り合いというよりもその核、
意味そのものがとことんどうでもよくなってしまうような、
そんな不甲斐ない気分が続いている。

女がいなくなった途端に男はまさに風船状態。
あっちにフラフラこっちにユラユラ。
風に吹かれて気の向くまま。
そんなこんなで遊びまわっているぐらいならまだ良いが、
この歳になるともう遊ぶことさえも面倒で、
休日となっても犬の散歩と、
必要最低限の買い物以外は家で寝てばかり。

これはまさに背骨が抜けてしまった感覚にも等しく、
背骨のない生き物とはまさに軟体動物。

軟体とかけて男体、それっていったいなんたい?
なんていう親父ギャグすら冴えがまったくない。

とそんなとき、
なんとも不思議なことにも、そんな弱気を見透かしたように、
何年来、メールさえも出していなかった旧友から、

よお、ってなスカイプ電話が届いた訳だ。

という訳でさ、
まあ、男やもめのシングル・ダディ暮らしでよ。
まあなにが足りねえって訳でもねえんだが、
なんとなく、この、不甲斐なさ、つまりは軟体気分。

改めて男ってさ、まったくなんとも情けない生き物だよな、まったく、

などと要らぬ愚痴をこぼししたところ・・・

この時を待っていた、とばかりの高笑い。

ばーたれが、
それはおめえ、本末顛倒、ってんだよ、と。



それはつまりは、
女の帰りを待っている、
そのモラトリアムな時間なのであって、
男の存在ウンヌン、という問題とは、まーるで関係ない。

そもそもはなから女などいない、ということであれば、’
大前提として人生その全ては丸々に自分のもの。

そう割り切れば部屋の掃除も手料理もお手の物。
あるいは全てがやりたいようにやれば良い訳で、
あるいはやりたくないことはやらなくても誰にも怒られない。
全て、そう、なにからなにまで、てめえの好きにすればよいのである。

そう思った時、男は初めてその人生の真価、
つまりは男の遊びの真髄に目覚めるのである、と。

ぶっちゃけ時間と金、と言う。

女のために金を使わなくても良い、
とすればその時間とそして収入のほとんどを、
自分だけのために費やせる。

仕事が面白ければとことん仕事ばかりやっていれば良い。
つまらなければさっさと辞めてしまえば良い。
不況だって?
ばかばかしい。
選びさえしなければ、実は仕事などいくらでもある。

楽して格好良く、つまりは、女にもてたい、などと考えるから、
職種を選ぼうなんていう気になるのだ。
格好さえ気にしなければ、仕事などいくらでもあるんだぜ。

そんな、選ばない仕事、であれば、
グチグチ要らぬことを溜め込む前に、
飽きた、つまらん、
と思った時点でさっさとばっくれてしまえば良いわけで、
ストレスなど溜め込むのも馬鹿馬鹿しい。

そもそもストレスの本質とは人間関係。
ぶっちゃけ他人の目にどう映るか、
そんな見栄と羞恥心、
よく言うところの虚栄、
あるいは腐った自意識に起因することが殆ど。

他人の目さえ気にしなければ、
男が一人で生きていくぐらいなんの問題もない訳で、
極論にはなるが、死にたければいつでも死ねる、
その究極のお気楽さが自由の本質なのだ、と。

と言う訳で、また仕事を辞めて三ヶ月間、
タイからベトナムからカンボジアを巡って帰って来たとのこと。

日本に帰ってからも、定職など探す気もなく、
地方の温泉を回っては外国人旅行者用の安宿、
つまりは木賃宿を泊まり歩いているとのことで、
気に入った土地が見つかればそのまま、
地元の老舗旅館で住み込みの仕事でも探すかな、
などとそんな次第であるらしい。

人生の罠、その定番とは、
女と酒と博打。

これにさえ気をつけていれば、
早々とドツボに嵌るヘマも踏まない。

まあそうとどのつまりはいつでも死ねる、それに尽きる、と。

男なんてそんなものだ。

それ以上を求めた時、
つまりは本当は要らないもの、
グリコのおまけみたいなものを集め始めては溜め込み過ぎて、
その本質にプラスして、クレクレタコラの貧乏根性、
それこそが、執着の原点、つまりは罠。
要らぬ執着の中で、世間体のシガラミに脚を掬われは、
あれよあれよとドツボの底に引きずり込まれることになる。

嵌らない為には、酒と博打とそして女。

それにさえ執着を持たなければ、
人生の全てを思い切り使い切ることができる、と。

そんなくだらないことを得意げに吹聴する風来坊風情に、
心底腹が立って思わず、バカヤロウが、と。

お前にはまだ人間の深み、
その幸せの本当のところ、
つまりは愛というものの意味がてんで判っちゃいねえ。

と、そんな俺の舌打ちを見透かしたように、
ほらよ、と送られて来た写真。

ノイちゃん、タイ人十七歳。
ユンちゃん、ベトナム人十九歳。
ステファニー、カナダ人二十四歳。
アンナ、オーストラリア人二十八歳。
で、カナちゃん、
これ日本人で三十歳。
人妻だけど無茶可愛い。
いまはこの子と一緒、うっしっし。

馬鹿たれが、と言いながら、
そのあまりに生々しい自撮り写真。
さすがにハメ撮りでは無いにしても、
まさに取っ替え引っ替えってのは本当であるらしい。

思わず、あのなあ、と。
お前、まだそんなことやってるのか?
学生の頃からなんにもかわらねえじゃねえか。

間髪を入れずに、何が悪い? と一言。

朝から葉っぱ吸って、一日中本ばかり読んで、
ギターを弾き、俳句を捻り、写真を撮り、絵を描き、
山に登り温泉に入り、ご当地料理と地酒に舌鼓。

拘りもしがらみも、
自意識も羞恥心も世間体も見栄も欲も、
功名心も向上心も、
生産性もコストパフォーマンスも損得勘定も、
その浮世の執着の全てを捨て去れば、
心はまるで風の如し水の如し。

何を小癪な。
ただただ低いところに流されているだけじゃねえか。

あのなあ、その上だ下だってのからして本末顛倒。
そんなことを言ってるってことからして、
まだまだ修行が足りねえな。

くそったれ、相変わらず憎まれ口しか言いやがらねえ、
とは言うものの、
そんな奴の生き方が、歳を追うごとに重みというか、
今や凄みを増している気もしないでは無い。

で、お前、この先そうするつもりだ?
と聞けば、

北海道で有機農場をやっているコミューンがあって、
やら、
あるいは四国で漁師ってやつもやってみたい。
学生時代の共通の友人がいま九州で村興しのNGOを立ち上げたそうで、
或いはまた、石垣島に帰ってもいいな、とも思っている。

身体に自由がきくうちにやっておかなくてはいけない事が山ほどある。
こう見えてもなかなか人気者なんでね。

この野郎、と思わず。
このやろう、このやろう、このやろう、とは思いながら、
返す言葉が、見当たらねえ。

あのなあ、お前もどうせいずれはここに帰って来るんだ。
今のそのニューヨークでの暮らしってのも、
ここに帰って来るまでの過程、
或いは長い長い道草に過ぎない。ただそれだけ。
それを忘れるなよ、と。

ここってどこだよ、と聞けば。
日本だよ、決まってるだろ?

俺たちは日本人なんだよ。何があっても。
或いは、自由。
或いは、そう、お前自身。

意地を張り続けるってのもお前らしいが、
もうそろそろ、ちょっとはてめえに優しくしてやっても良くねえか?

自分に優しく?

帰りたいんだろ?日本に。
いつでも帰って来れるんだぜ。
そう思って、こうしてお前の居場所を探してやってるんじゃねえか。
心配するな。
日本はお前を忘れてはいないよ。
こう見えても、この国の懐は母のように深く広い。

そりゃ、金持ちになりてえやら、
良いところに住みてえや、
人になにかを自慢してえやら、
威張りたいやら、恥ずかしいやら、
そんなくだらないことを考えていると辛くなる一方だが、
知ったことじゃねえ、とケツをまくったその時点で、
日本って国が、がーっと、その懐を開いて受け入れてくれる。

まあ、無理にとは言わねえ。
すべてお前の自由。
なんだがな。
ただ、俺たちもそうそうとのんびりばかりもしてられねえ齢だ。
そろそろその長い長い道草の成果とやらを、
この日本のために使っても良く無いか?

あまりにもバカバカしくて思わず電話を切ってしまった。
何がバカバカしいか?
それを考えることさえバカバカしい。
俺が日本に帰る?
そう思った瞬間に何かがブチ切れて、
そしてガラガラと崩れ落ちるのが判った。

そう確かにその通り。
ニューヨークもアメリカも、
異文化理解も国際協調も、
英語も金髪女もブラウンシュガーもメスティーサも、
とことんどうでも良くなっているっては自明の理。
出来ることなら全てを投げ打って、
一路南に向けて単車をぶっ飛ばし、
日々本だけ読んでは、或いは、釣り三昧、
或いはそう、南の島で詩作にでも耽って暮らしたい、
なんてことを、常々感じて居なかった訳でもない。

何よりそう、一度、日本を出た途端に、
どこに行ってもつきまとうこの日本人っていう轍。

この呪縛から解き放たれるためには、
日本人しかいなくて当然、ってところに行ってしまうのが一番だろう、と。

そんな弱気を見透かしたように、
あざとく電話をかけてくる旧友のその言葉がいちいち気に障っては、
死ぬほどにぶっ潰された。

くそったれが。
珍しくおとなしくしていりゃあ、
好きなこと言いやがって。

という訳で、ベビーメタルを聴けば聞くほど、
ニューヨークという街とのギャップが深まるばかり。

そして未だにヒップホップやらテクノやらを聴いて喜んでいる奴らが、
心底馬鹿に思えてならない訳で、
ああこいつらもう見たくねえ、とい持っているのも正直なところ。

そう言う訳か。
そういう訳なのか?

ニューヨークの秋、
日に日に深まるこの終末感が、
今年はやけに身に染みる、
そんな気がしてならない。

改めて、アカツキ、を噛み締めてみる。

  幾千もの夜を越えて、
  生き続ける愛があるから。
  この身体が滅びるまで
  命が、
  消えるまで 守り続けていく・・












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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり
実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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