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「葬式ルンバ」

Posted by 高見鈴虫 on 28.2016 嘗て知った結末   0 comments
クリスマスを翌週に控えた金曜の夜、
この季節は例によって仕事絡みのパーティ続き。
ニューヨーク・マンハッタン、ミッドタウンのホテルの最上階の、
100万ドルの夜景を360度見渡すラウンジを、
一挙に借り切っての一大パーティ、とは言うものの、
喧騒に包まれた会場の中、
誰一人として知る顔の無い祝祭の中をあちらこちらで乾杯の音頭取り。
空元気ばかりの愛想笑いを振りまくにも疲れ切り、
そしてようやく隙きを見つけては転がり出た深夜の街角。
見上げれば摩天楼の渓谷に、
ひらひらと雪の花びらが舞い始めていた。

大通りに出てタクシーを拾う。
クリスマス前のこの喧騒の底、
12時を過ぎても人々でごった返す24時間眠らない街。
それはまるで煮え立った魔女の鍋の底を思わせる、
末期的な渋滞に閉じ込められては、
おい、ちょっと脇道逸れた方が良いんじゃないのか?
インド人の運転手は、乗せた客のことなど一切構う素振りも見せぬまま、
雑音まじりのレシーバーに向けて、
ひっきりなしに耳障りなベンガル語を怒鳴り続けているばかり。
信号のたびに引っかかっては、交差点の真ん中に取り残されては立ち往生。
その車の間をあれよあれよと、まるで潮が寄せるように埋めつくしていく人々の、
その泡立つような華やいだ様に、
どういつもこいつも人の気も知らないで、と、
今更ながらに舌打ちをぶつけながら、
苛立ち紛れに無理な車線変更をしかける度に、
弾けるクラクションが重なっては摩天楼の渓谷にこだまを繰り返す。

くそったれ、こんなことなら面倒がらずに地下鉄に乗っていればよかったな。

ふと見るとコートの内ポケットの個人用の携帯。
パーティの入り口でうっかりとコートチェックに預けてしまった、
その旧型甚だしいIPHONEを取り出してみれば、
MISSED CALL~不在着信が・・・17件!?
見れば、なんだよ、自宅からじゃねえか。
またかみさんのやつ、
電源を切らずにポケットに放り込んでは犬の散歩、
ポケットの中でガサゴソばかりの続く間違い電話のメッセージ、
とは思いながらも、
ただ、その間を埋める、見慣れぬ国際電話の番号。
日本?
日本から、どうして?。。。

悪いことは重なるものである。
クリスマス前のこの季節、しかも雪の夜だ。
コロンバス・サークルを越えてようやく見慣れた風景が広がり始めた頃、
工事現場の通行止めに業を似やした運転手が、
無理に切ったハンドルに後ろから来たリムジンがボディをこすった。
弾かれたように飛び出してくるリムジンのドライバー。
半開きの窓の間から自棄糞の言い訳を繰り返すタクシーの運転手。
どちらもインド人。好きにしてくれ。
俺はそのまま、金も払わずにタクシーを降り、
慌てて追いかけてきた運転手に、振り返りもせずに20ドル札を押し付けると、
あばよ、さっさと消えな、の一言を残して、そして雪の中を歩き始めた。

夜の深まりにつれて激しさを増した雪の中、
面白いように底の滑る革靴に心底辟易しながら、
ようやくアパートに辿り着いた頃には、
深夜の舗道は一面に雪に覆われ、
舗道と車道の区別さえも曖昧になっていた。

いやあ、えらい目にあったぜ。

寝静まったアパートの廊下、
身体中を覆った雪の欠片を払い落としながら、
開けたドアの隙間、出迎えに来た犬の顔を見たとたん、
IPHONEの履歴に感じた悪い予感が、
的中していたことを悟った。

それが証拠に普段であれば、ドアを開けたとたん、
俺の姿を見れば制止も聞かずに飛びついてくる筈のこの犬が、
足元に所在なげに肩をすくめては、
上目遣いにじっと俺の表情をみつめるばかり。

なにか、なにかあったのか?

お~い、と妻を呼ぶ。

帰ったよ。いやあ、雪降ってきてさ、
したら乗ってたタクシーが事故りやがって、
途中から歩いて帰ってきた・・

そう、普段であれば、犬の後を追うようにして、
おかえり~、と鈴の鳴るような声を響かせる筈の妻。
今夜に限って、その気配さえも感じられない。

金曜の夜だからと言ってこんな時間に外出することもありえない。
寝ているのか。具合でも悪いのだろうか?

雪の残った分厚いコートを脱ぎながら、暗い部屋の中に向けて、
おい、帰ったぜ、凄い雪が降ってきたよ、と繰り返すが、
がらんどうの居間。音を消されたままのテレビ。そして・・

ふと寝室の奥に人の気配。

なんだよ、こんなところにいたのかよ、と言いながら、
ふと見ればその腕に抱えた巨大なスーツケース。

え!?まさか・・・

胸騒ぎの見事な的中。
自慢ではないが、悪い予感だけは外したことがない。

いつ?

それには答えずに、妻はただ、電話したのよ、となじるように繰り返す。

何度も電話してたのに。

だから、と思わず。だから、今日は取引先のパーティだって。

また仕事?また仕事を言い訳にして。こんな時に、よくもまあ・・・

いや、あの、携帯のバッテリーが、と言い訳を並べる間もなく、
妻が絞り出すような重い声で続ける。

今日の夜、7時過ぎぐらいに、いきなりおにいちゃんから電話があって、
と、箪笥の引き出しから無造作に掴み上げた着替えからなにからを、
投げやりなまでにしてスーツケースに放り込みながら、
その度に長い長い溜息をついて息を詰める。

おにいちゃんから、兄から、容態が急変したって。
いま病院に向かっているって。
慌てて飛行機の席を探しててたんだけど、
そしたらさっき・・・ああ、もうなにもかも間に合わない・・

そうか、と言葉を失くして、ただただそんな妻の断末魔を見守るばかり。

で、出発は?

明日の朝一番の便。そこら中に電話して、で、ようやく一席取れて。
あなたも来れるのならって、ウェイティング・リストに乗せてたんだけど。
なんど電話しても、連絡取れないし。
電話したのよ、ずっと、電話してたのに。

ああ、だから。

だからもう間に合わないから、取り敢えずわたしだけで行ってくる。
あなたは家のこと、ちゃんと見ててね。
ブーくんのこと、よろしくね。

いや、でも、それじゃ済まないだろ?

済まなくったって、しょうがないじゃない。
あなた電話取らないし。パーティだったんでしょ?仕事だったんでしょ?
いいのよ、向こうには席が取れなかったって言ってあるんだから。
だから気にしないで。

だから・・

そう言って唇をかみしめる妻の前、
改めて、ここニューヨークと、そして日本との距離、
そのあまりの絶望的な遠さを、思い知らされるばかり。

ああ、喪服どうしようか、そんなもの持ってないし、着たこともないし。

そう言ってため息をつく妻の前、俺はもう、居所を失くしたまま、
心配そうにただおろおろとする犬と見つめ合っては、
ため息まじりに肩をすくめるばかり。

そして、まだ夜の明け切らぬ陰鬱な雪雲の下、
見渡す限り、歩道も車道もないような一面の銀世界。
そのあまりの現実感の喪失の中で、
手配したリムジン会社の用意した、
巨大な、それこそ霊柩車を思わせる無骨なSUVに、
無言のまま乗り込むかみさんを呆然として見送っては、
そして穴に落ちるような虚脱感と、
そして救いようのない、自己嫌悪が、やって来た。







今年に入ってから、妻の父、その体調の変化が伝えられてからというもの、
暮らしが激変を見た。

これまでのこのアメリカ生活。
苦労がなかったと言えば嘘にはなるが、
少なくともなんの世間体もしがらみもないままの、
この気楽な異国暮らし。
その極楽とんぼ的なお気楽さに
まさに冷水をぶっかけられるようであった
この突如の日本からの悲報は、
ともすれば、ついにここに来て、
長い長い春の終わり、
年貢の納め時をも感じさせる、
重い空気に満ちていた。

以来、妻は忙しなく、日本とこちらを行ったり来たり。
看護が長引いた時のことを考え、
長期出国のたびに手続きの必要になる永住権から、
思い切って米国籍を取得したのも、実はそれが理由にあった。
そんな事情から妻は、これまで十数年務めた仕事も辞すことになり、
その帰郷の度に、日本での滞在は延びていくばかり。

その間、残された俺の直面したこの一人暮らし。
毎朝5時に起きては犬の散歩。
飛んで帰って仕事に出かけ、一日中激務に追い立てられては、
帰りの時間ばかりを気にしては焦燥に駆られ続け。
改めてこの突如のシングルダディ暮らし、
全てに全てが無理に無理過ぎる。

終わりのない残業の中、
中途半端なままの仕事を半ばに強引に引き剥がしては、
青色吐息で帰り着いた途端、
取るものも取り敢えず犬の散歩。
ああ、間に合った、と溜息をつく間もなく、
飯を食わせて皿洗って洗濯して掃除して、
その狭間に、この断末魔をあざ笑うような仕事上の緊急電話。
そのなにもかもが一時に、怒涛のように押し寄せてきては、
その生活はまさに毎日が錐揉み状態である。

詰め込まれた一日のスケジュール、
そのひとつでも、ちょっとバランスを崩しただけで
全てが将棋倒しに倒壊するこの危うい綱渡り暮らし。
果たしてこの生活ががいったいいつまで続くのか。
それを不安に思うほどの余裕もないまま、
ただただこの暮らしを維持することだけが目的で、
我武者羅に走り続ける、それだけの日々。

こんなことをやっていたら、家計は勿論のこと、
夫婦ふたりともに、完全にお釈迦にされてしまう・・

そうこうするうちに、義父の様態は好転するどころか、
遂には24時間体制の緊急治療施設へと移ることとなり、
延命だけが目的とされるその最新設備の中で、
もはや意識を失ったままのその命は、
身体中にぶら下がったチューブ、その人工臓器の働きに頼るのみ。

そんな先の見えない暗い坂道を、
ただただ転がり落ちるばかりのような日々の中で、
思わず感極まっては、人知れず悪態をつく。

もはや死を目前にした者の為に、
すでに意識さえも失ってしまったその生きる亡骸の、
理由さえ曖昧な生命維持のため、ただそれだけのために、
残された生者たちが自己の暮らしを根こそぎにくつがえされては、
そしてその未来さえもすべて犠牲にする、
その必要が、本当にあるのだろうか・・

生前はあれほどまでに矍鑠としていた筈の人々が、
ひとたびその死を目前にして意識を失った途端、
これまで積み上げてきた人生の全てを、
最後の最後になってすべてまとめて、
暗い穴の底へと引きずり込んでいくような、
そんな現代社会の底知れぬ罠。

これが俗に言う、看護地獄、というやつか。

今更ながら、地獄、と言われたその周到な罠の中で、
その泥沼の中にただ悪戯ににはまり込んでは、
為す術もなく身動きを失っていくばかりだったこの一年。

クリスマスを翌週に控えた雪の夜、
その訃報を聞いて思わず、
そうか、終わったのか、と重い悲しみに打ちひしがれながらも、
ただ、それと同時に、終わってくれたのか、
そんな深い深い溜息が、漏れてしまったのも確かなのだ。

とるものもとりあえず旅立っていった妻を見送った後、
そのあまりの突然さに唖然として立ち尽くしながら、
ただ、不謹慎ながらも、最初に思ったこととは、まさにその一言。

そうか、終わってくれたのか・・・

そのあまりの無力感、と同時に、
その中に確実に存在する安堵感、
その狭間を埋める一種の罪悪感、
そんなものがないまぜになりながら、
雪の嵐の中に半ば呆然と、立ち尽くすのみ、であった。





という訳で、お恥ずかしい話、
いざとなって俺は、その日に向けての準備が、
まるで出来ていなかったことを改めて思い知る羽目になった。

俺はこれまで、まともにこの冠婚葬祭の儀式とやらに、
ご参列申しあげた経験がない。

日本に居た頃は、バンドマン、などという、
この世の常識から最も遠く離れた世界に棲まう無法者風情、
その後、いきなり世界放浪なんてものに出てしまった関係上、
ここに来て、俺は日本という国の基本的な社会常識というもの、
そのほとんどをなにも経験せぬままに、
この極楽とんぼの異国ぐらしのなかでいたずらに時を重ねては、
いつの間にかここまで歳を経てきてしまったという事実を、
今更になってこれでもかと思い知らされることになった。

果たしてこの葬式という儀式の中で、
いったい実質的になにが行われるのか。
そのシキタリから段取りからマナーから、
メニューからスケジュールからの心得のすべて、
そして当然湧き上がってくるべき筈の、
その感情の動きも含め、
そんな中、俺はいま、義理の息子として、
いったいなにをするべきなのか。
正直なところ、その役回りが、さっぱりと判らない、
つまりはなにもかもが、ちんぷんかんぷん、なのである。

雪の中を無我夢中のままに家を飛び出して行った妻を乗せたジャンボジェットが、
アメリカ大陸を横断し、そして太平洋を渡りきるまでの間、
電話もメールも、まるでいっさいの連絡も取れない訳で、
相談をするにも、あちらの連絡先を聞くにも、
まったくもって埒が明かない、明かな過ぎる。

改めてそう、つまりはこういった事態に、
俺達はまったく準備が出来ていなかった。

この一年、仕事を辞めた妻がこれまで、
日本とこちらをこれでもかと行ったり来たりを繰り返していたというのに、
その本当に意味するもの、
それを待ち受けていたものがいったいなんであったのか、
不思議なことに心の準備は愚か、想像さえもしていなかった、のである。

で、そう、この葬式、って奴。
改めてこの葬式って、いったいなんなんだ?

こうしてみると、改めて日本は遠い。遠すぎる。
まさに外国、異文化そのもの、ではないか。

二十代の半ばにして、駆け落ちというよりは、
まさに行き当たりばったりの略奪婚、
あるいはその終わりなき旅の沿線上から、
なし崩し的に渡米してしまった関係上、
親の死に目にだけは絶対に会わせるから、
それだけがこの放蕩暮らしの言い訳の、
その最低条件、でもあった筈なのだが、
こうなってみると、
まさにその約束はしかし果たすことはできなかった訳で、
言ってみればこれは、完全なる契約違反、である。

そしてそのもしもの時が訪れた中、
もうなにもかもが絶望的に手遅れになったいま、
雪の平原を無邪気に走り回る犬の姿を呆然と目で追いながら、
いま自身の陥ったこのあまりに救いようなない醜態を前に、
ただただ、声をなくしては絶句を繰り返すばかり。

俺って、と思わず。
俺って、まったくもって、本当にどうしようもない奴、だったんだよな。

そんなこと、いまに始まったことじゃないでしょ?

飛行機の中、遥か彼方の上空から、妻の、そんな舌打ちが聞こえて来た。





という訳で、クリスマスも正月も、
この師走は犬とひとりと一匹ぼっちで過ごすことになりそうである。

それはまさに、身から出た錆と言うにはあまりにも不様な、
醜態も醜態、その極みであろう。

あの、極楽とんぼの放蕩者の極道野郎、
ひと様の娘をかっさらっては好き放題に連れ回し、
挙句には、親の葬式にさえ来やがらない・・

親戚筋のその苦虫を潰したような辟易を前に、
バツの悪そうに肩をすくめるばかりの妻の姿を思い浮かべながら、
いざ、となると、その罪悪感、というかなんというか、
まさに凍った背筋にみしみしと亀裂が入る思いである。

改めて、これはもう、人生始まって以来の、とんでもない大失態であろう。

そんな妻の姿を思い描きながら、もしかして、
と今更ながら不穏な予感が巻き上がっくる。

もしかして、今度という今度ばかりは、
もう、救いようがないかも、しれないな。

そしてそう、いま、こうしているいまも、
なあ、なんか食い物寄越せよ、と、せっついてくるこの犬。

あのなあ、人の気も知らないで、とはいつものセリフながら、
そう、人の気、どころか、妻の陥っていた状況にさえも気づけなかったのは、
まさに俺、この俺の方ではないか。
そしていま叩き込まれているこの万事休すの絶体絶命。
改めてこの年末のキチガイじみたスケジュールの中で、
いったいこの犬を抱えて、俺はひとり、
いったいどうやって生きて行けば良いのかと途方にくれるばかり。

思わず仰ぎ見る空から、ただただ雪が降り続いている、冬のニューヨーク、なのである。



と、そんなこんなで悶々としたまま、
なにひとつとしてなにもできぬままに週末をやり過ごし、
しかしながらこのあまりの失望感、
そして、この自虐的なまでの手持ち無沙汰の中で、
やり場のない焦燥ばかりが募っていく。

妻からの連絡は途絶えたまま。
何度電話をしても誰も取らず、メールを送っても、メッセージを送っても、
それこそがナシのつぶて。

日本とニューヨークの時差が14時間、
いまこちらが何時で、だったら向こうは何日の何時。
で、で、で、いったいそこで、なにが起こっているのか?

眠れぬままに辿り着いた月曜の朝のオフィス、
出社と同時に一応念のためにと、
その雇い主たる上層部の方々に、喪中挨拶のメールは送ってみたものの、
だからと言ってどうなるわけでもないのは周知の事実。
でありながら、なんだろう、この腰の座りの悪さは。

週末に目を通しそびれたメールの山、
その一つひとつに手短に解答を返しながら、
しかしながら、なんだろうこの違和感、あるいは、隔世感。

俺は果たして、こんなことをやっている場合なのだろうか。
俺はいま、この瞬間にも、
まさかまさか、とりかえしのつかない過ちを、犯し続けているのではないのか?

ただしかしながら、当の俺には、
正直なところ、いったいぜんたい、この状況において、
果たしていったいなにをするべきなのか、
それ自体が、まったく見当もつかないまま、なのである。

そして改めて、この眼の前のオフィスの状況。
月曜の朝、誰も彼もが忙しなく蠢き続けるこの広大なオフィス。
週末の連休を控えて長期の休暇を取る人々の、
その浮かれた断末魔と、そしてそんな休暇族が、
休みに入る前に、聞いてこと、引き継ぐべきこと、
その忙しない追いかけっこ。

改めて、この人種の坩堝のニューヨークである。
それを象徴するかのような、赤白黄色に黒茶色。
そんな、いったいどこからきた何人であるのか、
その正体さえもさっぱり判らない、まさに異境の人々の寄せ集めの中で、
この日本の葬式、という特異なシステムについて、
ましてや、この日本人である俺自身さえもが、
いまだに皆目見当のつかなくなってさえいる、
日本人の魂の根源、その死生観のあり方について、
いったい、この場の、誰になにをどう相談しようというのか。

という訳で、ここに来て初めて、
嘗て知った日本人仲間に電話をしてみようと思い立った。

ご無沙汰の挨拶も済まぬうちから、
いや実は、と話を始めれば、

ああ、ららららら、あっちゃぁ、そりゃ大変だな、
と深い深い溜め息、そればかり。

で、どうすりゃいいだろ。

どうするもこうするも、ここまで来たら、気持ちの問題だからな。つまるところ。

で、おまえだったらどうする?

俺だったら、まあ、帰るだろうな。

かみさんといっしょにか?

ああ、たぶん。

いまからでもか?だってもう、葬式だって始まっちゃっただろ?

そういう問題じゃねえだろう。要は気持ちだよ、気持ち。
葬式だなんだよりも、取り敢えずは、おまえのかみさんへの、その気持ちだろ?

いまからでも行くべきかな?

さあな、まあただ、おまえのかみさんも、ああいう人だしさ。
元々おまえになんかになにも期待してなかっただろうに。

だから、と思わず声を荒立てる。

だから焦ってんじゃねえかよ。
下手すりゃこのまま見限られちまうかと思ってよ。

もうすっかり見限られてるだろ?
だったらそのまま見捨てられちまえよ。
したら心置きなくバンドマンに戻れるじゃねえか。

馬鹿野郎、と思わず。
おまえ、相変わらず徹底的に頼りにならねえ野郎だな。

だからよ、行って来いって。

仕事クビになったらどうするんだよ。

仕事なんか選ばなければいくらでもあるだろ。
ただ、かみさんは、かみさんだけは、そういうわけにもいかないだろ?
それを気にかけてんじゃねえのか?違うのか?

やっぱり、かみさん、やばいかな?

まあほら、おまえのところのかみさんと、うちのはぜんぜんタイプが違うしな。

でも、おまえだったら帰るんだよな?

ああ、俺だったら、四の五の言わずに帰ったと思うよ。

やっぱりそうか、そういうことか。

まあ、取り敢えずはどんな方法を使ってでも、
まずはかみさんに早く連絡を取って、
取り敢えずの状況とやらを聞いてだな。

だから、電話してるんだよ、
ずっとずっと電話し続けてるのに出やがらねえんだよ。
電話もつながらねえ、メールも届かねえじゃ、こっちだって手の打ちようがねえ。

まあさ、あっちはあっちで、いろいろと忙しいんだよ。
葬式ってさ、もう、殺人的なスケジュールって言うからな。

そうなのか?

そうらしいぜ。次から次へとやることが押し寄せてきて、
目がまわりそうなんだと。おちおち寝る暇もねえんだとよ。

だから電話に出ねえのか?目が回ってたって電話ぐらい出れるじゃねえか。

だからよ、四の五の言わずに、とっとと行ってみたらどうだ?
邪魔にされたら、ああそうですかって、そのまま帰ってくればいいじゃねえか。
取り敢えずはかみさんの為、そのご遺族、ご親戚の皆々様の為にさ。
不敬はお詫びしますが、お葬式には間に合わなかったまでも、
このように海越え山越えはるばるやって参りました、
その気持だけは、どうか汲んでやっておくんなせえってさ、
そう、その気持ち、その気持が、大切なんだよ。

そうか、日本に、行くべきか。

日帰り、とは行かないまでも、ご挨拶して、ご焼香して、
そして、では、って感じですぐに海を越えて帰ってくる。
その心意気こそが、筋。男の見せ所だろが。



まあそう、あいつらしい意見である。
あるいは、そういう意見を聞きたいが為に、
あいつなんかに電話した、ということもあるのだろう。
そう、偶然は必然によって導かれるもの。
あるいは、現実は欲求によって引き出されるもの、
全ての結果は、実はお望みどおりの結末なのだ。

だが、と改めて。
いまこの時点でいきなり空港に向かう、その現実性を考えながら、
果たしてこの、気持ち重視の日本的心情というやつが、
いったいどれだけ、この俺自身を取り巻く眼の前の状況に合致したものであるのか。

という訳で、改めて、この海越え山越えの心情作戦という奴の、
その激情の末の、その顛末とやら、
その俺たちの場合バージョンって奴に、思いを巡らせてみる。

えぇぇ?なにぃ? あなた、いったいなにしに来たの?
ご挨拶?云千ドル使って?
あなた、馬鹿じゃないの。なに考えてるのよ、この忙しい時に。
で、犬は?ぶーくんはどうしたのよ。
ねえ、あなたの仕事は、あの子をちゃんと世話してくれることって、
ちゃんと言ったわよね?
いったいなにしに来たのよ、まったく馬鹿なんだから。もう勘弁してよ・・・

ご家族どころか、その親戚一同の目の前で、
思い切りそんな舌打ちをかまされる、
そんな光景が、目に映るようなのである。

そう、我が家の妻はそういう人である。

なにかにつけて、心情的、その気持ち、なんていう曖昧さよりは、
合理性重視の冷血主義、つまりは筋金入りの現実主義者。
俺がいかにもそういう間の抜けた大技をくれそうな輩だからこそ、
そんな俺とバランスを取るためにも、
敢えて冷徹な現実主義に徹っして来せざるを得なかった、
これまでのそんな長い長い軌跡がある。

そう、これまでの付き合い、その終わりなき腐れ縁の中で培われた、
一種、あ・うん、のその呼吸の中で、
互いの行動パターンは、互いに知り尽くしていた、その筈だ。

ただそう、しかしこの問題、
いま眼の前で現在進行系であるこの絶体絶命は、
まさしく、そんな俺達が、いままで一度も経験したことのない、
まさに、前代未聞、未曾有の、一大事、なのである。

全ての計算がとち狂っては、この突如として起こった禍の中で、
互いがまさに錐揉み状態になっている筈、なのである。

これまで、度々に陥った危機的状況の中においても、
少なくとも、俺達は、いつも一緒にいることができた。

ねえ、どうするのよ、
どうするもこうするも、どうするんだよ。

絶体絶命の状況の中で、
俺達はいつも、そうやって互いに詰り合い、
時として罵声を浴びせ合いながら、
だがそんな断末魔の鬩ぎ合いの後に、
たどり着くのはいつも同じところ。

まあさ、今更騒いでもしょうがねえだろ。
例えどんなことになったとしても、
とりあえずは俺とおまえ、
俺たち二人がこうして一緒にいられるのなら、
大抵のことは、まあどうでも良い、二次的な問題。
まずいちばん大切なのは、俺達が一緒にいること。
それ以外のことは、二の次三の次、
つまりは、大した問題じゃねえってことさ。

そうやっていきなり訪れた達観、
ある意味、究極の開き直りの中で、
思わず、IT'S ONLY ROCK'N'ROLL。
騒ぐことはねえさ、たかがロックじゃねえか、と。

そう、俺達のこの長い長い流浪の、
この世界を股にかけた珍道中。
超低空飛行とは言うものの、
これまで数々の危機を乗り切って来れたのは、
まさにそう言った、捨鉢な程の達観があった、その筈なのだ。

そう、ふたりが一緒にいれるなら、あとのことはもう何も望まない。
そしてそんなふたりが一緒にいさえすれば、
大抵のことはどうにかなってきた、その筈なのだ。

そして改めてこの現在の状況、その絶体絶命の最もたるものと言えば、
この究極の危機の中にあって、そんなあ・うんの相棒が隣りにいない、
それこそが、この混乱の、最大の元凶なのである。

果たして、妻がいまどんな状況に陥っているのか。
何を考え、何に差し迫られているのか、
その状況が、まったく予想ができない。

その状態にこそ、俺が混乱を来たしているのである。

果たしてあいつはいま、なにを考えているのだろう。
そして、そんな中で、俺はいったいなにを、するべきなのか、

そう思った時、ふと、蜂の巣を突いたようなオフィスの中から、
こんな言葉を耳にしたのである。

プロトタイプ?

UAT、テスト環境での動作確認、そして、シミュレーション。。

そう、なにはともあれ、シミュレーション、である。

その動作が不確実な時には、
まずは試験機を使って疑似試験を実施し、
結果を検証する。

プロトタイプ・・・

とそんな時、まさに、天啓、と言った感で、
ひとりの女性の名前が閃いたのである。

サクラ・ミホコ。。。佐倉美帆子・・・?

その名をつぶやいた時、思わず胸がキュン、どころか、
下腹がきゅーっと、俄に競り上がった。

一体全体こんな時に、よりによってなぜ、サクラ・ミホコ、
なんて女の名前が浮かぶのか。

ただ、そう、サクラ・ミホコ、
確かに、そう、そう言った意味では、確かに、適役かもしれない。

そうか、サクラ・ミホコか・・





この秋から始まった一大プロジェクト。
待ちに待ったゴーサイン。
この四年間に及ぶ巨大プロジェクトの一員として招かれた時、
思わず、これこそが夢の大仕事、その実現。
これまでの苦労がようやく報われた、そんな気さえしたものだ。

そんなプロジェクトの初日、キックオフの会議で顔をあわせたのが彼女だった。

ミホコ・ロバートソン と、自己紹介しながら、
俺に対してだけは、佐倉、です、と旧姓を名乗った、そんな人。

鳶色の長い髪。スレンダーな体型にフィットしたコンサバのスーツを小粋に着こなし、
一昔前まで立派なイケイケ系女子大生であっただろうその見事な美貌振り、ながら、
その全身から匂い立つような大人の雰囲気。聞けば一児の母。

ただそう、そんな彼女でありながら、どことなく親しみやすい、
あるいは引き寄せられるように寄り添ってしまうのは、
母である包容力なのであろうか、
あるいは嘗て、遊び人的な過去を共有したであろう、
その同世代的なシンパシーであったのだろうか。

いや、いや、いや、いや、
いやいやいやいやいやいやいやいや、
誓っていうが、別に、そんな気があった訳では、ない。

そう、信じて欲しい、ぜったいにそんなのじゃない、絶対違う、
まったく、ぜんぜん、違う、違い過ぎる。

当然のことだ、だって、そう、義理の父親が急逝した、そんな時だぜ。
で、妻との連絡が途絶え、このまま行けばもしや、離婚かも、
なんていうこの絶体絶命の大失態の底、そんな時に、だぜ。

そう、俺はそこまで外れちゃいない。
外れちゃいない、とは思いながら、
そう、まるで、神の思し召し、のように閃いたこの名前。

サクラ・ミホコ・・

いや、だから、違うって。違う。ぜんぜん、違う。
賭けても良い、違う、だから、違うってば。

だから、おまえなあ、いい加減にしろよ。
考えても見ろよ、だってさ、婆あだろうがよ。アラフォーだぜ。
しかも、コブ付き、つまりは一児の母。
馬鹿にしてもらっちゃ困る。
俺だってその気になれば、そう、その気になれば、の話だが、
ほら、あのパティションの奥のアイリッシュのケイティ、
あるいは、あのインターンの金髪娘・ステイシー、
あるいはそう、その気になれば、つまりは本気でその気になれば、
それこそ、あのオペレーション室に屯する、
あのピッチピチの爆乳ボディのラテン系娘達だって、選り取りみどり。
なにが悲しくて、あんな、一児の母、
そんなたぶん、一皮剥けばすっかり萎びきっているであろう、
アラフォーの東洋人、なんてのに、わざわざ、俺が、この俺が・・

まあそう、確かに、熟女ってよりは、
その見た目だけで言えば、それは、元清純美少女系、
なんてたって、一児の母と言いながらも、あのスレンダー。
で、あの驚くべきは長い足。
金曜日、カジュアル・デイの時に見せた、
あの、スリムのジーンズ、あの手足の長いこと長いこと。
後ろから見れば、それこそ十分、二十代でも通用する、
その見事過ぎるプロポーション。

そしてなにより、立てば芍薬坐れば牡丹、歩く姿は百合の花、
そう、あの、ここアメリカにおいては、まさに希少価値も希少価値、
ともすれば天然記念物クラスの、まさに純正和風、純血的日本美女、そのもの。
そんな雰囲気をいまだに色濃く残す、残し過ぎるほどムンムンの、
だがそう、だからと言って、まさに一児の母、つまりはすでに人の妻。

そうよね、昔だったらちょっと可愛い子ぶりっこしてにこっと笑えば、
それで全てが収まる、どころか、欲しいものならなんでも手に入る、
そんなことを当然と思っていた、そんな時期もあったものだけどさ。
今更そんな歳でもない、って、そういうことなのよね。

交渉の難航する会議室から帰るたびに、
俺の机に立ち寄っては、そんなため息を漏らしながら、

大丈夫大丈夫、
押せば引く、こっちが引けば自然と向こうから引っかかってくるさ。
果報は寝て待て。
それより、メシに行こうよ、飯。
また新しい日本食屋、みつけたんだ、
そこでゆっくり作戦を練ろう!

OKだったら今日はわたしが奢る。
いや、この間、そっちが払ったろ?
だったら今日は俺の番。
いいのよ、話を聞いて欲しいのはこっちだから。
それを言ったら、いつも俺ばかりが話しているじゃないか。
だったら割り勘?それも面倒よね。
まあいいさ、とりあえず出かけよう。出かけさえすればどうにかなるさ。

そう、間違って貰っては困る。
そう、俺達はすでに大人なのだ。
花金のイケイケのクラブ廻りは今や昔。
いまや、家庭を持ち、守る物を持ち、そして、このプロジェクト。
つまりは社会的責任という奴の中で生きている、その筈じゃないのか。

そう、俺達はすでに現実の中に生きている。
それこそがまさに大人の落ち着きと言う奴。
つまりはその人間的深み。
生半可なことで、凡庸な罠に嵌まるような、
そんな下手を踏むにはちょっととうが立ちすぎている、
その筈なのだ。

確かにそう、アラフォーと言いながらあの美貌だ。
そして特筆すべきは、あの、まるで香り立つような知的雰囲気。

なんてたって、現役国立だぜ。そしてアイビーリーグのマスター。
あの全てを達観したような、あの余裕、
どんなトラブルの時にも、
あぁあ、困ったわねぇ、とどこかどこ吹く風の、
そうやって状況を醒めて見ている、
それこそがまさに、高IQ女子のそのプライド、その余裕なのだ。

あのちょっと、疲れを漂わせた、アンニュイな、
しかし、表向きは見るからにキビキビとした優等生面。
まあ確かに、あの生真面目さ、
ちょっと天然が入っているかもしれないが、
あの見るからにちょっと不器用そうな、
しかし、ひとたび、なにかを始めた時のあの集中度、
まさに、そう、現役国立の人、だろ。

まあそう、ぶっちゃけ、一児の母とは言え、
このサクラ・ミホコ、
まったく意識していなかった、と言えば嘘にもなるのだろうが、
それは、まあ、誰だって同じことだろ?

そう、まあ、そう、だよな、
まあ、確かに、いい女だよ、俗に言う、いい女。

正直、あんないい女、
つまりは典型的な日本の尺度におけるいい女、
ここアメリカでは、まるで見かけることのない、
まさに普通の、日本人、その典型的な良い女、というやつ。
そんな物珍しさが、その渇望が、その、なんというか、懐かしさ、みたいな奴が、
ただそう、確かにね、気になっていた、それだけは確か、なんだが。

だがだがだが、誓っていう。
そう、俺は、そんなサクラ・ミホコが気に入っていたのは、
実はそんな理由ではない。

そう、彼女は俺にとって、なんと言えば良いのか、
それは、とても、身近に感じられる、そんな存在なのだ。
つまりなんというか、そう、馬が合うのだ。
その理由がなんであるのか、深く考えたこともないが、
確かにそう、俺はこんなタイプに弱い。
あるいはそう、どこか、あまりにも身近な、
まさに、どこかできっと出会っている、
それもずっとずっと昔から、
ずっとずっと一緒にいたような、そんな気がしてならない、
まさにそう、なんと言えば良いのだろう・・

という訳で、この天啓のように閃いた、このサクラ・ミホコ、その名前。
朝に出したメール、あの喪中挨拶のメールにも、
すかさず、というぐらいの素早さで、

この度はご愁傷様でございます。
心よりお悔やみ申し上げます、から始まる、
まさにお手本どおりの、キレッキレの純正日本語、
その名文的なまでの返信分。
さすがだなこの人、と思わず舌を巻く、そのそつのなさ。

そう、サクラ・ミホコはまさにそういう人。

常識的社交辞令を必要悪とは知りながらも、
やるべきところではしっかりきっぱり余裕でこなすことのできる、
そういう深みを持った人。

まさに俺の足りないところの全てを補ってくれる、
まさに魔法使いのような、その常識力。
まさに魔女、まさに、美魔女ならぬ美魔母。

こういう時に、頼りになるのはこの人しかいない。
そう確信させるに足る、まさに、そう、そんなサクラ・ミホコ。



という訳で、そう、勢い、であった。
俺はテンパっていた、危機的状況にあったのだ。
正直な話、このアイデア、
つまりは、サクラ・ミホコに相談してみよう、
そう思った途端、ちょっと胸が高鳴った、それは確かなのだが、
いやいやいや、断じてそういう理由ではない。

そう、俺はテンパっていたのだ。
これは危機、なのだ、非常事態、なのだ。
くだらないことをグダグダと言っている、そんな場合ではない。
つまりはそう、行動、あるのみ。

そしてなにより、もしも、もしもの時、
つまりは俺がこのまま日本に帰る、そんな事態になった時、
そんな時に一番頼りになるのは、まさにこのサクラ・ミホコ、
この人を置いて他にはいない。
そう、当然のことだ。
彼女しかいない。
彼女であれば、全てを上手くやってくれる、その筈だ。
そんな彼女に、留守中をお願いすることになった時のための布石、
そのご挨拶って奴だろ。

という訳で、そう、勢いだったのだろう。
俺はその焦燥に駆られるままに、
昼飯を装って飛び出した、その非常階段の踊り場から、
サクラ・ミホコの携帯の番号を回していた、のであった。




あらまあ、と彼女は言った。
大変ですね。ご愁傷様です。

そのちょっと、ウェットに富んだ、なにげにアンニュイな声。
思わず、ぞくっとして息を詰めながら、
いまどちらに?と聞けば、サクラ・ミホコは病欠中、であったらしい。

実はこの週末、うちのチビ助がまた熱を出しちゃって、と彼女は言った。
でも大丈夫、またいつもの奴なのよ。心配いらないわ。いまは寝てるから、
と湿ったため息。

で、どうしました?とサクラ・ミホコ。
いや、実は、と、問われるままにこれまでの状況を説明しては、
うんうん、判る判る、それは大変ですよね、と控えめな相槌を繰り返しながら、
で、と彼女、
で、わたしになにかできること、あるからしら?

ん?わたしにできること?

思わず、うーん、であった。
そう、そう言えばそうであった。
俺、なんのために、この人に電話などしているのだろう。
ただ、
そう、ただ、であった。
こんな時、この人と話していると確かに気が落ち着く。
それが証拠に、さっきまでのあのテンパリが、
いつの間にか、霧が晴れるように、掻き消えているではないか。

で、ぶっちゃけ、と俺。
で、ぶちゃけ?とサクラ・ミホコ。

まあ、つまり、なんというか。

つまりそう、そうぶっちゃけ、あなたは、どうして良いか判らない。
で、そんな時に、いったいあなたの奥さんがどんな状況にあって、
そしてなにを考えているのか、望んでいるのか、
その気持ちが知りたい、と、そういう訳なのね?

まあ、そう、っていうか、まあ、そう、そういうことなのかな。

でも、とサクラ・ミホコ。
わたし、あなたの奥さんにお会いしたこともないし、
いったいどんなタイプの方なのか。。

まあそう、そういうこと、ではあるのだが、ただ・・

とそんな俺の当惑を見透かしたように、
ふとすれば不穏な沈黙を続けながらも、
だが、そんな時に、悪戯な感嘆符、
えええ、わかんなーい、やら、
あるいは、ねえねえ、なんでそんなこと、このあたしに聞いてくるわけ?
なんて余計なことを言わないところが、
まさにこの、サクラ・ミホコ、である訳なのだが。

ただ、とその時になってふと俺は我に帰った。
俺はいったい、なにを言っているのだろう。
俺がこの危機的な状況において、
よりによってそんな相談を持ちかけてくる、
その真意が、その心の拠り所、その本当の本当の理由、というやつが、
いったい、どこに、起因しているのか。
つまりそれって、つまり、そういうこと、なのではないのか、と。
それって、実は、もろに、もろにそういうことなんじゃないか?

思わず、血が逆流を見た。
生まれて初めて、自分の耳が赤くなっていく、その音を聞いた。

だがしかし、サクラ・ミホコは大人、であった。
そう、一児の母だ、アラフォーなのだ。
しかもなお、いまだにあの香り立つような美貌の人だ。
つまりはこれまでの男性経験、いやいや、社会経験なんてやつも、
実に実に豊富な方、である筈なのだ。
そんな彼女にとって、俺のような単細胞の馬鹿の考えていることなど、
まさに一目瞭然、筒抜けも筒抜け、である筈だろう。
ただそれを、おくびにも出さずに気付かぬふりをして受け止めてしまう。
つまりはそう、女は強いのである。
こういうことこそが、女の強さ、なのである。
こんな女を前にしたら、男が、少なくとも俺ごときが、
なにをどうしたって、勝ち目などさらさらある筈が無い、のである。

しまったな、と我ながら冷や汗が滲み出して来た。
これこそが万事休す。飛んで火に入る夏の虫、という奴か。

ただ、そう、ただ、サクラ・ミホコである。
だからこそ、サクラ・ミホコ、なのだ。
つまりは俺がこの絶体絶命の状況の中にあって、
彼女を、つまりはそんな彼女を選んだ、
この俺の判断を、信じるしかない、ケツをまくるしかない、のである。

しばしの沈黙の後、判ったわ、と彼女が言った。

だったら、いいわ。
もしわたしがあなたの奥さんだったら、
ってことにして、考えたことを言うわね。
それで良いかしら?

ただ、ほら、わたしは、幸か不幸か両親ともピンピンしてるし、
ただ、実はこの間ね、お友達のお父様が亡くられて、
その時に聞いた話を参考にして、なんだけど。
それでもいい?

ああ、凄く助かるかもしれない、と思わずほっとして長い息を吐く。

オーケー。じゃあ行くわよ。

まずは、バックグラウンド。
奥さんは、ずっとご看病をされていた、そうよね?
で、この一年、日本とこちらを行ったり来たりも繰り返していた。
なので、心の準備はできていた。
で、突然連絡が来た。
子供、じゃないけど、わんちゃんの世話を主人に託して、
翌朝の便で、ひとり旅立った。
で、
到着して、まずはすぐにお通夜に直行。
で、葬儀から告別式から、
その間、御来賓の方々へのご挨拶から、
なにやかやなんやかや。
うーん、そうね、多分、
そんな時に、残してきた旦那から電話なんか貰っても、
たぶん、出てる暇ないと思うわ。

そうかな?

そうよ。旦那はまあ放っておけばどうにかなるけど、
でも目の前の現実は、自分が対処しなくちゃなにも始まらないんだから。

プライオリティだよね。

そう、女はね、というか、わたしだったらね、プライオリティで動くと思う。
で、一番大切なもの、
つまりは一番頼りにしている人は誰かって考える上で、
そういう時に、わたしなら、
その一番大切なひとには、敢えて、一番損な役回りを引き受けて貰う、
そういう判断をすると思うのよ。

つまりは、俺が一番損な役回りを押し付けられている、
この状況は、つまりはそういうことなのか。

で、無事に、葬儀が終わって、
みなさん疲れ切りながらも、
ああ香典返しだ、初七日だ、休む間も寝る暇もない、
なんてそんな時になって、
まさか忘れさっていた筈の旦那が、ひょっこりと間抜けな顔を覗かたりしたら・・、

まるで、迷子の子犬みたいに・・

わたしなら、怒鳴るわよね、
あんた、そんなところでなにやってるのよって。
早くお家に帰りなさいって。

心の支えが必要とか、そんなことは思わないのかな?

思うわけないじゃないの。
心の支えどころか、忙しいのよ、凄く。
無茶苦茶忙しくて、猫の手も借りたいような時に、
そんな迷子の子犬みたいな情けない男のことなんか、
かまってる暇なんてある訳ないじゃないの。

だったら?

でもね、それを承知で、電話もしてこない、
なんて言うのも、なんとなく許せないものがあって。

そういうものかな。

そういうものよ。
全ての不満はその場にいない人に向けられるものなのよ。
あるいはそう、わたしの悪いクセなんだけど、
いつも一番大切な人に、いちばん辛くあたっちゃう、
そういうものなのよ。

だったら・・・

そう、わたしだったら、
そう、あくまで、それが、わたしだったら、
ってこと言うわよ。良く聞いてね。

全てが終わってようやく一段落をしたころに、電話が来るの。
で、お疲れ、大丈夫?とか、言われて、うん、なんとかね、とか言いながら、
で、いまからそっちに行くから、って。

いまからそっちに行く?

そう、あなたが言うのよ。
遅くなってごめんね。ようやく仕事のめどがついた。
されば我いざ行かん愛しきひとのもとへ。
いまから行くから。ひと目だけでも会いたいから。
ご迷惑にならないように、
ご挨拶だけしたらすぐに帰るからって。
で、その時にはね、本気の本気でそう言うこと。
嘘はだめよ、すぐにバレちゃうから、
だからその時には固い決心を込めて、
できるだけ具体的なこと、
飛行機も予約した、犬の世話もこれこれこうして、
だから大丈夫。
大丈夫だから、お願いだから、ひと目だけでも、顔を出させて貰えないかって。

なんだよ、それ。

いい?そう言うのよ。
それは、行ってもいいかな?とか、
行ったほうが良いよね、であっても駄目なのよ。
ボクはボクの意志で君に会いに行く。
例えひと目だけでもご挨拶できるなら、
それはつまりは、君に逢えるなら、ってことなんだけど、
ボクは行くよ、海越え山越え飛行機に乗って。
そして、一目逢えたらすぐに帰るって。
迷惑なのは判ってるけど、こっちは全て抜かりなく手配も済ませた。
ボクの決心は変わらないよって。

で、そう言われて、わたしが言うのよ、
いや、その気持は、あ・り・が・た・い、
だけど、まあ、こっちもこういう状況だから、
その気持ちだけでも、ありがたく、受け取っておくからって。

で、奥さんの顔も立つ。
親戚一同にも、
ああ、うちの旦那ったら、本当に困った人で、
海の向こうから、ひと目だけでもって会いに来るって。
馬鹿ですよね、まったくもう、とかなんとか言えば、
ほおおお、っと。ニューヨークからはるばる、ひと目だけのためにやってくるか、と。

で、奥さんにそう言わせる為には、まずは全ての段取りを整えること。
で、脇を固めて、段取りをつけて、決心を固めて、
うっし、行くぞ、って本気で心の準備が出来上がったところで、
思いっきり気合を入れてから電話をする。
で、え?行っちゃ駄目なの?なんで? とか、
駄々なんかもこねたりしながら、
で、押しては引いて、引いたら押して、とやりながら、
で、はい、一件落着、と。

す、す、凄い。

ただね、奥さん、多分、
そう、失礼な言い方だけど、
あなたが、わざわざこんなことを聞いてくるぐらいだから、
たぶん、わたしに似た人、なんでしょ?
だとしたら、そのぐらいのこと、実はとっくに考えているはずよ。
で、それにあなたが乗ってこないと、馬鹿な男、って思うだけ。
そこであなたが、いきなり勝手に顔を出したりしたら、
それこそ全てがぶち壊し。
疲れるわねぇって。わたしの苦労はなんだったのよって、
思い切りうんざりしちゃうと思う。
そう、そのぐらいのこと、奥さんだって考えてるわよ。
で、それにあなたが上手く乗ってあげながら、
はい、ここでおしまいって引き際で、
気持ちよく、見得を切らせて上げること、
それこそが、男の甲斐性。
どう? やってみる気、ある?

ああ、まあ、そのぐらいのことなら。

だったら質問。
もしも、奥さんが、だったら、来て、って言ったら、どうする?

行くさ、その時には。

偉い!そう、その意気よ。だったらすぐに飛行機の予約して。
ビジネスクラスでもなんでも、でも、ファーストクラスってのはちょっとやり過ぎ。
そう、片道はビジネスクラスなんだけど、ぐらいなところで、覚悟を決めて。

わかった。なんか勇気が出てきた。

吹っ切れたでしょ?

ああ、なんとなく。

なにが一番大切か判った?

まあそう、それいつでも判ってる、つもりなんだけど。

だったら、迷うことないじゃない。

ああ、ありがとう。なんと、凄く助かった、っていうか、ほっとしたよ、正直なところ。

ねえ、と彼女が言った。

ねえ、判ってるとは思うけど、
あなた、実はわたしに、凄く失礼なことを言ってるって、
それ、判ってるわよね?

失礼?

そう、凄く失礼なこと。

つまり、その、うちのかみさんと、君が似てるってこと?

それもそうだけど、うーん、判らないなら、いいわ。
でも・・ 実は、ちょっと傷ついたかも。

傷ついた?

傷ついたってより、ちょっと、がっかりしちゃったかな。
でも良かったわ、あなたの力になれて。
がんばってね。応援してるから。
で、もしも、奥さんがわたしよりもずっとウワテであったりしたら・・
まあ、その時にはその時よ。
言ったわよね、覚悟を決めて、気合いを入れて。
で、そうなった時には、空港からわたしに電話をください。
会社側にはわたしから、なんとかフォローを入れておきますから。

ありがとう、というか、感謝の言葉もない。

高いわよ、このコンサル費用。

なんなりと。

だったら、カリブ海クルーズ。

え?カリブ海?

そう、私達夫婦がカリブ海クルーズに行っている間、
おたくの犬とつがいで、うちのチビ助の面倒、見ててくれる?なんちゃって。





という訳で、やることはきまった。
全てが全て、まさに、これっきゃない、とばかりに、スルスルと糸が紡がれた。

と言う訳で、なには亡くとも取り敢えずは犬の事情である。

もしもの時を考えて、まずはこのかみさんの不在中、
犬の散歩をお願いしている方に電話をいれてみた。

あらまあ、それって渡りに船かも、と意外や意外にはしゃいだ声。

ごめんなさい、喜んでる場合じゃないわよね。
いやね、実はね、このクリスマスの時期に、、
ボストンの大学に行ってる娘が帰ってくるんだけど、
そのときにね、お友達を連れて来たいって言ってて、
で、誰を何人連れてくるかも判らずに。
でもほら、あの子のことだからさ、
それりゃもう、とんでもない大騒ぎになることは目に見えてるのよ。
で、そんな時、母親の私が同席、なんて、なんか間が抜けてるでしょ?
だったらどこかホテルにでも泊まるかな、なんてことまで考えていたの。
だったら、そう、行ってらっしゃいよ。
で、その間に、私、ほら、ブッチくんと一緒に、
あなたの部屋に泊めてもらうからさ。
どう?良いアイデアでしょ?

という訳で、いきなり全ての問題が解決した。
あとは行動あるのみ。

とふと見れば、上司からのメールである。
この度は誠にご愁傷様でございます。
大切な問題なので、会社側では全面的にバックアップをさせて頂けばと考えます。
まずはご休暇の申請をすぐになさってください・・・

ほうほうほう、である。
なんだかあまりにも上手く行き過ぎている。
まさに、なにもかもが佐倉美帆子の筋書き通り。
まるで導かれるように、あるいは、罠にはめられているかのように、
全てのことがするすると、糸を紡いで行く。

そしてついには、旅行会社に電話。
ニューヨークから九州まで、できるだけ早い便で、
それだけで大抵のことは気がつく筈。
はい、では、明後日の便でお取り出来ます。で、お帰りは・・

そこに来て思わず、あの、片道で、と言いそうになって、やばいやばい。
で、帰りは取り敢えずクリスマスの夜。
はい、お席はガラガラでございます、当然のことながら。

で、さっそく送られてきた日程表、
これを、妻のメアドに転送をかけて、とやりながら、
なんとなくもうそれだけで、罰当たりにも行く気まんまんの俺である。

ああ、できることならこのまま、タイなんかにも足を伸ばしてみたいものだ、と思いながらも、
あ、そうか、いまのタイは国中が喪の真っ最中。それこそ葬式巡りになってしまう。

と言うわけで、すべて準備万端を整えた後、
時差は14時間。
この昼夜真っ逆さまの時差がまさに曲者なのだ。
会社を出る際に、いきなりディレクターからその個室に招かれては、
事情はお伺いしました。
まあクリスマス休暇も挟むことだし、
お休みを取っていただくことにはなんの問題もない。
こちらでできることがあればなんでもいたしますから、
なんなりと言ってください、
と大袈裟な程に神妙な顔つきで、背中を抱かれたりもした。

そして怒涛の午後の過ぎ去った6時近く、
こんなまとも時間に会社を出るのは、
まさに入社前の面接の時以来ではないだろうか、
なんて思っていたこの妙に間延びした時間。

という訳で、地下鉄の駅へ向かう途中のフリースペース、
その隅のテーブル。
何度かの深呼吸の後に、そして妻に電話をかけた。

驚いたことに、妻がすぐに電話を取った。

あらまあ、どうしたの?とちょっと寝ぼけた声。

いや起こしちゃった?

うん、さっき、ようやくここに帰ってきて、
で、ついた途端にばたんきゅ~。
布団も敷かずにねちゃったみたい。

大変みたいだね。

そう、もうずっとずっと、働きづくめで。

で、どんな感じ?

どうもこうも、もう、忙しくて忙しくって・・

という訳で、妻である。
それは予想通りというか、
つまりはあのサクラ・ミホコからの助言どおりに、
次から次へと襲いかかるその秒単位のやることリスト、
その超絶な追いかけっこの中で、
ともすれば、罰当たりなほどに、
一種溌剌としたまでのハイパー状態。

もうねえ、とにかく、忙しいのよ、お葬式。
もう、なにからなにまで、もう、分刻みで。
で、昨日ようやく片付いて、で、ようやく家に帰れて、
ああ、これで寝れる~、と思ったら、もうみんなバタンキュウ。
でも、これから、またまた大変なのよ、
市役所の手続きから銀行の口座変更から、
相続人の印鑑証明から、香典返しから、
もうなにからなにまで。忙しくて忙しくて目が回りそう。

で?なに?

なに、って言われても、ほら、俺、一応、親族として、どうしようか、と思って。

ああ、そういうこと?そういうことなんだ。
はいはい、まあ、来たいなら来ても良いけど、
みんな忙し過ぎて誰も相手なんかしてあげられる余裕ないかもよ。

まあ、でも、なにかの訳に立つかもしれないし。

立たない立たない。
あなたの大嫌いな、書類手続き、みたいなのばっかり。
そのうちまた癇癪起こして喧嘩始めるのが関の山。

なんだよそれ。

大丈夫よ、兄貴も弟もいるから男手は足りてるし、
葬儀屋の人も凄く親切で、至れり尽くせりって感じ。
ご近所のひとたちも、親戚の人たちも、みんな手伝ってくれてるしさ。
で、え?なにこれ、飛行機の席、もう取っちゃったの?
ああやれやれ、どうしよう、いまからでもキャンセルできるのかな?
正直なところ、悪いけど、それどころじゃないのよね。

という訳で、この大いなる肩透かし。
改めて、俺のこの悶々と過ごした、その時間はなんであったのか?

ただそんな妻から、
じゃあ、切るよ、忙しいから。また落ち着いたら電話するから、じゃね。
と一方的に切られた電話に呆然としながらも、
思わず、ほーっと長い長い溜息をついた、
そんな俺、であった。





という訳で、その夜、というのは日本時間で、こちらは朝、
ようやく妻から電話が来た。

もうねえ、忙しくて忙しくて、と相変わらず罰当たりなぐらいのハイパーぶりである。

そう、そうなのよ。あの日、雪で出発が遅れてさ。
で、成田に着いてからの国内便の乗り継ぎをミスしちゃって、
で、その後の後の最終便にようやく乗れて、
で、着いたらもう真夜中。
で、そのまま葬儀場に直行してさ。
もうそれからは、まるで戦争みたい。
次から次へとやることがあって、もう、それに追い立てられるばかりで。

電話してたんだぜ。

ごめんねぇ、そう、インターネットのWIFIルーターが間に合わなくて。
なのでずっとメールも見れなくて。
それがようやく届いたのがお葬式が終わった後だったのよ。
で、そう、バタバタしているうちにあっと言う間に時間が経っちゃって。
これからも大変なのよ、
銀行の名義変更から遺産相続、
って言ってもそんなものなんにも無いんだけどさ、
で、その書類手続きから、印鑑から印鑑証明から、なにからなにまで。

そのドラマの一部始終を一挙に語りつくしながら、
もうねえ、あんまり忙して忙しくて、
悲しむ暇なんてぜんぜん無いぐらい。
まあそれが良いという人も、悪いという人もいるみたいなんだけどさ。
まあそう、少なくとも、こうしてバタバタしている方が、
精神衛生上は、ずっと良いわよね。それだけは確か。

と、そんないつになくハイパーな妻の声を聴きながら、
なんだよそれ、と改めて。

俺、会社から休み貰っちゃったんだけどさ、
いまさらどうしよう、この休暇、

などと考えながら、いや、これ、もしかして・・・

ねえ、あのさあ、この間のお約束のコンサル料、
あの、カリブ海クルーズ。
あれさ、もしかして、オタクの旦那に犬とチビ助を押し付けて、
で、俺と一緒に、二人で恋の逃避行、とか・・・

妻の元気な様子を確認した途端、
俄に立ち上ってきた、そんなイケナイ妄想を頭から追い払いながら、

あのね、と妻が一言。

そうやってみんなして、バタバタバタバタやっている時にさ、
ふと見れば、祭壇の上のお父さんがね、
ひとりで凄く安らかな顔して、本当に寝ているみたいにね。
そんな死に顔を見ていると、なんかお父さんが、
そうやってバタバタする私達を、笑いながら見ている、
そんな気がしていたの。

どうだ、羨ましいだろう、俺はもう二度とそんなバタバタしなくて済むんだよって。

ただね、思ったのよ、生きるって、結局そういうことなんだなって。

セコセコせこせこ、忙しく、コマネズミのように走り回りながら、
ああ、忙しい忙しいって悲鳴を上げながら、
そんな様子を死んだ人たちに思い切り笑われながら、
そうやって、あの棺桶に入ってゆっくり眠れるその時まで、
駆けずり回り続けることになるのよね、って。

ただね、そう、いずれは誰もがあそこに入ることになるんだからさ。
その時まで、思い切りバタバタしたてやろうかなって。
そうやって思い切り、お父さんに笑われてやれって。



電話を切った後、そうやってカラカラと笑う妻の声を反芻しながら、
思わず再び、長い長い溜息をついた。

まったくもう・・生きるってのは本当に、まったくもう、な訳である。

ただそう、そんな妻の声が、なによりも愛しかった。
堪らなく妻に会いたいと思った。
あの鈴の鳴るような声で、
まったくもう、忙しくて忙しくて、
そうやってコマネズミのように駆けずり回る妻から、
ねえ、ちょっと、まったくもう、寝てばかりでなんにも手伝ってくれないんだから、
とそんな小言を言われながら、
そのまわりを訳も分からずはしゃぎ回っては走り回る犬に踏んづけられては、
はいはい、判った判った、だったら、犬の散歩に行ってきます、と。

つまりはそう、あの暮らし。
ついこの間までの、あの、なんの変哲もない、
面白くもなんともない、あの、退屈なばかりの、俺達の暮らし、俺達の人生。

そう、ただ、生者を舐めてはいけない。
生者はそうやって生きていくのである。

そんな、なんの変哲もないドタバタ・コメディのような暮らしこそを、
もしかしたら死者たちは、生きる幸せ、と呼ぶのかもしれない。



翌朝、何食わぬ顔で出社しては、
まあ、これこれ、斯く斯く然々。
そんな訳で、休暇は取りやめ、仕事に戻ります、と。

いや、別に、こんなホリデーシーズンだし、
休暇は取って貰ってもまったく構わないのだが、
そんな言葉を押しとどめて、

仕事は、やります。俺の、任された、仕事ですから。
こう見えても、プロフェッショナル、ですから、と。

そして、一瞬のうちに過ぎ去ったクリスマス休暇の開けた翌日、
再び会議の席で、佐倉美帆子と顔を合わせた。

どもども、先日は、本当に。

はい、頂いたメール拝見しました。上手く行ったようで、良かったですね。

まさにドンピシャっていうか、大当たり、だった。
まじで、すごく、お世話になっちゃって。

とそんな俺を前に、どういう訳か、仮面のような笑い浮かべたままのサクラ・ミホコ。

でさ、あの、お礼と言ったらなんだけど、
改めて、お食事にでも、と誘った途端、
まさに、それを待ち構えていたかのように、ごめんなさい、の一言。

今日は先約があって。
そのあまりにも決然と口調に、彼女の言った失礼、その意味を初めて思い知った。

だったらさ、あの、カリブ海にでも、となおも軽口を重ねようとした途端、

奥さん、お元気でしたか?

ああ、なんか、そう、聞いたとおり、
なんかもう、忙しくて忙しくてって、ハイパー状態でさ。
罰当たりなもんだよね。

佐倉美帆子は、そう、と一言。

早く、お帰りになられると良いですね、と謎めいた微笑みをひとつ。

いや、その前に、と言おうとした、その時には、
佐倉美穂子は、すでにその切れ上がった背中を見せては、
カツカツとこれ見よがしにヒールの音を響かせながら、
廊下の角へと消えていった、のである。

思わず、くそったれ、と一言。

佐倉美帆子、改めて、いい女だな、とは思いながらも、
先の会話における、あの慇懃無礼な敬語での応答。
つまりはそういうことなのだ。
つまりはそれが、あの断末魔の非常事態の中で、
妻の信頼を取り戻す、その為の、代償、という奴、だったのだろう。

くそ、サクラ・ミホコ、まったく、いい女、だった、よな。

逃した魚はあまりにも大きい。
そして、その代償として得たものと言えば・・

という訳で、相も変わらず
このドサクサにどさくさを重ねるようなシングル・ダディ暮らし。

朝も暗いうちから犬の散歩。
いやだ、まだまだ帰りたくない、とむずがる犬を、
なだめてすかしておやつで釣って、
ようやく走り込んだ家で、足を洗って身体を拭いて飯を与えて、
そんなこんなでしまったまた遅刻だ。
取るものも取り敢えず、地下鉄の駅に向かう途中で髭を剃りながら、
オフィスについてようやく一息ついたその途端に、
げげげげ、朝一の会議、忘れていた・・

おい、と思わず、海の向こうの妻を目掛けては、
おい、いつになったら帰ってくるんだよ。
頼むよ、お願いだから、まじ、俺、限界かも・・



くそったれ、笑いたければ笑え。
ただ、そう、生者を舐めるなよ。

このドタバタ喜劇の中にこそ、生者が生者たる、その全てがあるのだ。
生者はそうやって、生きていく、のである。
棺桶に入る、その時まで。

それをもしかしたら、空の上の死者たちは、幸せ、と言ったりもするのかもしれない。

「葬式ルンバ」 ~ 2016・12・28


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

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