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ONCE ダブリンの街角で ~ 「旅立ち」というエンディングになにを託すのか。

Posted by 高見鈴虫 on 12.2017 読書・映画ねた   0 comments
なんか前回の印度人バッシングねた。
例の奴でまた最後の最後になって余計なこと書いちゃったのか、

あんなぁ、おさん、日本だってそんな甘いやおまへんでぇ、

ってなお叱りとも取れる米米ちゃんが多数。

まあそう、それは判ってる。
判ってはいるのだが、判っているからこそ、
そして改めて、また余計なことを付け加えれば、
こんなご時世だからこそ、
その万感の思いを込めに込めて、
まあそう、その前回のジョンとヨーコのとか、
あるいはその前の、Begin Again ~ はじまりのうた とか、
そう、そのあたりが絡んでくる思惑、でもあったのだが、
はいはい、まあそう、
脊髄反射的に字面だけを捉えれば、
確かに、日本だって楽じゃないぜ、ってのは判る。
判るすぎるほど判る。

でまあ、そんな含みを持たせながら、
実はまたまた懲りずに映画ネタ。

はい、オススメ頂きました、ジョン・カーニー監督の出世作、
ONCE ダブリンの街角で、観てみましたよん。

でまあ予めご指摘頂いたように、
この作品、ジョン・カーニー監督の実質的なデビュー作らしく、
後に発表する、Begin Again:はじまりのうた、の元ネタともなる訳で、

ダブリンの街角に立ち続けるストリート・シンガーと、
そしてひょんなことで通りかかった移民の女の子、
互いに秘めた音楽への熱い情熱を軸に、
そのさり気なくもほろ苦い心のふれあい、
なんていうストーリーであったのだが、

で、はい、感想だけ最初に言わせて貰えば、
最高に面白かったです。
今晩帰ってから二度見したい、そんな気分。

全ての要らぬ薀蓄をぶっちぎって、
今更ながら、激しくオススメ、とさせて頂きたい。








でまあ、そう、このジョン・カーニー監督の作品、
今更ながら音楽通には堪らない、
ミュージシャンならではのあるあるの宝庫。

出会った途端に楽器屋に飛び込んで即席セッションから、
卓に足乗っけては、こんなクソバンドのクソ仕事、
まったくやってらんねえな、とぼやいていたエンジニアが、
その漏れてくる音に思わず引き寄せられては、
いつの間にかマジ顔で、オーマイガーのまん丸目、
そんな風景、まじで、まじで、あったよな、確かに。

時間も予算もぶっちぎって徹夜を繰り返すデモ録から、
それが明けた後の、あの夜明けの海の風景から、
そのなにもかもが、はい、バンドマン、
確かにそういう世界に生きていた、っけかな?
とかと、まあ、ちょっとそんなバーチャルな思い出を、
上書きしたくもなる、そんな甘酸っぱい青春の一ページ。

という訳で、このジョン・カーニー監督のバンドねた三部作。

そこに共通している、まさに定番的な筋書き。

田舎町、あるいは、大都市のゲトー、
そこに密封されては、熱い情熱を持て余していた若者が、
ひとつの出会いを経て、作品に昇華させては、
その想いと共に、新しい世界に旅立っていく、

そう、大筋としては、そんなもの、かと。

で、この三部作、そこに共通しているのは、
鑑賞後のこの得も言われぬ、爽やか感。

そう、この作品、爽やかなんだよ、観た後にさ。

この爽やか気分という奴、
言われてみれば、最近はとんと感じる機会の減っていた、
そう、この爽やかさこそが、この監督の作品の一番の魅力か、と。

では、このジョン・カーニー監督の作品に共通する、
この爽やか感が、いったいどこから来るのか、と言えば、
そう、その秘密はまさにエンディング、なんじゃね?と。

で、はい、この三部作、
そのエンディング、共通しているのは、
まさにこの言葉、「旅立ち」 なのである。











そう、この「旅立ち」で終わるエンディング、
ひところの嬉し懐かしの青春映画、
その中にあっては、まさに定番!
でもあった訳でさ。

そして主人公は、どこそこに、旅立ちました。
これにて一件落着、パチパチパチ。

そう、物語を締めくくるにおいて、
これほどまでの予定調和。
その問答無用のご都合主義の中で、
何もかもが、綺麗さっぱりと解決を見る、
そんな便利な終わらせ方の必殺技であるところの、
この、「旅立ち」 というエンディング。

まあそう、その後の現実を知る者としては、
世の中それほど甘くはないぜ、と。

こいつら、まじで、この先、大変だろうな、
とは思いながら、
がしかし、この熱い心があれば、
どこに行ってもなんとかなるだろな、
そんな安易な精神論にすべてを引っかぶせては、
じゃな、元気でな、と。

ただまあそう、
これまで数限りなく、そんな安易なご都合主義的ばっくれを繰り返して来た俺としては、
その経験則からも、
人生が続く限り、物語はそれでは終わらない、
というのは自明の理な訳で、
つまりは、新たなる街、そこに辿り着いては、
万事休す、いきなりの絶体絶命に陥ることにはなるのだが、
ただそう、そんな危機的状況の中で、
そこに生まれるまた新たなる出会い、
そして思いもしなかった意外な展開が待ち受けている訳で。

そうなんだよ、言ってみれば、
この、旅立ちと、そして、新たな出会い、その展開から、
そしてまた、新たな旅立ち、そしてまた・・キリがない、
そう、そのキリの無さこそが、青春の、
あるいは人生というドラマの、その定番ではなかろうか、と。

というわけで、俺?
まあそう、俺。
俺こそはまさに、そんな出会と別れ、
あるいは、到着と旅立ちを繰り返してきた、
まさにご都合主義的なばっくれ人生、その繰り返し。

町から東京に出て、そこからアジアへ。
そしてヨーロッパ、そしてアメリカ、そしてニューヨーク。

当然のことながら、
巡るその街、土地、あるいは国において、
実に実に様々なドラマの数々。
出会いがあり、恋があり戦いがあり、
笑いがあり悲しみがあり怒りがあり
そんな愛憎にまみれまみれながら、
そして、ちょっとほろ苦い別れを告げて、
そしてまた新たなる旅立ち・・・

あの野郎、
実に困った奴、本当の本当に色々あったけど、
でもまあ、とりあえずこれで、
飛ぶ鳥後を濁しまくり、ではあるものの、
なんとなく、まあそう、そういうことならしかたがない、
このまま全て水に流してハッピーエンド、
じゃな、元気でな。
また逢う日まで、バイバイ、アディオス、インシャアッラー。



ただ、コメントにてご指摘頂いたように、
そんな、ある種の無責任な旅立ちは、
言い換えてみれば、それ、逃避、でしょ?と。

そう、まさにそれ、逃避だよな、たしかに。

この旅立ちという言葉を、逃避、と受け取ってしまえば、
それはまさに、ドロン、となる訳で、
はい、確かにその通り。

そう、ドロンしたよ、したした、
俺はバックレ・キングと言われていたからね。
で、その想いを込めて、
飼った犬の名前が、ぶっちぎりのブッチ、
ってのはまあ、思い切りの皮肉でもある訳で。

そう、確かに俺の人生、逃避逃避、逃避ばかり。

こんな糞ブログにしたところが、逃避パワーの賜物だからさ。

ただ、どうだろう、
それを、逃避、と言い捨ててしまいながら、
その逃避が、また新たな逃避を生む限りは、
それこそが、逃避行。

そう、逃避という結末を、逃避行、としたところで、
そこに何らかの永続性が生まれる訳でさ。

そう、俺のこのバックレ人生は、
逃避、だけじゃ済まないぜ。
それは、逃避行。
つまりは、この出会いと別れ、到着と旅立ち、
あるいは、バックレとカチコミ、その飽くなき繰り返し。

そしてそんな逃避行、
俺が生きている限り、この先もずっと続くもの、
なんだよね。








という訳で、はい、冒頭に戻ります。

あんなぁ、おさん、日本だってそんな甘いやおまへんでぇ、

そんな日本人であるために、
いったいどれだけの苦労と忍耐を強いられているのか、

日本が好きな外国人ばかりとは限らないし、

奴ら、駄目だね、ダメダメ、徹底的に駄目。


はい、そんな数多くのコメントを頂いて来た訳なのだが、

そんなコメントにいちいち、
え?なんで?
と思ってしまうこの俺って、
まさに、そう全くもって、骨の髄からの旅人気質、
つまり言うなれば、永遠のピーターパン・シンドローム。

つまりはそう、無責任な逃避行人、
全ての土地から、良いところ取りで、
手前勝手な都合主義のバックレを繰り返しては、
ともすればこともあろうことに、
そんな蛮行の数々を、甘酸っぱい思い出、
なんてオブラートに包んでは、
あの街からこの街、そのすったもんだの全てを、
心のアルバムの中に中にしまいこんでしまっている、
そんなどうしようもなく甘ちゃんなとっちゃん小僧、
でもある訳なのだが、

だがだが、

そう、そんな俺であるから、
この旅人の吹き溜まりのような街、ニューヨークにおいて、
毎日、それこそ膨大な数の人々とすれ違いながら、

ふと、肩のぶつかったその人と、
え?あんた、タイの人?
でご出身は? ええ?チェンマイ?
ああ!そうなんだ、と聞いた途端に、
目の前に広がるあの麗しの緑の山々。

それだけで、もう心はひたひたとした共感と、
そして甘酸っぱい想いに満たされきってしまう訳で、
思わず、よお兄弟、そこでお茶でも飲まねえか、と。

それはなぜかと言えば、あのタイの人々が、
こんな俺なんていう逃避行人のヒッピー旅行者に、
それはそれは、良くして頂いた、そんな印象があるからな訳でさ。

で、そう、我が母国日本。

確かに、そこに産まれてみると、
あるいは、実際に仕事をしてみれば、
それはそれは、とてつもないストレスを強いられる、
そういう気風であることは重々承知之助、
俺なんかいまだに、東京のあの風景を、
甘い思い出どころか、夜な夜な悪夢として魘される、
そこまでテンパりまくった記憶があるのだが、

だがしかし、もう一度聞いてくれ。

もしももしも、日本という国がこの先、
妙な風向きから絶体絶命の大ピンチ、
なんて状況に陥った時、

世界の人々がそんな日本の窮地に、
いったいどんな感情を持たれるだろうか。

いまであれば、そう、今であれば、
俺は、胸を張って言い切れる。

世界中の人々は、そんな日本の窮地に対して、
我こそは、と名乗りを上げては、
世界中からはた迷惑なボランティアに駆けつける、
そんな熱い熱い想いを抱いている、
そんなニワカ日本マニアが世の中に山ほどいる、
と断言できる。

そう、日本から帰った出張者たちが、
いやあ、日本、本当に良いところだったよ、
と、聞かされる度に、

あんなあ、
それはあんたが、すっかりしっかり、イチゲンさんのお客様、
つまりは、日本の外面ばかりを見させられては、
そのまま、なにも知ることなしに追い返された、
それだけの話しなんだよ、

と、薄く笑いながら、

知らねえだろうな、日本の内側、
それはそれは、凄まじいストレス社会の・・・

とそんなことを感じながらも、
だがしかし、
いまとなって俺は、そんな幼気な日本賛美を前に、
その気持とは裏腹なまでに、

だろ?

と言ってしまうことが、増えた。

だろ?日本、よかったろ?きれいだっただろ?
そして、日本人、本当の本当に良い人たちだっただろ?

それは、俺自身が逃避を決めた母国たる日本へ、
いまになって募りに募る望郷の思いの中で、
都合の悪いことをすべてカット&デリートしてしまった、
ということでは、勿論ない。

ただね、どこの国、どこの街に行ったって、
良いところもあれば悪いところもある。
そして、人種を問わず国籍を問わず宗教も問わず、
まあ細かい違いを上げればキリがないが、
ただそう、人間なんて、所詮の人間なんて、
どこに行ったって、どんな肌の色をしてようが、
どんな言葉を喋ろうが、何の神さま信じていようが、
実はその中身は、悲しいぐらいに似たようなもの。

そう、旅を続ければ続けるほど、
いろいろな人々と出会いを繰り返せば繰り返すほど、
ステレオタイプ的な便利な定説に、
どんどんと規格外の例外ばかりが増えに増えて、
で、結局至るのは、そう、みんなそれぞれ違うんだよ。

人間、個人個人、日本人であろうがアメリカ人であろうが、
ペルー人も、エチオピア人も、ルーマニア人も、シリアもヨルダンも、
その表層のステレオタイプと言う仮面を引剥しては、
突き詰めていけば行くほど、なんとなくみんなそれぞれ違う。
色々いる、色々、居すぎる。

そしてあろうことか、そんな世界中からの人々が、
実は実は、その心のコアのコア、その潜在的な最もナイーブなところに、
ジャパニーズ・アニメ、の刷り込みがなされていたり、
あるいはヒカル・ウタダの、あるいは、ベビーメタルの大ファンだったりして・・

という訳で、世界中の中の日本、
実は実は、そのコアな部分に、しっかりすっかり、
浸透しまくっている、つまりは、愛されまくっているというこの事実。

そう、日本ってさ、日本人が知らないうちに、
世界中から、実は実は、凄く愛されている、愛されまくっている、
そういう国、なんだぜ。



そしてここニューヨークという街。

ニューヨーカーという仮面の下に
人種も国籍も、過去もしがらみもすべて忘れ去っては、
それなりの外面的な演技を続ける、
そんな逃避行人の吹き溜まりのこの街においては、
そんな本国から引きずってきたしがらみの数々なんて、
その全てのことが、まさに、どうでも良いこと、
あるいは誰もが持っていて然るべきもの、
今更言うなよ、な訳でさ。

そしてそんなニューヨークという大都会から、
今日もそれこそ沢山の人々が日本という場所を訪れ、
それぞれにそれぞれのドラマの中で、
そこに何がしかの、思い出、を作って帰ってくる。

ただそんな、個人的な思い出、
その印象の集大成こそが、
いつの日にか、日本がこの世界に必要か否か、
そんな絶体絶命の危機に立たされた時の、
最後の最後の切り札。

俺は日本が必要だと思う、
だって、あんなに素晴らしい国、
世界中どこを探しても見つからないし、

お世辞でもそう言ってもらえるというのは、
実は実は、これ以上ないほどの、
貴重な財産、あるいは、それこそが最終兵器、なんだぜ、と。

それを踏まえた上で、今一度、日本という国、
そして、幸か不幸か、
あるいは、望むか望まないかに関わらず、
そんな日本という場所を訪れた、
或いは流れ着いた逃避行人、
つまりは流民の外国人たち。

彼らが故郷を離れる時、
いったいどんな別れを経て、想いを抱いて、
そしてこの日本という新天地に、
いったいどんなドラマを夢見て辿り着いたのか。

そしていま、この新しい街での現実を前にして、
いったいなにを思い、
そして、どんな出会いと発見をするのか、
そんな彼らのドラマの主役こそが、あなた、
そう、そんな外国人の目の前にいる、
日本人である、あなた、であったりもするんだぜ。

彼らが、ブラジル人でありバングラディシュ人であり、
あるいは、虫国人であり、淫乱人であり、ナイジェリア人であるように、
彼らにとっては、あなた自身が、日本、そのもの、である、と。

そう、人間、鏡だからさ。

あなたの姿が目の前の人の姿に鏡として反射している、
そしてそんなあなたを鏡として、彼らは日本を、
そしてその日本という舞台における自分自身を見ている訳でさ。



嘗て、中東の田舎町に辿り着いた時、
通りを行くどの人もどの人も、
いかつい顔で猜疑心と敵意ばかりをむき出しにしては、
どの顔もどの顔も盗賊か蛮人か詐欺師か客引きか。
つくづくこのイスラムという文化圏に足を踏み入れてたことを、
悔みに悔やんでいた、そんな時、
ふと目の前にオレンジが飛んできてさ。

ジャパ二!

バジャールのオレンジ屋の屋台で、
髭に覆われた獰猛な顔をしたおさんがひとり。

そのおやじの投げたオレンジがひとつ。

何するんだよ、と投げ返すことも出来たし、
どうせ腐ってるんだろう、と投げ捨てることもできたし、
ありがとうと言った途端にまた法外な値段をふっかけられて、
なんてことを思わないでもなかったのだが、

ふとそのオレンジ、皮を剥いて頬張った途端、
その例えようもない甘さが、
そのあまりにも鮮烈な程に爽やかな香りが、
思わず身体中が震えるほどに満ち満ちて。

おっさん、これ、美味いな、と思わず日本語で。

そんな俺を、茶目っ気たっぷりのウインクをして答えたあのオレンジ屋のおさん。

ありがとうよ、と手を上げては、そしてふと振り返ったその町並み。

それはまるで、魔法のように、
その光景が、一瞬のうちのどんでん返し。

道行く人々の表情が、いつの間にか蕩けるように甘く優しく、
そんな人々があろうことか、こんな俺に、
さり気なくも親しみに満ちた、会釈を残しては通り過ぎて行く。

そして見上げた街。
その夕暮れの空に響き渡るアザーンの調べ。

それはまさに、街に包まれた、その瞬間という奴。

そう、俺は旅の中で、そんなささやかな、
そしてあまりにもドラマティックな瞬間を積み重ねてきた。

それはまさに、あのひとつのオレンジ。
屋台のおっさんが、気まぐれに投げたあのオレンジひとつ。
それだけのことが、世界の全てを完璧なまでにひっくり返す、
その大変換の、きっかけ、になったりもするのである。

という訳で、そんな日本の労働者たち。
誰も話しかけてこない昼休み。
茫漠としたゴミだらけの駐車場を眺めながら、
溜め息と舌打ちばかりを繰り返してきた日々。

と、そんな中、ふと、ほらよ、と背中から差し出された缶コーヒー。

え?これ、なんですか?
と言葉も聞かないうちから、うまいぜ、飲んでみろよ、
日本の缶コーヒー、最高なんだぜ、
とウインク一つを残して歩み去るいなせな兄ちゃん。

その缶コーヒーの、一口啜ったその甘さの中に、
それまでの辛い想いの、その苦渋の全てが洗い流される、
そんな他愛もないありふれた奇跡、
ただ、そんなことだって、たしかに、ある、
そしてそんな些細な事が、ひとりの移民の人生観を覆す、
そんなことが、実際に起こってしまったりもするのだ。



という訳で、俺は、日本人だ、外人だ、
先住だ、よそ者だ、なんてところで、
妙なドヤ風を吹かす気は毛頭ない。

俺が思うのは、その境遇という奴。

同じ旅人、あるいは、同じ流民として、
あるいは、同じ外国人労働者として、
遠い日本に暮らす、孤独な友たちに、
思いを馳せてみたくもなる。

そしてアメリカに暮らす俺を、逃避人、と言い捨てては、
迷惑な外国人労働者に苦言を申し立てる、
そんな方々の思いの背景には、
その土地、あるいは国という呪縛を背負っては、
そこで忍耐を繰り返すことにある種の責任、あるいは美徳、
あるいはやるせなさを感じている、
その土着性にあるのだろうが、

改めて言わせて貰う。

それが苦労としか思えないのなら、
忍耐やら、鍛錬やら、そんな感情を募らせているのであれば、
なぜ自分から、旅に出てみようとしないのだな?

という訳で、冒頭のジョン・カーニーの映画、
そのテーマであるところの、旅立ち、である。

この旅立ち、というご都合主義的な決着、あるいはその始まりには、
新たなる場所における破滅のリスクはあるものの、
ただそう、旅立ち、そこには確実に、爽やかさ、が存在している。

そして、ダブリン、あるいはイーストサイドのゲトー、
あるいは、東京の大阪の、リオデジャネイロの、
そんなルーティーンの呪縛の中に鬱々とした日々、
そこに最も欠けているのは、つまりは爽やかさ。
あの夏の日の、一陣の風、
あるいは、バジャールの雑踏の中に飛び込んできたオレンジ一つ、
その日常の転換こそが、爽やかさの本質ではないのか、と。

そして改めて言わせてくれ。
逃避を促している訳ではない。
勿論、移住しろ、などと言うつもりも毛頭ない。
ただ、このニューヨークという街。

日々のルーティーンの中でうんざりにうんざりを積み重ね、
苦労と忍耐を繰り返している、そのおつもりであるのなら、
たった三日だけでも良い、
同じ世界に、このニューヨークという街が存在する、
その事実を、知っておいて、損はない、そう断言できる。

改めてこのニューヨークという街、
世界中からの人々がせめぎ合いひしめき合っては、
その誰も彼もが徹底的に空気の読めない、
人の気持ちを察するなどサラサラ興味もない、
そんなどうしようもない奴ら。

誰も彼もが、徹底的に自分の都合でしかものを言わない、
そんな最低最悪のエゴイストたちに揉みくちゃにされながら、
くそったれ、こいつら、なんて嫌な奴らだ、
だがそう、そうであるのなら俺だって、郷に入っては郷に従え。
最初から最後まで、
徹底的に自分の都合だけで押し通してやる、
そう思った時、いきなり頭蓋骨に亀裂が、
あるいは背中に翼が広がったような開放感。

そう、このニューヨークという街、
ありとあらゆるしがらみを捨て去り、
自分自身が徹底的に好き勝手に、
この自分自身という奴を貫くことができる街。

日々、愚痴と罵倒を繰り返しながら、
しかし尚、人々がこの街にしがみつくのは、
実にそれが理由なのだ。

という訳で、はい、日本の苦労が、忍耐が、鍛錬が、
そのしがらみが、空気が、
最近、ちょっと重いな、と思っている方々。

三日だけでも良い。
ニューヨークに来てくれ。

深夜のタイムズ・スクエアにたったひとり、
その末期的な雑踏の中で、自分自身、たったひとり、
その開放感を、ディヴァインを、
そして自分というもののコアを、感じてみてくれ。

それは日本という国、
あのキャビン・フィーバーの密閉に暮らす人々にとっては、
一種、衝撃的なまでの、一瞬になりうる、俺はそう信じている。


J☆Dee’Z - Answer by onesnowyday



という訳で、ONCE ダブリンの街角で、
見終わった後に、しばしの放心状態。

待ちくたびれた犬を連れて深夜の公園を歩きながら、
とそんな時、ふと、
LAにばっくれた嘗てのマブダチのことを思い出した。

よお、元気かよ、のメッセージに、
いま、仕事中、という、なんともつれないご回答。
んだよ、どうした?
いや、別に。
だったら後でな、いま忙しい、

と、後になって連絡など取るはずもないこのマブダチ。
この野郎、相変わらず無愛想な野郎だ、と舌打ちをしながらも、
LAか、ちょっと行ってみたい気もするな、と。

犬を連れたポンコツカーで大陸大横断。
ついでにそこで行き当たりばったりに仕事を探して、なんて、
なんとなく、俺らしくて良いかな、
なんて思った、その途端、
目の前のニューヨーク、
この見飽きた摩天楼の空が、
なんとも甘くセンチメンタリックにも愛しく見えてきたりもするもので。

ああ、俺、これだけ無駄な苦労を強いられながら、
この街だけは、離れられない、なにがあっても。

川沿いの遊歩道に降りたところで、
見上げる南の空に、
天を指した光の帯が立ち上っているのに気がついた。

そうか、今日は9・11、ニューヨークの命日であったのだな。
そう、俺は本当ならあの時に死んでいた筈なのだ。

そう思った途端、全てがおかしくなって、
思わず深夜のベンチでひとり、笑ってしまった。

終末はすでに、疾うに過ぎさっていた、のである。

という訳で、ONCE ダブリンの街角で、
旅立ちというエンディングの、その甘い余韻の中で、
俺がこの街を離れる時に、いったいなにを思うのだろう、
そんなことを思う、秋の夜更け、であった。





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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾年月。
世界放浪の果てにいまは紐育在住。
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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