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ダーティー・ジョブ ~ 忘れていた夕暮れを取り戻す

Posted by 高見鈴虫 on 02.2016 とかいぐらし   0 comments
ミッドタウンの現場で仕事を終えた時、
目の前に夕暮れが広がっていた。

夕暮れ・・・・この夕暮れって、あの夕暮れのことなのか・・

空の明るいうちに仕事から解放される、
少なくともこの数年来、無かったことである。

このなんとも言えぬ欠落感。
この手持ち無沙汰の中に、妙な不安さえも感じながら、
そして転がり出たタイムズ・スクエア。

今週末に予定されているニューヨーク・シティ・マラソン、
それに向けた気の早いツーリストの群れの中に、
五時の退職時を迎えた人々が、どっと通りに溢れ出し、
街は一種のお祭り騒ぎさえ思わせる、大混雑に沸き返っている。

行き交う人並みの中、目障りな観光客たちへの舌打ちと同時に、
一日を生き延びた人々の、その華やいだ笑いが満ちている。

見上げた西の空に、夕焼けが赤く滲み、
斜めに差し込む光リの中で、摩天楼の側面が燃え上がるように輝く。

午後5時三十分。
ニューヨークという街が、一番ニューヨークらしく見える、この時間。

人波に流されながらブロードウエイを歩く。

仕事帰りの人々の集うカフェのテーブル。
同僚たちと膝を寄せながら、気の早いワインに頬を緩め、
通りの向こうでは新入社員たちが肩を並べながら、
瞬き始めたばかりのネオンの滲むスポーツバーの奥に消えていく。
化粧を直したばかりの女たちたが、ヒールの音を響かせながらいそいそとデートの約束へと急ぎ、
そして俺は、そんな染み入るような夕暮れの空の下に一人で取り残され、
まるでそんな当たり前の風景を前に、まるで夢でも見るように、
ただ呆然と立ち尽くすばかり。

人波に流されながらブロードウエイを歩く。
この人混み。この歓声、この活気、
なにもかもが昔のままのニューヨーク。

それはまるで、当たり前のニューヨークの光景でありながら、
俺はまるで旅先の、初めて訪れた街を歩くかのように、
その見飽きた筈のマンハッタンの光景にためらうばかり。

こんな風景が、この世にはまだ存在していたのか・・

そう、変わったのは世界でも、ニューヨークでもない。
変わったのは、俺。俺だけであったのだ。

浮ついた辺りの雰囲気に乗せられるように、
みるみると身体が軽くなっていくのが判った。
肩の荷が下りた、というよりは、
まさに身体中に滞っていた澱が洗い流されるような、そんな気分。

歩調を落とし、ゆっくりと空を見上げる。
夕焼けに滲んだ空。
深まる秋の気配の中に吹き抜ける乾いた風。
この一瞬の安息の中に、一日の疲労感が溶け出しては、洗われて行くような、
そんな、当たり前の夕暮れのひととき。

帰ってきたな、と思わず呟く。
俺はようやく、このニューヨークという街に帰って来たのだ。

この感覚、まさに、長く忘れ去っていたこの夕暮れ時の雑踏の風景。
そんな日常に帰りつけたことが、正直、涙が滲みそうなほどに嬉しかった。

途端に頭の中で、ベビーメタルの THE ONE が鳴り響く。
それはまるで、祝砲の飾られた鐘の音が鳴り響くように。

ニューヨーク、俺の街だ。
そして俺はまだ、このニューヨークに居る。





BABYMETAL - The One by lever-de-soleil






金曜日に仕事を辞めた。

別になにか理由があったわけではない。
大した不満がある訳でもなく、
このまま黙っていれば、ずっとこのまま、
この暮らしが続くであろうか、
そんな呑気な夢さえも見はじめている、
そんな気もしていたのだ。

ただ、辞めると告げた時、まわりの同僚たちの、
なんとも微妙な表情。
その中に俺は、確実に安堵、の気配を感じ取った。

そうか、俺は邪魔者であったのだな、と改めて思い知った。

ルーティーンの日常に飽々としては苦渋を噛みしだく、
そんな人々の作り上げてきた、その陰鬱な花園。
俺の役どころは、
そんな鬱屈の囚人を開放すべく現れた救世主、
その筈が、
しかし、その苦渋と陰鬱に慣れきった人々にとっては、
鬱々とした日常の中を無神経に踏み荒らす、
厄介な乱入者に過ぎなかったのかもしれない。

ただそう、俺は俺で、やるべきことはやったのだ。
報告書を提出し、上層部からのサインを受取り、
そしてとりあえず、俺の役目は終わった。

深夜も近くなって、誰もいないオフィスに一人。
この一年あまりを費やしたその蓄積である資料の山を、
一挙にシュレッターに叩き込んだ。
そして俺は、この一年に渡ってさ苛まれ続けていた重荷から開放される。

あばよ、とひとり呟く。

退屈と徒労とルーティーンに満ちた日常、
そこにうず高く積った鬱病と低賃金と終わりのない愛憎の縺れ。
その爛れきった日常に敢えてしがみつくことでしか、
生きる術を見いだせぬ人々。

俺はこの職場に来て初めて、
座っていることだけが仕事、というタイプの人々を見た。
あるいは、立っていることだけが職務。
理由も、効率も、その目的さえも知らされぬまま、
ただその場所に座っている、あるいは、指示された場所に立っている、
それだけの人々。
そうやって生きることが、人生、となっている、
そんな人々が、この世には確かに存在するのである。

あるいは、夜勤という職。
ここ何年にも渡って陽の光に晒されたことのないその真っ白な肌。
血の気の失せた顔と、赤く濁った目。
そのいかにも吸血鬼を思わせる姿。
まったく生気を感じさせぬその姿は、
白々とした蛍光灯の灯りのなかで、
まるで影そのものを失ってしまったかのように、
ゆらゆらと揺らめきながらまっすぐに歩くことさえも忘れてしまったような、
まさに生きる屍。
何年にも渡って他人の目を徹底的に気にしなくなった、
まったくもってどうでも良い格好と相成って、
夜勤の人々に共通して漂うその投げやりな嫌世感は、
嘗て知ったホームレスの人々の持っていた、
社会そのものに対する後ろめたさ、
つまりは日の当たる場所に対する恐れ。
その姿はまるで穴蔵の中で怯える小動物を思わせた。

そんな夜勤の人達を見かけるたびに、
こいつら、うちの犬が見たら吠えかかられるだろうな、
と俺は人知れず薄くほくそ笑んでいたものだ。

犬に吠えかかられ、襲いかかられながらも、
しかし彼らは、抵抗する素振りさえも見せずに、
そのまま犬たちに噛み殺されることを望んでいるような、
そんな底なしの憐憫さえも漂わせていた。

そう、世の中には色々な人々がいる。
そして、どんな人々であったも、
この社会のどこかに居場所を見つけ、
あるものは悠々と泳ぎ回り、
あるものはまるで植物のように動く気配さえも見せず、
そしてあるものは、誰に気取られることもなく、
暗い洞窟の底のそのまた穴蔵の奥の奥で、
ひっそりと身を隠すようにしながら、
しかしこの社会にしっかりと根を張ってはは、
暮らし、あるいは、人生というものを、続けているのである。

そしてこの俺。
仕事というこの世で唯一の社会とのとっかかりも失い、
そして俺は、ようやく、独りになれた。

いったいこれからどうやって暮らして行けばよいのだろう。
まるで自分自身が、風に踊る塵やゴミ袋になったかのような、
そんな気さえもしたものだが、
その徹底的な投げやりこそが、
俺自身がもっとも望んでいたことでもあるのだ。

なあに、金はある、と呟く。

この糞仕事。
一年間、こうして身体が擦り切れるほどの激務の中にあっても、
一切の意義、あるいは、意味、を見出すことができなかった、
この徹底的な徒労の連続。
なにひとつとしてなにも得ることができなかったが、
だがしかし、唯一の言い訳を探すとすれば、
仕事の不毛さの割りに、あるいはその穴埋めとして、
金は悪くはなかったのかもしれない。

そう、金。だろ、金。
労働の目的は金だ。
どんな方法を使っても、金さえ掴めば良い、
その筈じゃなかったのか?

嘗ての失業時代に知り合った老人、
ニューヨーク・マンハッタンにいくつものビルを所有する、
その大金持ちの中国人の老人はそう言った。

金に意味を求めるのが愚行であるように、
労働に理由や目的を求めてはいけない。
労働の結果は金。まさに金。それだけ。
そして得られる金にはなんの色も匂いもない。
金は、金。それ以上でも以下でもない。
私は金が貰えるのなら犬の糞だって平気で食らう。
結果として採算が取れるのであれは人だって殺す。
金に善悪はない。美醜も無ければ、上も下も右も左もない。
人生に無駄な価値など見出そうとするな。
それは詭弁だ。
この不条理極まりない社会の、その不条理極まりない原則、
それを誤魔化すための詭弁、つまりはリップサービスだ。
真実は金。それだけ、それだけなんだ。

100%同意する訳ではないが、俺自身もそう思わないでもない、
そんなことを思う機会が増えた。
少なくとも、実際に金持ちである人々は、まさにこういうタイプが多いことも知った。

従業員たちを前に、あるいはメディアを前にしては、
もっともらしい人情論を繰り広げながら、
実際に出会った富豪と言われる人々は、
徹底的に孤独で、そして危ういほどにまで倫理観に乏しく、
そして潔いばかりの、結果主義者たちであった。
あるいはそう、その手のタイプ、
ともすると悪辣と言われる陰口を叩かれる、
一匹狼的な成功者達が、好んで俺のまわりに集まる、
そういうことなのかもしれない。
つまりは、俺にしても、そういう人々と、なにか似たものを共有している、
つまりはそういうことなのであろう。

それを受け入れてからというもの、俺はちょっと生きることが楽になった。

貧民救済も、プライドも、不平等是正も、民族開放も、正義の戦いも、
嘗て、確たる理由もないながらも、なんともなくこだわりを持っていた、
そんな青臭い義侠心が、見る見ると揺らめいては心もとなく、揮発を始める。

言っていることとやっていること、
あるいは夜更けに書き散らす、日記めいた駄文的散文。
そこに綴られる、世の中はこうあるべき、などという戯言が、
日が昇ったと同時に、いっさいが茶番化しては、
そして理想を見失ったままに、日々はつつがなく、
ただドサクサの中に押し流されては澱み、滞るばかり。

そしてすべてを投げうった深夜の街。
日々の鬱積の中からようやく一歩一歩と遠ざかりながら、
まるで身体中に、それこそこのまま山登り、
あるいは、そう、ホームレスのように路上生活でも始めるかのように、
この一年のうちに俺の持ち込んだ私物の山をぶら下げながら、
開放感というにはあまりにもやりきれない、
まさに徒労感、そして喪失感、そればかりが押し寄せてくる、
そんな夜を積み重ねてきた、この深夜の舗道。

さあこれからどうしよう、と呟く。

不思議なことに、怒りやあるいは怨念めいたものは、
一切浮かんでこなかった。
ただ、そう、思わず笑いだしてしまうほどの脱力感。

これから、と言われても、
正直、もうなにひとつとしてなにもやる気が起きなかった。

あるいはもう金輪際、人間という動物は見たくない、関わりたくもない、
そんなことを思うたびに、ちょっと自分自身でも怖くなるぐらいの、
徹底的な投げやりが押し寄せてくる、そんな気さえしていた。

唯一の望みは、いまも脳内に鳴り響いているベビーメタル。

THE ONE。

そう、祝祭の曲だ。俺はこの瞬間を、率先して祝うべきなのだ。

さあ、これからなにをしよう、と空を見上げた。

とりあえず・・・と呟く。

とりあえず、寝かせてくれ。俺が望むのはそれだけだ・・・



そしてお望みどおり、土曜日曜と徹底的に寝て過ごした。

犬の散歩の時ばかりは、まるでドテラのようなダウンコートを頭からかぶったまま、
まるで寝床をそのまま引きずるように深夜の公園を彷徨い、
そして家についた途端に再び寝床に倒れ込んでは惰眠の続きを貪った。

日曜日の夜、ソファの上で頭からダウン・コンフォーターをかぶったまま、
見るともなしにフットボールを眺めていたところ、
古い友人から電話があった。

よお、とその友人は言った。

まあ、そんな訳で、金も出来たし、また暫くのんびりしながら、
いくつか資格試験でも受けてみようかと思ってな。

やれやれ、と友人が笑った。随分ご苦労なことで。
それだけこき使われて、挙句にかみさんに逃げられていたらまったく世話ねえよな。
で、いったいどんな理由で、そんな糞面白くない仕事をやっていたんだ?

金だろ、当然だろうが、と答える。
とりあえず、自分で納得行く額を稼ぐ、そう思っていただけじゃねえか。

それほど金に困ってるのか?無理なローンでも組んだのかよ。

バカ野郎が、と思わず。いくら稼げるか、こそが人間の真価だろうが。
この街の人間はみんなそうだろう。
互いの懐具合を探り合って、それで対応を変えていく。
稼いでいる金で、その人間のランクが決められていくんだよ。

やれやれ、と友人がまた笑う。
なんか昔と言ってることがまったく違うじゃねえか。
昔のお前はそれこそ、金なんざいらねえ。仕事もそこそこに。
テニスやってバンドやってドラムを叩いて、
始終若い女たちをちゃらちゃら侍らせては、
人生を謳歌してたんじゃなかったのか?

そういやあお前はいつもカネのことばかり言ってたよな。
この仕事がいくらで、あいつらの年収がいくらで、ボーナスがいくらで、
で、それに加えて、駐在員手当が、住宅手当が、
税金をこう誤魔化して、ここでなにして、あれをなにして。

そうだったよな。確かに。いまもまったくそのままだけどな。

俺達はまだこの業界のひよっこだった時代の同期であった。
中途入社の俺に比べ、専門分野の大学院まで出て友人との間には、
まさに越えるに越えられない壁がある筈だったのだが、
友人は敢えてそのアドバンテージを拒否した。
現場に行かせて欲しい、と大学院卒の同僚は言った。
現場で仕事を覚えたい。
事務職なら後でもできるが、現場を学べるのは今だけだ。
そうやって俺たちは、同じ現場作業員として、
日々これでもかと使い捨ての奴隷のように酷使されながら、
しかし確実に、この業界のイロハ、
そのドブの底の底の流儀を、身体に刻み込んでいったのだ。

互いに現場のリーダー格として仕事を任されるようになった頃、
友人は上級職への昇進を敢えて断り、そしてじきに会社を辞め、
その後、小さいながらも社長となっては、
そこで昔俺達がやっていた、ドブの底の底の、
それまた底の現場仕事を請け負っては、
顔を合わせる度に青色吐息で、と愚痴りながらも、
なんとかここ10年余りの荒波を生き抜いてきたのである。

そんなことをやってなにになるんだ?が友人の口癖であった。

この不良社員にも、ようやく上級職への昇進の話があった時にも、
部署が変わって大きなプロジェクトを任されるようになった時にも、
そして、大手米系企業からのヘッドハントを受けた時にも、
友人の言った言葉は、そんなことをやってなにになるんだ?であった。

なんだよ、おめでとうの一言もねえのかよ。

なにを祝って良いのかわけが判らねえな。
それでおまえはいったいなにがやりてえんだよ。

確かにそう。
現実問題として、社会は不条理に溢れている。
キャリアパスなどは全てが名ばかり。
働けば働くだけ実入りの減っていくそのシステム。
当初は時給であった給料が、年収になった途端に残業を削られ、
中間管理職になった頃から祝祭日の一切が仕事に埋められた。
チームを率いるようになってからは、管理職とは名ばかりで、
いつも欠員の補充のために自身が最も安価な兵隊として現場仕事に没頭せざるを得ず、
仕事上の赤字を隠すためには自身の身銭を切ることを余儀なくされ、
そんなこんなで疲れに疲れ切った頃、
まるで降って湧いたような米系企業からの誘い。
一も二もなく飛びついた俺は、
そこで新たな不条理の現状、
それを城壁の向こう側、つまりは、雲の上から、
これまでの奴隷労働者としての自分自身の姿を、
これでもか、と眺めさせられることになった。

その大企業を、俺は豪華客船と感じた。
九時五時のお役所的な時間割リの中、残業もなくノルマも無く。
ほとんどただ座っているだけ、という状態であるにも関わらず、
給料だけは嘗ての二倍、いや、三倍。

ともすると自身を貴族階級と自称する人々に囲まれながら、
その仕事ぶりと言えば、仕事という仕事はすべてアウトソーシングに丸投げ。
日々やることと言えば、
仕事を依頼した現場作業員の報告を聞いて上層部に報告する、それだけ。
時として、その報告書までを現場に押し付けては、
ハッピーアワーの時間ばかりを気にする、そんな人々。

労働そのものに対する恐ろしいほどの嘲弄。
あくせく働くことが、「はしたない」とでも言うような、
その徹底的なほどの浮世感。
既得権益のみで利潤の回ることを前提とした、
この絶望的なまでにあからさまなその格差。

コストパフォーマンスが叫ばれれば叫ばれるほど、
そのしわ寄せは、アウトソーシングされた現場にのみ集中し、
安い賃金で徹底的に酷使されては使い捨てられる現場労働者と、
自己保全のみが目的化した管理者たち。
その絶望的なまでの隔絶。
その不条理を、社会構造、と一言で割り切る、
そんな大企業の慢心の中に、
俺は確実に、不穏な気配を感じ取っていたのだ。

そして予想通り、二年も経たぬうちにその豪華客船が沈没。
再び世間の荒波の中に放り出されては、
救命胴衣代わりに投げ渡されたなけなしの退職金を元に、
ホームレスの群れる図書館に一人篭っては上級資格の取得を目指した一年。

そのあまりの茶番的なアップ・アンド・ダウンの中で、
ピューリタン的な労働倫理が根こそぎ朽ち果てるような、
そんな気さえしていたのだ。

そして辿り着いたこの日曜日の夜更け。
古い友人は、そんな俺の話をいちいち鼻で笑いながら、

で、を繰り返した。

で、お前はなにを学んだんだ?

学んだ?

そう、そのお前の言う、他人に恥ずかしくない給料とやらを稼ぎながら、
そこで、いったいなにを学んだ? そして、その代償に、なにを売り渡したんだ?

この野郎・・ 相変わらず、嫌なことをズケズケと言いやがる。

仕事回してやるよ、と友人がいった。

お前の満足行く金額ってのには、まったく程遠いかも知れねえが、
まあそう、その溜まりに溜まった垢を落とす意味だけでも、
もう一度、現場の糞仕事に出てみねえか?

現場?現場って、あの現場かよ。

そう、現場。現場の糞仕事。
つまりはドカチン。
つまりはそう、お前の言う、その壁の向こう側、
その底の底。

一日、安い賃金でこき使われ、
おまけになにかあった時には全ての責任を押し付けられてのスケープゴートの脚切り役。
その現代社会の不条理なしわ寄せがすべて吹き溜まった、
その、下の下の下の糞仕事。
つまりは現代の奴隷階級。

その現場の糞仕事とやら、損を損と知りながら、もう一度やってみるってのも、
いまのお前にとっては、必要なことなんじゃねえのか?

現場?この歳になっていまさら現場かよ・・笑わせるな。

まあそういう言うなって。
いまさらだから現場なんじゃねえのか?
そう、昔、俺達があれだけ泥噛んできた、あの現場の糞仕事。
仕事は現場に始まり、現場に終わるって、あれほど言っていたお前だろ。
その嘗て振り回していた、その現場至上主義ってのが、いったいなんなのか、
もう一度見つめ直してみるってのも、悪くはねえと思うんだがな。

資格試験もカリブにバケーションも放浪のマリファナ・ヒッピーも良いかもしれねえが、
今のお前にとって一番のリフレッシュになるのは、
もしかしたらそう、その嘗ての現場に、もう一度舞い戻ってみることなんじゃねえかって、
そう思ってるんだがな。
戻りたいんだろ?現場に。
ずっとそう思っていたんじゃねえのか?
その嘗て愛した現場と、その軋轢の中で、
一人で腹を立てていただけなんじゃねえのか?
そしてお前は、そのオフィス・モンキーたちとの泥仕合の中で、
仕事そのものの目的、つまりは、仕事そのものを楽しむ、
強いては、人生そのものの喜び、なんていう、
一番大切なものを、忘れちまったってだけの話、
なんじゃねえのか?

大丈夫、騙されたと思ってもう一度現場に出てみろ。
お前がなにを見失ってたのか、すぐに思い出せるさ。



とそんな訳で、仕事を辞めたとたんにいきなり日雇いのアルバイト。
それも、現場のドサ仕事である。

業界のピラミッドで言えば、下の下の下の、奴隷仕事に逆戻り。
しかもそう、この降って湧いたような現場見習いの身分。
自分の息子のような年齢の奴らの、その下に付き、
一日中、これでもかとこき使われた。

当初は、この不穏な乱入者にぎくしゃくしていた奴らが、
午後も前になると、あからさまにおっさん扱いを始め、
うるせえ、と言い返した途端に、そら待ってました、とばかりに、
徹底的にいじくりまわされた。

だから、口ばっかり動かさねえで、さっさと手を動かせって。
口ではなにを言ってても手を止めなければいいんですよ。
そう、結果が全て。なにがあったって動けばいいんですよ、動けば。
さすがに殴る蹴るは無かったものの、その荒っぽい現場の流儀、
まさに水を得た魚のように、年甲斐もなくはしゃぎまくってしまった。

という訳で、三時を過ぎて本日の作業は全て完了。
最終確認の項目をひとつひとつ舐めながら、
ここに来てようやく心地よい弛緩が現場を包む。

フロアの上にべったりと腰を降ろしては、これでもかと足を投げ出し、あるいはそのまま寝転がり、
これが戸外であったら、タバコを回し飲みしては、ヤカンの口から水を浴びていただろう。

で、と改めて茶髪の少年が俺を振り返る。

で、おっさん、なんでまた、こんな仕事を始めちゃったわけ?

なんでまたって、失業したからだろ。いちいち言わせんなよ。

その前にはなにやってたんすか?

なに、って、まあ、色々だよ。

オフィスの仕事?

そう、オフィス・モンキーの飼育係みてえなもん。

飼育係か。辛そうっすねえ。

不毛だよな、草も木もどころか、毛一本も生えねえぐらいに、なんにもなかった。

という訳で改めて、やっぱ、現場でしょ、と。

そう、仕事の面白さ、人生の喜びは、すべて、この現場、現場にこそあり。

お前ら、まじ、幸せもんだよ。現場だよ、現場。現場なんだよ。



という訳で、一日中、これでもか、と浸り続けた現場、つまりはダーティ・ジョブ。

そんな一日の終わった夕暮れ時。

飲みに行く、という若者たちの誘いを断って、
じゃあまた明日、と、一人歩みはじめたこの雑踏の中。
改めて見上げるこの夕陽である。

この一時を失った暮らしが、いったいどれだけの欠落感を俺自身に強いて来たのか、
改めて思い知らされる気がする。

いくら稼いだって、ストレスで命を削っているじゃ、しょうがねえじゃねえか。

人生金じゃねえ、とか聞いたようなことは言う気はねえが、
その他人に見栄を張れる金額を稼いでるってな腐ったプライドのために、
いったいどれだけのことを犠牲にしてきたのか。

そう、俺が犠牲にしてきたもの。
端的に言ってこの一日の達成感、
つまりは、この夕暮れ、
確信をこめてそう思った。

さあ、家に帰ろう。
まだ陽の残っているうちに家に帰って、
犬と一緒に、川沿いの公園に降りてみよう。
まだ夕陽の最後の片鱗に間に合うかもしれない。

帰ってきたな、と思う。
そして、一日が終わったんだな、と改めて思う。

ダーティ・ジョブ、なにが悪い。

人生を楽しむことに、きれいな仕事も、汚い仕事もねえだろう、と。

給料がいくらで、タイトルがなにで、上か下か、舐めた舐められた、
そんなことばかりを気を取られては、
いつの間にか夕陽を見る余裕さえも奪い去られていた、
そんな日々だった。

あのガキどもの間の抜けた面を思い出しながら、
捨てられずにおいた資格試験用の参考書、
この現場を離れる決心がついた時に、
すべてあいつらにくれてやろう、と思っている。

上を目指せ、など口が裂けてもいうつもりはないが、
そう、せいぜいジタバタとさせてやろう。
そのジタバタこそが人生の一番の勲章なのだ。

そして俺のこのジタバタ、
この歳になってようやく先が見えた、どころか、
ますます泥沼にはまりこんでいく気さえしているのだが。

ダーティ・ジョブ、なにが悪い、と繰り返す。

俺は現場の男だ、と思う。
たとえこれからなにがあったとしても、
俺は現場の男なのだ。
俺は一生、現場の流儀を忘れねえぞ。
現場こそが全て。すべてであるべきなのだ。

そう思った途端、夕暮れの風が、身体のど真ん中を吹き抜けていく気がした。



そして月曜日の夜。
犬の散歩を終えたと同時に、
この現場仕事に身体中がきしみを上げ始めている。
寝落ちする前に早めにシャワーを浴び、
根際にふと手に取ったIPHONEに、
いつの間にか意外なメッセージが届いていた。

以前にお話した例のプロジェクト、
三年越しの巨大案件に遂にGOが出ました。
つきましては、突然ですが明日火曜日の朝九時、
ご担当者も含めてのキックオフ・ミーティングに参加されたし。

やれやれ、であった。
現場天国も一日だけで、またあの白い牢獄に逆戻り、という奴か。

今日一日、すっかりボランティアのタダ働きだったな、と笑う。

ただ、そう、得たものは多い、多すぎた。
その授業料として、このタダ働きの現場仕事。
余りあるものがあったのは言うまでもない。

という訳で、火曜日の朝、
よりによってこの記念すべき再就職一日目から、
全身に走る筋肉痛に呻き続けるばかり。

いやはや、現場も楽じゃねえな。

正直、この取り澄ました会議室の白壁に、
ちょっとほっと気がしたのは、言うまでもない。



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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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