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「シン・ゴジラ」ニューヨーク来襲!~ ベビーメタル VS シン・ゴジラ:世界の歴史を覆す、そのパワーの真髄に迫る

Posted by 高見鈴虫 on 22.2016 BABYMETAL☆ベビーメタル   0 comments

おのおの方、長い長ご無沙汰であつた。

いやなに、別に寝ていた訳ではない。
ちょっとした理由から、なかなか筆が進まず、
どころではなく、
実は、進み過ぎ、
ともすると、暴走に暴走を続けていた、のである。

そう、俺はずっと書き続けていた。
夜も寝ずに、犬の散歩さえもままならぬ程に。

いったいなにをそれほどまでに、
と誰も聞いてくれないので勝手に答えるが、

ぶっちゃけ 「シン・ゴジラ」 な訳である。

そう、遂に遂に、俺はあの「シン・ゴジラ」を観た、のである。

今夏、日本映画界の話題を独占したこのシン・ゴジラ、
それがついにここ米国において、
10月11日よりの限定特別公開。

そして俺は、シン・ゴジラを観た。
こともあろうに、二回、立て続けに、観た。
そして結果、二回ともに、泣かされた。

それ以来、俺はまるで熱病に冒されたかのように、
このシン・ゴジラについての感想を書き綴っていたのである。

シン・ゴジラ、まさに衝撃であった。

それはあの五月のプレイステーション・シアターにおけるベビーメタル!
あの衝撃に勝るとも劣らぬ程に、
圧倒的なパワーを持って、
このニューヨーク流民を異境の地へと叩き込んでくれたのであある。









「シン・ゴジラ」ニューヨーク来襲!

シン・ゴジラ、
そのあまりの衝撃から、
それ以来、押し寄せる激情に駆られながら、
ここ5日間あまり、ほとんど寝ないままに、
この「シン・ゴジラ」によって誘発された様々な事柄を、
やたらめったらに書きに書き続けていた。

が、しかしながら、
どういう訳か、このシンゴジラ評、
書けば書くほどに、その焦点がずれていく。

その筆に熱がこもればこもるほど、
それはいつしか、激論から愚痴、
どころか、怨念、へと変わっていく。

そんな思念の暴走の中に錐揉み状態を続けながら、
ふとご参考までにと覗いてみたWEB上にも、
まさにこれでもか、と溢れかえる、
公開時のシン・ゴジラに対する各界からの投稿文。

いったいどれほどの方々がこのシン・ゴジラを鑑賞したのか、
そしてそのほとんど全ての人々が、
このシン・ゴジラについて、
なにかを熱く語りたがっている。

つまりこのシンゴジラ、
良い意味でも悪い意味でも、
現代日本人の心の琴線に触れた、
ということなのであろう。

という訳で、この俺である。

すっかりとそんな罠に嵌まり込んだまま、
夜も寝ないで脈絡も結論も出ない激文、
ともするとどうしても妙なところに嵌まり込んでは、
次第に興奮が、激情へ、激情が憤怒へ、
そしてその憤怒が、ともすれば愚痴、そして怨念へと雪崩込んでいく。

そう、このシン・ゴジラ、あまりにもあまりにも、であった。

それはまさに、かの311からの怒涛のような日々、
東日本大震災から、東電・福島原発の事故から、
民主党政権の倒壊に続く第二次安倍政権。
アベノミックスを始めとする大胆な経済政策、
と同時に、秘密保護法から憲法改正に向けて、
怒涛の勢いで戦後レジームからの脱却を推し進める中、

その激動の様を海の向こうから眺めつつも、
我が祖国の大変革を前に、
為す術も無いままに虚無な日々を送りながら、
その月日に蓄積された日本人としての情念、
その全てが、このシン・ゴジラに誘発されては、
まさに火山の大噴火。
脳天をぶち破って大噴出を遂げてしまったような、
そんな日々を送っていた、のである。

がしかし、
そう、そんな激情を綴れば綴るほどに、
その方向性を見失っては空転を続けるばかり。

その混迷こそはまさに、
この魑魅魍魎とした現代社会そのもの、とも言える訳で、
図らずもこのシン・ゴジラにおいて、
祖国滅亡の危機の様を回想、
そして押し寄せてきた強烈な疑似体験の中で、
国家とは何か、祖国とはなにか、愛国とはなにか、
そして俺は、こんなところでいったいなにをしているのか、
そんな想いが迸れば迸るほどに、
言いようのない無力感に苛まれては、
湧き上がる自己矛盾の葛藤に揉まれ揉まれ、
当て所ない苛立ちを募らせていたのである。

という訳で、
そんな箸にも棒にもかからない、
ニューヨーク流民の心情吐露など、
読まされる方としては堪らないであろう。

なにより俺自身が、
いまとなってはそんな糞駄文、
胃液混じりのゲロにも等しいその怨念の羅列など、
読み返したくもないし、今後読み返すこともないであろう。
すまぬ。
どうやら俺は、この一週間を、みすみす無に帰したようだ。

と、まあ、この長い沈黙は実はそういう理由だったのである。

という訳で、デスクトップにずらりと並んだ、
この膨大な糞駄文の山。
その全てが全ておしゃかのボツ・テイク。
えいやあとばかりに全て抹消しては、
ようやくこの呪怨から解き放たれた、とそんな気分。

そして今更ながらこのシン・ゴジラ、

良い意味でも悪い意味でも、
徹底的に心を揺れ動かされたことだけは確かなようで、
久々にそんな、熱い熱い映画に出会えた、
改めてその感慨に耽るのである。

という訳でまあ、そう、言い訳、という意味も込めて、
以下、ほんのちょっとだけ、
差し障りのないところだけでも抜粋、という形で、
この一週間の間、シン・ゴジラの誘発された狐火的な妄想とやらを、
羅列させて頂ければと思う。



「ニューヨーカーの思考回路」

土曜日のニューヨーク
早朝のタイムズスクエアに降り立った時、
まず心に浮かんだのは、
カツカレーか、担々麺か、
という命題であった。

タイムズスクエアでなぜ、カレーかラーメンか、
ニューヨークに在住の方でないと、
この思考回路はまったく見えてこないのでは、とは思うが、
日系ニューヨーカーであればすぐに気づくはずだ。

タイムズ・スクエアで、カレーか、ラーメンか?
ははぁ、ってことはつまり、ゴーゴーカレーか、タバタ・ラーメンかって、
そういうことなんだよな。

つまりは、美味くて安くて十ドルでお腹いっぱい。
判る、判る、と。

そう言えば、前回のハリウッド版のゴジラ、
あれを観たときにも、帰りにゴーゴーカレーでグランド・スラム、
超大盛りてんこ盛りのかつカレーを食った気がするよな。

だがしかし、今日はやはり、タバタの担々麺であろう。
どういう訳だがここのところ、
そう、シン・ゴジラのニューヨーク公開が迫れば迫るほど、
担々麺が食べたくてしかたがなかった訳なのだが、
果たして、いざタイムズ・スクエアに降り立った時、
突如としてその回答への緒:いとぐちが閃いたのである。

カツカレーか担々麺か、その困難な選択、
しかし、今日という今日は担々麺、
その決断への真意は、ぶっちゃけ、この命題に起因する。

つまりはそう、シン・ゴジラ、そのシン、とは、なにか?
このシン・ゴジラ公開時から、全ての人々の疑問であったこの命題。

なぜこれが、シン、とわざわざ、カタカナであるのか。
つまりはそう、含み、作者からのなぞなぞ、なのである。

よし、それにいっちょう乗ってやろうじゃねえか、

シン・ゴジラの、シン、とは果たしてなにか?

新・ゴジラ、なのか、真・ゴジラなのか、はたまた、心・ゴジラ、
あるいはそう、怒れる神としてのゴジラ、神・ゴジラ。

いやいや、それってもしかして、辛・ゴジラ!?

辛・ゴジラ・・・・

あああ、そっか、だから、辛いラーメンが食べたくなったと、そういうこと?

であればこれは立派な天啓、
つまりは、ゴジラの神からのお告げであろう。

汝、シン・ゴジラの鑑賞後は、辛・ラーメンを食らわん。

ということで肚は決まった。
今日の昼飯、シン・ゴジラを観た後は、
タバタ・ラーメンで担々麺を食べるぞ!



「シン・ゴジラは早朝割引でGO」

という訳で、今更ながらタイムズスクエアである。

土曜の朝から、大した賑わいである。
このタイムズスクエア、
言わずと知れたニューヨークを象徴する一角でもあるのだが、
この四六時中、迷惑なお上りさんたちでごった返す一角、
ニューヨーク在住も長くなると、
日々そんな人混みには心底うんざりしている訳で、
ともすれば、タイムズスクエアにだけは、
なにがあっても行きたくない、
まさに鬼門、と化しているのだが、
何故に、俺が、よりによって土曜日の朝、
人生で一番のんびりできる筈のその憩いの一時を、
こんな地獄の鍋の底のような雑踏を彷徨っているのか。

そう、言わずとしれたシン・ゴジラ、である。

その全米限定公開が、ここニューヨークでは、
タイムズスクエア、42ストリートにある、
AMC EMPIRE 25 が選ばれているのである。

そしてそう、ここニューヨークにおいては、
早朝一回目の上映に限り入場料が半額、
という、早朝割引セールを実施している訳で、
つまり、通常大人一枚15ドル、であるところが、
なんとなんと、この早朝一回目の公開においては、
半額の子供料金価格:7ドル50セントで、GO!な訳である。

その半額割引を狙いすました土曜日の朝、
朝も暗いうちから犬を叩き起こしては、
早々に散歩を済ませた後、
この早朝割引のシン・ゴジラをGETするべく、
こうして空腹を抱えたままに、
タイムズスクエアの雑踏を急いでいる訳だ。

果たして、とふと思う。
果たしてまだ残席はあるだろうか?

がしかし、まさかこんな、土曜日の朝、なんて時間から、
よりによってのタイムズスクエアなんてところで、
日本の怪獣映画を観たい、
そんな物好きが、この街にそれほど居るとは思えない。

しかもこのAMC、見れば全席指定、となっている。

相も変わらず明日の予定さえもままならない人生を送っている俺である。
まさかまさか、土曜の朝から野暮用に呼び出され、
ということは十中八九無いにしても、
しかし事前に前売りのチケットを買う決心だけはつかないまま、
そしてこの日、こうして当日券を目指して映画館に急ぐ時になって初めて、
ああ、俺はこれから遂に、あのシン・ゴジラが観れるのだな、
その確証に打ち震えながら駆り立てられるように、
タイムズスクエアの雑踏を行くその歩調が、
ついつい早くなっていく俺なのである。



果たしてシン・ゴジラ、

今回こそは、まさに、日本人の日本人による日本人の為の、
本物のゴジラである、と聞いている。
その、真正・ゴジラ、
ニューヨークでの人気はいかなるものであろうか。

できたら良い席で観たい。
だがしかし、できれば沢山の人々に見て欲しい。

そんな交錯した思いの中、ついに辿り着いたAMC25。
タイムズスクエアのど真ん中、
ニューヨーク ピカ一の一等地に立つ、
この映画館コンプレックスのビルディング。
ひとつのビルの中に25もの劇場がまるで教室のように並ぶ映画ビル。

まるであみだくじのようなエスカレーターを乗り継いでは、
ようやく辿り着いた上映館。
開演まで15分、いやあ、間に合った間に合った、
と焦って駆け込んだところ、どういう訳か客席はもぬけの殻。

思わず部屋を間違えたか、と周囲を見回すが、
それを問い質す人さえもいない。
やっぱりか。やっぱりシンゴジラ、アメリカでは駄目であったのか。

ただまあ、そういうことなら、まあ良いではないか。
これは日本人の日本人による日本人のためのゴジラ。
無理して外人さんに観ていただかなくてはならない義理もクソもない。

そもそも、この期間、そして劇場限定の、特別公開である。

元々、国外向けには制作されていなかったところを、
海外の熱心なゴジラファンの熱望に答えて、
あるいはそう、俺のような島流し的流民の心を思いやっての、
まさに、特別限定公開、な訳で、
観に来る奴らだってそれを承知の上でのこと。
つまりそれほどまでのゴジラ・ファンは、
実は早々と居るものではない、と、まあ、そういうことなのだろう。

と言うわけで、まさに映画館を貸し切り状態。
この煤けたスクリーンも、俺専用、となれば、
ちょっととした殿様気分ってものも味わえるではないか。

そっか、まさに、シン・ゴジラ、
俺一人のために、
わざわざこうしてここニューヨークまでご来襲頂いた訳か。
そう思えば思うほどに、その喜びもヒトシオ。

とかなんとかおめでたいことを思っては、
特等席に一人でふんぞり返っていたら、

予告編が始まったあたりから、
手に手に山のようにXXLサイズのポップコーンと
特大コーラを抱えたスーパーサイズな人々が、
まるで降って湧いたように客席を埋め始めている。
そんなおデブの一人から、
あの、ここ、ボクの席なんですが、と言われて思い切りの不機嫌ヅラの俺。

うるせえ!てめえ何しに来やがった。
これはな、日本人の日本人による日本人の為のゴジラ。
てめえみてえな不細工なオタクでぶに用はねえ。
さっさと失せな!

と、シカトを決めてしまっても良かったのだが、
いやそう、こんな朝も早くからわざわざ日本のゴジラを見に来てくれたのだ。
それがたとえ、見るからにくっさいクソオタクのギークなゴジラ・フリークであったとしても、
一応ここは日本人の真髄、お・も・て・な・し、の極意を発揮しなくてはいけない。
いやあ、はいはい、そうでしたね、では楽しんで、
といまになってそそくさと自分の指定席に戻った訳なのだが、
ふと見れば俺の席、その隣りにはいつの間にか、
よりによってまさに先祖返り、
マリファナの脂の染み付いたスリムフィットのカフェ・ライダーの革ジャンに、
見るからに異臭の沸き立つようなボロボロのジーンズを履いた、
絵に書いたようないにしえの無法者ロッカーたちである。
くそったれ、よりによってなんで俺の隣にこんなチンカス野郎が座っていなくてはならないのか、
思わず神を恨みながら、どっか別に席が空いていないか、と見渡した時には、
すでに全席が満員御礼のギチギチ状態。

えええ、土曜の朝だぜ。
なんだって休日の朝一番から、
こんな沢山の奴らが、日本の怪獣映画、
なんてものを観たがっているのか。
まあそう、半額だしな、と。
そう、つまりは、似た者同士ってことなんだろ、
この隣の無法者ロッカーどもも含めて。



「シン・ゴジラ、遂にニューヨーク来襲!」

改めて、シン・ゴジラ、である。

近年、よほどのことが無ければ映画館に足を運ぶことなど皆無。
しかもそう、このかみさんの居ない週末である。
何が悲しくて土曜の朝から犬を残して、
むさい中年男がたった一人で映画鑑賞か、
とも思うのだが、
いやいやいや、それであってもシン・ゴジラである。

そう、俺はこのシン・ゴジラを観る日を、
いったいどれだけ待ち焦がれていたことであろうか。

このシン・ゴジラ。
ご存知のように今夏の日本において空前の大ヒットを記録した話題作。
企画・脚本、そして、総監督を、
あのオタク大魔神・エヴァンゲリオンの庵野秀明が担当。

不況のドツボの底を這いずっていた東宝映画社の、
その株価が二倍三倍に跳ね上がるほどの未曾有の大ヒットを記録したという、
まさに、ゴジラの東宝の面目躍如、天下の大怪獣映画、であるらしい。

その噂はかねがね、どころか、
それこそ耳が腐るほどに聞かされて来たものの、
そう、今回のシン・ゴジラ、

まさに東宝作成の純正の日本製ゴジラ。
つまり、海外展開が予定されていなかった作品であろう。

この二十一世紀。
猫も杓子もグローバル化、と燥ぎたてながら、
このシン・ゴジラ、海の向こうではどうあっても、
そのDVDが発売になるまでは、観ることができないと、
そういうことなのであろうか。

この後に及んでこのグローバル社会の大いなる欠落、
つまりは、国境の壁。
シン・ゴジラも見れなくて、なにがグローバル社会だよ、
笑わせるぜ!
とそんなヤキモキの中、
いまかいまかと待ち続けてきた違法ダウンロード、
じゃなかった、アメリカ公開のその日。

そのシン・ゴジラが、
ついについにここニューヨークでも、
期間・上映館限定として、
特別ロードショウ、と相成った訳で、
なにがあろうと、このシン・ゴジラだけは、
見逃すわけにはいかない、
そう固く心に誓っていた訳である。



「ガッジーラじゃねえ、ゴジラっていうんだよ、ゴジラって」

改めて、米国において、
ゴジラは既に、ガッジーラ、
いまやキングコングやら吸血鬼ドラキュラなんかと並んで、
人類共通の大有名キャラとして立派に市民権を持つに至っている。

そんな世界共通認識となったゴジラ、
ならぬ、ガッジーラという存在、
ではあるものの、
俺的にはやはりゴジラはまさに、
日本の生んだスーパー・ヒーローである訳で、
一種その長い伝統に支えられた日本サブカルチャーの象徴的な存在、
あるいは、心、強いては、神、にも匹敵する訳で、
イチロー、錦織、そしてベビーメタルと並んで、
世界に誇る、日本のプライド、その立役者、そのものなのである。

そんな日本人の心のヒーローであるゴジラ。

俺にとってこのゴジラは、
ともすれば、天皇陛下、
あるいは、中元すず香と並んで、
日本人の心の礎:いしずえ、でもある訳で、
ゴジラへの侮辱は日本人そのものに対する冒涜に等しい、
などと妙に気負ってしまうところが無きにしも非ず。

特に最近、齢を食えば食うほどにこの異郷暮らし、
「日本」という母国に対する望郷の念が、
ますます無駄な膨張を続けるばかり。

そんな望郷亡人的なニューヨーク流民にとって、
このゴジラ、ならぬ、ガッジーラ、という存在。
そのハリウッド版のリメイクが発表されるたびに、
ともするとちょっと不安な心持ちにさせられる、
そんなことがあったりなかったりしていた訳である。

そう、近年のハリウッド版のゴジラ、ならぬ、ガッジーラ。

ガイジンのガイジンによるガイジンの為のゴジラがリメイクされる度に、
いけないいけない、とは思いながらどうしても見に行ってしまう、
のはしかたがないにしても、
そしてそんな、ガイジン用のゴジラ、ならぬ、ガッジーラ、
それを見るたびに、
正直なところ、まあ予想通りというかなんというか、

お前ら、やっぱりなんにも判ってねえんだなあ、

と落胆のため息をつかされることになるのである。

そう、ゴジラと、そして、ガッジーラは、実はまったくの別物。

そう、ガイジンにゴジラを理解することはできないのだ。

ゴジラの本当に意味するものを。
ゴジラが何故に、
日本においてあれほどのスーパー・ヒーローたり得たのか。
そうなのだ、まさに、ゴジラの心とは、日本人の心なのだ。
ゴジラに対する俺たちの想いを、
ガイジンなどに、判ってなるものか。

ガッジーラのリメイクを見させられる度に、
思わずそう呟いてきたこのゴジラという存在。

なのであるが、

それでは改めて、日本人にとってゴジラとはなんなのか?

その問に答えられる日本人が、
果たしてどれだけいたのだろうか?

その結果が、まさに累々と残されたあの駄作という屍の山。
その途方もない迷走の後に、
ついについに行き着いたその回答。

日本人にとって、ゴジラとは、なにか?

その究極の解答が、シン・ゴジラ に示されている。

俺は、そう確信していたのである。



「日本人にとって、ゴジラとはなにか?」

という訳で、このシン・ゴジラ。

今回は、今回に限っては、このシン・ゴジラ、
まさに、手加減一切無しの純正・和風ゴジラである。

日本人の日本人による日本人の為のゴジラ映画、である筈で、
これまで盛んに交わされていた「ゴジラ論」、
それに対する、究極の解答である、と聞いていた。

そう、このシン・ゴジラ。
言わずと知れたエヴァンゲリオンの庵野氏の作品である。

あの超絶的オタクの権化のような庵野氏。
エヴァンゲリオンによっていまや、生きる伝説とまでなっている、
この鬼才の中の鬼才。
そんな大先生が、みすみす、この「ゴジラ」という、
とてつもなくリスキーな題材に敢えて挑んだ以上、
早々と子供騙しの怪獣映画など、作れる筈もなかろう、
とは思いながらも、
そう思えば思うほどに、鬼才・庵野がいったいどんな仕掛けを打って出たのか、
それが知りたくて知りたくて知りたくて、
とは思いながらも、
WEBで検索をした途端、それこそ山のように出てくる、
シン・ゴジラ ネタバレ注意、のその、膨大な数の論評の山。

映画ファン、怪獣ファン、アニメオタクは言うに及ばず、
果ては、朝日新聞から、日経ビジネス、なんていう妙なところでまで、
長期連載の特集が組まれていたりもするのである。

そんな、恐ろしいまでに仰々しく膨れ上がってしまったこの前評判。
しかし、ネタバレを怖れるあまり、
各界の名士が一同になってシン・ゴジラを論じる、その垂涎の評論集を、
いっさい読むことができなかったのである。

ああ、見たい、みたい、見たい、シン・ゴジラ。
ああ、読みたい読みたい、シン・ゴジラ評。
くっそう、どいつもこいつも、
何故にこうも、シン・ゴジラについて語りたがっているのか。

その謎が、知りたくて知りたくて知りたくて、思わずわんわんわワン。

ただ、唯一目にすることになった、
かのウォール・ストリートジャーナルの評論である。

シン・ゴジラ」が描く日本のナショナリズム
~ 官僚は戦後の軍事的制約を棚上げし、祖国を守るヒーローとして描かれている

このウォール・ストリート・ジャーナルの論評、
近年、ますます右傾化を強める安倍政権。
まるで雪崩をうつように軍国化へと猛進を始めた、
この日本という国、その危険な迷走への懸念を上げながら、
このシン・ゴジラもそんなネオ軍国日本へ向けての喧伝工作のひとつ。
憲法改正によって超法規的権限を握った軍国政府が、
またもや、終わりのない暴走を始める、その予兆ではないのか・・

と、そんな妙な批評まで登場していたようなのである。

怪獣映画で憲法改正?
なんのこっちゃ、と鼻では笑いながらも、

さすがはエヴァンゲリオンの庵野氏である。

ついには、ウォール・ストリート・ジャーナル、
つまりは、世界の経済界にまで多大な影響をあたえるような、
そんな超法規的大作を作り上げてしまった訳なのか、と。

とまあ、そんな前評判の嵐の中で、このシン・ゴジラ、
俺の予想を遥かに上回る、
とんでもない作品に仕上がってしまった、
まさに、そう、ゴジラ級の大怪獣そのもののような作品、

あああ、夢は広がるシャボン玉、
そのシン・ゴジラが、いままさに、この眼前に登場しようとしているのだ!



「シン・ゴジラ ニューヨーク上映の反響 ~ その涙の意味は?」

という訳で、このシン・ゴジラ、
ぶっちゃけ、結論から先に言えば、、
近年稀にみる超娯楽大作、その大傑作。

一言、すげえええ、面白かった!

そして、正直に言おう。
俺は、泣いた。
この中年男が、よりによって怪獣映画を観て、泣いてしまった、のである。

ここニューヨークにおいても、
早朝の上映であるにもかかわらず席は超満員。

初っ端の、東宝 の、エキゾチックなトレードマーク・サインから、
思わず場内に拍手があがったものの、
勇壮猛々しい怪獣映画である筈が、
そのストーリーの殆どは、
ダークスーツに身を固めた政治家と官僚たちのせめぎ合い、
そればかり、である。

しかもその、あまりにもスピーディな展開。
ぶっちゃけ、字幕がまったく追いついていない、訳で、
日本語を聞きながらついつい字幕を追ってしまうものの、
あれえ、言ってることと書いてあることが全然違うじゃねえか、
と思わず、その日本語脳と英語脳が、別々の物語を走り始めて大交戦状態。

改めて、いやあ、日本人で良かったなあ、とその喜びを噛み締めながら、
思わずいつもの癖で通訳などを買って出たくもなったものだが、
しかし、生粋の日本人である筈のこの俺でさえ、
そのセリフ回しのあまりの早さ、まさに機関銃の猛乱射、
あるいは、果てしない卓球のラリーを見せつけられるような、
その、三倍速モードにも近いあまりに凄まじいまでの会話の応酬、
いやはやこのスピードに、俺自身がまったく追いついて行けない。

改めて、このシン・ゴジラに展開される
魑魅魍魎とした政治、そして、官僚組織。
その根幹であるところの民主主義という足枷。
ゴジラという存在の象徴する、絶対的なまでの不条理に対する、
人間というこのあまりにも非力且つ無防備な存在と、
そんな絶体絶命の状況下に追い込まれながら、
絶望的なまでの抵抗を続ける、その清く正しく美しき姿。

これは怪獣映画、というよりも、まさに、人間、あるいは、立派な社会派ドラマ。

いまや世界を挙げての東京壊滅の危機に晒されながら、
気力体力、そして知力の全てを振り絞って、
日本存続のために命を賭ける人々。

果たして、この日本人たちが、
命を賭けて守ろうとしているものとはなんなのか。
この日本人という人々にとって、
東京という街が、あるいは日本という国が、
意味するものとは、いったい何なのか。

そんな壮絶なまでに悲壮感に締め上げられながら、

がんばれニッポン、負けるな、日本人!

と、そう、あの311の際、日々テレビの映像に釘付けになりながら、
涙ながらに叫び続けたあの迸るような憂国の想い。

思わず込み上げてくる涙を必死で堪えながら、
ああ、俺もヤキが回ったな、
こんな怪獣映画に涙が流れるなんて。
ただ、そう、俺だって日本人なのだ。
アメリカ生まれ育ちのパターソン女史が、
しかしやはり日本人であるように、
どれだけ長く海外で暮らしていようが、
日本人は日本人なのである。
それだけは、たとえなにがあっても、変わらない、
変えることのできない「サガ:性」なのである。

ただそう、こんな姿を、諸外国の人々に見られるのは、
ちょっと、照れくさくもあるな、
などと、そんなことを思っていたところ、

ふと、隣りの席に座っていた無法者ロッカーたち、
そんな絵に書いたようなアウトローたちが、
ふと見れば、一様にボロ泣きにくれては、
革ジャンの袖で涙を拭って泣きじゃくっている、
その姿にちょっとまじめに驚いた。

なあんだ、これ、
この映画に泣いてしまうのは、
なにも俺が日本人だから、というそういう理由だけでもない訳なんだな。
そう思って、ちょっとホッとしたりもしたのだが、
改めてこの、シン・ゴジラの涙の意味、
再考に値するな、とも思っていた。

という訳で、映画が終わった途端、
いきなり巻き起こった拍手である。

日本語のテロップが流れた途端、
場内に一斉に拍手の輪が広がり、
YEY! PHEW!の歓声さえもが上がった。

席から立ち上がれない人々がいる。
伊福部昭の名曲の中に流れる日本語の出演者リストを、
読めるはずもないのに一心不乱に見つめている人々。
席は立ったものの、思わず通路の真ん中で呆然と立ち尽くしたままの人々。
場内が明るくなるまで、席を埋めた人々が場内を去ることがなかった。
つまりは、このシン・ゴジラの世界を、去り難かった、のであろう。

これはつまり、良い映画であった、という、動かぬ証拠である。

シン・ゴジラは、ここニューヨークにおいて確実に評価されたのである。

男、女、大人、子供、そして、人種、国籍を問わず、
なにかを、確実に、伝えた、のである。

涙で目を赤くした無法者ロッカーたちから、
凄い映画だったな、と次々に握手を求められた。

日本人だろ?
ああ、嘗てはな。
素晴らしい映画だった。
ああ、なかなか面白かったな。
日本は素晴らしい国だ。
まあ、そうあってくれると本当に嬉しいのだが。
そうあるさ。日本は素晴らしい。こんな映画が作れるというだけで、日本は本当に素晴らしい国だ。
ありがとう、そう、日本は・・・素晴らしい国だ・・

そう言った途端、また涙が込み上げて来た。
無法者ロッカーたちも新たな涙に目を潤ませて、
そして俺達は厳かに男同志のハグを繰り返した。

という訳でこのシン・ゴジラ、
世界中に対して、日本は素晴らしい、
そう、そうアピールしてくれる、
そんな映画であった、ようである。



「アメリカの映画館は、その気になれば二度観れる」

ようやく場内が明るくなり、
次の上映に向けて空になった客席が、
あっけらかんとした伽藍に変わった。

いやはや、凄い映画であった。
まさにそう、この、目の前の現実社会が、虚実に思えるほどに、
映画の中の世界が、あまりにも強烈過ぎたようだ。

だがしかし、身体は嘘を付かない。
いきなり、ぐーと鳴る腹に、思わず、ああ、腹減った、と、
現実の根幹たる一言が転がり出る。

ああ腹が減った。

とは思いながら、どういう訳か、
いつまで経ってもこの映画館を離れる気になれない。
そう、俺は、あのシン・ゴジラの世界、
そこからどうにも立ち去り難い、と思っているようなのである。

そんな気持ちと、腹減ったの、グーの音が交錯する中、
転がり出た通路に溢れた人々が、
明らかなハイパー状態のまま、盛んに今見たばかりの映画、
シン・ゴジラの感想を声高に語り合っている。

凄かった。最高だった、といかにも往年のゴジラファンといった、
ギークなおっさんたちがはしゃいだ声を響かせている。

ベストだな。このガッジーラはまさにベスト・ガッジーラだ。
オリジナルのゴジラ、あれと勝るとも劣らない大傑作だったぜ。
ああ、今回のゴジラ、本当に格好良かった。これぞまさに、本当のガッジーラだ。

でもさ、あの、最初に出てきた幼虫ガッジーラ。
あの幼虫ガッジーラ、あれを見たときにはちょっと笑らっちまったけどな。
ああ、すごくアグリーだった。ええ、これがガッジーラ?冗談はよせ、だぜ。
あの、目、目がさ。あのアートフィッシャルな目。
ポケモン・ゴーのキャラかと思ったぜ。
ああ、機関車トーマスが生物だったらああなったんだろうな。
いやあ、まいったまいった。
そのアグリーさがリアルなんじゃないのか?
あれが、どんどん進化して、大怪獣になるってのが凄い仕掛けなんだよ。
いやあ、まったく堪能したよ。
凄かった、物凄かった。いやあ、面白かった。

なあ、生物学的に見て、あの推測は正しいのかな。
世界のスーパーコンピューターをつなぐってところで、鳥肌立ったぜ。
いや、現実社会でそれは無理だな。許す筈がない。リスキー過ぎる。
字幕がなあ・・ 明らかに字幕が日本語の情報に追いついてなかった。
くっそ、日本語が解ればなあ。脚本で完璧な翻訳版ってのが出ないかな。

とそんな横を、赤い目を腫らした子どもたちが足をふらつかせて歩いていく。

つまらなかった。ずっと寝ちゃったよ。悔しい。
ええ、嘘だろ。無茶苦茶面白かったぜ。
だって、もっともっと、ガッジーラが暴れまわってくれるかと思ったのに。
確かにあの日本人ばかりでぐちゃぐちゃいってるシーンは超つまらなかったな。

おいおい、とその後ろからお父さん。
いやいや、あれが面白かったんじゃないか。
あれはお父さんにとっての現実だよ。
官僚化。下らない会議でなにひとつなにも先に進まない。
官僚化の弊害はなにも日本に限ったことじゃないんだよな。

と、そんな横で大声を上げる高校生の一団。
クソったれ、金返せ、ぜんぜん面白くなかったぜ。
バカ言え、すごく面白かったじゃないか。
お前泣いてたよな。
ああ、すごく感動した。
バカバカしい。俺はもうずっとガッジーラばかりが出ていてくれたらそれで良かったのに。
あのゴジラ、リアルだったよな。
ああ、凄かった。無茶苦茶格好良かった。
もう一回見ようぜ。
ああ、もう一回観よう。途中まで寝てるからガッジーラが出てきたら起こしてくれ。

とそんな横には、ちょっとインテリ風大学生のカップル。
日本は、あの大震災の経験があったからこの映画が作れたんだよな。
わたしもそう思った。あのツナミの映像を思い出して涙が出たわ。
日本はあの大災害を乗り切ったからこそ、この映画が作れたんだよな。まったく凄い人たちだ。
そうそう、スクラップ・アンド・ビルド、まさにその通りよね。
その日本人のパワーの秘訣っていったいなんなんだろうな?
それ、政治学のレポートのテーマにどうかな、って思ってたのよ。

いまだにトイレに溢れかえった人々、その順番を待ちながら、
聞くともなくそんな会話に耳を澄ませながら、
俺的には既に現実の人。
つまりは、このぐーぐーと鳴り続ける腹、
ああ早く、辛・ゴジラ、ならぬ、担々麺が食べたい。
とは思いながらも、
ふと見れば、さっき場内で見かけた奴ら、
そそくさと小便を済ませた途端、
なにやら不穏な物腰のまま、そろりそろりと、
そのでかい図体を丸めては、
いま出てきたばかりの場内へとひとりふたりと忍び込んでいく。

そう、係員の目を盗んで、次回上映分もしっかり只見してしまおうと、
そういう肚なのである。
と、ふと見れば、あのさっきの隣りの席にいた無法者ロッカーたち。
さりげなくウィンクを残しては、そそくさと上映館の中に消えてながら、
ふと、振り返って、お前も来いよ、と顎をしゃくって寄越す。

ただ、これ、全席指定であった筈なのだが。。。
まあ良いか、である。
そう、ここはニューヨークである。
全てのドサクサがやりかた次第ではなんとかなってしまうのだ。

二回立て続けにシン・ゴジラ?
おいおい、と流石に苦笑いしながらも、
なにが悪い、そう、観たい、二回でも三回でも。

という訳で、グルグルとなり続ける腹の底を締め付けながら、
再びシン・ゴジラの世界に舞い戻ることになったのである。



という訳で、空腹も寝不足もなんのその。
シン・ゴジラ、二回立て続けに堪能させて頂くことになった。

二回目はさすがに、客席最上段の端っこから慎ましく。
その分、客席を埋めた人々も含めて、ちょっとした状況観察、
なんていう心の余裕も出てきた。

というわけで、午後一番の上映回。
予想通り、超満員である。
もともとそれほど大きな部屋ではなかったこともあって、
そしてそう、俺たちのような、前回分から流れ込んだちゃっかり者の二度見組み、
それと合わせて、なんと通路にも人が座る、なんていう、
往年の映画全盛期を思わせる大盛況となった訳だ。

午後からの上映とあって、その客席はまさに千差万別。
子供を連れた家族連れ、
お揃いGODZILLAのTシャツを着ては、大した気合の入り様である。
両手に特大のポップコーンとコカ・コーラを抱えたカップル、
数十年来のガッジーラ・フリークと思われる見るからにギーク・ナード風情の、
一見、フランシス・フォード・コッポラ風、映画バカを自称するおっさん連合。
ジャパンと名のつくだけでなにでも飛びついてくるジャパニメ・オタクのプラスティックな若者たち。
ベースボールキャップを阿弥陀にかぶった黒人の少年たち。
耳あてのような巨大なヘッドフォンをした見るからにゲイマーのギーク連合。
どこかで割引券でも貰ったのか、状況がまるで飲み込めてないラテンの大家族。
そして、近年、どこにでも目につく中国人留学生の集団。

そのあまりのファン層の広さに、
まさにガッジーラは世界のアイコンなのだな、と再確認。
そう、ゴジラ、つまりは、ガッジーラ、なのである。
日本の生んだ、まさに、世界のスーパー・ヒーロー、な訳である。

と、そんな中、ふと見ると、なんとも心もとなげに、
決められた指定席にしがみつくように一人でぽつんと座っては、
行儀正しくそこはかとなくIPHONEなどを覗き込んでいる、
つまりは明らかに日本人。

そのあまりにも礼儀正しすぎる、そして、いかにも頼りなげな姿に、
思わず、そう、日本人って、
ひとりになった途端にどうしてここまで頼りなくなってしまうのだろう・・

とそんなことを考えながら、
その解答が、まさに、このシン・ゴジラの中にあるとは、
あの心細げなボッチー・日本人には、いまは知るよしもないであろう。



「シン・ゴジラに、二回も続けて泣かされた人々」

という訳で二回目の上映も盛り上がった。

一回目と同じく、東宝、のロゴが出た途端に、
YEY! と拍手が上がるのだが、
海底トンネル事故からいきなり始まったオフィス・ジャークたちのあまりに矢継ぎ早の会話に、
字幕を読むのが追いつかずに目を白黒。

改めて、前半部のこのあまりにもスピーディな会話。
普段から会議会議に追いまくられる日常を送っている、
そんなオフィス・ジャークたちにとっては、
まさに、苦笑いに苦笑いの連続。
現実の悪夢、そのあまりに芝居がかったセリフ回しも含めて、
それはまさに、茶番的なまでにリアルな現実の再現。

目の前の家族連れ。
子どもたちからいちいち、
ねえねえ、この人達なんて言ってるの?
と質問攻めを受ける親が、
いや、これは日本語だからお父さんにも判らない、と辟易し通し。
いやいや、日本人の俺でも追いつくだけで精一杯なのであるからして、
字幕だけであの情報のすべてを追いかけるのは土台無理であろう。

怪獣映画を見に来たらいきなり、
社会派サスペンスが始まっては、
機関銃のような日本語の会話の洪水の中で思い切り面を食らうばかりの人々。
早々に諦めては暗い天井を見上げながらポップコーンを頬張るガキもいれば、
ただ、そう、意味は判らぬにしてもこのあまりの緊迫感、である。
必死で字幕を追いながら、食い入るように画面を見つめていガキどもも居るにはいる。

ガキども、良く見ておけ、と呟く。
良きにつき悪しきつき、
勝ち組の大人たちはこういう戦場を生きている。
勝ち組になる、ということはつまりはこういう日常を戦い抜くということなのだ。
それが嫌なら、早々に諦めてそこでポップコーンを頬張っていれば良い。
バカのために容易されたバカの為の人生というのもあるにはある。
ただ、そういう気楽に生きてるバカ用の世界に生きる連中は、
いざ、事が起こったときには、
危機の本質さえもなにも見極めることがないまま、
ただただ訳も分からずに逃げ惑う、
それ以外に、なにもできないことになるんだぞ。
パワーとはつまりは情報量なのだ。
パワーの無いものは、根も葉もない妄想と風評的でっち上げを信じ込まされては、
こんな腐れ政治屋の出汁に使われて取り残されるばかりなのだ。
そういう奴はどこにでもいる。
そして、この日本においても、実はそんな人間ばかりなのだが・・

という訳で、今更ながら、このシン・ゴジラ、
それは怪獣映画でもなんでもなく、
官僚化した組織における危機管理、という主題な訳だが、
いやはや、である。

つまりはそう、これ、場所を変え、立場を変え、はあるだろうが、
まさに、そう、現代人の直面している、現実、そのもの。

そして、危機、を想定していない、
安直な希望的観測を規定して作られた組織が、
未曾有の大惨事を前にしては、
そのルーティーン的な意思決定プロセスがまったく機能しないという、
まあそう、実はそれさえもが想定内な訳で、
俺から言わせれば、なんとなく、デジャヴ的な光景の繰り返しである。

という訳で、現在の職務に対する愚痴も含めて、
言いたいことは山ほどあるのだが、
それを言い始めるともうなにもかも節操がなくなるに違いない。

ただ、ぶっちゃけこれ、例の東日本大震災と、
そしてあの東電原発事故、その再現、となる。

つまりはこのシン・ゴジラ、
あの東日本大震災から原発事故からの大災害、
あの経験が土台となっている、
なんてことは、日本人でなくても誰でもすぐにでも判る筈。

初代ゴジラ、が、太平洋戦争の敗戦、
そのあまりにも大きな傷跡、
その膨大な戦死者たちの怨念の象徴であったのと同じように、
今回のシン・ゴジラは、東日本大震災から、東電の原発事故、
あの国家存亡の危機、その象徴と添えた訳で、
そう言った面からも、
このシン・ゴジラ、これまでのあのあまりにも陳腐な駄作の山とは、
まさに雲泥の差の出来栄えとなった。

と同時に、
そう、本来であれば脳天気な怪獣映画であるべき筈のこのガッジーラが、
何故にこれがここまで社会派のドラマであらねばならぬのか、
そのゴジラの本質をえぐり出そうとすればするほど、
そのストーリーはまさにのっぴきならないものにならざるを得ない、
その必然からはどうあっても逃げられない。

つまりは、良い意味でも悪い意味でも、
ゴジラの本質、つまりは死者たちの魂の代弁を背負って立ってしまった以上は、
綺麗事だけでは済まされない。
ギリギリの本音を剥き出しにせざるを得ない、
そんな土壇場的な怪獣映画である宿命も覚悟していた筈だ。

という訳で、死者の怨念、これこそがまさに、ゴジラ、の本質である。

その必然として、主題は社会そのもの、とならざるを得なかった、
まさにこの社会派ドラマ仕立ての怪獣映画、シン・ゴジラ。

改めて、日本映画史上に燦然と輝く金字塔。
ともすれば、これまでの映画史そのものをきれいに破壊し尽くした、
エポック的な大名作、と断言させて頂く。

思わず、ああ、やっちまったな、と苦笑いである。

もうこの映画を観てしまった人たちは、
この先、どんな映画を見ても、トロ臭くって見てらんねえ、と思う筈である。

そう、このシン・ゴジラによって、映画という表現形態は、また新たな段階に進んだのである。

この目の眩むようなスピーディな展開。
これなくしては、もう、映画も、そして現実とも、上手く即応できなくなってしまうのではないか。

この映画の常識そのものを綺麗に塗り替えてしまったシン・ゴジラ。

そう言えば、最近、まさにそういう、とんでもない大新星、ってのを経験した気がするぞ、
と思った途端、ああ、それってまさに、ベビーメタルだ、と思いついた。

そう、ベビーメタルとそしてこの、シン・ゴジラ。

これまでの歴史との、そのクオリティのあまりの格差、
まさに、これまでの全ての歴史を覆す、超ウルトラ級の大寵児の出現である。

ベビーメタルの出現と同時に、これまでの音楽の全てが村祭りの盆踊りに変わってしまったように、
このシン・ゴジラの出現によって、これまで全ての映画は、あまりに間延びした紙芝居へと変わってしまう筈だ。

ついにやったな、と思う。

音楽界と、そして、映画界で、日本からのスーパー・パワーが、歴史を塗り替えたのである。

これぞまさに、日本人の底力であろう。

これからの音楽界、そして、映画界は、日本というガラパゴスから突然変異的に出現したこのミュータントたちに、
徹底的に打ちのめされ、そして、淘汰されていく筈だ。

それはまさに、進化の過程である。
猿人からネアンデルタール人が出現したように、
そして、そのネアンデルタール人を、
言語という能力を授かったクロマニヨン人が一瞬のうちに淘汰したように、
いままさに、超人的な新能力を勝ち得た日本の寵児たちが、
世界の歴史そのものを、根底から覆そうとしているのである。

改めて、このシン・ゴジラ、歴史の変わるその決定的な瞬間を確信した気がする。

ベビーメタルと言い、そして、この、シン・ゴジラと言い、
まったく日本人ってやつはいったいなんなんだ。

そのあまりに劇的な日本人パワーの炸裂の様に、
思わず、唖然として立ち尽くすばかりの、ニューヨーク流民なのである。

という訳で、
改めてこの大名作を世に送り出した庵野監督への尊敬の念を込めて、

シン・ゴジラと、そして、ベビーメタル、

いままさに、世界の根底を揺るがすスーパーパワー、
つまりは、ゴジラそのものと化した、この日本からの二つの大怪獣、
そのパワーの秘訣を解明する、などという、ちょっと大それた試みに、挑戦を試みてみたい、と思う。



「ベビーメタル と シン・ゴジラ その共通点とは」

言わずとしれたベビーメタル、
もはや死に体と化していたメタル界、
強いてはロック界の命運の全てを背負っては、
世界中をその超絶的なラブラブ・パワーの中に叩き込む、
まさに時代の寵児である。

その看板娘であるところのボーカリスト・SU-METAL。

俺は嘗て、このSU-METAL こと、中元すず香嬢を称して、
ヤクザの大親分、から始まって、怪物、やら、バケモノ、やら、狐憑きやら、と、
言いたい放題の賞賛を繰り返してきたわけだが、
遂にここに来て、中元すず香嬢はまさに、シン・ゴジラである、
と、そこまで、思い入れてしまっているのだが、

かの、東京ドームでの公演を目の当たりにした方々、

中元すず香のあの姿に、まさに、東京中を火の海にした、あの、唯一絶対の荒神、
ヤマタノオロチ、ならぬ、ゴジラの姿を、垣間見ていたのではないだろうか。

そうか、SU-METALのあの美声はまさに、放射能光線。
あの輝くばかりのオーラこそが、背中から放射される紫色の放射能レーザービームであつたか。

とまあそんな安易なこじつけを枕言葉にして、
ちょっと真面目に、このベビーメタルとシン・ゴジラの比較対象、
なんてことを考えていたのであるのであるが、

それが何故か、と言えば、ぶっちゃけ、
これまで俺がぶちまけてきた、ベビーメタルの美学、
その手放しの賛美、その形容のひとつひとつが、
実は今回の、シン・ゴジラ、この映画に対する賛美と、
不思議なくらいに合致するのである。

つまり、ベビーメタルと、シン・ゴジラは、似ている、のである。

ベビーメタルと、ゴジラが似ている?

なんのこっちゃ、なにをまた戯言をこいておるのか、とお叱りを受けるのは承知の上。

だがしかし、
そう、方法論として、このベビーメタルと、シン・ゴジラ、
不思議なぐらいの共通点が浮かび上がってくる訳である。

ぶっちゃけ、その、方法論、つまり、構成力、そして、演出力、
強いては、カタルシス、なのである。

以下、ベビーメタルと、シン・ゴジラ、その不思議な共通点を羅列させて頂ければ、と思う。




「構成力 ~ スピードと圧縮、こそが、パワーの真髄である」

以前の駄文にも綴ったのだが、
ベビーメタルのその壮絶なパワーの源とは、まさに、そのスピードである。

メタルの進化系であるスラッシュ・メタルの方法論を周到しながらも、
ベビーメタルのステージ、まさに、目が回る、というぐらいまで、
ありとあらゆるものが、いっぺんに、怒涛のように押し寄せては、
それが目くるめくように壮絶なまでの躍動を繰り返す。

ユイの、最愛の、その、器械体操を超早送りにしたようなキレキレダンス、
その一瞬さえも息をつくことさえも許さない、ギリギリなまでの緊張感に貫かれた、
あの壮絶なシンクロ・ダンス。

それはまさに、祭壇の左右に燃え上がる炎であり、
SU-METALという御神体を支える結界であり、
そして、御言であるところのSU-METALの歌声を支え、
そしてその威力を、数十倍、数百倍にまで増幅させる強大なパワーを秘めた巫女である。
それに加えた、神バンドの面々。
そのメンバーの一人ひとりが、あの思わず崩落する顎がいくつあっても足りないような、
徹底的なプロフェッショナル意識に貫かれた超絶なテクニックの津波。

その全てが一瞬のうちに一時に襲い掛かってくるそのステージは、
まさに、怒涛の中で、グルーヴどころか、錯乱の錐揉み状態さえも創出する、
まさに、神憑り的なまでの圧倒的なパワーを持って会場中を焼き尽くしていく。

そして、まさに、あの、曲の構成の、その驚異的な密度である。

これまでの音楽界の、その一枚分のアルバムのアイデアの全てが、
一曲の中にギチギチに圧縮されているわけで、
その、目眩くような旋律が、まさに変幻自在に強烈な閃光を放ちながら、
怒涛のように一挙に押し寄せてくるのである。

そう、このベビーメタルにおける、スピード感、つまりは疾走感と、そして、密度の圧縮度。
その展開の早さ、と、限界ぎりぎりなまでのスピードが相成っては、
いつしか会場中が地獄の洗濯機状態。
揉まれ揉まれては壮絶な錐揉みの嵐の中に叩き込まれていく訳である。

そして今回のこの、シン・ゴジラ、
絶対神として君臨するゴジラ、という存在を巡っては、
まさに、機関銃のように繰り広げられるそのセリフの応酬。
しかもそのセリフのひとつひとつに、訳の分からない専門用語から、
伏線に伏線を重ねた揶揄が密集している訳で、
その凄まじいばかりの会話のテンポの早さ、
そのセリフ、ひとつひとつにおけるその凝縮度、
一瞬気を抜いただけで、すぐにふたつみっつのセンテンスを聴き逃しては取り残されてしまう、
つまりは現代社会における、その壮絶なまでのスピード感、そのものなのである。

そのあまりの展開の早さの中で、
これでもかと繰り返される視点つまりはカメラ・アングルの敏速な動き。
それはまさに、モーション・ディテクト。
実は日常生活における、あの間延びしたなんの意味もない空白の無駄な間合い、
そのありとあらゆる空白を全てカットしては、凝縮させた、凄まじいばかりの密度。
そのセリフの中に、直接的な説明、あるいは出演者の内面を伺わせる一切の感情、あるいは情緒性、
そんな全ての「無駄」がギリギリまで排除された上で、そのコアな部分だけを切り取っては集積を繰り返す、
そのカット割りの斬新さ、つまりは、編集力の凄まじさ、こそが、
このシン・ゴジラの全編に貫かれる、息もつけないような緊張感、その圧迫感を作り上げているのである。

そう、この現代社会、
良い意味でも悪い意味でも、このスピードこそがパワーなのである。
頭の回転から、その動作の敏速さまで、
その膨大な情報が目眩くようなスピードで押し寄せてくる訳で、
そのスピードに対応できない人間が、次々に取りこぼされては下流に押し流されていく、
まさにこの怒涛のようなスピード社会。
そのプレッシャーに随時、追い詰められている現代人にとって、
このシン・ゴジラにおける、掟破りなまでの早口のセリフの応酬と、それを映し出す敏速なカット割り、
つまりは視点、膨大な情報量を即時判断して的確な行動に移す、
その反射力こそが、現代という時代の能力の全てなのである。
このシン・ゴジラにおける、その情け容赦ないまで、
まさに怒涛の鉄砲水のように押し寄せる膨大な情報量、
それを、生々しいまでのリアリティ、と感じ取る現代人達。
まさにそう、このスピード感こそが、
シン・ゴジラの全編を貫く鬼気迫るまでの緊迫感・圧迫感の源なのである。

スピードはパワーなり。

その圧倒的なまでのスピード感、つまりはぎりぎりなまでの疾走感の中で、
まるで分子同士が摩擦を繰り返しては熱を発し発光を繰り返すような、
相乗効果的な圧倒的なパワーを創造する、
その方法論を、ベビーメタル、そして、シン・ゴジラが体現しているのである。



「演出力 ~ ベビーメタルの、そして、シン・ゴジラの美学とは、情緒性・甘えを一切排除した演出力にあり」

そう、SU-METAL のあの一種凄みを帯びた美しさ、
あの、眼力:めじから、というか、まさに、その硬く凍りついたような険しい表情こそは、
ベビーメタルの魅力の骨頂である、と言える。

俺は、時として女の見せる、辛辣なまでの真面目な表情が好きだ。

にちゃにちゃと見え透いた愛想笑いばかりの女よりは、
あるいは、その涼やかな笑顔の中に、ふと垣間見えるマジ顔、
そこに、セクシーさの真髄を見るのである。

果たして、SU-METALこと、中元すず香嬢が、
普段からのあの、まるで蕩けそうなばかりのポンコツ的笑顔、
あれをそのままステージの上で振りまくような、
つまりは、お客に媚を売るようなキャラであったとしたら、
俺はここまでベビーメタルを好きになったであろうか?

嘗て、この中元すず香に、ポニーテールの大親分、と妙な賞賛を繰り広げたように、
俺は一種、凄みを帯びたような辛辣な表情をした女が大好きなのだ。

そう、俺の永遠の恋人は、なにを隠そう峰不二子。
あるいは、愛のむきだし、の満島ひかり
果ては、愛の嵐のシャーロット・ランプリングであり、
俺たちに明日はないの、フェイ・ダナウェイであり、
そして、フレンズ・ポールとミッシェルのアニセー・アルヴィナ。

つまりは、一種、どこかテンパってしまったかのような、
ドスのきいたやばげな女、
そんな危険な香りについつい惹かれてしまうところがある。

そして、SU-METALこと、我らが中元すず香嬢である。

普段のあの、中元すず香としての甘い甘い笑顔から一転、
ステージに上がるやいなや、SU-METAL、
あのコテコテなまでに作り上げられた、BABYMETALとしての表情。

その一種、劇画化されたような、極端なまでのキャラクター設定の中に、
究極のプロ根性、つまりは、馴れ合い的な惰性や、情緒的な甘えを一切排除した、
一種、完璧なまでの形式化を実現じた演出力の賜物。
その、徹底したプロ意識こそが、ベビーメタルの魅力、あるいは強さの秘訣。
幾万のアンチ派を前に、かかってこいや!舐めたらいかんぜよ、と絶叫を響かせる、
あの、普段の中元すず香嬢の姿からは想像もつかない、
徹底した成り切り力、
その鉄のような演技力に、あの強靭な精神力の真理、
つまりは、プロフェッショナルとしての真髄を見るのである。

そしてそんな中元すず香、ならぬ、狐憑きの化身・SU-METALの引率するベビーメタルのステージ。

それはまさに完璧なレビューのように、MCもなく、そしてアンコールも受け付けず、
徹底的な演出力に貫かれた、こってこてに作りこまれた計算づくのステージである。

これまでのエンターテイメントにおいては定番となっていた筈の、
曲の合間のMC、あるいは、メンバー同士、ときとして、観客との戯れ合い、
そんな情緒的な、あるいは、牧歌的とも言える馴れ合い感、
あるいは、観客との安易なシンパシーさえも、
その一切を排除した、冷酷なまでのステージ構成。

そこには、普段の中元すず香、そのポンコツ的天然ボケ的なキャラの一切が排除されている、
つまりは、SU-METAL本人の、その内面、あるいは、背景を感じさせないまでの、様式美、
つまりはそう、演出力、なのである。

そして、今回のシン・ゴジラである。

怪獣映画と言いながら、その中身はと言えば、
まさに、ギリギリなまでの人間ドラマが繰り返される。

だがしかし、その人間ドラマであるはずのシン・ゴジラ、
しかしその登場人物たち、その、人間性というか、その背景というか、
その感情的な部分がいっさい、なにも、描かれてはいない、のである。

そこに、家庭の描写も無ければ、子供時代の回想シーンも、
その人物像を作り上げるための、下支え的な説明的描写が一切ない。

私生活の存在しない主人公たち。

まさに、政治家、あるいは、官僚、あるいは、研究者、
その職務に徹しきった、まさに、プロの中のプロ集団、
その鉄のような職業性こそが人格の全てというまでに、
生身の人間描写が一切排除されているのである。

その一種、極端にデフォルメされたかのような、
まさに、劇画的なキャラクター設定、
そのスタイル性に限定された人物描写の中に、
内面吐露や、心理描写や、息抜きや気晴らしさえもなく、
徹底してこの、危機に直面した人間像、
その社会性だけに限定されている訳で、
がしかし、その、冷酷なまでの社会性のみの描写が、
その感情を極力包み隠そうとする一種冷徹なまでの仕事顔が、
まさしく、えぐるようなリアリティを持って、観客に迫ってくる訳である。

そんなシン・ゴジラにおける演技者たちを、
やれ、演技力がない、やら、セリフまわしが臭すぎる、やら、
人間描写が杜撰過ぎる、などの見当違いな批評が寄せられているようだが、
今時どこの世界に、職場においてだれた面のままで私生活丸出しで戯言ばかりを繰り返す、
そんな牧歌的な職場があるものか。
仕事とはつまりは演技、強いて言えばステージなのである。
この能面のような顔のままで、黙々と職務をこなすことこそが、現代社会のリアリズムなのである。

あるいはそう、そうであって欲しい、
と同時に、誰も職場で仕事をこなす、そんな人間の暗い過去や込み入った家庭の事情など、
知りたくもなければ、踏み込みたくもない、
現代の職場とは、まさしくそういうもの、そうあるべきもの、なのではないだろうか。

という訳で、俺的には、この、内面を一切感じさせない、
まるで、こってこてのキャラクター設定に則った、この杜撰過ぎる人間描写が、
逆にとても心地よかったりもした訳である。

という訳で、このシンゴジラにおける、泥臭さ、あるいは、生活臭を一切排除した演出、
このシン・ゴジラの特異性ともなるそんなキャラクター設定、つまりは、演出方法が、
まさに、画期的、つまりは、このシン・ゴジラへという映画への強烈なシンパシーと成り得た。

そしてそのガチガチなまでの演出、そこに貫かれた強烈な美学、
その源とは、まさに、総監督であるところの、庵野氏、そして、コバメタル、
その「ブレ」を一切感じさせない、頑ななまでの強靭な美意識、
その研ぎ澄まされるがごとき緩みのない絶対的な演出力こそが、
このベビーメタル、そして、シン・ゴジラを貫いてはここまでの存在に仕上げた、
その、確かなる礎なのである。



「カタルシス ~ 終末感の中にこそ、滅びの美学の真髄がある」

今回のシン・ゴジラ、
思い切りの全力投球、
それも、変化球も、チェンジアップも一切用いない、
まさに、ストレート一本槍の、豪速球に次ぐ豪速球。

その一切の妥協を許さない、鬼気迫るほどの真剣さ。
セットにおける小物の一つ一つ、会議室の椅子の並びのそのひとつひとつ、
そのディテールのどんな詳細な部分にまで徹底的に拘り抜いた、
病的といえるまでの潔癖性。

その遊び、あるいは、甘えの一切感じられない、徹底的な美意識、
そこに貫かれているものはまさに、真摯さ、である。

そしてそんな、真摯さ、つまりは、生真面目さ、
その真剣勝負の豪速球一本槍りこそは、
ベビーメタルのステージ、
最初から最後までを、全力疾走で駆け抜ける、
あの鬼気迫る怒涛のステージ、その美学の体現である。

そして今回のシン・ゴジラ、その大成功、その第一の理由にあげられるのは、
まさしく、ゴジラの存在感、である。

意思の疎通をまったく感じさせない、
感情、つまりは心の存在の片鱗さえも見せることのない、
あの、ガラス玉のような眼差し。

悪臭の匂い立つような生々しい質感。
くねくねと動き回る尻尾の無造作な動きの中にまで、
ゴジラという存在が、まさに、神、
一切の予測の不可能な、絶対的な存在であることを物語っていた。

そんなゴジラの姿には、明らかなる畏怖、つまりは、凄み、
ぶっちゃけ、今回のゴジラ、凄まじく、怖かった、のである。

この怖さ、という魅力、
それこそが、初回ゴジラと、そして、今回のシン・ゴジラにおいて極められた、
一つの絶対的な美学である。

その後、子どもたちのヒーローとして、ともすると親しみ安さ、つまりは、情緒性ばかりを増幅させては、
ゴジラはお茶の間という奈落の底に転げ落ちていった訳だが、
ついにここに来て、ゴジラは再び、ありったけの恐怖の塊りとして、再現されることになった。

怖いゴジラ、

そう、この怖さ、を表現できた、ということこそが、今回のゴジラの大成功のその理由である。

そして我らがSU-METALである。

改めてお伺いしたい。
かの、東京ドームでの公演を目の当たりにした方々、

中元すず香のあの姿に、あの、壮絶なまでの美しさの中に、
凄み、あるいは、畏敬、まさしく、畏怖、を感じられたのではないだろうか。

五万五千の大観衆を前に、かかってこいや~!と絶叫するこの18歳の少女。

その全身が凄まじいばかりのオーラの閃光に満たされた、神懸るまでの存在感の中に、
地を震わす轟音の中、天上から降り注ぐような美声に震わされては、
身体の芯が発光しては火傷をしそうなほどの熱を帯びるような、
あのまさに、放射能光線のような美声。

その畏敬に満ちた壮絶な存在感こそは、
明らかに、あのゴジラの姿、
まさに、一瞬のうちに東京中を火の海にした、あの、唯一絶対の荒神、
ヤマタノオロチ、ならぬ、絶対神としてのゴジラの姿を、垣間見ていたのではないだろうか。

誤解を恐れずに断言させてもらえば、
俺にとってのSU-METAL、その魅力の真髄とは、

可憐さに溢れた愛くるしい天使でも、
慈悲に溢れた聖母のような絶対愛でもない。

俺は敢えて、SU-METALの中に、破滅の美学を体現して欲しいのである。

その理想とするところは、まさに、破壊の女神・カーリー。
破壊と創造の神・シバ神の妻となる、血と殺戮を好む戦いの女神。
殺戮と破壊の象徴であり、と同時に、創造の神でもある、
無慈悲と不条理、時として猛けだけしい狂神と化す、
一種の狂気さえも秘めた、自然力、その権化である。

SU-METALのあの頑ななまでの辛辣な表情、
あの、サディスティックなまでの強靭さこそが、
地球の怒りの具現化であるゴジラ、
その畏敬と畏怖、憧れと恐怖の入り混じった、
自然界そのものに対する憧憬の源、
ベビーメタルが、メタル、を司る以上、
そこにあるのは、構築よりは破壊、愛よりは殺戮、永続よりは破滅、
そんな、崩壊の美学を内含した、不条理且つ危険な存在で有り続けて欲しい、
と思っているのである。

改めて言う、崩壊の光景はいつも美しい。

あの火の海と化した東京の風景。
ゴジラという絶対的な不条理の前で、徹底的に破壊しつくされた東京、
あの、赤い赤い炎に焼き尽くされた世界の終末の様、
破滅こそが美学、その全てである筈だ。

関東大震災で焼け出された詩人・金子光晴が、
狐火のように燃え盛る炎を見て、それを素直に、美しい、と表現している。

少年期に東京大空襲を経験された御仁が、
戦争の悲惨さを訴えるのと同時に、
一種、遠い視線を泳がせながら、呟いたものである。

ただ、あの空襲の夜。
燃え盛る炎の中に、赤く染め上げられた空を見上げながら、
きれいだな、と、そう思った、と。

嘗て、砂漠の果ての国に滞在した際、
深夜の国道を直走る長距離バスの窓から、
地平線に広がる赤い灯火と、
空に向けて飛び交う地対空ミサイルの黄金色の瞬き、
夜空にあっけらかんと並ぶ、北斗七星の輝き、
その光景を俺は、美しい、と思ったのだ。

そう、不謹慎を承知で言わせて貰えば、
人の慎ましやかな営みも美、
生命の源である、女性の裸体も、究極の美であれば、
それと同時に、そんな人々の作り上げてきた全てのものが滅び去る、
その、終末的な崩壊の光景にも、
そこには確実に、美、が存在するのである。

終末の闇と、地獄の業火の中に君臨する、
悪魔の権化たるゴジラの姿、
このシン・ゴジラにおける珠玉の名シーンの中には、
滅び去るものの発する最後の灯火、
その、破滅の美学が貫かれていた、と思うのである。

そしてベビーメタル、
可愛いアイドルから、成長を続けるベビーメタルが、
お茶の間向けの、絶対公約数的な情緒的アイドルを目指すよりは、むしろ、
メタルの美学、つまりは、背徳と破滅、そんなイケナイ美学を秘めた、
危険な存在であって欲しい、そんな屈折した願望を抱いている俺なのである。



という訳で、どうっしょう。

かなり苦しいこじつけだったでしょうか?

あるいはちょっと、ご納得頂けた部分も多かったのではないでしょうか。

改めてこの、ベビーメタルと、そして、シン・ゴジラ、

まさに、終末感、あるいは、背徳的な破滅の美学を内含した、
一種、危険な存在として、いまや世界を完全に席捲しつつあります。

果たして、この極東のガラパゴス・ジパング、なんて国から、
どういう訳でこんな、世界をぶっ飛ばすような逸材が、
一挙に輩出され始めたのでしょうか。

という訳で、最後に、またちょっと蛇足にはなりますが、

ベビーメタルと、シン・ゴジラ、改めてその社会的考察の中での共通点、
そのこじつけをやらかしてみようと思います。



「改めて、昭和の美学こそが、日本の力、ではなかったのか?」

ぶっちゃけ、シン・ゴジラに描かれている対抗の構図。

現実:日本 VS 虚像:ゴジラ
これに、理想:矢口 VS 現実:赤坂
いけいけのアスカ:パターソン VS 知性派の綾波:尾頭
あるいは、マネージメント:政府 VS 現場:巨災対
と同時に、エリートの官僚 VS 落ちこぼれの巨災対

そんな図式の錯綜する中で、
で、その美学を追えば追うほど、
これって、なんか、下町ロケットじゃね、
とも思っていた訳だが、
その下町ロケットの美学とはいったいなんのか、
と言えば、ぶっちゃけそれは、無駄な残業、ではなかった、
そう、チームワークと、そして、仕事に対する情熱と、そして真摯さ、なのである。

昭和の時代、あの、息苦しいまでの汗臭さの中で、
残業に残業を重ねては、夜明けの珈琲、ならぬ、出がらしの日本茶を啜りながら、
そこには確実に、家族、と言えるほどの硬い硬い絆のようなものを感じていたってのも事実。

そして、このシン・ゴジラの中で繰り返し描かれていた、この、チームワーク、
ぶっちゃけ、個よりも群れ、
その脇目も振らぬ集団力こそが、日本の力、
という、今になって言えばまさに、なし崩し的な先祖返り、

ぶっちゃけその、日本のチームワーク、その源泉とは、
そんな無駄な残業によって培われた、運命共同体的シンパシー、
あるいは、長屋的な傷の舐め合いの中での、硬い硬い絆、であった訳で、
このシン・ゴジラの中でも随所で描かれる、そんな辛く長い残業の様、

そんな残業を続ける人々の中で、

まだまだ日本はやれる、と頷き合う、その妙にほっこりとした笑顔。

それこそがまさに、昭和回帰への熱い誘い:いざない、なのではないだろうか。

そして、ベビーメタル。

何故にこのベビーメタルが、ともすればロック、あるいは、アイドルという美学がとことん似合わない筈の、
おっさん、じいさん、達、つまりは、昭和の忘れ形見、のような、半亡霊たち愛されるのか。

つまりはそう、ベビーメタルの中にも確実に、この昭和の美学、に通じる、
強いては、日本力、その真髄たる、チームワーク、あるいは、家族の絆、が貫かれている訳なのである。

終身雇用の崩壊から、成果主義のゴリ押し的導入から、派遣法改悪から、と、
まさに、集団力を失った日本は坂道を転げ落ちるように奈落の底に向けて真っ逆さま。
挙句の果に、トリクルダウン、とか何とか言って、起こったことと言えば、
それを体の良い言い訳にした何かにつけて勝ち組最優先の政策が、
実はパナマ紙で化けの皮が剥がされたように、
優遇政策で儲けた会社はちゃっかりその恩恵を倍にして返すどころか、
ちょろまかしてはせっせと海外口座に振り込んでいた訳で、
その結果に生まれたのがこの格差社会に象徴される超デフレ地獄。
新卒採用の拡大と株価のバブルばかりを持て囃す日系ビジネスと、
学費さえも払えない女子大生が一発三千円で身体を売り、
給食費の払えない小学生が深夜の街をうろつく東洋経済のこの格差。
それを、現実なんだからしょうがない、とさらりと割り切ってしまう、
まさに、ヤフじゃの金魚のフンそのものの、
現実感の喪失したWEB上の虚人、その無責任な正論人たち。

その全てが、まさに、家族としての集団性の絆を失った日本人が、
いつまでたっても個としては自立できない、
その、悪戦苦闘の様であったのだ。

で、改めて、このベビーメタルと、そして、シン・ゴジラ、
アイドル+メタル、そして、昭和の象徴とも言えるゴジラ、というアイコン、

そして、この二つに共通するものが、まさに、チームワークを武器とした、
一種の、集団志向、なのである。

そんなまさに、昭和の底力、を感じさせる二つの昭和パワーの結集が、
時期を同じくして世界を席捲している、というこのフェノメノン。

改めて、突出した天才の個性が、全体を率いる、という図式は、
少なくとも日本においては機能しない、無理にさせる必要もない、
そんな諦め、というか、開き直りが、
そろそろ人々の間に芽生えつつ在るのではないだろうか。

あるいはそう、この露骨な格差社会、と言ってしまえば聞こえは良いが、
ぶっちゃけ、そんな格差社会が、
実は、人徳と伴わない意志薄弱な指導者の元に行われた場合、
社会はまさに、既得権益、それを独占する者たちの独壇場。
血筋と家柄ばかりを振り回すニールとイライザの意地の悪い高笑いばかりが響く、
似非貴族社会、つまりはそう、既得権益者が絶対安全地帯を確立するための、
ただの調子の良い詭弁に過ぎないのではないか、とも思うわけで、
その公然とした格差を、必要悪として享受させようという思惑そのものが、
実は、衛星国を、腐敗した奴隷国家として従属させようという、
イギリス仕込みの狡猾な植民地経営の手法であった訳で、
いまや国力も衰退の一途をたどるアメリカが、
中南米の各国において行ってきたそんな安易な方法が、
ついには、ここ日本においても幅を効かせてきた、その顕著な現れな訳で、
米国に従属することを条件に、そんな米国から特権階級としての加護を約束された腐った似非貴族階級、
その構築に躍起になっているのが、どこぞの似非愛国者、とそんなうがったことばかりが頭に浮かぶ今日このごろ。

そして世の右傾化とともに、再び巻き起こりつつ在る、この昭和回帰の根性主義が、
いったいどんな末路に向かっているのか、いまだに誰にも予測がつかないまでも、

改めて、この、和気藹々とした残業に培われる家族性こそが、
日本の底力であることは既に疑いようのない事実、
残業100時間どころか、生きることの全ては仕事なり。
つまりはそう、日本は再び、あのどろどろに疲れ切った昭和的集団性の権化たる、
残業地獄的社会の中から、脱却を諦めるしかないのか、
つまりはそう、日本はやはり、どこでどうあがいても、
水呑み百姓の村社会的な泥縄経営の中に沈みゆく宿命なのか、
そんな村社会的、貧乏長屋的なシンパシーの呪縛の中で、
アメリカ、あるいは、それに寄生する似非貴族気取りのニールとイライザに、
吸い上げられるだけ吸い上げられては、トリクルダウンの幻想は全てカリブの島々へ、
ってな図式が「必要悪」としてあからさまに行われる、
つまりはそう、民主主義の末路、そのものの世界に沈没していくことになるのか、

そんなことさえも思わせる、妙に不穏なカタルシス感、なのである。



「ヤクザのいないシン・ゴジラ的世界のそのモヤモヤ感」

正直なところ、
シン・ゴジラを見終わった後のその世界各国の人々の表情を盗み見ながら、
その人々の多種多様な反応の中に、一種、この人々の胸のうちに存在するであろう、
国家、というものへの概念の違い、を感じ取っていた気がする。

独断の偏見のみで言わせてもらえば、
自身の故国に、誇りを持てない人々、というのも世界には存在する訳で、
その国家意識の薄い国のご出身の方々を、一種、
つまりはこのシン・ゴジラになにも感じることのできなかった人々に、
一言、かわいそうにな、と思ってしまった、
というのも事実。

つまりはそう、なにはともあれ、俺には日本という祖国があり、
なにがあったにしろ、俺が日本人であることには一切にゆるぎがなく、
そして俺は、俺の祖国を、心の底から愛し、
そして、現在の日本の姿に100%賛同する、とは言えないまでも、
日本人であることのプライドだけは、誰にも敗けないつもりである。

そんな祖国を持ち得なかったかわいそうな人々に、
このシン・ゴジラはいったいどう映ったのであろうか。

そして、このシン・ゴジラに描かれた、
一昔前であれば、ちょっと歯の浮くような、
あからさまな民族主義的なカタルシス鼓舞、

日本はまだまだやれる、であるとか、日本の底力、であるところ、

そう、一昔前であれば、
そういう言葉を強要する、教師やら、政治家やら、宗教家、なんていうのが、
胡散臭さムンムンであった筈ではあるのだが、
311という未曾有の危機の中で、
そんな歯の浮くような絶対善的なカタルシス、
その危なっかしさを、ちょっと、奇妙な感覚で捉えてしまう、
そんなうがった気持ちも無きにしも非ず。

この妙なもやもや感が、
あのシン・ゴジラを見た感動から、
日一日、と経つごとに膨張を続けていたのではあるが、
そんな妙なもやもや感を、たった一言で、あっさりと言い表してしまった、
そんな、珠玉の名言が見つけてしまった。

   シン・ゴジラにはやくざが一人も出てこなかった
   東映が作れば、重要な役どころに必ずやくざものを配置したはず。

この鬼才の中の鬼才、ツイッターの魔王とも言える現代日本随一の論客であるところの小田嶋隆氏。

いやはや、シン・ゴジラの、あの清く正しく美しき、高級官僚的エリート的な独善性の中の陶酔感が、
まさに、この一言、この一撃でぺろりと化けの皮を剥がされてしまった感がある。

と、そんな時、嘗てからの不良仲間であったジャメイカンのダチからテキマが届いた。

シン・ゴジラ、最高だったぜ、という俺のメッセージに、一言、BS! ブルシット=牛の糞、と。
シン・ゴジラ? ああ、さっそく観に行ったのだが、
あまりの落胆に途中で出てきてしまった、とのこと。

おめえは日本人だから判らないだろうが、実はあの字幕が最悪でよ。
しかも出て来る日本人、そのどれもこれもが、
いけ好かねえギークのクズばかりでまったく共感が持てなかった。

まさに、ギークによる、ギークの為の、
ギークの世界観の中でのいかにもギークな絵空事。
おまけにそんなギークが、よりよって復古的ミリタリーってか?
バカも休み休みいえ。
日本人のあのモヤシのような体型をした貧弱なギークたちほど、
戦争という暴力性が徹底的に似合わねえ奴らもいねえってのによ。
日本人が戦争?やめとけやめとけって。
そんな勇ましさを徹底的に諦めたってのが、日本の良さじゃなかったのかよ。
まさに、糞ださいギークのどうしようもない妄想映画。
全然イケてない。最悪だった。

まったくこいつ、と思わず大苦笑である。
いつまでたってもチンピラはチンピラのまま。
つまりは理知に対しての尊敬が無さすぎる。
そして、ジャメイカ人ほど、祖国愛、と遠い人ってもこの世にはいないであろう。
つまり、それはそれでシン・ゴジラ、このジャメイカ人の琴線に触れてしまった、ということなのか。

ただまあ、あいつらしい、と言えばまさにあいつらしい訳で、

まあ確かに、
シン・ゴジラ、セックスもドラッグもロックンロールも出てこない。
つまりは、普通にいかした奴が誰も出てこない。
つまりはそう、あの映画の中に、
こいつとは気が合いそうだな、と思える登場人物が、
ひとりも、たったひとりも存在していなかったという事実。

エリートのエリートによるエリートだけの閉ざされた世界の中で、
その閉塞性、というか、ぶっちゃけ、人間の種類の希薄さ、というか、
その内向性というか、つまりは、なんというか、おまんこって楽しいよね、
みたいな、そういう、俺的に言う普通人の世界観が皆無、というか、
つまり、いかにも友達のいなさそうな奴らが友達のいなさそうな奴ら同志でのせめぎあい、
それに終始した、まあそう、実に、そういう映画であった、と。

唯一、あの、無茶苦茶な英語で、
アメリカの大統領特使でござい、などと言ってしまう、
あの妙ちくりんな女の子。

あんな小娘風情が、大統領特使、なんて、
いくらアメリカでも絶対に有り得ない訳で、
あそこまでとっぱずれたキャラってのが、
一種、この映画の絵空事性を象徴していた訳で、
そんなド外しキャラが、妙な現実感を醸し出していた、とも言えて、
あの、ちゃぶ台返し的なミスキャストであった石原さとみ女史こそが、
唯一のリアリティであった、っていうのが、なんともおかしいというかなんというか。

という訳で、ようやく目が覚めた気分。

そして改めていう。

このシン・ゴジラ、
娯楽:エンターテイメントとしては最高級に面白かったが、
それはまさに、エヴァ。
つまりは、全てが自閉症児童の妄想に過ぎず。

という訳で、あれをリアルだった、という、自称現職の政治家さんとか、
おいおい、本当に日本って大丈夫かよ、と、そんな暴言さえも吐いてしまう、
ってところに、俺の俺性があるのだな、とちょっと自分でも安心した気分である。

ゴジラが来たら逃げればええやん。
で、その逃げる道筋で、いかしたねえちゃんをゲット!
どうせ死ぬのなら、おまんこしなけりゃ損そんソン。
という訳で、後は既得権益守るのに必死のニールとイライザに頑張ってもらって、
ゴジラさんにお帰りいただくまでの間は、
南の島ではっぱでも吸ってご機嫌コルゲン、してようぜ、と。

という訳で、最後の最後に告白しよう。

俺は実は、あの主役の役者さん、長谷川博己氏を、なんと、ユースケ・サンタマリア?
あるいは、あの魅惑のたらこ唇・石原さとみ嬢を、上戸彩と見間違えていた、
そんないま浦島なのである。

そしてせめて、松ケンが主役をやったら、もうちょっと融通のきく展開にもなったかな、
などと思わない訳には行かず。

という訳で、かの、ウォール・ストリート・ジャーナルの論評を鵜呑みする訳ではないが、
この映画を見て、いきなり自衛隊バンザーイとやってしまうお調子者の政治家とかには、
是非とも、南スーダン、なんてところで、土木作業に従事されながら、
いったいぜんたい、俺たちこんなところでなにをやってる訳?
となにもかもがチンプンカンプンの自衛隊の皆様と、その現実をともにして頂きたい、と、
切に願うわけであります。

という訳で、小田嶋氏の金言に誘発されて、無性にヤクザ映画が観たくなった俺。

でよりによって、そのあまりにも激しい反動から、
こんな映画、『木屋町DARUMA』 なんてのを観てしまった日には、まさにこのあまりにも凄まじいばかりの世界観のGAP、
なんとも収集が付かず・・・


で、ゴジラとダルマ、どっちが怖かった?と言われれば・・・

やっぱり、 DARUMA っしょ、ぶっち切りで・・・

つくづく俺は、そういう橋の下、ならぬ、星の下に生まれてしまったようだ。
つまり、オタク的な世界観からもっとも遠い人、であるらしい、と。

お後が宜しいようで。



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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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