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ベビーメタルよりも和楽器バンド? ~ ジャパン・パワーに見る日本の美の真髄とは

Posted by 高見鈴虫 on 19.2016 BABYMETAL☆ベビーメタル   0 comments
ここニューヨークの日本人界隈において、
BABYMETALのことを口に出すと決まって聞かれる言葉がある。

和楽器バンド。

特に割りとお年を召した方々からも好評のようで、
日本の美を海外に伝える、非常に誇らしいバンド、
であるらしい。

という訳で、BABYMETALと交換、という訳ではないが、
ちょっと、これ、聴いてみて、絶対に気にいるから、と、
その和楽器バンドとやらのPVを押し付けられることになった。





この和楽器バンド、
WIKIPEDIAに寄れば、八人組ロックバンド。

ボーカル・鈴華ゆう子の
「伝統芸能をよりポップに世界へ広げたい」
という思いからの呼びかけで、
鈴華ゆう子with和楽器バンドを結成。
尺八・筝・三味線・和太鼓の和楽器に、
ギター・ベース・ドラムの洋楽器を加え、
詩吟の師範がボーカルを担当するという編成。

各動画サイトで、数々のVOCALOID楽曲をカヴァーしたミュージックビデオが
数百万再生を稼ぐなどデビュー前から人気を集め
YouTubeにアップロードされた「千本桜」の再生数は
4962万回(2016年11月時点)を突破している、とのこと。

つまりはそう、最近のこの、ジャパン・パワー。

海外で評価された日本人バンド、
ベビーメタルと並んで、その筆頭に上げられているのが、
なにを隠そうこの和楽器バンド、であるらしい、のである。

という訳で、その頂いたPVのリンク、
さっそくご拝見仕る、ということになったのだが・・・

正直なところ・・・ 
我がベビーメタルと比較する中で、ちょっと、言葉に詰まってしまった。









いや、あの、ここだけの話、そう、内緒ないしょのここだけの話なのだが・・・

この、和楽器バンド、正直ちょっと・・・ 唖然とした・・

なぜか?

そう、まあ、百歩譲って、個人的な趣味、と言わせて頂ければ、

和楽器バンド、
これほどまでに、嫌いな要素の詰まったバンドというのを、見たことがない、
というか、なんというか・・

挙げ連ねれば切りがない。

詩吟だか浪曲だか知らないが、ボーカルのこのコテコテの和声が受け付けない。
そしてなにより、この和楽器というものの調べ、
ぶっちゃけそのプリミティブさ、あるいは、こもった音が、俺はどうも好きではない。
この嘗てのたけのこ族というか、田舎ドキュンの成人式のような格好やらも、
なんとなく、知性に欠けすぎるというか、なんというか。

そしてなにより、この、あからさまなほどの和文化強調の姿勢である。

そもそもが、日本の伝統芸能を世界に伝えたい、
というコンセプトそのものが、世界、を相手にしている訳で、
つまりは、既にその伝統芸能をふるさとの調べとして知り得ている日本人は、
そのターゲットに含まれていない、ということなのだろうが、

ぶっちゃけ、欧米人にぶら下がっている日本オンナ達、
あのジャパセン狂いのバカ女たち
あの一種のバタ臭さというか、なんというか、
あのとってつけたようなピロートーク仕込みの、舌っ足らずのなんちゃって英語、
あの嫌ったらしさを思い出してしまうような、ぶっちゃけこれ、菊池凛子だろう、と。

あのイニシエのパンパン、と言われた人たち。
つまりは、ヤンキーさんオンリーの娼婦たちの、あの悲しいほどの媚へつらい、
と同時に、あたいはもう、日本人なんか相手にしないんだからね、
という、その自虐的な開き直りにみるあさましさが、
どうにもこの和楽器バンドに集約されてるような、そんな気がするのである。

という訳で改めて、これ、違うだろ、と。



改めて長く海外での生活の続いた俺である。

日常生活の中で、普通に接しているのはつまりはガイジン、ばかりである。

そんなこれまで海外の人々との交流にどっぷりと浸りきった中で、
ジャパンの文化のオススメはないのか?とのご要求を頂いた際、
日本が世界に誇る、やら、海外でも通用する音楽、
それを考えれば考える程、選ぼうとすればするほどに、
日本人の俺が日本人として愛している音楽と、
そして、海外向け、つまりは、ガイジン受けする音楽、
その間に、越えるに越えられぬ溝、
それはまさに、断崖、とも言える大きな隔たりがあることには気付いていた。

ぶっちゃけ、ガイジンたちのごった返すバーで、
あるいは、野外のオープン・スペースで、
あるいは、窓を全開にしたフリーウエイで、

思い切りの大音響でかけるに値する、日本の音楽、

それはまさに、胸に秘めたその心の奥底をぶちまけるような、
強いては、パンツの中を公然とひと目に晒すような、
そんな照れ臭さ、あるいはそう、恥のようなものさえ感じてしまったものだが、

嘗て若かりし頃、
日本においてあれほどまでに愛した日本を代表するアーティストたち、
例えば、矢沢永吉が、たとえは、吉田拓郎が、
例えば、ジョニー・ルイス・アンド・チャーが、萩原健一が、
しかし、その予備知識の何もない海外の人々の眼前に晒される時、

そのうーん、という微妙な反応を前にして、

そこには明らかに、バックグラウンドなくてしは成立できない、
つまりは、歌詞に込められたストーリーの刷り込み無くしては、
その魅力を発揮しきれない、
その音楽だけのクオリティについて、
つくづくと考えさせられることにもなった。

日本のロック、所詮は真似事、あるいは、二番三番四番煎じ。

と同時に、この日本人の限界を打破する上で、
思い切りに開き直っては、ちょんまげバンド、やら、
そしてそう、お琴、あるいは、三味線、そして和太鼓を取り入れて、
嘗ては日本人の一種、恥を思わせる陰部であったところの和文化を、
思い切り全面に押し出して、という企画、考えなかった訳ではない。

そう、海外に出た日本人たちが、海外を相手に勝負をかける、
その悶絶的悪戦苦闘の中、その浅知恵の最もたるものであったのが、
このファッション、つまりは、和服、あるいは、チョンマゲ、
扇子に花魁のファッションをアピールし、
そして、楽器、つまりは、三味線、和太鼓、などの、和楽器を見世物にして、
とまあそういう企画というのが、これまでに何度となく繰り返されてきたのである。

が、しかし、とは思っていた。

これで、本当に良いのか?なのである。



嘗て、ヒッピー旅行者として海外の異郷の地、
それも辺境どころか、秘境のような土地を彷徨っていた際、
そこの安宿、あるいは、ビバークをともにする海外津々浦々からの人々との交流の中、
そんな土地を目指す人々に共通していた美意識であるところの、極める、という原理主義的な求道性。
その文化の、最もピュアな部分を掘り下げていく極道性の中において、

日本の美、その究極とは、との真理を追い求めていた時期がある。

例えば矢沢永吉が、日本の美の代表であろうか?
あるいは、松田聖子が、モーニング娘が、AKBが、
イニシエの日本の万葉の美学、その全てを包括する象徴となりうるものであろうか。

だったら、ハッピーエンドは、サディスティック・ミカ・バンドは、四人囃子は、
バウワウはラウドネスはXJAPANは、
アナーキーはスターリンは町田町蔵はBOØWYは、
伊福部昭、冨田勲、あるいは、
それこそ、既に日本の専売特許となった、キタロウ・・・

果たしてどうなのか、これが本当に日本の音なのか、
などと、妙なところを彷徨っていた際、

毎夜毎夜繰り返される全人種混合のマリファナ・パーティの席において、
金髪のヒッピーのひとりから、

これ、聴いてみてくれよ、凄いんだぜ、と流されたその音色。

それこそはまさに、ジャパン・バンブー・フルート、
つまりは、尺八の独演によるものであったのだが。





そこにはまさに、日本の山。
その風のそよぎから、木々のざわめきから、
蝉しぐれから、胸に染み入る青臭い香りまで。

その全てが、一瞬のうちに脳裏に広がっては、
これぞ、まさに、日本の原風景、
その全てを包括した音、
その極意の凄まじさを知り得るに至った。

その、シャクハチ・バンブー・フルートを紹介した、ヨーロッパからのツーリスト。
実は、嘗て、ピンク・フロイドの世界ツアーに参加した経歴のある、
バリバリの世界的フルート奏者であったのだが、

日本をくまなく歩いたが、そこに見たのは落胆の嵐。
限りないばかりの汚染された文化、その陳腐さばかり。

俺の求めている日本とはそんなものじゃない。

そしてたどり着いたのが、このバンブー・フルート。

お前たち、日本人、なにかを徹底的に間違えてはいないか?

その、日本の原風景を完全に包括した尺八の音色の中に、
俺はまさに、日本文化の粋となるところの、その核心を突きつけられる気がしたものだ。

凄いだろ、日本の音。凄いんだよ、とそのフルート奏者は繰り返した。

高橋竹山のシャミセン・ギターを見た友人が居てな、いやはや、物凄かったぜ、と。
クィーンのブライアン・メイが、チクザンのプレーを参考にして、
あのサウンドを作り上げたというのは有名な話。
そしてこの、高橋竹山を模したブライアン・メイのプレーが、
その後のロック、あるいはメタル界、
そのギタープレイの定番的なスタイルとして多大な影響を与えていくことになる。




改めて、首振り三年ころ八年に象徴される、日本の伝統芸能の凄まじさ、その極道性。

POPSとの融合など、まったく必要のない、とてつもない完成度、なのである。

あるいはそう、融合、などを目指せば目指すほどに、それは陳腐化し、そして本質を見誤る。

その陳腐化の象徴的なものを、俺はこの、和楽器バンドに見てしまったような気がするのだ。

ファッションだ?和楽器だ?ふざけるな、である。

その浅知恵において、表層をなぞればなぞるほど、それは、陳腐化し、そして本質から遠のく。

刺し身にタルタル・ソースをかけてしまったら、それは、タダの生魚を素材にしただけの、別の料理に変わってしまう。

和楽器をPOPSアレンジをしてしまった時点で、それは、和楽の本質を完全に踏み外した、別物、である筈のものなのだ。



しかしながら、我が敬愛する、細野晴臣氏、
そして、細野氏の深い理知を受け継いた、世界の坂本たる、坂本龍一先生。

この方々の作り上げた、YMO、これこそが、西洋文化に毒されきった現代日本の、その陳腐さの粋をかき集めた、
まさに徒花、と言われるものであった訳なのだが、敢えて音色を無視した電子音楽、敢えてグルーブを排除したリズム、
その、神をも恐れぬ大いなる開き直り。

がしかし、それが何故に可能であったか、と言えば、
それまで細野晴臣氏の手がけた、まさに、日本人の日本人による日本人のための西洋音楽、

ハッピーエンドにおける、夏なんです
あの一曲の中に凝縮された、まさに、日本の夏、その全て。
その究極の叙情性、それを極めに極めきった末に行き着いたYMO、
このあまりにも壮大なちゃぶ台返し。

そこに至るまでの細野晴臣の葛藤のさま、それを理解せずしてYMOの美学は語れないのである。

そして、そんな細野晴臣氏の長くからの盟友であった坂本龍一先生。

その叙情性の真髄、そのコアを生々しく切り取ったかのような、
まさに、日本の原風景を現出せしめたピアノ曲。





嘗て、煮詰まりきった練習スタジオにおいて、

ああ、ロックもジャズももう使い古し過ぎ、飽々してゲロが出そうだ。
もう、音楽なんて聴いてられねえ、とまでに、くたびれきった俺達が、
ふと、癒し系の極限たる楽曲としてこの、坂本龍一先生のピアノ曲をスタジオ一杯に流した時、
俺達は、まさに、言葉を失った。

日本・・・ このピアノ曲の中には、日本の全てがある・・・

とそんな時、妙なことに、スタジオ中の人間たちがわらわらと虫が湧くように集まって来たのである。

な、な、なんだ、これは・・・

俺はいま、生まれ育ったテネシーの山々を思い出していた。
俺の目の前にはカリブ海の夕暮れが広がっている。
サハラ砂漠の砂丘が、パリの街角が、タイムズスクエアの雑踏が、
そして千歳船橋駅前のあの夕暮れの風景が・・

全人類の、その、原風景を抉り出すほどの旋律・・・

そして俺たち、スタジオ中に集った、その、全人種全人類、
その中から選りすぐられた、音楽に人生の全てをかけた人々、

そんな音楽人のすべての心をとりこにした、この坂本龍一の旋律。

音楽に国境はない、のである。

和楽器だ、ちょんまげだ、花魁だ、
そんなところに、音楽を、あるいは、芸術を、あるいは文化を、落とし込んではいけない。

音楽がその世界標準たるクオリティに達した時、

日本も、西洋も、東洋も、アジアもアフリカもなく、

人々は一つの核心に至る。

それこそは、原風景、なのである。

音楽が現出せしめるその深層心理の中の最もピュアな映像、

それこそが、全人類が愛して止まない、音楽、あるいは、芸術、というもののひとつの真髄なのだ。



という訳で、和楽器バンド?勘弁して欲しい、と思う。

和楽器を使わず、花魁の格好などせずしても、日本人が日本人による日本人のための、
そして、世界中の全人類の原風景を現出せしめること、それを目指さずしてなにが音楽家だ。

馬鹿野郎、舐めるのもいい加減にしろ、である。

という訳で、俺はこの和楽器バンド、俺の嫌いなものの集大成、というのはまさにそう、
俺達が誤り続けた、そのもっとも陳腐な浅知恵的なところを露呈せしめた、まさに恥辱的バンド、と唾棄させて頂く。

こんなものが海外に評価されたからといってなんなのだ。

あるいは、こんなものを評価する音楽家は、最初からものの本質が見えていない。
あるいは、似たような浅知恵の輩が浅知恵どうして傷を舐めあっている、
そんな程度のものだろう、と思うがどうだろうか。



という訳で、最後の最後に、思い切りのちゃぶ台返し、
そのメガトン・パンチを喰れさせて頂く。

言わずと知れたベビーメタル。

日本が世界に誇る、まさに、超ウルトラ級バンド。

アイドルとメタルの融合。

ゴシック・ロリータ・コスチュームに身を包んだ三人の美少女と、
そして、白塗りのバックバンドで固めた、
この、徹底的に訳の分からないちんどん屋バンドである。





がしかし、そこには、日本を象徴する、和楽器、的なアイテムは何一つとしてない。

敢えて言えば、最近の日本のアイドル界、であるのだろうが、
世界の人々はそんなもの知ったことではないのである。

俺達が見ているのは、まさに、そのクオリティ、である。
全人種、全人類が、音楽に求めるそのクオリティ。

俺がベビーメタルをこれほどまでにノックアウトされた理由は、

三姫のその黒髪の見事さ、あるいは、アイドルの、コスプレの、ジャパニメの、
そんな現代の日本のコンテンポラリー・アート、その真髄、
であることは確かにそうなのだが、
あるいは、アイドルと、そして、メタルを融合したその斬新なアイデア。
まあ、そう、それはそれとして、ではあるのだが、
だがしかし、先述したように、そんなものは既にいくらでもある。

そう、和楽器バンドに見られるその表層的な和文化の押し売り、
あるいは、アイドルとメタル、あるいは、ジャズとパンク、
あるいは、伝統芸能と西洋楽曲の融合、
そんな陳腐な混ぜ合わせ、
おせちもいいけどカレーもね、
納豆飽きたからちょっとマヨネーズを加えてみようか、
そんなえげつない試行錯誤は世界中の音楽スタジオで、
いまも繰り返されている浅知恵の中の浅知恵。

その中から、何故にこのベビーメタルが世界に評価されるに至ったのか。
ベビーメタルのその特異性、その真髄となるべきものは、
日本の文化?日本人の日本人による日本人の為の?

違うだろ、と。

ただたんに、ベビーメタルの奏でる楽曲が、音楽的に優れていた、
そして、ライブにおける神バンドの演奏技術が、
そしてなにより、ボーカリストであるすぅめたるのその歌唱力、
そして、テクニカルな、と同時に、メンタルな意味も含めたそのパフォーマーとしての力量、
その脇を固める、ユイ最愛の存在のその必然性、

そこに見るのは、まさに、技を極めた、
その限りないばかりの音楽、あるいはパフォーミングに対する真摯さ、
つまりはその、極道性なのである。

その辛辣なまでの求道性に貫かれたこのベビーメタルの技の美、
その全てが、全人類の評価基準である、そのクオリティを完全に凌駕していた、
つまりはそう、日本人であろうが、韓国人であろうが、インド人であろうが、
優れているものは優れている、つまり、良いものは良い、それに尽きる、と。

そこにあるのはまさに、全人類の音楽極道に共通する、技の美、その尊厳なのである。

ベビーメタルに見るその凄まじいまでの真面目さ。
つまりはプロ根性。
まさに、伝統芸能を極める修験者のその求道性を持って、
アイドル、そして、メタルの音楽性を追い求める、
その一切の妥協を廃した真摯さ。

ベビーメタルが評価されているのは、
まさに、その極道性に貫かれた、美のクオリティ。
日本の美の真髄、
その伝統芸能を守り続けてきた、
そのプライドの全てをかけた修験者たちに共通するその辛辣さ。

技の美の尊厳に対する限りないまでの実直さ、
その日本文化の真髄たるき真面目さ、真摯さこそが、
このベビーメタルを支える真髄。

そう、和楽器を用いず、扇子も花魁もないベビーメタルが、
しかし、日本のプライドを象徴し得るのは、
まさに、その、大和なでしこの魂の真髄を体現する、
その凛とした極道性なのである。



友人の中に、トルコ人のジャズ・ピアニストがいる。
技量的なものはもちろんのこと、
そして、そう、それにプラスして、得も言えぬ、叙情性に溢れた素晴らしいピアノを弾く。
友人のひとりに、フィリピン人のベーシストがいる。
イスラエル人のギタリストもいれば、そして、日本人のドラマーもいる。

そんな全人類、全人種を超越した音楽極道を自称する人々が、
ベビーメタルを、日本からのアイドル、あるいは、メタル、
そんなもの、知った事か、という次元で、
そんな刷り込みを全て超越したところで、
ベビーメタルは凄い、と手放しの賞賛をして憚らない。

ともすれば、メタルだ、ジャズだ、クラッシックだ、そんなジャンルの障壁さえも取り去って、

この、ベビーメタルという存在、

ぶっちゃけ、シュガーポップと、デス・メタル、
その融合の中で繰り広げられる、前人未到の壮絶なパフォーマンス、

そのあまりのクオリティの高さを、
純然たる音楽家として、、
あるいは、パフォーマーとして、心から評価している、のである。

改めて言わせてもらう。

ベビーメタルの魅力とは、日本人の、アイドルの、
あるいは、メタルの、コスチュームの、ロリコンの、ジャパニメの、

あるいは、海外で評価された、やらやらやら・・・

そんな、取ってつけたようなト書きは、全て表層である。

つまりは、音楽、あるいは、パフォーマンス、そのもの、その真髄を評価する力のない、
ド素人の人々に向けた、戯言でしかない。

ベビーメタルが評価された理由、は、坂本龍一先生が世界に評価された理由と、まったく同じ、である。

つまり、音楽的に、優れていたから、それこそが、最も重要なこと、なのである。

つまりは、ベビーメタルは、ジャンルを問わず、パフォーミング・アーツの究極の目的とした一つの真理、

観客に感動を与える、その全ての芸術の目的に達し得たスーパー・バンド。

そしてそのアイコンとなったのが、ガラパゴス大国・日本の、ポニーテールの女の子、
その人類史上稀に才能に裏打ちされた、その力量、なのである。

という訳で、和楽器だ?扇子だ、花魁ファッションだ?笑わせる。

あるいは、ベビーメタルがそのコスチュームを脱ぎ去って、文金高島田、
あるいは、ターバンを巻いても、腰ミノをつけても、
そのパフォーマンスのクオリティには揺るぎはない、筈である。

という訳で、ベビーメタルよりも、和楽器バンド?

あのなあ、と。

海外で評価された、なんてところで、
この和楽器バンドとベビーメタルを一緒くたにされては困る、のである。

お前ら、つくづく判ってねえなあ、つまりは、表層人、と。

バカタレが、いまに見ていろ、と思っている。

このベビーメタルのクオリティ、そのパワーに、
世界中がひれ伏す、そんな時代がもうすぐ目前である。

AKBと、パフュームと、あるいは、和楽器バンドと、
このベビーメタルが比べられていた、なんて、信じられないけどね、
と、全ての人々が苦笑いを浮かべる、そんな時代が、すぐにでもやってくる筈である。

なぜかと言えば、そう、ベビーメタルが本物、であるから、なのだ。

人類の目は節穴ではない。
正義は勝つ、ではないが、本物と偽物、
その違いが判らない、そんなバカばかりではない、ということだ。
俺はそれを、信じている。

という訳で、いつの日には、もしかして、ベビーメタルと和楽器バンドが、フェスティバルで共演、
なんてことになった日には・・・

和楽器バンドの面々が我を忘れてベビーメタルに踊り狂う、そんな風景が目に浮かぶようである。

改めて、ベビーメタルを舐めるな。
あるいは、音楽を、芸術を、舐めんじゃねえ。

ベビーメタルこそは、本物、なの DEATH

それに気づけぬ奴とは、正直、口をきく気にもなれねえ、

という訳で、俺は今日も、犬の散歩ばかりしている訳である。


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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