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幽玄の美・幽艶の極 「NINAGAWAマクベス」に無常の光を観た

Posted by 高見鈴虫 on 25.2018 読書・映画ねた   0 comments

いきなりだがまた例の奴で、
突如突然に呼ばれて飛び出てての寝耳に水。
NINAGAWAマクベス、なるものを観ることとあいなった。







というわけでマクベスである。

言わずと知れたマクベス。
つまりはシェークスピアの四代悲劇の、
つまりは古典である。

しかし俺にとってのマクベスとは、
シェークスピアの、というよりは、
ロマン・ポランスキーの、
という意味合いがとてもとても強い。

俺はどうしたことかこのロマン・ポランスキーのマクベスが、
一体全体どういう理由でか、なぜか病的なまでに好きで好きで、
これまで一体何度観たことか。 

このポランスキーのマクベスがきっかけとなっては、
似合わぬとは知りながらも古典としてのシェークスピア、
なんてものにも触手を伸ばしたりもしたのだが、
当然のことながら最後までは読まず終い。

だって、英語であっても日本語であっても、
それってやっぱり16世紀、
つまりは、すべてがすべてこってこての古典であり古語である訳で、
当然のことながらそういう古典を古典として楽しむには、
まだまだ相当に修行が足りねえなあ、とは思ってはいたのだが、
まあ良いじゃねえか、そう、俺的にはマクベスは、
このポランスキーバーションで十分、と、
勝手に即断申し上げていた訳であるのだが・・






ちなみにこのロマン・ポランスキーのマクベス、
なにからなにまでが妙に生臭い。
スコットランドというところがどんな所であるのかは知らないが、
どのシーンもすべて、どんよりと曇った薄ら寒い空に、
そしてじっとりと重く濡れている。
で、そんなどんよりじっとりと濡れそぼった舞台の中で、
そこで合いまみれる登場人物たち、
これがもう、徹底的というぐらいまで生臭く、
泥まみれの汗まみれのヨダレまみれ、
そしてなにより、血みどろ、
つまりはなにもかもが体液的に超絶にシュールなリアリズム、なのである。

で、ロマン・ポランスキーと言えば、
かのカルト王チャールズ・ミルズ・マンソン氏に、
細君とその妊娠中であった胎児を虐殺された、
かのシャロン・テート事件、
その最大の被害者でもある訳なのだが、

カルト集団に妻子をめった刺しの惨殺の憂き目にあった、
この傷心のロマン・ポランスキー氏が、
その事件の直後に発表した作品というのが、
なにを隠そうこの「マクベス」。

ちなみにその前作は、「ローズマリーの赤ちゃん」
であったりするところがなんともかんとも因縁めいたものを感じざるを得ず、
このロマン・ポランスキーという監督、
その作品の全てに、妙なほどに、不吉な空気、
ともすれば、悪魔的な視点のようなものがそこはかとなくも濃厚に漂っていて、
その後、かのロリータ強姦事件なんてところから、
すべての名声をちゃぶ台返されては、
ついに映画界から永久追放の憂き目をみることにもなっているのだが、
その末路を前にしても、いやあ、さすがポランスキー、
などと、妙な感嘆を上げてしまう、
つまりはそう、ポランスキーとはそういう人、なのでありなむ。

という訳で、そんな鬼才ポランスキー監督の描いたシェークスピア的な世界。
ただ、そこに見えるのは、古典、という一種安全圏からの、
教科書的復古主義的権威主義、なんていうのは微塵もなく、
全編に渡ってこれ、殺戮、強殺、強姦、惨殺、
汗まみれヨダレまみれ、そして血みどろどろどろなまでの、
まさに中世地獄絵巻。

という訳で、俺にとってのマクベスとは、
つまりはこの、ポランスキーの悪魔的なまでに不吉な映像、
この限りなく究極的なまでに暴力的な地獄絵巻、
その印象があまりにも強かったのであるが・・






という訳で今回、NINAGAWA マクベス、と銘打ったこの出し物。
その舞台は打って変わって戦国時代の日本。

舞台全体がひとつの巨大な仏壇と化したこの舞台セット、
でその障子ごしの曇りガラスの向こうには、
魔女ならぬ、極彩色の十重二十重を身に纏った、
歌舞伎者の三人の魔女の舞い踊るその姿。
そのあまりの美しさに、おお、これはこれは、といきなり度肝を抜かれながら、

おお、これぞ、幽玄の美! 幽艶の極!






あらためてこの日本の美の究極であるところのこの幽玄。

あの世とこの世のその境目を行ったり来たり、
死者と生者が渾然一体、とのことなのだろうが、
つまりはそう、
かのポランスキーがスコットランドを舞台として描いた、
あの究極的なまでに生々しい暴力、
その汗まみれヨダレまみれ血まみれのそのドロドロのリアリズムが、
ここ日本という舞台にあっては、
本来であればスコットランド顔まけに、
血飛沫の飛び散る修羅しゅしゅしゅであるはずの
この血生臭い地獄絵図が、
幽玄という概念の中にすっとその血糊を拭われては、
ついには、美、なんてものに集約され、形式化されてしまう、
その言うなれば、ニヒリズムの極地、というべき日本の美、その本質。

でそう、このNINAGAWAのマクベス、
なによりその舞台設定における、桜:さくら、の見事さ、なのである。

言うまでもなく、この桜:さくら、
日本の美、その具現化、というまでに、
この桜こそは、幽玄の美のその象徴。

という訳で、俺的にはこの桜:さくら、と来れば、
なにはなくとも、神風特攻隊、じゃなかった、
そう、梶井基次郎、な訳である。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。
なぜって桜の花が、
あんなにも見事に咲くなんて、
信じられないことじゃないか。
俺はあの美しさが信じられないので、
この二三日不安だった。
しかしいま、やっとわかるときが来た。
桜の樹の下には屍体が埋まっている。
これは信じていいことだ。

でそう、この桜というものにある一種霊的なまでの美しさ、
それこそが、日本の幽玄の美の真髄ともなる訳なのだろうが、
という訳で、この、NINAGAWA版マクベス、
まさに、狂い咲き、という程にまで、
この、桜さくらサクラの姿が、見事すぎる、美しすぎる。

でそう、予てから、
春が来る度にセントラルパークに詣ては、
この桜の木の下で、半ば呆然として、
つかの間の幽玄の美の境地を揺蕩っていたのではあるが、

だがしかし、ここニューヨークという場所において、
果たして、桜、あるいは、幽玄の美、
あるいはそう、
桜の木の下には屍体が埋まっている、
その美と死、の連動する逆説的なまでの無常観を、
いったいどうやってこのアメリカ人たちに、
理解してもらうことができるのか、
そう思えば思うほどに、一種、愕然とするまでに途方に暮れていた、
のではるのだが・・
→ 紐育の桜の木の下には


という訳で、このNINAGAWA マクベス、

この究極的日本の美、
その極限でもある筈の桜、その幽玄の美、
これでもか、というぐらいにまで、
最早それは無理強いというぐらいにまで、
この日本の美、
手加減の一切ないままに
これでもかとぶちかました訳なのだが・・

で、はい、
そんな情け容赦ないほどの
日本美の極限的世界を前に、
ここニューヨークにおける観客たち、
二階席、どころか、四階席まで、ぎっちぎちの超満員。
チケット完売・満員御礼、どころか、
それに加えて舞台ギリギリの超最前にまで特別席が設けられ、
で、よりによって、俺の座ったその席、というのが、
まさにこの、前から二列目の、この超最前列、
つまりは、舞台の真ん前の真ん前。

そしてこのこのNINAGAWA マクベス、
この聞きしに勝る曲者揃いのニューヨークの観客を前に、
四階席までギッチギチの超満員が、
まさに、総立ちのスタンディング・オベーション!!
嵐のように鳴り響く拍手喝采、手放しの大喝采の中で、

いやあ、凄い、凄い、やったな日本人、
と、思わず涙うるうる、でもあった訳なのだが、

だがしかし、そんな鳴り止まぬ大歓声の中にあって、
実はこの俺、実は実は、確かに一緒になって立ち上がっては、
拍手拍手、とやってはいたのではあるが、
正直、え?なんで? とは、思ってもいた、訳だ。

で、以下、蛇足ながら、
今回のこの、寝耳に水であったNINAGAWAマクベス、

その正直な感想とやらを、吐き溜め的に羅列してみたい。





実はこのNINAGAWAマクベス、
いきなりでなんなのだが、
セリフが、さっぱり、聞き取れなかった、のである。

言うまでもなく、このNINAGAWAマクベス、
日本人の日本人による日本人の為に作られたマクベス、
であるからには、そのセリフは当然のことながら、日本語、である。

でありながら、その日本語のセリフが、聞き取れない、のでありなむ。

これは実は、正直、ショックであった。

なんだよ、俺、日本語のセリフ、ぜんぜん聞き取れない・・

つまりはその良く言われるところの座席の場所によるサウンド・スポット、
つまりは、その場所によって、その音響、音の通りはかなり違う、
それは熟知しているつもりなのではあるが、
だからこそ、舞台の最前列、であった訳なのだが、
それでもなお、日本語が、良く、聞き取れない・・

で、その衝撃、その理由こそは、言わずとしれたベビーメタル。

そう、予てからバンドマン時代に患ったこの難聴。
つまりは、物心ついた時からあの爆音の中で暮らし続けた結果、
いまとなってはすっかりしっかり、24時間いついかなるときでも、
耳の奥から、キーン、と音の鳴り続ける、まさに耳鳴り乙。
それに加えて近年のベビーメタル熱。
ともすれば、ワイアレスイヤフォン、なんてものをゲットしてしまった果てに、
まさに四六時中、極限的限界領域的な大爆音で、
昼夜を問わずのベビーメタル漬け。
その恩恵か果ては報いか、最近になっては、
人の話から、テレビの音からなにからが、
まったくもって、全然聞こえなくなっている、ことには重々気がついては居たのだが、

そしてなによりこの、NINAGAWAマクベス、
超最前列の前から二番目、なんていう席であったにしても、
そのセリフが、な、な、なんだ、いま、なんて言った?とうぐらいまで、
まったく、聞き取れない、のである。

ああ、やばい、俺の難聴、ついにここまで来てしまったか、とは思いながらも、
恥を偲んで、両耳の後ろに、コダマでしょうか、の手を添えては、
コアラ君のポーズでその舞台に耳を凝らしながらも、
いやはや、そのセリフの早いの早いの。

ちょ、ちょちょ、っとまって、いまのところ、巻き戻し!

と叫びそうになっては、仕方なしに、外人用の英語字幕、
なんてものさえもお世話になるというこの体たらく。

おいおい、俺の難聴、そして、この、日本語ヒアリング能力、
まじめのまじめに、もう、壊滅的なものがあるのだろうか、
なんてことを、思いながら、
ふと隣りのかみさんを見やれば、
そんな俺を見て、苦笑いに肩をすくめて舌まで出して。

つまりは?そう、かみさんにも聞こえていない、と。

セリフがよく聞こえないな。
うん、すっごく早口だよね。
なんかまるで、シン・ゴジラ的な台詞回しのシェークスピア。
だってさ、と、かみさん。
このセリフ、原本のまま、つまりはシェークスピアの原作の戯曲、
その直訳版、そのまま、なんだから。

げげげ、である。
なんで?つまりはこの時代劇的戦国絵巻が、
しかし、そのセリフが全て、原作のシェークスピアの、まったくそのまま?と。

そう、つまりはそういう趣向であるらしいのである。
舞台は日本の戦国時代、でありながら、
そのセリフの、ほとんど全てが、シェークスピアの原作、
つまりは、16世紀のスコットランドを舞台にした、
その、古語的な戯曲英語、その直訳の日本語版の、
そのまったくの焼き直し、と。

えええ、なんで?と思わず。
だってさあ、と。
だって、その日本語訳ってのからして、英語からの翻訳、な訳でしょ?
で、その観客っていうのが、まさに日本語なんてまるで判らない、
つまりは米人、つまりは、英語圏の方々。
その英語圏の方々を前に、何故にここまえ、実直に率直に、
その直訳的な日本語翻訳のセリフを周到せねばならぬのか、と。

で、俺的には、嘗て見た、あの、歌舞伎、
平成中村座的なまでに、究極的にデフォルメしながら、
その極限まで研ぎ澄ました言葉の真髄、その言霊を、
これでもか、とぶちかます、それこそが、日本的舞台の究極系。
→ 平成中村座・NY公演

なぜ蜷川氏は、この戦国版マクベスを、
一挙に、斬新に、歌舞伎的な表現手段に刷新してしまわなかったのか。

つまりは、原作に忠実なれ、のそのプロ根性。
その見上げたまでの、原作原理主義。

で、ふと思ってみた。

つまり、演劇にとって、戯曲のその台詞:台本とは、
音楽家における、楽譜、と似たようなもの、であるのか、と。

つまりは、音楽家にとっての楽譜はまさに、契約書。
そして、演劇家にとっての台本がまさに、それ。

ただ、その紙に綴られた契約書、その文面をどう読み解くか、
それをどう理解し、どう解釈し、どう表現するか、こそが、
アーティストの真髄、その土壇場、な訳で。

つまりは今回のこのNINAGAWA版マクベス、
そのあまりにも、まったくさっぱり聞き取れない台詞、
そこにはしかし、なにかとても大切な鍵が隠されている、
その筈でありなむ、と。

で改めて、今回のこのNINAGAWA版マクベスにおける、
この、原理主義的なまでの原作至上主義。

で、改めて、もしもこれ、ここまで原作に執着するのであれば、
寧ろこの台詞、日本語訳、なんかではなく、
ぶっちゃけそのまま、英語の原作でやってしまえば良かったものの、
とは思いながらも、

いや待てよ、と思わず。
そう、そうなんだよ。その原作たるシェークスピア。
俺もなんだかんだで、その原作の原文に目を通す、
なんてことも多々あった訳なのだが、
その文章、ぶっちゃけ、16世紀、つまりは古語になる訳で、
その古語的なまでのシェークスピア英語、
それをそのままやられても、さっぱりまったく、なにを言ってるか訳が判らない、
その筈、なんだよね。

ええ、ってことはなにか?

つまりこの、シェークスピア演劇ってのは、
その台詞が聞き取れない、理解できない、
それを前提として出来上がっている、
つまりは、セリフが何言ってるかさっぱり判らない、
ということこそが、シェークスピア劇のデフォルトなのでありなむ、
なんていう穿った考えもできる訳で。

それと同時に、
ここにいる観客の方々、つまりは、筋金入りの演劇人の方々。
つまりこの方々にとっては、
このマクベスの筋書き、そのストーリーは当然のことながら、
その台詞の一切も、すでに、丸々と暗記済み。

観客のほとんどが、ストーリーも展開も、
そして、台詞さえも全て丸暗記していることを大前提として、
敢えて、その予定調和的なまでの古典大作を再演する、
というところにあるのは、
つまりは、その演出力、そして、演技力、
そこにすべての視点を集中して初めて、なのではないのか、と。

そう、俺にしたって、マクベスのストーリーぐらいは、
あの、ポランスキーのマクベスですべて承知の助。
で、シェークスピアの原作戯曲にしたって、
その全てではないにしても、
そのそこかしこに埋め込まれた珠玉の名文・名台詞、
それぐらいなら、はい、ここで、とキュー出しできるぐらに、
知り尽くしている、その筈。

つまりはそうか、そういうことか。
これ、徹底的な予習がなされて初めての、
それを前提とした大活劇、である訳なんだろ、と。

という訳で、敢えてセリフが聞き取れないままに、
或いは聞き取れないことを前提にして、

演出と演技とそしてそこにある美を、極限までお楽しみ頂く、と。


という訳で、はい、周りの外人さん。
ステージ真上の電光掲示板に並ぶ字幕、
なんてものを、実は誰も見ていない。
つまりはそう、この方たち、台詞の意味、なんてものには、
はなからまったく注意を払っていない。
ただその視線、その神経が、脳波が、
まさに、いまにもビリビリと感電するかのように、
舞台の上の役者さんたちに一心に注がれている訳で。

そうか、つまりはそういうことか。
つまりは俺、あまりの安受け合いのぽっと出のド素人、
つまりはこの世紀の大作であるNINAGAWAマクベス、
その趣向を十分に理解するには、あまりにも予習が足りな過ぎた、と。

とそんなことを思いながらも、
確かにこのNINAGAWAマクベス、
そんなことを知らないながらも、凄い、確かに、凄い。

ただ、と、またまた、妙な薀蓄が始まるのだが、
確かにこれ、この戦国版のマクベス、

まさに、演劇というよりは、オペラ、
オペラ、というよりは、歌舞伎、
だがしかし、歌舞伎というにはあまりにも機関銃的な台詞まわし、
とそんな中で、
改めてこの、マクベスの解釈、となる訳なのだが、
俺的には、どうせやるなら、もっともっと幽玄の美、
つまりは、強いていってしまえば、
もう思い切りなまでに、怪談綺談にしたててしまっても良かったのではないか、と。

だってさ、とこのマクベス、
ストーリーからして魔女の予言に騙されては、
業火に焼かれる善悪の彼岸、
ぶっちゃけこれ、日本流で言えば、
しっかり怪談話、となる訳で。

で、果たして、この蜷川氏、
そもそも何故にこのマクベスを、
こんな幽玄の美に描こうと思ったのか、
あるいは、幽玄の美とするならば、
もっともっとおどろおどろしい怪談仕立てにしたほうが、
より日本的でもあったのではないのか、
と思いながら、

ふと、このマクベス、
その初演が、1980年、とある。
1980年・・?
ふと、え?もしかして、と思い当たった。
それってもしかして、この蜷川氏、
その映画監督作品であった、
「魔性の夏~四谷怪談より」 
その制作と前後していた、
ちょうどその頃、ではなかったのか?





言わずと知れたこの、「魔性の夏~四谷怪談より」 
監督:蜷川幸雄
主演が、萩原健一と、関根恵子、
恐怖怪談物、というよりは、人間の業、そのあさましさから悲しさから、
その儚さから、そしてその美しさから、滑稽さまで、
まさに、人間ドラマの悲喜劇を凝縮させたような、
怪談というよりは、青春ドラマ仕立ての人間模様、
日本映画史の隠れた大名作であったその筈。

釣りは好きだが、魚の鱗が駄目だ。おい、餌つけてくれ。
はいはい、困った人ですねえ。

そう、この映画によって、蜷川幸雄 という存在を思い知った。
この人、この監督、まさに、タダモノではあらない!

愛情か欲望か、名誉か実益か、友情か出世か、
愛惜と業欲と、その普遍的な鬩ぎ合いの中でうつろう善悪の彼岸。

つまりはそう、
この四谷怪談と、マクベス、
ただのそのテーマとしては、まさに似たり寄ったり。

つまりはこの時期、奇しくも蜷川氏は、
その映画、そして、演劇という二つの異なる表現手段において、
四谷怪談とマクベスという東西の異なる古典作品に題材を得ながら、
しかしそこに目指したものは、
まったく同じテーマであったということか。

そしてこの「魔性の夏~四谷怪談」と、
そしてこの「NINAGAWAマクベス」
その二つが、じつは表裏一体、であったり、
あるいはそこにひとつの真理を見出そうとしていたに違いない、と。

はははは、そうであったのか、と。
であらば、なんとなく、ではあるが、妙に合点がいく、
そんな気もしないでもない。

という訳で、この鬼才:蜷川が、
マクベス、そして、四谷怪談 という古典大作を題材にして
描き切ろうとしたその真理とは・・

Life's but a walking shadow, a poor player.

消えろ、消えろ、つかの間のともしび!
人生は歩きまわる影に過ぎず、ただのあわれな役者乙。
舞台で大げさに騒いでも 劇が終われば儚くも消えてなくなってしまう。
この世のすべては、阿呆どものかたるお話に過ぎない・・

むむむ、これ、まさに、方丈記、

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

つまりはまあ、諸行無常の理、
日本美の真理は、無常観、と見たり、
と、そういうことなのね、と。

そっか、マクベスも、そして、四谷怪談も、
あるいは、平家物語も、方丈記も、
つまりは、ツワモノどもが夢のあと。

という訳で、

NINAGAWAマクベス、

巨大な仏壇の中で繰り広げられるその壮大なまでの徒労的悲劇、
その全てを、幕間の狭間のその両脇で、
意味もなくちょこんと座っては、
弁当を食べたり、バナナを食べたり、編み物したり、
あの、妙に意味深なふたりの老婆の姿。

つまりはそう、世の中がどうなろうが知ったことか、
あたしはここに座って、間の抜けた傍観者を続けるまで、
その普遍的なまでの頑強な眼差し。
これぞ、スワヤンブナート、という訳で、
なんだよこれ、東洋思想のすべてじゃねえか。



という訳で、やにわに黄昏れた無常観の中を揺蕩いながら、
深夜になってさまよいでた霧の公園で犬の散歩。

いまだNINAGAWA的幽玄美の世界を彷徨いながら、
ふと見上げた深夜の公園の、
鬱蒼と茂る木々の枝が青葉が、
ざざざざざ・・・
夜の風に煽られては波打っている。

呼んでいる。死者達が呼んでいるのだ・・

その幽玄的世界に包まれながら、
思わず、蜷川マクベス、
本当に凄かったなあ、と、
新たに押し寄せて来た感動に、
打ち震えていたのであった。

人生はステージ、生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよ、
ってことなんだよね、などと呟いた俺に、

なんだよ、いまさら、そんなこと、わかりきったことじゃねえか、と犬。

そう、この犬、という奴。
その、あまりにも研ぎ澄まされたシニカルな視点。

食って寝て遊んで、そしてまた食って寝る、それ以外になにがある?

なんだよお前、せっかく生まれて来たのに、たったそれだけなのか?

そういう俺に、馬鹿かお前は、と犬。

馬鹿か。そこには決して忘れてはならない大切なもの。

つまりは?

つまりは愛だろ?

俺と、お前の、そして、かあちゃんを結んでいるもの。

つまりは、互いが互いに、愛しくてたまらない、

それ以外に、この世で大切なものなんてなにがある?

そこに妙な理屈を、そこに妙な枝葉をつけようと欲を出したところに、
迷いが生まれる、間違いが始まる。

お前は俺を愛しているか?思い切り思い切り愛しているか?
もしも俺が、今日死んでしまったとしても、
悔いが残らないぐらいに、俺を愛して、愛しきっているか?
そこがブレたときに、悲劇が始まるんじゃないのかな?

ま、そう、つまりはそいうことか、と。

そんな犬と見つめ合いながら、

お前、幸せか?と。

当たり前だろ、と犬。
不幸ならばさっさと死んじまっているさ。
そう、命なんて、その程度のもの。
その以上でも以下でもないんだからさ。

まさに、犬死に、という奴だな。

犬死に以上に高尚な死ってのが、
いったいどんなものだか見てみたいものだぜ。

人生は短い。命は儚い。
それだからこそ、愛が、慈しみが、真心が、思いやりが、
必要なんじゃないのか?

どうだ?お前は人生を、無駄な枝葉のためだけに、
浪費してはいないか?
本当に必要なものを、見失ってはいないのか?

という訳で、マクベスであった。

愛を見失った人生はすべてが徒労だ。

愛なき世界に人を迷い込ませるもの、
魔女とは、悪魔とは、つまりはそういう存在なのだ。

という訳で、俺?はは、俺は大丈夫。
なんてたって、野心なんてこれっぽっちもないしさ。

そう、俺にはこの犬、この愛に満ち溢れた打算の塊り、
こいつが居てくれるだけで十分。

とそんなことを思いながら、
ああ、NINAGAWAマクベス、もう一度見直してみたい、
その前に、ポランスキーのマクベス、
そして、魔性の夏。
或いは当然のこととして、
シェークスピアの原本も、それなりに目を通しておかねばな。

ああ、人生は短い。影法師、なんてものでさえない、
という訳で、すっかりしっかり、あの幕間の老婆と、
同化を始めている俺様なのであつた。

おしまい


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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