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さらばムスタング・サリー ~ これ以上ない初夏の青空の下

Posted by 高見鈴虫 on 30.2017 犬の事情   0 comments
やあ、取り急ぎ、ご報告だけ。

6月26日サリー永眠。
これ以上ない初夏の晴天の中、サリーが逝った。

新療法に訪れた専門医において、改めて精密な検査をした結果、
脊髄への転移が認められた、という。
痛みのない膀胱癌と違い、脊髄腫瘍は始終信じられないほどの激痛を伴う。
これ以上の治療を続けては、麻酔薬と激痛の狭間で生きさらばえるよりは、
この幸せな笑顔のあるうちに、安らかに眠らせたほうが、との判断であったと聞いた。

十年あまりに渡ってこの近辺を震え上がらせて来たムスタング・サリー。
その悪名の高さからすれば、あまりにも呆気ない幕引きであった。

心の準備ができたら必ず挨拶に伺う、と結ばれたメッセージを呆然として目で追いながら、
まるで身体中の力という力が、へなへなと消え失せてしまうような、
やるせない脱力感が身を包んだ。

そうか、と深い溜息をついた。
サリーのやつ、なにも言わずに行っちまったんだな。

その事実を知ってか知らずか、
普段であれば、9時を過ぎる前からいそいそと散歩の準備を始める筈のブッチが、
今日に限ってベッドに寝そべった切りで、起き上がる素振りも見せない。
9時半を過ぎて、猛犬仲間の面々から連絡が入り始めた。
ドッグランで待っている、という。

散歩と聞いてようやく身を起こしたブッチが、
それでも意気揚々と公園の坂道を下る姿を見ながら、
木立の向こうのドッグランから響いてくる犬たちのはしゃいだ吠え声が、
罰当たりな気もしながら、サリーを除くいつもの面々は、
今日も相変わらず元気いっぱいでドッグラン狭しと走り回っている。

言い出し憎い言葉につまりながら、サリーがね、と言いかけては、
ああ、判っている、とその続きを遮った。

そしてサリーのいないドッグラン。
いつの間にか、我らが猛犬パーティの連中は、すっかりと奥のベンチの一角、
そして既に、ドッグランの主役は、若さと無邪気さを身体中に漲らせた、
若々しい子犬たちに変わっていた。

普段の猛犬仲間であった犬たちも、そしてその飼い主たちも、
一様にどこか気の抜けた風に、お互いに顔を見合わせてはため息ばかりついている。

呆気なかったね。
ああ、まあ、そういうものなんだけどね。

所詮は犬、という言葉が出かかった。
そう、所詮は、犬、なのだ。
犬死に、とは良く言ったものだ。
そう、犬は、まさしく、犬のように死ぬ。
なにも成し得ず、なにも求めず、なにも残さず。
今日一日を思い切り走り回っては、食べて、寝て、そして目が覚めた時、
再び、ご飯か、あるいは散歩をせがむ。
そう、所詮は犬。犬の一生なんてそんなもの。
それ以上でも以下でもなく、
そこになんらかの意味などをでっちあげる必要などなにもない。

そう、所詮は犬、犬なのだから。

言葉を失ったまま、ベンチにへたり込んだ飼い主たちの前で、
何も知らない風の犬たちは、またいつもと同じように、ボールを追い、
そしてオヤツをせがみ、そして好き放題に走り回っては、
フェンスの向こうを行くスケボーのガキ共にはしゃいだ吠え声を響かせている。

サリーの死を知った時から、俺の頭の中には、
妙なことに、古いゴスペルのメロディが流れ続けている。
それは例えばこんな歌。








O sisters, let's go down,
Let's go down, come on down
O sisters, let's go down
Down in the river to pray



虹の架け橋を天国に向かう犬たちの中にあって、
サリーはあのハドソン川の流れの中に消えていくことを望んだのか。
確かにな、水泳の得意だったサリーらしい、と言ったらサリーらしい。

改めて、生命は川の流れのようだ、と思っていた。
水の流れの中で生まれ、今日を積み重ね、そして再び流れの中に帰っていく。
ゴスペルの旋律の中で、アメリカ南部のあのミシシッピー川の、
あるいは、インドのガンジス川の、あの雄大な大河の流れを思いながら、
見下ろすハドソン川から流れてくるまったりと湿気を含んだ夏の風の中に、
ようやく生の轍から開放された、サリーの吐息が聞こえて来るような気がしていた。

そう、所詮は犬なのだ、と俺は繰り返した。
所詮は犬。なにも成し得ず、なにも求めず、そして何も残さずに、ただ消え去るのみ。
今日を今日として、生きる、ただそれだけの犬の生命。
それのなにが不満だ?

嘗ての猛犬たちも今やすっかりと老年に差し掛かり、
夜の風にあたりながら、見るともなくサリーのやってくる筈の、
あの芝生の坂道の方を眺めてばかりいる。

そんな老犬たちの間を、問答無用に走り回る子犬たち。
きかん坊ざかりの子犬たちにこれでもかとじゃれつかれながら、
しかし既に猛犬の気負いも覇気を失った嘗ての猛者たちは、
そんな子犬たちの成すがまま。
夢中になって挑みかかってくる子犬たちに、
まるでとろけるような眼差しで噛みしだかれながら、
ともすればごろりとお腹を出しては、
ああ、判った判ったと降参降参と繰り返すばかり。

そう、犬たちはみな歳をとったのである。
そして勿論のことながら、その飼い主たちも。

そして犬たちは、そして飼い主たちは、
まるで川の流れのように月日を重ね、
そして、いつの日にか、あの川の流れの中に帰って行くのだろう。

O sisters, let's go down,
Let's go down, come on down
O sisters, let's go down
Down in the river to pray


いつか犬が死んだら、その遺灰と一緒に苗木を植えてと考えていたのだが、
いざとなった時、なぜかそれは、まるでこの大地に尚更までに犬の生命を縛り付けるような気もして、
それはそれで罪なことなのでは、という気がしてきた。
そう、生命の潰えた後には、なにもかも後腐れなく、きれいさっぱりと川に流してやるべきなのだ。
忘れないでいてやることも愛情であれば、忘れてあげることもまた愛情であるのかもしれない。

さあ川ヘ降りよう、そして祈ろう、
サリーの魂を、すっかりと洗い流してあげよう。

あのあまりにも呆気ない知らせからこの方、
当然のことながら、それからずっと、サリーのことばかり考えている。
不思議な事に悲しみの感情は湧き上がってこない。
まるでそう、サリーの奴、夏の休暇にまた長いドライブに出かけ、
そして来週あたりに、ちゃっかりと帰ってくる、そんな気さえしている。
これはつまりは、死という現実をまだ受け入れることができないでいるだけなのだろうが、
そう、この最愛の友を失ってしまった悲しみを感じるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。






ブッチはそれにどこまで気がついているのだろう、と思う。
そう、逝ってしまった死者のことよりは、まずは生者。
残された者たちのケアが最優先の筈である。

一見してブッチはまるでなにも知らない風に、
いつもとまったく変わらない様子である。
ただそう、これまで9時になると途端に起き上がっては、
さあ、散歩のお時間です、と急かし始める、
あの習慣だけは忘れてしまったかのように、
そして、夜の時間を疾うに過ぎて、
誰もいないドッグランでひとりぽつりとあたりを見回しては、
つまらなそうにあくびをひとつするや、さあ、帰ろう、と出口へと向かう。

そう、ブッチは気づいている。
サリーはもうこの世にはいない。
いくらこのドッグランで待ち続けていても、
あの坂道の向こうから、まるで暴走機関車のように飼い主のジェニーを引きずり回す姿は、
砂煙を立ち上げながらボールを追う姿や、生意気な若造を唸り声を上げて追い回す姿や、
休憩の合間にベンチに立ち寄っては、さあ、お尻を撫でてください、と甘えた顔で見上げる、
あのサリーの姿は、もう二度と見ることがないのだ。

出会った時から、そしてついこの間までの、
あの砂だらけのボールを鼻先に押し付けて来ては、
さかんにボール投げをねだっていた姿、
この7年あまりのそのすべての時間がオーバラップしては、
とりとめもなく、なんの脈絡もないままに、
そんな映像が次々と蘇って来ては、
ふとすると、まるでその場で崩れ落ちるように、
愛惜の中に押しつぶされそうになりながらも、
だがしかし、そう、不思議なことに、俺はまだ泣いてはいない。
その死を悲しみに転化することがまだできないでいる。

そう言えば、こんな心象風景、最近どこかで見たよな、
などと脳天気なことを思っては、

そう、あれは、この間DVDで観た映画。
確か、ARRIVALという映画。
邦題は、メッセージ、だったかな。





宇宙人から授かった武器=贈り物。
時間を飛び越える能力を得た主人公が、
始まりも無く終わりもない、その時間の概念を失った世界の中で、
死んだ娘との思い出が、実は、これから死ぬと判っている生命を、
その悲劇的な結末が判っていながら、
敢えてその結末までの時間を大切に大切に経験し尽くす為に、
その悲劇を繰り返す選択をした、その謎の中、
映画を観た時には、どうもしっくりとこなかったその時空を越えた現実という感覚が、
サリーの死の中で妙にすっきりと、
それはまるで理解するというよりは、身体に染み込むように、
受け入れることができた気がした。

そう、時空を越えた存在とは、まさに、死者の世界なのだ。

生が、しかし、いつか必ずやってくる死、という結末を知っていながら、
その結末を知っているからこそ、いまの生を生として慈しむ、その逆説。

そう、犬を飼う人であれば、誰もがそれを知っている筈だ。

犬の一生は短い。
犬を飼った以上、その存在がどれほど愛しくても、
いつかはその死を看取ることになる。
愛すれば愛するほどに、当然のことながらその死は辛いものになる。
その別れが辛くなることは判っていながら、判っているからこそ、
生きているいまを、愛して愛して愛し切る、のである。
その矛盾の中で、犬との日々を生きる者たち。

或いはそう、この俺自身、あるいは人間様の一生にしたところで、
いつかはすべてが無に帰すと判っていながら、
何故に、なにを求めて、ここまで我武者羅なまでに、
あるものないものをかき集めようとするのか。

そんな俄な無常観に苛まれながら、
ともすれば世のすべてを冷笑したくもなる、
そんな投げやりな気分の中で、

ふと、足元にその解答が転がり出てきた。

それはまだ生後間もない、
予防注射が済んだばかりの、
栗色をしたピットブルの子犬であった。
コロコロと太ったその柔らかい身体、
仔犬にしては随分と大きい。
そして何より、その不釣合いに大きな四つのパウ。
まるで両手両足に大きなグローブをはめているような、
そのあまりにも愛らしい生きる縫いぐるみ、そのものの姿。
堪らずに抱き上げた途端に、我武者羅にじゃれついて来ては、顔から顎から髪の毛からを、
無茶苦茶になるまでなめつくしては所構わず甘噛みを繰り返す。
思わず嬉しい悲鳴を響かせて身をよじる人々。
その腕の中で問答無用に暴れ回るこの世界一麗しい悪魔君。
世のすべてが物珍しく新鮮な驚きに満ち溢れた、
生きる喜びと躍動に満ち満ちたそのあまりにもやんちゃ、そしてあまりにも愛らしい茶色い子犬のその姿。

ねえ見て、この子、まるでサリーの子供の頃にそっくりじゃないの。

そう誰かが口に出した途端、夜更けのドッグランにまるで弾けるような笑いが広がった。

ねえ見て見て、ほらもうこの子、サリーそっくり。サリーの生まれ変わりそのものじゃないの。

仔犬の飼い主であるメアリーアンさん。
娘に絆されて貰い受けたものの、
部屋に入れた途端に家中が滅茶滅茶。
夜になっても寝るに寝れず、
こうして寝間着姿のまま、
タクシーに乗ってドッグランに連れて来たと言う。

そんな話のいちいちに爆笑を繰り返す人々。

まるでサリー、サリーの生まれ変わりそのものじゃないの。

そんな人々を前に、ひとり怪訝な顔つきで曖昧な笑いを浮かべるばかりのメアリーアンさん。

サリーって?サリーっていったい誰のことなの?

そして思わず顔を見合わせる人々。

今後に待ち受けているであろう、その断末魔にも似た七転八倒の日々を思っては、思わず、ようこその言葉が重なってはまた大笑い。

ねえ、教えて、それっていったいどういう事なの?
もしかして、シェルターに返した方がいいかしら?

大丈夫、と俺が答える。

困った事があったら、ここに来たらいい。
なんでも力になるよ。

サリーの生まれ変わりだ。みんなで大切に育てよう。

仔犬はドッグランの宝物。
そして子供は、世界の、人類の、人類の、共通の財産なんだ。
誰が親になるか、なんて大した問題じゃない。

仔犬は、子供は、みんなで育てるものさ。

だから心配は要らない。

おめでとう。
あなたは世界で一番美しい宝物を手に入れたんだ。
それを独り占めしようなんて、俺たちが許さない。

そしていつの間にか、ドッグラン中の犬達が集まって、その世界一麗しい宝物の姿を見つめていた。

さあ、新しい仲間だよ。
名前はまだない。
俺たちみんなの大切な宝物だ。

途端にイヤイヤを初めて腕の中から飛び出した仔犬。
居並ぶ猛犬達に我武者羅に突入しては、
その熊のような小山によじ登っては唸りを上げて暴れ回り、転げ落ちてはまた次の相手。

サリー、判ったよ。
答えは仔犬。
そう、子犬、そう、答えは子犬、なのだ。

愛して愛して愛しきった生命が潰え、
その悲しみの中から救われることのできる唯一の存在は、
この子犬、つまりは新しい生命、なのである。

世界が死の悲しみに押しつぶされてしまわないその理由は、
その死を一身に担う、新しい命の誕生があるから、なのだ。

あるいはそう、この社会というものに、それでもなんらかの意味があるとすれば、
それは、新しい生命を産み、それを育む、それ以外になにがあるというのだ。
その、生命の連鎖、その永続の中にこそ、社会の、あるいは生命の意味があるのである。
そう、社会の根幹は、その目的は、そこにこそ集中されるべきなのだ。
それを忘れた時に、つまりは、生者が生者として生者の傲慢の中に埋没してしまった時、
死者は愚か、新しい生命にまで、その生者の傲慢を押し付けてしまった時に、
社会は堕落し、そして、根本から腐敗することになる。

嘗ての猛犬たちの飼い主たちが、
代わる代わるその子犬を胸に抱いては鼻の頭を舐められながら、
嘗ての猛犬たちにも、そんな幼気な子犬の時代が確実に存在したことも、
そして、いつかやってくるであろう、そんな猛犬たちとの別れの中で、
犬が、犬として、犬死にを繰り返すその理由こそは、
この子犬、まるで生きる宝石のように麗しい、この子犬になって蘇る、
その奇跡の中にあるのだ、当たり前に事実に気がついて目を丸くする。

そんな中、これまで数限りない犬を飼って来た、
筋金入りの犬バカを自称するエレイン婆さんに尋ねてみる。
ねえ、いままでの犬たちの名前、まだすべて言える?

勿論よ、と笑うエレイン。

すべて言えるどころか、いまでも、その姿がぐるぐると胸の内を廻り続けているわよ。
ちょっとすると、どれがどれだか、混じり合っちゃったりもするけど、
そうよね、名前とその姿、なにもかも、忘れるなんてできやしない。

そしてそう、と言葉を噤む。

そうしてそう、そんな犬たちの思い出を胸いっぱいに抱えて、
そして私も、いつか棺桶に入ることになるのよね。





改めて、このいきりなり直面することになった死、というやるせなさの中で、
目の前の我が犬のその姿が、前にも増して愛おしく麗しく、
そしてこの新たなる子犬たちの存在。
半年もしないうちにみるみると大きくなって、
走りまわり、じゃれまわり、吠えまわり、
暴れまわり、穴を掘り、時には喧嘩をして、
これでもか、とまでに飼い主の手を焼かせた末に、
いつしか、ふと気がつけば老年の域に入り、
そして、なんらかの理由によって、
静かに、そしてあまりにも呆気なく、その息を引き取る、
その当たり前の永続、その繰り返し。

そしていつしか、ドッグランには新たなる生命、
若々しい躍動にいまにも弾け飛ぶような、子犬たちの独壇場。

そうやって、犬たちは、そして、人々は、生きていくのである。

子犬たちを、そして、世界中の子供たちを、大切にしなくてはいけない。
思い切りの愛で、子どもたちを包み、愛の大切さを、
生きることの喜びを、その意味を、伝えて行かなくてはいけない。

果たして子どもたちに、いったいなにをどう伝えるべきなのか。
少なくとも俺のこの目の前にある現実の中に、
子供たちに本当に伝えたいと思うことが、
いったいどれだけあると言うのだ?
そう思っているのは俺だけじゃない筈だ。

俺達は子どもたちにいったいなにを伝えるべきなのか?
すべてがそこに立ち返るべきなのではないだろうか?

いまこの狂った世の中で、その最も大きな欠落が、
実はそこに起因しているのではないのか?

サリーのその、あまりにも呆気ない死の中で、
俺たちはまた、かけがえのないものに気付かされた、
そんな気のする初夏の夜更け。

6月26日サリー永眠。
これ以上ない初夏の晴天の中、サリーが逝った後、
不思議なことに、まだ涙は流れて来ない。

その死を受け入れることができるのは、
まだまだ遠い先のことになりそうである。



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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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