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春よ来い、春の恋 ~ ユーミンの蓄膿児童唱歌の系譜に、中元すず香の根源を探る

Posted by 高見鈴虫 on 13.2017 BABYMETAL☆ベビーメタル   0 comments
皆さん、春ですね。
ここニューヨーク、
二月半ばの異様なほどのポカポカ妖気の中で、
すっかりとその気の春の訪れに狂喜したのも束の間、
三月の半ばにきて突如の最後っ屁的なごり雪の猛吹雪。
油断して足を踏み出したアパートの戸口で、
凍りの突風に打ちひしがれながら、
まだかまだかと春の訪れをじりじりと待ち続ける、
そんな日々が続く今日このごろ。

ただ、そう、二月において感じたあの春の予感。
一度灯った春への熱情はこの寒空の中でも衰えることを知らず、
気の流行った乙女たちは、雪の積もった舗道で特攻精神的なミニスカートの生足を、
あるいは、頭から被った分厚いコートの下、
これみよがしに大きく広げた襟元を、
凍てついた木枯らしに痛々しくも晒しながら、
心は既に春遠からじ。

ああ、春、この春、恋が、恋がしたい、
と、思わず歯ぎしりを続ける、
そんな気の逸りに身を焦がすばかり。



という訳で、一足早い夏時間、
夏時間?この雪混じりの突風の下でなにを考えているのだ、
とは思いながらも、

それと同時に、まさに、心は既に春の虜。

春といえば恋。
恋、と言えば・・・


ユーミン・・・!?











そう言えば、先日の昭和歌謡ねた、
近田春夫から始まったあの歌謡曲VSロックの妄想的密林の中、
ふと、日本人の日本人による日本人的歌謡の歴史の中で、
避けては通れない巨人、ならぬ、巨女を忘れていたことに気づいた。

日本ポップス界の生んだ最高にして最大の巨人、
言わずと知れた、中島みゆき、
ごめん。悪い冗談だな。
そう、ユーミン、こと、松任谷由実、俺的には敢えて、荒井由実と呼びたい。

歌謡曲だ、ニューミュージックだ、JPOPだ、
そんな、ちょこざいなくくりをすべてかっ飛ばして、
このユーミンこと、荒井由実、あるいは、松任谷由美。

裸のラリーズ、あるいは、村八分、の、山口冨士夫と並んで、
というのもまた悪い冗談だが、

この荒井由実こそは、日本の音楽界の一つの頂点、と勝手に定義させて頂く。

果たしてこのユーミンである。

日本での厨房時代、俄湘南爆走族であった俺たちが、
駅のロータリーの集合時にはやれ、アラベスクだ、ボニーMだ、と
快走ラスプーチンを気取っていたものの、
江ノ島までの狂乱のドライブを終えたその帰り道、
寝静まった住宅街をひた走りながら、
ふと、カーステで流れていたのが、
矢沢永吉?クールス?セックス・ピストルズ?
まさかまさか。
その狂乱の夜の帰り道こそは、まさに、このユーミン。
パンチだニグロだ、メッシュだカーリーだ、でキメた、
この絵に描いたようなつっぱりなめ猫軍団が、
ふと、人知れず気の緩んだ時、
思わず口ずさんでいたのが、
実は実は、何を隠そうこのユーミンだったのである。

非行期雲、厨房フリーウエイ、は言うにおよばず、
卒業写真から、あの日に帰りたいから、ルージュの伝言から、
そして必殺、ベルベット・イースター!

四半世紀にも渡る時空を飛び越えて、
その代表曲のすべてを、一字一句一音の迷いもなく
完璧に歌い通せるという人も、そうざらにいるものではない。

そう、俺達は湘南のガキだった。
つまりはユーミンの申し子。
そしてたぶん、少なくとも俺達の時代、
日本中のガキどもが、良い子も悪い子も、
そして、俺達のような最低最悪のド飛行少年少女たちも、
そのカラーや看板に関係なく、
このユーミンの与えた影響、
計り知れないものがある。

因みにこのユーミン、

実はこのユーミンの育ての親を自称する方と親しくして頂いた覚えがあって、
いやあ、あの子はねえ、まったく本当に、どうしようもない子で、と長い長いため息と苦笑い。

音楽理論どころか、発声の基礎どころか、ピアノという楽器のなんたるか、
なにもかもが完全な自己流の、まさにめっちゃくちゃ。

ラジオで聞きかじったどこの国とも知れぬ曖昧なイメージを、
その聞き違えた思い違えたままにまま勝手にリメイクしてアレンジして
それを、うろ覚えのピアノのめちゃくちゃな和音を加えては鼻歌まじり。

そのあまりの無手勝流、そのあまりの暴虐無道、
あなた、音楽の歴史そのものに、ガチンコ勝負を挑んでるつもり?
そう言わしめた、まさに、独断流まじキチ、であったらしい、このおてんば娘。

ただ、周りからなにを言われようが、自身の唱法を、奏法を、
そしてその作詞作曲のセンスを、決っして曲げることの無かった、
この型破りの破茶目茶娘。

キャロル・キングと、アレサ・フランクリンと、
マリア・カラスとエディット・ピアフと、
ポール・マッカートニーとセルジオ・メンデスと、
ポール・サイモンとブライアン・ウィルソンがごちゃまぜになった、
その混沌のままをそのまま丸々リメイク、リアレンジしては、
なんちゃって、と作り上げてしまうこのユーミン・ワールド。

これぞまさに西洋ポップのてんこ盛りのごった煮が、
ユーミンというバイアスを通されて日本語に還元された、
まさに、そういった意味でも、ユーミンこそが昭和という時代は言うにおよばず、
世界各国の文化のすべてを貧欲に吸収しまくっては、
あっけらかんと日本流に作り変えしまう、
そんな日本人妙技に尽きる、
天才の中の天才であったかと。

ただそんな日本の誇るポップス界の偉人であるところのユーミンが、
実は、当時、俺がつるんでいたヒッピー外人勢には、こと、評判が悪かった。

ユーミン、大嫌い、とニューヨーク生まれ育ちのアイリーンが眉をひそめる。

あの、鼻詰まりのキンキン声。
まるで小学生の児童唱歌みたいで。
ほら、真似してあげましょうか、
と鼻を摘んでは宇宙人のような声色で、
耳覚えのなんちゃって日本語で歌って見せる。

お前らもそうか?と周りを見渡せば、
LA育ちも、ハワイアンも、
カナディアンもオージーも、
白人のGIも黒人のブラザーも
宇陀屋人もパレスチニアンも、
ユーミン?うーん。。ノーコメント。
微妙と曖昧な苦笑を浮かべては顔を見合わせるばかり。
正直言って、ニホンジンがなぜこのユーミンをこれほどまでに愛するのか、
これだけは、さっぱりわけが判らない。

そう、ユーミンはこと外人には評判が悪かった。
まさに東洋の神秘、そのもの。
あの蓄膿の小学生のような発声が我慢ならない。
曲だって凡庸だし、なにより歌に感情が感じられない。
まるで、ロボットのような声だよね。
まったくもって、なってない、っていうか、
正直、ガキ臭くて聞いてられない。

まあ確かに、ジャニス・ジョプリンやら、アレサ・フランクリンやら、
美空ひばりやら、越路吹雪、なんてのに比べれば、
このユーミンの楽曲、
蓄膿の児童唱歌、と言われても言い返す言葉もなく。

ただ、そこが良いんだよ!
この蓄膿の児童唱歌、こそが、日本の歌なんだから、
と開き直る以外に術はなく。

外人連中になにを言われようが、ユーミンはユーミン、我らがユーミンである。
では俺たち日本人は、ユーミンの中に、
外人たちに解らない
一体なにを感じていたのか?



改めて日本の詩とは何か。

移ろいやすい日本の四季折々の中に、
密やかに通うこの繊細な心象風景。
そう、日本の音には、この微妙な繊細さ、
つまりは、四季の、
そして、雨の、そして蒸し暑い日差しの中に、
ふと走り抜ける涼やかな風。
そう、日本の音が、ニホンジンの音として認知されるためには、
なにを隠そう、この自然、その風景、その香り、
その叙情性こそが、必要不可欠だったのである。

そしてこのユーミンは、見事なほどに、
その日本の詩を、
アメリカのフォーク・ロックを、R&Bを、
そしてフランスのシャンソンをブラジルのボサノバという用法を拝借しては、
その鼻づまりのキンキン声のロボットの唄う児童唱歌のような声を通じて、
だがしかし、
その根本を流れるまさしく日本の詩、
日本の四季おりおりの叙情性、
その憂鬱を、その胡乱を、その安らぎを、移ろいを、
見事なまでに刻み込んでいったのである。







改めて、海外からの人々にとって、
日本の特異性とは、
まさにこのセンチメンタリズムである。

日本の文化はなにかにつけて、
その中に滑稽なほどにまで強烈に、
このセンチメンタルを秘めている。

センチメンタリズム。

それは、感情、というよりは、感傷。
情緒というよりはむしろ叙情に近い、
この日本のセンチメンタリズムの根源とは、
移りゆく四季の中で、美しきものも醜きものも、
なにひとつとして一定にはありえないこの無常観の中における、
一瞬の至福に永遠を感じ取る、
その、刹那に根ざしている筈である。

その日本独自の無常感的な感傷的叙情性。

ユーミンが、西洋ポップスという形式を借りてそこに刻み込んだのは、
しかし、移ろいやすい日本の四季折々の中に潜むセンチメンタル、
その流れの中に生きる、自然の巫女。
まるで一輪の儚き花の姿を想わせるすべてをの少女達の姿。
その赤裸々までのセンチメンタリズムだったのである。

ユーミンを差して、フェミニスト、
つまりは、性差別に反対して女性の解放を主張するための、
その女性的な権利の象徴的なことを言う人がいるが、笑止である。

ユーミンこそは、そんな無駄な闘争、
あるいは、感情論を一切排除した、
一種全てをカーンと突き抜け切った、
その徹底的なまでの生活感の欠如。
或いは無常とも言える刹那性。

このユーミンこそは、かの紫式部にも通じる、
日本子女のその伝統、
つまりは社会性という範疇からは徹底的に排除された上での、
まさに雲の中を漂うような現実性の欠如。
浮世の動乱を尻目に、
四季折々の中に自由奔放に感傷の翼を広げては、
季節の移ろいの中でいつかは脆くも色褪せる、
その無常の世に咲いた一瞬の生命の輝き。
その一瞬の中に永遠の閃光で煌めく、
不埒で浮気なウキウキ・ラブラブの、
そんなハイパー少女の乙女心、
そのなんの手加減もしない心情吐露。

社会性も無駄な屁理屈もこの世の御託のすべてをかっ飛ばして
少女達はその儚き夢、
一瞬の中に生命の炎を燃やし尽くしていたのである。



紫式部が、ひらがな文字、という女言葉、
その新たなる表現手段を使って、
女の女による女的美意識に貫かれた女の世界を余すところなく表現したように、

荒井由美は、西洋ポップスという外来の表現方法を武器に、
なにものにもとらわれないままに、
少女の本音を歌い込んでいった。

前述した、ユーミンのそのアマチュア時代のエピソード。

音楽理論どころか、発声の基礎どころか、ピアノという楽器のなんたるか、
なにもかもが完全な自己流の、まさにめっちゃくちゃだった、という、
この無手勝流的暴虐無道なほどに自由奔放な乙女心の手放しの発奮。
そのなにひとつとして曇りのない、意地もてらいも捨てさった心情吐露、
そのパワーこそが、ユーミンが自らの女性的感性における日本女子の美学。
ラブラブ至上主義的感傷世界、その見事な具現化であったのではなかろうか。

そしてその恐れを知らぬ感性が、
当時、日本人による日本の為の日本のロックを模索し続けていた、
細野晴臣率いるティンパン・アレイとの奇跡的なコラボを生み出し、
その相乗効果の中で、この怪物女、ユーミンの才能が見事に開花するのである。





改めて、日本の歌のその真髄とはなにか?

神楽?浪曲?民謡?
美空ひばり?北島三郎?
演歌? 怨歌? あるいは・・

馬鹿言っちゃいけない。

俺達は、基地の街で生まれた、バリバリのポップの申し子だったのだ。

そんな俺達にとって、真の日本の歌とは、荒井由実、これ以外には、考えられない。



という訳で、改めて荒井由実である。

この日本ポップスにおける、女帝的な絶対的女王。

この人の作り上げた、あの、蓄膿の児童唱歌的な歌唱方法が、
この日本において、一種のスタンダード化を果たすのである。

アメリカにおける歌唱方法の、その伝統が、ゴスペルに根ざしているように、

日本ポップスの伝統は、まさにこの荒井由実的、
蓄膿の児童唱歌的ヘタウマ唱法が、その根源を成す、
そんな妙な伝統が生まれた、と言っても過言ではない。

この荒井由実の成し得たヘタウマ的児童唱歌的な唱法とはなにか?

それはまさに、乙女の純情。

恨み辛みの演歌的なコブシや、媚さえも感じさせるビブラートを、敢えて徹底的に排除した、
その、あっけらかんとした、キのまま唱法。

この飾りのなさ、つまりは、嘘のなさ、こそが、包み隠さずに少女の本音を歌い上げる、
そこに大いなる共感を生んだのである。

そしてこのユーミン的ヘタウマ唱法が、見事なる結実を示したのが、
まさに、と、またまた独断と偏見で突っ走るところの、
この、マイ・リトル・ラバー、ではないだろうか。







このユーミンの作り上げた、
四季の叙情性の中に軽く弾けて歌い踊るあの蓄膿少女的ヘタウマ唱法。
その中に、確実に刻み込まれた、この絶対日本少女的なラブラブ・キャピキャピ・パワー。
その、一種、恐れ多いまでに生活感の欠如した、絶対少女的感性。

そこにマイラバの、ちょっと大人の、しかし、改めて、少女の少女による少女のための少女的な感性によって貫かれた、その血の滲むようなビビッドさと、そして、張り裂けんばかりの恋への熱情。

こぶしや、ビブラートや、シャウトや、そんな激情や怨念や媚も諂いもかなぐり捨てた、
あっけらかんとした児童唱歌的な唱法の中で歌い込まれた、迸るまでの少女の純情。

ユーミンの背後に、細野晴臣、そして、ティンパン・アレイからの、日本ポップス界の珠玉が集結したように、
このakko(あっこ)という、天才的なまでのわがまま少女の影に、
小林武史、そして藤井謙二というポップの鉄人がガチンコの勝負を賭けたこの奇跡。

この才人たちの、愛憎入り乱れる好いた惚れたの悶絶的大活劇が、
EVERGREENと、そして、PRESENTSから、
そして、NEW ADVENTURE という、
日本ポップス界が世界に誇る、珠玉の名盤として結実を見る。



改めて、このNEW ADVENTUREという作品。

胡乱な梅雨時の生ぬるい雨の中で、
燃え切らぬ思いを抱えて見上げる雨空の中で、
心の解放を夢見る少女のその張り裂けるばかりの思いが、NEW ADVENTURE、
一塵の風、あるいは、夜空に煌めく流れ星のように輝いた恋の予感の中でSTARDUST。
身が張り裂けんばかりの熱情に心を焦がしながら、CRAZY LOVE。
そして驟雨の中を熱情に駆られて駆け抜けるように、
運命の恋と信じたDESTINY。
そして夏が終わり飽きが過ぎ、12月の天使達。
身も心も燃やし尽くした末にふと訪れた感傷の中でPrivate eyes。
そしていつしか、またひとつの辛辣な思いを経て、Days.
新たなる冒険の旅へと誘われる、New Adventure (reprise)。

この恐ろしいまでの少女の熱情を、
見事なほどに描ききったこの大名作。

それはまさに、男の俺にとっては、悪夢そのもの。
不埒な浮気心から、ちょっと、ちょっかいを出してみた女の子に、いきなりマジこくられてはしどろもどろ。

いや、でも、おれ、かみさん居るしさ、と言うに一言が言うに言えぬまま、
いつしか、そんな少女の瞳の、
そのあまりの切なさに引きずり込まれるように、
恋に恋をする熱情の嵐に足をすくわれては・・

そんな現代の悪夢とさえ言える、
苦い苦い経験を思わず追体験させられる
この危険なほどの生々しさ。
それこそは、
源氏物語にも通じる、
日本人のニホンジンによる、
ニホンジンの為の、恋の歌。

郷ひろみの男の子女の子から、
沢田研二の危険なふたりを経て、
そして、ユーミンの謳ったあの、絶対少女的世界を受け継いだ、
このMY LITTLE LOVERの、NEW ADVENTUREに結実を見る。

つまりは、それこそが、
少女の独壇場であるところの、恋の歌。
そのものではなかったのか。

弘田三枝子という悲劇の天才から、平山みきという魔神的なヘタウマ女王に受け継がれた
日本女性ポップスの伝統が、
このユーミン的、蓄膿の児童唱歌的な少女の純情唱法へと昇華を遂げた後、
AKKOという、大人の女の恋の歌の熱情を経て、
そして再び、不出世の天才歌手、中元すず香において、驚異的な跳躍を見た。



という訳で、おまたせこいた。

またまた、飽きもせず、すべての戯言のその終結は、
この中元すす香をもって帰結、とさせて頂く訳だが・笑

改めて、ベビーメタル すぅめたるにおける、あの奇跡的なまでの表現力。
ただしかし、音楽的に見れば彼女の唱法は、
かつて、外人たちがユーミンを称して、蓄膿症の児童唱歌と笑った、
その、ジャパニーズ・ポップス唱法のその発展系である。

そう、中元すず香は、アイドル、というよりは、メタル、あるいはロックというよりは、
純粋に、ユーミンから始まるこのジャパニーズ・ポップス唱法、
その正統的な継承者である。

そのなにひとつとして飾りのない、そして、隠すもののない、
純真無垢な、ストレートすぎるほどにストレートな、少女の純真の心情吐露。

紫式部にも通じる日本少女的なラブラブ・キャピキャピ・パワーが、
ユーミン的蓄膿症の児童唱歌を通じてひとつのスタンダードを確立した後、
マイ・リトル・ラバーのアッコによる熱情的歌唱の開花を経た後、
そしてベビーメタル・中元すず香における、開眼を見た訳である。



改めて、この天才の中の天才である中元すず香。
この多感な19歳の少女が、ベビーメタルとして世界のロック界を震撼させる中、
果たして、彼女自身の胸の内に潜むその熱情。

その熱情のすべてが、ベビーメタルの楽曲を通じて、これでもかと観客席にぶち巻かれている訳なのだが、
果たして、この中元すず香の胸の内に、始めて、恋の、あるいは、愛の、芽が吹いた時、
彼女の歌は、果たして、どんな変化を見せるのだろうか。

ベビーメタルという、一種、SF的なまでに抽象化された世界観の中で、
愛よ地球を救え、と歌い続けるこの中元すず香。

彼女が、その私生活において、始めて、恋の熱情を、そして、その躍動と、熱情と、
そして、身を引き裂かんばかりの悲しみの中で、始めて、自身の歌=誌を必要とした時。

アッコが、その盟友たる小林武史との間の愛憎劇を、見事なまでの音楽性に昇華させたように、
果たしてこの中元すず香が、その奇跡的なまでの歌唱力を用いて、
果たして、どんな心情を歌いこむことになるのか。

今となっては、精も根も尽き、てはいないが、無残にも枯れ初めてはいる、このおさんにおいては、
恋という、人間が生きている限り、避けては通れない、このあまりにも絶対的な障壁の中で、
ひとりの人間としての、中元すず香、その成長を、息を詰めて見守るばかりである。

改めて、恋を知らぬ人間はまだ人間に非ず。

恋を知って始めて、人は胸の内に詩を宿し、それを歌として発散することを余儀なくされる。
その恋の発散が、いつしか、愛、という胸に秘めた想いへと熟し、
その愛の広さこそが、その人間の器、そのものなのだ。

あるものは、自分自身、つまりは、子供じみた自己愛の中に終始しては、
すべての人間を、自己愛というエゴの中に引きずり込んでは振り回すばかり。
あるいは、自己愛の変形としての、自己犠牲的な身勝手なお仕着せの中で空回りを続け、
そしてあるものは、愛そのものを、社会、あるいは、人間そのものの中に投影を試みる。

誤解を恐れずに言えば、ユーミンの謳ったのは少女の純真であり、それは絶対少女的な恋の歌。
そこにある相手像はまだまだ夢の中の夢。希薄な偶像的な象徴でしかありえない。
アッコにおけるNEW ADVENTUREは、その恋が、幾度の七転八倒の経て、
悲劇的なまでの熱情の中で愛を結実させた、その徒労的なまでの葛藤の記録。

だがしかし、彼女たちの軌跡にあるように、最終的には彼女たちはその恋の成就を見ることもなく、
恋は恋のまま、熱情は熱情のままに取り残されてしまった感がある。

誤解を恐れずに言えば、彼女たちは、その少女的な感性の中、
ユーミンは、恋に恋する少女の殻を破ることなく、
50を過ぎても少女の格好で少女の歌を歌い続け、
そしてマイ・リトル・ラバーは、
略奪愛といういびつな形での一時的な昇華を見たものの、
結局は自己愛の殻を破ることができぬまま、
そして無残なまでの決裂の後に、
絶対愛の結晶として、子供に夢を託すことになった。

そこまでにして、人生そのものを歌というものに刻み込み続けたこのアーティストとしての魂。

果たして、日本歌謡界のその最終型であるところの天才少女・中元すず香。
その奇跡的なまでの歌唱力はしかし、いまだに、日本歌謡界のサイボーグ的天才の枠を出ない。

そんな中元すず香が、真のアーティストとして開花を見る時。

つまりは、中元すず香が、ひとりの人間として、
その恋の歓びを、そして愛の尊さを、あるいは、その悲しみを、歌に込めた時、
そのときこそが、この、不出世の天才少女の真価が試される時、なのである。

改めて、失礼を承知の上で、独断と偏見の中で断言させて頂ければ、

中元すず香には歌しかない。

その人生の全てを、その心情を、その葛藤を、その悩みを、歓びを、
それを表現できる手段は、歌、以外にはあり得ない。

つまりは中元すず香は、その人生を通じて、歌、の呪縛、
その歌というもののために、生き続けることになるのだ。

そういう意味からも、中元すず香にとって、歌とはなにか。
そして、何を、どう、歌っていくことになるのか、その命題こそが、
中元すず香の人生そのもの。
その人生を、ひとりの人間として、どう生きていくのか、
その理想と、現実と、その葛藤が、すべて歌を通じて表現されるべきものなである。
その絶対的なまでの、「歌」至上主義。
だからこそ、すぅめたるはあそこまで、歌に魂を込めることができるのである。
だからこそ、中元すず香は天才である、と言い切れるのである。

そんな中元すず香が、心に秘めた張り裂けんばかりの熱情を込めて、
恋の、そして、愛の詩を歌う時、果たしてそれを受けて止める才能が誰であるのか。

ユーミンにティンパン・アレイが、そして、アッコに小林武史がいたように、
この中元すず香が、この先の人生でいったいどんな出会いを体験するのか、
ベビーメタルの今後の展開は元より、
ベビーメタルという媒体の生み出したこのモンスター・中元すず香。
ひとりのパフォーマーとしての中元すず香。
その人生の旅路を、心の底から見守り、そしてその展開がどんな旅路を辿っていこうとも、
中元すず香という天才歌手、その行く末を、出来る限り応援を持って支えていければと思っている。




という訳で、いやはや、この春を前にした狂乱的大寒波の中、
思わず狐火こいた分裂症的糞駄文。

うーん、ちょっと今回は苦しかったかな、と我ながら苦笑い。

失礼千万な戯言狂言のてんこ盛りであったか。
ご容赦頂ければ幸いにて存じ上げ候と。

ああ、春よ来い、春の恋!

東京ドームのデロはまだなのか!?


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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