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禁断のBABYMETAL ~ ベビーメタルのYAVA!に「人形美」の真髄を見る

Posted by 高見鈴虫 on 29.2017 BABYMETAL☆ベビーメタル   0 comments
日頃から、ストレス発散の一貫として、
心に移り行く由無し事を、
有る事無い事、ひっくるめては、
手鼻痰唾の如く、辺り構わず吐き散らしている訳だが、
その、恩恵か、あるいは、報いか、
日々頂くコメントの数々、
率直なご感想から始まり、応援から、お叱りから、
果ては、罵倒から、恫喝まで。
改めまして、ありがとうございます。
皆様のお言葉、実は実は、とてもとても楽しみにしております。

で、まあ、そう、この糞個人ブログ、
その目的たるものは、ただ単に愚痴の掃溜め、
そんなものを読まされた日には堪ったものではない、
とそのご心労の程、重々お察し申し上げながらも、
思わずそんな愚痴の掃溜めたる、有る事無い事に対して、
時として、衝撃的なまでに辛辣、あるいは、
そう、今回のように、あまりにも恐れ多くも勿体無い、
勿体なさ過ぎる、そんな感動的なコメントを頂くこともある。

という訳で、この駄文乙、
今回ばかりは、心の底から恐縮しまくっている。

で、予めの御断りとして、
通常は、そのようなコメントを頂ける方々に対しては、
心の底からの感謝、そして、ご共感を感じながらも、
それに対する直接的なご回答は敢えて避け、
その代わりに、文中の中に、お礼のメッセージを込めさせて頂く、
そのような形で、ご返答を申し上げて来たつもりながら、

いや、あの、今回に限り、
ちょっとこれは、あまりにも恐れ多い方からの、
お心の篭ったご名文を授かるに辺り、
例外中の例外ということで、
以下、取り急ぎ、お礼のお言葉に変えて、
またまた無駄な長文を綴らせて頂ければと思う次第。

という訳で、これから先、思い切りの私信となりますので、
関係ない方々は、宜しくご了承ください。



で、遅ればせながら、

いやあ、あの、はい、驚きました。

凄いです、というか、素晴らしい、です、とか、
そういう次元ではありませんね。

はい、ぶっ飛びました。ぶっ飛ばされました。
それが正直な気持ちです。

これ、まさに、
ベビーメタルを初めて見た時に匹敵する大衝撃。

で、この衝撃を、いったいどう表現して良いのか、
その御礼のお言葉について、ずっとずっと考えながらも、
いや、ごめんなさい、まだ心の準備がままならず、
その気持の高まりを鎮める意味もあって、
十分に気持ちの余裕を取り戻せるこの連休中までと、
思いを募らせておりました。

という訳で、遅ればせながら、
誠に誠に、ありがとうございます。

で、はい、ド素人ながら、
率直なる感想を述べさせて頂ければ、

はい、ぶっ飛びました。
凄過ぎます!

と、同時に、先生、これ、ヤバイっす・笑

はい、これ、率直なところ、思い切り、YAVA!です。

で、このYAVA!という感覚、

実は、BABYMETALの映像を初めて見た時に感じたあの衝撃、

あの衝撃の中に、明らかに込められていた筈の、
ちょっとした、禁断の、そのヤバさ、そのもの、かと存じます。

では果たして、あの時、BABYMETALに感じた、
このヤバさ、というものが、いったいなんであったのか、

はい、気づいていなかった訳ではないのですが、
正直、そのあまりの禁断性に、
柄にもなくちょっと怖気づいてしまいまして、
そのことに関しては、注意深く、避け続けていた、
そのつもりであった、筈なのですが・・・

はい、思い切り、これ、です。
まさに、これ、核心的確信。

まさに、先生、これ、でございます。





という訳で、改めまして思い起こせば、
初めてBABYMETALに触れた時、
あの、ビリビリと感電するように感じた、このYAVAさ、

つまりはその禁断の魅力こそが、
はい、こちらに集約されている、と感じまして候でござります。

改めて、これ、本物、ですね。
紛れもない、本物の中の本物と、勝手に断言させて頂きます。

ご存知のように、この世の中、右も左も、どころか、
良いか悪いか、自分では判断がつかず、
多勢に無勢で、マスゴミの吹聴する一般的評価、
なんてものに便乗することしか知らぬ烏合の輩ばかりの中で、

だがしかし、本物の持つ、本物だけが持ち得る、その輝き。その凄み!

はい、感じました。
まさに、その輝きこそが、YAVAさ、の秘密、なのでしょうが。

その本物の持つYAVAさ、と同時に、
はい、この作品、まさに、BABYMETALの隠し持つ、
その、秘密の禁断的魅力、その核心と見事にシンクロした、
まさに、芸術作品、と理解します。

で、先生、改めて、ご質問させてください。

この俺の感じた、YAVAさ、
それは、明らかに、BABYMETALのYAVAさに共通する、
その禁断の核心であるところのYAVAさ、

それって、いったい、なんなんですか?



という訳で、改めまして、
俺めが初めてBABYMETALの存在を知ったのは、
あの、忘れもしません、そして、未だにちょくちょくと観続けている、
あの、STEPHEN CORBERTのTHE LATE SHOWのギミーチョコレート。





これからいったいなにが始まるやら、見当もつきませんが・・(場内笑い
とそんな紹介によって登場した、BABYMETAL。

真夜中の月明かりを思わせる、青一色に照らされた薄暗いライトの中、
シルエットに浮かび上がる三人の姿。

その姿に、俺はまさしく、人形、を観たのです。

はい、BABYMETAL その姿、
まさに、深夜のおもちゃ箱に眠る三体のお人形。

これはもしかして、
ナットクラッカー:くるみ割り人形でも始まるのだろうか、
俺は不思議と、そんな直感を得たのです。

そして青い光に沈んだ逆光のステージ、
長い長い沈黙、その息も詰まるような緊張の中、
ゆっくりと倒れかけたその三人の人形が、
ギミー・チョッコレート!

いきなり、弾け散った爆発音の中で、
まるで、息を吹き返した、というよりは、
それはまさに、正真正銘の大爆発。

その静から動、死から躍動への、
あまりに劇的な変化。
それはまさに、爆発でした。
まさに、エネルギーの爆発、そのもの。

そして俺は、その姿に思わず笑いだしてしまったのです。

なんなんだ、なんなんだ、こいつら。

当時、ベビーメタルは愚か、
それがアイドルと、そしてメタルの混合ユニットである、
なんてことさえもなにも知らなかった俺にとって、
初めて見たベビーメタル
これはまさに、21世紀のナットクラッカー、
深夜のおもちゃ箱でいきなり大爆発がまき起こり、
立ち昇る炎と黒煙の中、
ロリータ・ゴシックの兵隊さんの美少女人形と、
そして、精神病院から逃げてきた、
あるいはそう、あのテレビの画面から這いずり出て来る、
あの山村貞子のような亡霊たちが、
寝静まった深夜の劇場のステージで、
歌えや踊れの、超絶乱痴気パーティを繰り広げる。

そう、それはまさに、人形と、亡霊の繰り広げる、
深夜の大狂騒、あるいは、ドボチョン一家、その超絶アップグレード版。

そのあまりにも壮絶、超絶、どころか、
キチガイじみているとしか思えない、
とてつもない錐揉みビート。

そして三体の人形たち。
そのあまりにも幼い、幼いが故に、
あらん限りなまでに勝手気ままに、
思い切りに怖いもの知らずの、
この我儘放題の美少女たち。

その一音を聞いただけで衝撃に打ちのめされる程の、
超絶的テクニックのバックバンドと、
そしてこの、そんなことさえも知ったことか、
という程にまで、傍若無人なロリータたち。

そのあまりのギャップに思わず腹を抱えて笑い続けながら、
いやはや、とんでもない奴らが出てきた、そう思ったものです。

ただ、そう、この美少女たち、
アメリカ的な感覚で言えば、
レディ、といよりは、まさに、ガール、
つまり、こう言ってはなんですが、
まさにその姿、イケナイロリータ人形、そのもの。

小学生が、深夜番組でヘビーメタル?
おいおいおい・・

アニメ大国、と同時に、ロリータ大国でもある、
あの、ガラパゴスの島国からやってきた、
この超絶大爆笑のBABYMETALというバンド。

その衝撃度、まさに、惑星衝突に近いものがあったか、と。

で、改めて申し上げます。

BABYMETAL、アメリカ的な視点から言えば、
まさに、小学生の女の子、
それも、この世のものとも思えない、
まさに、人形的なまでに整った顔立ちをした、
完璧なまでの美少女像。

そしてその表情。
おかしなまでに硬質な、
一種、仮面的とまで言えるほどのシャープな顔立ちをしながら、
それがまるで予期できないところで弾けるように笑いだし、
あるいは、ツンと横を向いてのお澄まし顔。

その徹底的に傍若無人な天津欄間さと、
そして、いつどんな理由で、ご機嫌を損ねてしまうか判らない、
その、予期不能な気まぐれさ。

そう、このBABYMETAL、そんな美少女の魅力、
あるいは、まさに、魔力とも言える、その美学の集大成。

そのサディスティックなまでに傍若無人な天津欄間さに目を瞠る中、
バックバンドの奏でるビートに乗せられて、
まるでロボットというよりはアンドロイドというよりは、
そう、むしろ、自動人形の動きを思わせる奇妙な踊りが、
超絶的なスピードでシンクロしては、今にも目が回るようで、
そのすべてのギャップが、すべての違和感が、
そのすべてのミスマッチが、
いきなりとてつもない相乗効果を生み出しながら、
そのビートの核がまるで錐揉み状態にうねり回りながら、
その壮絶超絶な演奏に乗っては、
きゃっきゃっきゃ、と無邪気に跳ね回る美少女たち。

思わず、あ、あ、危ない、と手を差し伸べそうな、
それでいて、手を触れた途端、
邪魔しないで!とばかりにピシャリと叩かれそうな、

この無茶苦茶にファンキーな美少女たち。
このまさに、そう、超絶にクールなパンク人形、そのもの。

その衝撃度、そして、超絶的なまでの演奏力、
まさにぐうの音も出ないほどに圧倒的なパフォーマンス、
これぞ神がかりのエアーポケット、
まさに、音楽のパワーのその真髄。

このたった四分間の映像で、
全米がまさに唖然呆然の魂抜け状態。
まさにそう、ぶっ飛ばされた、という奴だったか、と。

という訳で、改めて、はい、このベビーメタル。

その真髄にあるのは、少女、つまりはガールズの美学。

そのあまりに元気いっぱいなパワー、
制御不能なまでの天真爛漫さ、
それと同時に、ふと、気まぐれに立ち止まる、
その一瞬の静寂、
その瞬間に訪れる、まさに息を飲む程の美しさ。

そうなんですよ、このベビーメタル、
深夜の劇場で繰り広げられる、
気の触れた美少女人形と亡霊たちの乱痴気騒ぎ。
つまりは、21世紀バージョンに超絶アップグレードされた
くるみ割り人形、そのもの。
そしてその魅力の真髄とは、その静と動、
強いて言えば、生と死。
そうなんです、
これこそが、人形の美学、そのものであったか、と。

そう、ベビーメタル、これはまさに、人形の美学、なんですよ。

ベビーメタルの魅力とは、
まさに、静と動、そして、死の静寂と生の躍動、
その、凄まじいばかりのストップ・ン・ゴー、
その超絶なギャップにあります。

静寂の中に、あの恐ろしいばかりの沈黙の中に秘められた緊張感と、
そして、一度それが弾け飛んだ時の、そのあまりにも超絶的な躍動感。
その静と動、つまりは、生と死。
この静と動の中にあって、静の中にはしかし動の中にある爆発を秘めた緊張感を内含し、、
その躍動の中に、まるでフラッシュが輝くように垣間見えるその静的な美しさが瞬く。

そして改めて、
そんな人形的な美学、その最もな体現者であるのが、
言わずと知れた、ユイメタル、ではないのか、と思うのです。



我が家でベビーメタルを鑑賞する度に、
隣りの愚妻から同じ言葉が漏れます。

やっぱ、ユイちゃん、だよね。

ベビーメタル、一番可愛いのは、やっぱり、ユイちゃん、だよ、
やっぱ、ユイちゃんだわ、この娘、本当に美人だわ。

勿論、異論はございません。

前々から申し上げていたように、
一般的な美点において、ユイちゃんこそは、美少女、その典型。

ユイちゃんのその姿、まさに、お人形さんのようで・・・

ユイちゃんの姿を目にした人々から、
そんな言葉が当たり前のように聞かれると思います。

ユイメタル、まさにお人形さんのような美少女。

この、お人形さん、という比喩、
まさに、美少女に対する賛辞で、最高級に値するであろうと思います。

そう、ユイちゃんの美とはまさに、それ、お人形さんの美学を体現する、
まさに、生きる天使、あるいは、そう、その究極系の美少女。

そして、その確たる証拠として、
改めてこのSTEPHEN CORBERTのTHE LATE SHOWの映像、
まさに、ユイメタル、その存在感が、ディスプレイいっぱいに弾け飛ぶ訳で、

そう、このユイメタルこそは、ディスプレイ、そのフレーム、
つまりは、現代における、ショーケース:ガラスの箱の中で、一番輝きうる、
まさに、お人形さんの美学の珠玉の集大成、
つまりは、生きる芸術品、であろうかと。

という訳で、はい、異論はございません。

ユイちゃんこそは、人形美、その真髄。

その、一種、無機質さを感じさせるまでに、
見事なほどにシンメトリカルなお顔立ち。

はい、その姿、まさに、これぞ、美少女!という奴でしょうか。

ただそう、敢えて誤解を恐れずに言わせて頂ければ、

この、ユイメタルの持つ、完璧なまでの美少女性、

その、まるでお人形のような、と称されるその美少女性に、

一種の、怖さ、つまりは、YAVAさ、というのを感じてしまうのは、
いったいなぜなんでしょうか。



実は、これまで、人形というものにちょっとしたトラウマを持っておりました。

というのも、日本にいた当時、
某劇団の女優さんであった知人宅をご訪問した際、
ふと覗いたリビングの飾り棚、その扉の中に、
思わず、とてつもないものを見つけてしまった事がありまして。

その扉を開けた途端、んじゃこれは!、と悲鳴を上げては、
思わず、全身に吹き出た冷や汗の中、じりじりと後ずさり。
まさに、背骨を電流が走り抜けた、そんな気がしたものでございます。

その扉の奥、そこには、まさに、生首、ならぬ、
その女優さんご本人の頭部、そのミニチュア版。
その輪郭から、表情から、そのすべてが、
いま、まさに、俺の隣に立った、そのご本人そのもの。

その、手のひらサイズの楕円形の白い球体、
つまりは、作りかけの人形、であった訳なのですが、
その、顔つきのあまりのリアルさ。
生々しい、というよりは、その逆。
つまりは、異次元的なまでに静的でありながら、
しかしそこに確実に、動、つまりは、魂が宿っている、
その凄まじいばかりの生命感に、
思わず息を飲んで立ち尽くしてしまった訳です。

ああ、これね、と知人の女優さんが笑っています。
ああ、それ、この間の舞台で使う予定だったの。
作ったのは、そう、あの、なんとかさん、と、
全国的に有名な、俺でさえ知っている、某人形作家の名前を上げながら、

で、これ、まだ作りかけ?

そうなのよ、作りかけのまま、そうあの先生、あんなことになっちゃって。

その、あんなこと、というのが、後に妙な形で有名になってしまった、
あの、例の、あの「お噺し」なのですが、
その、原型の実際にあった、あんなこと。

そのよくあるところの怪談話が、まさに、洒落にならない、というか。

そう、その顔だけの人形。
物体としてはただの、手のひらサイズの白い球体、でありながら、
まさに、魂が宿った、つまりは、静物でありながら、しかし、そこには確実に、
なにか、別のものが篭っていた、籠められていた、まさに、なにか別のもの。

凄いな、これ。まるで、生き写し、というかなんというか・・

ただ、改めて気を落ちつかせては、隣に立ったご本人と見比べながら、
よくよく見れば見るほど、
いや、違う、そう、この物体、本人とは、違うんです。

ただ、なんだろう、この、一種、気味の悪いほどの存在感。
そう、まさに、その人形は人形で、確固たる、そのご本人の分身として、
そこに明らかに存在している、この不思議。

その違いって、いったい、なんなんだろう。

そうなんだよね、とその女優さん。

わたしも初めて見た時には、うわ、っと思ったんだけど、
でも、改めて鏡を見ながら、それと比べてみればみるほど、
判らなくなるのよ。
改めて、人間ってね、その表情ってまるで水面のようなの。
光の加減とか、そしてその感情の動きとかで、
始終、ずっと、変化を繰り返しているものなんだなって。
なので、鏡を見れば見るほど、実体が判らなくなる。
で、思ったの。
人間ってさ、本当に社会的動物っていうか、
つまり、目にする対象への反応によって、
どんなにでも変化を繰り返す、
そんな動物なんだなって。

でも、これ、違うじゃないか。この人形は、動かない。

そう、それなのよ。
人形はね、動かないの。
ただ、写真でもないのよ。
人形はね、一瞬を写し込んで、それを固定したもの、ではないの。

表面と内面。

そう、その内面をどこまで表現できるか、
が作家にとっての使命なんだろうけどさ。

そう言った意味では、この人形すごいな。
まさに、あなた、自身、っていうか。

そう、これこそが、まさに、わたし自身なのよ。
外部との反射によって変化し続ける外面のわたし、ではない、
まさに、わたしの内側の、わたし自身の顔、
つまりは、それこそが、無我の境地。
そう、外面の反射から解放される状態こそが、無我という奴なんだな、って、
この子を見ていると、そんな気がするのよね。

ねえ、と思わず、その女優さんの顔をガン見しながら、
こんなのと一緒にいて、怖くないの?

怖い?どうして?とその女優さん。
怖い?そんなことないわよ。
だってこれ、わたし、でしょ?
わたしがわたしを怖がる訳ないじゃないの。

でも、自分が二人居るって、それドッペルゲンガーでしょ?

ドッペルゲンガーを本人が怖がる、なんてことないんじゃない?

そうかな。

そうよ。ドッペルゲンガーは怖いものではないでしょ?少なくとも当人にとっては。

ただね、とその女優さん、
そう、実は、そう、ちょっと怖くなる時があるのよ。
だったら、いいもの見せてあげようか、

とふと、悪戯な目をして戸棚を開けた女優さん。

驚かないでね、と取り出したろうそくに火を灯しながら、
さあ、いいわ、電気、消してくれる?

という訳で、ろうそくの炎の中に、ゆらゆらと映し出されたその白い人形。

ねえ、ほら、炎の灯りの中だと、まじで生きているみたいでしょ。

ってか、おい、あの、これ、ちょっと、まじでちょっと洒落にならない。

実はね、ひとりでこうやって、ロウソクを点けながら、
隣にならべた鏡と自分を見比べているでしょ?
そうするとね、ふっと、不安になるのよ。
これ、どっちがわたしでどっちが人形なのかって。

つまり?

つまりそう、この鏡の中のわたしと、この人形のわたし、
それを見ているのこのわたしが、いったい、どっちなんだろう、って。

げげげげ、やめなよ、そんなこと。まじで帰って来れなくなるよ。

ね?でしょ?そう、まじめに、ちょっと、帰ってこれなくなるかな、とか。

そう、実はその時、俺は感じていたのです。
実はもう一人、この部屋の中に誰かが居る。

つまりは、自身の人形と、そして、鏡に写った自分自身を見つめる彼女と、
そしてそんな彼女を、背後から見つめる、もう一つの、彼女という存在。

ドッペルゲンガー?まじかよ・・・

その戦慄の中で、思わず息を飲みながら、
改めて、ロウソクの炎に揺れるその、二つの顔、
その妖しくも、例えようもないぐらいに、美しいその表情。

それは菩薩であり天使であり女神であり、
そして、恐らくそれは、魔性、であったのでしょう。
このまさに、抗いきれない程の強烈な美しさの中に見た魔性の姿。

果たして、そんな絶対的なまでの魔性を宿した女という存在を、
いったい男は、どうやって手に入れることができるのか。
そう思った途端に訪れた、あまりにも絶望的な無力感。
と同時に、思い知ったのです。
それこそが芸術。その存在価値ではないのか。

生身の身体では決して手に入れることのできない、
その、魔性さえも含んだ魂そのものを、
一つの静物の中に刻み込む、
そんなことが果たして可能なのか・・

その答えが、まさしく、目の前の二つの顔、
その中に、妖艶に揺らめいていたのでございます。

と、はい、改めて、そんな経験から、
そして、後にお伺いすることになった、
あの、例の人形作家のはまりこんでしまった、
あんなこと、のその意味するところの凄まじさ。

それこそはまさに、後に吹聴されることになったあの怪談噺し、
などではなく、
つまりはそう、魂を込めることのできる、唯一の静物、
人形こそは、その魂を、その実体そのものを、
永遠に定着させることのできる、唯一の方法である、と。

それこそはまさに、
かの安っぽい怪談噺からはすっぽりと抜き取られてしまった、
あんなこと、に秘められた本当の意味。

つまりは、その人形作家、
そこに貫かれた芸術至上主義の、
その壮絶なまでの凄まじさ、である訳で、
その、あんなこと、
つまりは、生と死の堺を越えてしまった
その人形作家の怪談噺しは、
むしろ、我々芸術至上主義者たちからすれば、
美談の中の美談。

芸術とは、まさに、そうまでして初めてだろう、と。



という訳で、またまた大きな脱線となってしまいましたが、

そうそう、禁断のベビーメタル、
そのヤバさ、という奴なのですが。

ユイちゃん、の姿を見る度に、なんとなく怖くなる、

その理由という奴なのですが、

実はユイちゃん、前々から思っていたのですが、

ブラック・ベビーメタルの二人組み、
つまりは、最愛ちゃんを相手にしているときと、
そして、そこに、すぅメタルの入った、ベビーメタル、
その時の表情が、まったく、違うんですよね、実に。

ブラックの時には、まさに、天真爛漫な女の子、そのもの。
弾けるような笑顔を振りまきながら、
これでもか、とあの細い腕を振り回して、
まさに、夢のような美少女そのもの、

で、ありながら、

そこにひとたび、すぅめたる、という存在が加わった途端、
その表情が豹変する。

その一種、無機質なまでに研ぎ澄まされた仮面のような表情。

曲調によって、表情を作っている、というのも勿論あるのでしょうが、
実は、そう、あのゆいちゃん表情の中に、
嘗て見た、あの女優さんの言った、無我の境地、
その、一種、恍惚感を漂わせた、一瞬の静寂、
あの表情が、垣間見えることがあるのです。

あの、不思議な程の静寂感に包まれた一瞬の表情。

そこに確実に刻まれた、ユイメタル、というよりは、水野由結、
その本人の持つ無我、つまりは、生き様そのもの。

お人形のような可愛さを誇るアイドル、でありながら、
しかし、そのアイドルである自分を支える為に、
自身に課して来た壮絶な程の試練。

それは芸術家、というよりは、むしろ、
ガチガチの体育会的特訓を繰り返してきた、
まさに、アスリートのそれ、ではないのか、と。

と同時に、あの、神がかりの象徴でもある、
すぅめたるという正真正銘の天才に導かれるまま、
まさに、その壮絶なまでのシンクロの中で、
魂そのものを完全に背後のすぅめたると同期させたまま、
完全なる無我の境地、強いては憑依状態に陥った、
その存在の透明性にあるのでは、と。

その表面的な可愛らしさの中に、
まるで、水面に反射する光のように、
キラキラと垣間見えるその壮絶なまでの美しさ。

それこそが、すぅめたるの神がかり的眼差し力に匹敵する、
ユイメタルの、嘘偽りのない、魅力の真髄、そのものではないか、と。

と、そんなことをひっくるめた上で、

はい、このユイメタルの姿、
表面上の美しさ、は勿論のこと、
そこに通う、明らかなる意志の力、
そして、同時に垣間見える、その危うい憑依性、

それこそが、少女の持つ、少女性、その美学、
あの、ヤバさ、の、本質ではないか、と。

そうなんですよ、少女って、凄くヤバい、んですよ、

特に俺達、つまりは、すでにその時期を抜けてしまった者にとっては。

改めてこの年頃の少女たち。
同級生であった頃は、ただの隣り席の洟垂れ仲間、
なんかガキ臭え、とは言いながら、
なんとなく、犯しがたき神聖性を漂わせた、
あの、謎に満ち満ちた少女たち、のその存在。

はい、俺も覚えております。
あの息の詰まるような胸の高まり、
そのマゾヒスティックなまでの憧憬と、
それと同時に、
抑えに抑えきれない高まりの中に揺らめく、
あの自虐的なまでのサディスティックな気持ち。

成長期というあの怒涛の時代の真っ只中にあって、
日々刻々と変化を続ける、あの自分自身という荒馬に、
振り回されるだけ振り回される日々。

その戸惑いと驚きと、苦悩と歓喜を、
同世代として共有できていたあの時代から、
いつしか、その焼けて爛れるような時を通り過ぎた後、
その代わりに背負い込まされた、
社会的責任と常識的分別という檻の中で、
あの当時に覚えた熱い思いは変わらぬままに、
年齢という隔絶を持って、
その甘い禁断から絶望的なまでに遠ざけられてしまったこのジレンマ。

その不条理を、アイドル、という偶像に向ける、
そんな気持ちこそが、まさに、禁断、そのもの。
そしてその禁断の想いこそは、
同時に、世の父親たち、
決して手を触れてはいけない、この世で最も大切な存在、
つまりは、愛娘という宝石に向けた、
その壮絶な片思いに対する血の滲むような想いとも共通して、
はい、男という生物のその苦難、その不条理、
そして、喜びの、まさに結晶なのでございましょう。

ベビーメタルこそは、まさに、
そんな禁断の想い、それは一種怨念というまでの熱き想いと、
と同時に、若き少年たちの目指した、あの、高き頂き、
ロック、という美学のその未踏の聖域に、
初めて到達を許された、まさに、希望と憧憬の星。
そんな熱き想いのすべてを託すことのできる、
まさに、戦う美少女たち。

このベビーメタルという美少女たちこそは、
そんな魂をこれでもか、と籠めることのできる、
依子、あるいは、そう、人形、なのではないか、と。

その禁断の想いを、その「願い」として昇華させる得る、
そのことこそが、このベビーメタルを愛して止まない、
その偽ざるべき、想いかと、感じております。



という訳で、またまた、お喋りが過ぎましたが、
釈迦に説法とは存じますが、
またまた年寄りの無駄話、実はもう一つ、

ベビーメタルを見た時に感じたその人形性、
その困惑の中に、ふと思い出した、この長きに渡る謎解きの答え、
それはなにを隠そう、あの、フェリーニのカサノバ・笑

このカサノバという映画。
言わずとしれた、フェデリコ・フェリーニ監督の名作、
というよりは、迷作でございます。
そう、つまりは、まさに、
俺的な意味では、実に実に、トラウマ的な映画、であった訳なのですが。
->忘れられたトラウマ映画 そのに フェデリコ・フェリーニの「カサノバ」

ただしかし、
何故に、この稀代のプレイボーイの女性遍歴史とベビーメタルが関連しているのか、
その理由は、と言えば、つまりはそう、このカサノバのラストシーン、
全ヨーロッパの、美女と言う美女と浮名を轟かせたこの人類史上最高のプレイボーイが、
全ての人類に共通する女性の美、
その謎を極めに極めた末に至ったのが、じつは、人形であった、という結末。

そこに一種、フェデリコ・フェリーニならではの皮肉、
あるいはそう、謎解きが隠されていた訳なのですが、
この、究極の女性美、その行き着く先は、人形である、というひとつの極意、
これが、俺的には、どうも、しっくりと、理解できずに居たのであります。



つまりはそう、カサノバも、そして、フェリーニも、
歳をとってすっかりと老いぼれてしまった挙句、
生身の女を持て余すようになって、
それで至った先が、ラヴ・ドール、つまりはそういうことだろ、と。

そんな短絡かつ杜撰な解釈でそれをうっちゃって来た訳なのですが、
その後のフェリーニ監督のその生き様を知る者としては、
このラヴ・ドール的な解釈は、まさに短絡的な浅知恵、
つまりは、逃避である、ということにも気がついてはいました。

という訳で、いながらも、では何故に、人形なのか、なのであります。

その謎解きを、実に実に長きに渡って保留にしていた訳なのですが、
このお送りいただいたリンク、
そして、ベビーメタル、
まさに、これこそが、フェリーニの言わんとした、
究極の美の形、つまりは、人形美、という奴なのではなかろうか、と。

フェリーニが終生において追い続けた、この女性美の世界。
それはエロティシズム、という魅力も含めた上で、
相対的な美の象徴として、女性の美、の中に、
この世にあるもので、最も美しいもの、その美の象徴としての、
女性美、であった訳なのですが、
あの、甘い生活、あるいは、8 1/2、における、
アニタ・エクバーグから、アヌーク・エーメから、クラウディア・カルディナーレから、
そしてこの、カサノバにおける、ティナ・オーモンから。
それは美、あるいは、エロティシズムというよりは、
むしろ、あのギリシャ彫刻における、究極的且つ普遍的なまでの女性の美、
それをとことんまで追求し、それをフィルムに焼き付けるべく、
奮闘を重ねてきた、その結果、
その求道の果てに至った一つの極意、
美の、その、究極の最終形が、まさに、人形、というこの皮肉。

ただ、この、フェリーニ一流のペーソスが、
お送り頂いたリンク、
そして、ベビーメタルの姿を前にすると、
まさに、洒落にならなくなってしまう、
という、この大どんでん返し、或いはしっぺ返し。

つまりは、そう、
ああ、やばい、ヤバイ、
それこそが、まさに、ヤバさの真相なのですが、

このお送りいただきたリンク、
その究極の美少女像、
あるいは、
ベビーメタルという、
まさに、人形チックなまでのアイドル:偶像、
それに、本気の本気で恋に堕ちてしまうのでは、という、
この、あまりにも倒錯的な、
しかし、抗い切れない、強烈な魅力、或いは魔力。

はい、それこそが、ヤバさ、のその真髄。

先生、白状いたします。

お送り頂いたリンク、あの美少女像に、
俺は、一撃で、恋に落ちてしまったような・・・







はい、確かにその通りです。

この人形美こそが、まさに、人類の創造できる、
つまり、芸術の到達できる、その究極形、
そこに賭けるアーティストの気迫、
その魂の真髄、
確かに、思い知りました。

そして、改めてこの世界。
まさに、心からの尊敬を持って、
恐れ入ってございます。

と、そう言えば、
嘗ての美大、つまりは、芸術至上主義者の巣窟の中にあって、
妙な、しかし確固たる権威を持って存在したあのハイレラルキー。

デザイン、やら、コマーシャルやらが一番下、
なのは判るにしても、
油、などという、まさに人生そのものを棒に振った者、
それさえもを遥かに凌駕する、
まさに、芸術至上主義者の権化の中の権化、
その輝ける象徴として、
彫刻、には、誰にもかなわない。

あの彫刻の奴ら、あいつらは、人生どころか、
人間そのものを芸術のために捧げてしまっている、
その畏敬を籠めた尊敬の念。

そう、あの美大という芸術至上主義者たちの巣窟の中で、
最もやりすぎてしまったのは、
まさにこの彫刻の連中な訳で、
その理由というのも、
まさに半端ではないぐらいの制作時間、
3Dデッサンから始まり、
そしてそこに抽出し、表現せんとする、
その対象の、その創造物の、あまりの凄まじさ、
その衝撃度の桁外れなほどのパワー。

一目見た途端、
いやあ、これは、これは、と思わず、絶句に絶句を重ねる、
そんな経験を積んできた俄芸術至上主義者的見地から言っても、
この嘗ての彫刻、そして、現代における、この、人形、という創作に賭ける極道性こそは、
芸術至上主義の粋の粋。

少しでもアートという美学に嗜みのある者にとって、
その絶対的な価値観、そしてその表現者に対する畏敬、そして尊敬は、
なにがあっても揺るがないもの、という認識を持っていた、
訳なのですが・・・・

ただ・・・
そんな芸術至上主義も今や昔。

世の価値観のすべてがすべて、世俗的低俗な社会的目安、
つまりは、銭、という目安だけで計られてしてまうこのご時世。

主義やら、美学、やら、精神やら、
あるいは、人の才能も努力も苦労も、
すべて、最終的にはこの商業的な成功というあがり、を持ってしか、
ストーリーが成り立たないこの世の中。

金欲至上主義という魔の中に、世のすべてが憑かれ祟られ、
その金銭的決着への自嘲を押し隠すために、
世のすべてから、その重さ、が拭い去られて行った訳なのですが、

では改めて、その重さ、とは、なんの重さだったのだろうか、
と考える上で、
その重さとは、つまりは、情念、であったのではいだろうか、と。

情念。

人間の持つ情念、つまりは、感情であり、
そして、言い換えればそれを、心、とも言えるかもしれませんが、
そう、この、心、こそが、金銭と引き換えに、
現代社会がかなぐり捨ててしまった、その本質である、
と理解しています。

改めて、この現代社会という奴です。
コストパフォーマン最優先の管理社会と、
そして、金銭的成功のみをあがりとする短絡的な結果主義、
その中で取り残された、情念、あるいは、心、というもの。

上辺ばかりを取り繕った管理社会の中で、
しかし、人が人である以上は、必ずそこに、情念、が存在する訳で、
その、行き場所を失ってしまった情念が、
積もれば積もるほどに、
そして、この効率社会の中で、
その人の心というものが、踏みにじられればられるほど、
封じ込まれたその情念、あるいは、心が、
社会の隅々までの、重く揺蕩うことになるのでございます。

時の為政家、あるいは、この銭金社会の主である守銭奴たちは、
己の業欲の為、そして、その保身の為に、
人々の心の暴発に恐れ慄いては、
その行き先を、狂気、という糞壺の底に封じ込める為に、
日々、金で買い取った喧伝手段を駆使しては、
心の密封を、図っているのです。

この時代に厚く立ち込めたこの嫌世感、
そしてその結果たる不条理。

貧困も、狂気も、病いも、その諸々なものは、
実はすべて、故意に操作された策略の結果。

そう、貧困は貶められてしまった人々は、
実はそれは起こってしまったことではなく、
故意に起こされたもの。

時代の狂気も、病いも、
それが、個人的な者、極私的なもの、
というのは実は嘘ばかり。
その不条理のすべては、
金銭亡者たち、
そしてその使い走りとなる為政家
その傲慢な目的の為に故意に創作された、
罠、であると信じています。

その結果がまさにこのご時世。

心を軽んじ、己を己で笑うマゾヒズム。
人間という存在をこれでもか、と自嘲の迷路に迷わせる、
或いは人間の個性そのものを、
システムというタガに無理やり嵌め込んでは、
産業資源として摩滅させるための、
それはまさに、策略にほかなりません。

そのあまりにも茶番的、明け透けな喧伝の中で、
ただひとつ、忘れられた、
つまりは、故意に忘れさせられたこと、

そう、人間は、生物は、いつかは死ぬんですよね。

そう、この世界に、永遠はない。

どんな金持ちでも、どんな権力者でも、
いつかは、死ぬ、その誰でも判っている筈の真実。

そう、この時代の最もな罪は、
その、人間としての大原則、
死、という状態から、
あまりにも隔絶されてしまった、させられてしまった、
それにこそある、と思っています。

この、死をも含めた上での人間というものを、
総じることのできる唯一の絶対的な手段が、
芸術、或いは、表現ではないか、と。

そう、芸術こそが、死を、そして時間を超越して、
魂を、つまりは人間としての尊厳そのものを、
永久に存続させることのできる、唯一のもの、ではないかと。

そこにこそ、芸術のひとつの使命がある、
と考えていたのですが・・・・

はい、思い知りました、思い切り、ぶっ飛ばされました。

これ、まさにこの、作品、つまりはそれへの解答、ですね。

見る人々を、一撃で恋に惑わせてしまう、
この、壮絶なほどの美少女像、
まさに、怖いぐらいの、その美の真髄の姿。

つまりは、アートのパワー、その真髄!

すでに潰えてしまった筈の芸術というものが、
このような形で生き続けていたのか、

思わず、絶句を繰り返しながら、

人類、まだまだ、捨てたものじゃねえな、

思わず、深く深く、感じ入りました次第です。



という訳で、相変わらず脈絡のない話ばかりを綴って来ましたが、
お恥ずかしい限りです。

で、恥の上塗りは承知の上で、
最後に、俺自身の、ささやかな祈り、
なんてものを、柄にもなく、
告白させて頂ければ、と存じます。

実は、先生からコメントを頂くまで、
俺も、人形、というものの可能性について、
それとなく考えていたのであります。

それと言いますのも、といきなり、犬の話なのですが・・笑

我が最愛の駄犬も既に八歳を過ぎ、
そしてなんとしたことか、
彼の唯一絶対のガールフレンドが癌を宣告され、
現在闘病中にあります。
そんなことから、
いつの日か、この愛すべき者たちとも、
別れの日がくるのだな、
そんな無常観に浸っていた今日このごろ。

そう言えば、嘗て斜め読みをした覚えのある、
古い随筆集の中の小さな逸話。

愛犬が死んでしまって、
生きる気力を失ってしまった作家先生。
で、困った編集者が、妙案を思いつく。
で、連れてこられた剥製づくり日本一の、剥製師。
このひとに、死んだ愛犬を蘇らせて貰いましょう、と。

で、出来上がってきたその剥製、ではあったのだが、
予想通り、それは、まさに、似て非なるもの。

その躯はむくろとして、死んだ愛犬そのものながら、
その瞳が、そして、そう、なにかが、なにもかもが、
決定的に、絶望的なまでに違う。

で、その出来損ないの剥製を見つめながら、
生、あるいは、魂、とはなんぞや、とつくづく考えさせられた、という、
まあそんな話であったのですが、

ふとそんな逸話を思い出しながら、

もしも我が家の犬が、この先、5年、10年、20年後、
ついに別れの日がやって来た、その時に、
俺は多分、その悲しみに耐えられないのではないか、と。

で、そうであれば、さっさと口にショットガンを咥えてしまって、
一緒に墓に入るか、
あるいは、そう、それができない事情があるのであれば、
もしかすると、
死したるものに、無理やり永遠の生を与える、という、神への冒涜を、
犯してしまうのではないだろうか、と。

つまりはクローン、最近話題になっている、
あの、一千万円で愛犬のクローンを作ってしまう、という韓国企業のサービス。
あるいは、そう、その亡骸がなくなったとしても、
その魂だけは、抱きしめて放さず、
されば、霊媒という奴でも頼んでみるか、と。

では、と改めて自身に問いながら、

果たして、俺がつなぎ留めておきたい、我が犬の、
その魂、その、実体とはいったいなんなのか?、と。

その柔らかい毛皮から、
その瞳の輝きから、その、動作から、息遣いから、
その会話における反応から、そこで通じ合う心と心、
つまりはその、存在の全て。

その存在の全てとはいったいなにか、なんなのか?

そう、よく言われるところなのですが、
愛犬のクローンにたとえ幾らの金を注ぎ込んでも、
出来上がってくるそのクローン犬、
たとえDNAの配列が同じであったとしても、
それはまったく、別の存在なのである、と。

ましてや、その亡骸、その躯だけに綿をつめても、
それはまさに、ネクロフィリア、
あるいはただの質の悪い置物、
そう、生命って、そんなものじゃない、その筈。

そんなものではないと判っていながら、
愛犬と離れ離れになりたくない、
その、切望だけはいかんともし難く。

とそんなとき、ふと思い出したのが、
実はそう、あの嘗てのあの女優さんの部屋で見せられた、
あの人形。
一目観た時に、こ、こ、この人形、まさに、生きている、
そう戦慄せしめた、まさに、あれ、です。
あの、人形という不思議な物体。

サイズも、マテリアルも、なにもかもが、生身の人間とは全く異なりながら、
そこに摘出せしめた、魂、その、生、そのもの、存在そのものの粋。

そう、この人形こそが、永遠の魂を創出せしめる、
唯一の方法、なのではないだろうか、と。

そうか、もしも、その魂そのものを、
手のひらサイズの球体の中に刻み込んでくれる、
そんな人形師がいたとしたら、
例え幾ら払ってでも願いを叶えて貰いたい、
そう思う人達、実は沢山いるのだろうな、と。

と、そんなことを思った時、
ああ、そうか、それこそが、あのこけしと言われた人形たちの、
その起源ではなかったのか、と。

死したる者たちへの思いを込めて、
その象徴として愛し続ける静物。
そこに魂のあるものを創造するのではなく、
ひとつの静物、あるいは、生物に、
その想いを、祈りを、その魂を込める、
その代謝的行為こそが、信仰の始まり、
つまりは、心が、精神に昇華する、
その過程ではないのか、と。

と、そんな時、ふと思いついたんですよ。

木を植えよう、と。

もしも愛するものを失ってしまったとしたら、
彼の愛してやまなかったあの緑の公園の丘の上に、
一本の木を植えよう。
その木を育てながら、その永遠の成長を見守りながら、
彼の魂が、その緑の葉から湧き上がる酸素の息吹を乗せて、
世界を包む、その様に、悲しみを、そして、愛を、昇華させよう、と。

と、そんなことを思いながら、ふと見上げた丘の上。

その青々とした新緑に満ち溢れた初夏の空の下に、
これまで、この地球上に存在した、
その愛と、憎しみと、悲しみと、そして数限りないほどの喜び、
その幾万幾億にも及ぶすべてのドラマが、
さわさわと風に乗っては、地球を満たしている、
そんな気がしたのです。

そしてなんとなく、妙に晴れ晴れとした、
どこか満たされたような気がして、
そして、ふと目を落とした、その足元で、

なんだよ、なにをぼーっとしてやがるんだ。
早くそのボール投げろよ、さっきから待ってるんだぜ、

そんな小癪な我が犬の姿が、
まさに、瑞々しく、まさに、生命の躍動、そのものに、目に映りました。

生きているものって、本当の本当に、美しい。

そして、この世界、見渡す限り、本当に本当に美しい、
柄にもなく、そんなことを思ってしまいました。

そして思ったんです。
この瞬間を、この躍動を、この姿を、
この喜びのすべてを、世界中と共有できる、
もしもそんな能力があったなら、
もしかしたら、この世の茶番じみた罪悪のすべてを、
払拭することができるのかもしれないのに・・



という訳で、最後の最後になりましたが、
遅ればせながら、
率直な感想として、俺は先生の作品、

はい、一撃で、ヤバ! 恋に堕ちました・笑

その美しさ、は勿論のこと、
ちょっとしたエロチシズム、
そしてそこに、
明らかなる「意志」を感じました。

意志を秘めた少女像。
それ美学、まさに、ベビーメタルそのもの、ですね。

その意志、こそは、心、あるいは、魂、そう、精神です。

ベビーメタルが、その他の、十把一からげの、
安いバービー人形のようなアイドルたちと一線を画するのは、

まさに、この、意志の力、だと思っています。

その意志こそは、人間の尊厳、その、真髄です。

そして先生の作品の中に、俺は確実に、その、意志、その尊厳を見ました。

戦ってください。こんな作品は、先生にしか作れないと思います。

そして、そのあらん限りの意志と、尊厳で、世界を愛で包んでください。

それができるのは、本当の意味で、真実の存在に気がついた芸術至上主義者、
つまりは、そう、あなたしかいない、その言葉を再び送らせていただいます。

ベビーメタルと共に、世界を変える作家、

この、偽善と業欲に満ちた悪しき空気の中に、
一塵の涼風の駆け抜ける、そんな、救いを見いだせる、
そんな作品を作り続けてください。

心の底から、ご期待申し上げております。

ニューヨークの一ファンより。




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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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