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徒然なるままに「才能」とはいったいなんなのかについて

Posted by 高見鈴虫 on 02.2018 音楽ねた   0 comments
「本物だから到れる音楽の聖域」

前回綴った矢野顕子+セイホー、
その勝手な思い入れに反して、
やっぱりすっかりスルーされてしまった感がある。
と言うわけで先ずは懲りずに性懲りも無くも、
蛇足的に付け足し的にダメ押し的に、
いやあ、だから、すごかったんだよ、矢野顕子とセイホー。

ジャズとテクノ、和と洋、アナログとデジタル、
その水と油のカップリングの中で、
唯一共通している点があるとするならば、
その超絶的なまでの映像的な旋律。
無意識下の中に封印されていた筈の原風景、
その扉を開け放っては凍った記憶の溶解を促す、
言ってみればこれ、ディフロスト、
夢の中を揺蕩うようなセイホーのデジタル音源の中に、
突然にして炸裂するアナログ・ジャズのテンションコード。
それはまさに、音色の衝突、旋律の戦慄、
音量の大小に関わらず、そこには確実に、
音と音の衝突と融合、その壮大なドラマがあった訳で、
その電磁波の津波の中で思わず電子レンジに頭を突っ込んでは、
脳みそをまるごと解凍モード。
途端に思考が記憶が、妄想が幻想が暴走しては、
思わず五感+@へのアルタード・ステイツ的異次元空間、
その新たなるインナートリップへの緒が、
垣間見えたような、そんな気がしたものであったのだが。

という訳で、
矢野顕子+セイホー、その宇宙的なまでの、
と同時に極々地球的マザーネイチャー的な土着感をも漂わせながら、
その旋律によって導かれる原風景的な映像。
午後の紅茶の香りを引き金に、
突如として忘れ去っていた筈の初恋の記憶がまざまざと蘇るスワンの恋。
そんな私小説的問わず語りの止めども流れる記憶の洪水。
幼少の頃に観ていた映像がモンタージュ的にコラージュ。
ヌーヴェルヴァーグとアメリカン・ニューシネマとマカロニ・ウェスタンと日活ロマンポルノとATG、
そのビビッドな映像シーンのコマ切れ。
そこに旅の中で垣間見た一瞬の奇跡、その詩的光景の記憶と混ざりあい、
そしてそれがあろうことか、
眼前に広がるニューヨークの町並み、
つまりは現実世界と溶解・混同を初めてしまっては、
眼の前の現実風景がすでに思い出のアルバムの中にあるかのような、
或いは遠い過去の記憶が未来と紐付いてしまったかのような、
そんな異次元世界のデジャヴ的現実の中に彷徨い込んでいた訳であったのだが。

という訳で、改めてこのセイホー氏の創造する無意識解凍電磁波サウンド。
敢えてYOUTUBEの映像を追うのはやめ、
作業中、読書中、あるいは睡眠導入の中で、
その音源だけに浸りきりながら、
果たしてその脳裏にいったいどんな映像が蘇ってくるのか、
そのインナートリップをお愉しみ頂きたい。









という訳で、そして改めて、矢野顕子、という人である。
そのお茶目でポップな曲調から、
あるいはあの大屋政子的なまでに朗らかなお見かけとは相対して、
その内面的には実は非常に非常に厳しいお方なのでは、とお見受けした。

なぜかと言えば、
その確たる証拠となる、なによりもあの超絶的なまでの演奏技術なのである。

賭けても良い。
あのピアノ、そしてあの声、
あれを一言で天性の才であるやら、持って生まれた才能やら、
幼少からの英才教育の基礎力の、やら、
そんな簡単なもので済まされることでは絶対にあらない。

そんな才能はまあ当然のことながら、
あのあまりにも卓越した演奏技術、
あれはまさに、日々凄まじいまでの鍛錬の賜物、
それがあって初めてのこと。

幼少の頃からの壮絶なまでの英才教育、その旧態的な地獄の特訓。
ミスタッチのたびに物差しで手を叩かれては、
腿を抓られ、足を蹴られ後頭を小突かれ、
挙げ句の果てに鍵盤の間にカミソリの刃を仕込まれて、
その壮絶なまでのDV的特訓に鍛え上げられた矢野顕子の演奏技術。

だがしかし、世に体罰教育の是非はあれど、
少なくとも体罰教育を受けて能力を習得した昭和世代の者たちにとっては、
悲しいことに必ずやその体罰教育的な手法を周到してしまう悪癖を、
宿命的なまでに刻み込まれている。

つまりは矢野顕子自身も、
あの朗らかな外見は世を忍ぶ仮の姿。
あるいは、
そこに一体どれだけの才能の煌めきがあったにしても、
そこにあの気の遠くなるような膨大な時間を費やす反復練習、
それに鍛え上げられていないテクニックを、
どうしても認めることができない、
そんな性癖を隠し持っている筈なのである。

そう、矢野顕子は厳しい人であろう。

渡された譜面を一字一句、一音符足りとも見過ごさないその基礎演奏能力から始まり、
その演奏に無限の表現を与える演奏技術、つまりは身体的なものをも含む技巧性、
そしてその旋律への理解力、読解力、それをどう表現するか、その手法的なものも合わせて、
矢野顕子という人はこと音楽に関しては絶対に妥協を許さない、許すことができない、
そんな一種病的なまでの性癖を抱え込んでしまっている人なのであろう。

そう、つまりは、矢野顕子こそは、本物の音楽家、なのである。
ハービー・ハンコックが、キース・ジャレットが、
チック・コリアが、ブラッド・メルドーが
パコ・デ・ルシアが、ジョアン・ジルベルトが、
ジミ・ヘンドリックスがキース・リチャーズが、
ジャニス・ジョプリンがアクセル・ローズが体現した、
その本物の音楽、その紛れもない真髄。
楽器を問わず、ジャンルを問わず、
本物だからこそ到達できるその聖域。

その音楽の聖域に達した日本人の卓越した才能、
矢野顕子が、上原ひろみが、坂本龍一が、
そしていま、新たなる期待の新星として、
我らがベビーメタル、中元すず香、という世紀の逸材が、
歴史的音楽家たちの天空その聖域に、
また新たな名を刻もうとしている。

果たして、本物だからこそ到達できるその聖域とはなんなのか。

ただ、天才が99%の努力を厭わない者たちであるとすれば、
それは敢えて意図的に目指すものではなく、
演り続けているうちに知らない間に足を踏み入れていた、
多分そんなものでもある筈なのだろう。








「才能とは大いなる欠落 ~ 絶対音感保持者がカラオケに行かない理由」

先日の矢野顕子+セイホーのコンサートを観てから、
ちょっと気になっていたことがあった。

それは長い間なんとなく感じ続けていたことではあったのだが、
一言では言ってしまえば、ぶっちゃけ、才能、ということである。

では果たして、才能とはなんぞや。

例えば、先に上げた、共感覚。

音を聴くと色が見える、あるいは、文字から色が浮かぶ、
そんな類まれな特殊能力であるのだろうが、
だがしかし、そんな特殊能力、
世に言う天才がともすると通常の日常生活において、
ちょっと話のネタにさえなるようなポンコツさを抱えていることが多いように、
そんなある部分の突出した能力は、
同時に大いなる欠落をも併せ持っている、その筈である。

例えば絶対音感。
嘗てのバンド仲間の中にも幼少期にこの絶対音感の能力を植え付けられた人々が多くいて、
で、そんな絶対音感乙、
まあ確かに便利ではあるのだが、
いやあ、クラッシックだったらいざしらず、ことロック、という、ジャズというか、
コンテンポラリーなジャンルにおいては、この絶対音感という特殊能力、
実は無用の長物。
百害あって一利なし、ということが無きにしもあらず。

つまりはそう、音楽はひとりでやるものではない。
つまりは、合奏、というよりは、共同的な創造作業である。

そんな中で、特異な能力を持つということは確かに利点ではあるのだろうが、
心を奮わせるエクサイティングなシャウトが、
我を忘れてかき鳴らす偶成和音の轟音が、
チョーキングがボトルネック奏法が、あるいはドラムのタムのチューニングが、
ともすれば、それがいちいちすぐに周波数値に還元されては、
どうでも良いけどなんかこいつらちょっとずれてるぜ、と。

下手をすれば、コンサート会場のサウンドスポット、
その場所によっては、低音が篭り、高音が突き抜け過ぎ、
そのスポットごとの周波数の乱れがどうしても気になってしかたがない。

まあそう、そうじゃないやつもいるのだろうが、
俺も極力気にしないように、とは思ってもいるのだが、
と苦笑いをしながらも、
ただそう、ただ、こと音階を操る演奏者にとっては、
そんな特殊能力の人、絶対音感の保持者に、
どことなく、妙な引け目が感じられてしまったりしななかったり。

という訳で、いまさら言うでもなく、
そんな絶対音感保持者、
或いは、少なくとも音楽というものに深く関わってきた自負のある者にとって、
この世で最凶最悪の拷問、
実はそれ、なんとあの、カラオケ、であったりもするのである。

それはすでにひとつの文化であるところのこのカラオケという奴。
あの素人の素人による素人のための極個人的音楽的カタルシス。
そのあまりにも主観的な歌い節のそのひとつひとつに、
愛想笑い的な拍手を送っていられるのも最初の五秒が良いところ。
そののち次から次へと繰り出されるそのはしゃいだ歌声、
そのひとつひとつともすれば目眩さえも伴って、
気持ちが悪くなる、どころか、本気で頭さえ痛くなって、
ついには糠味噌、どころか、脳みそがまじめに腐り始めるような、
それはまさに、殺人超音波以外のなにものでもない。

でさ、カラオケ、なにが耐えられないかと言って、
実はそれはまさにく自身の歌。

この歌、俺の歌っている歌、まじで耐えられない。
そう、自分自身の唄う歌、そのものに、思わず吐き気を催してしまう、
そんなしょうもない無間地獄に陥ってしまうのである。

という訳で、才能や特殊技能は、
それはそれで使いようによっては有益なものであるのだろうが、
だがしかし、その特殊能力のその代償として、
常人では思いもよらないちょっとしたところで、
地獄の責め苦、あるいは、自身のなにげない欠落をイヤというほど思い知らされる、
そんな日々を送っていたりするのである。
才能という特殊能力を持っているからと言って、
それが果たしてそれほどまでに羨ましいものであるのか、
その判断は、実は誰にもつかなかったりするものなのではなかろうか、と。








「才能というその代償」


という訳で、所謂ひとつの、才能、という奴であった。
その人とは違った特殊能力。
ある種類の人々にとって、それは唯一無比の絶対兵器である、
と同時に、
それを一度持て余した途端、
それは一種の重荷、あるいは、
ハンディキャップにも早変わりする諸刃の剣。

普段から口癖のように、才能が有るだ無いだと、
軽々しく使っているこの才能という言葉。
それは一種、才能至上主義、という迷信の産物でもあるのだが、
だがいまになって思うに、この才能というものを、
妙に買いかぶるタイプのやつに限って実はぜんぜん大したことが無い、
そういう肩透かし的逆説的な事例を多く目にすることにもなり、
従って、俺は敢えて、この自身の才能というものを、
ともすれば得意げに吹聴するタイプの輩をあまり本気にはしない。

そしてこの才能というものをまた妙に買いかぶっては、
色聴的な能力がなければ音楽家は務まらない、やら、
絶対音感に対する妙な信仰も無ければ、
ともすればそんな才能ということばを軽々しく振り回されるたびに、
わたしには、霊が見える、なんていう奴らの話を聞かされたときのように、
曖昧な苦笑いを浮かべては肩をすくめてしまう、
つまりは、胡散臭い、と思ってしまうのである。

そう、ぶっちゃけ、自身にない能力を持つことをこれみよがしに吹聴する方々は、
実のところ、全然大したことがない輩が多いのである。

なぜならば、それは多分に皮肉なことに、
その才能が本物であればあるほどに、
真の才能者たちは、
自身の持つ特殊能力のその代償、
その弊害的な重荷に心底辟易しまくっているケースが殆どなのである。
その才能が突出していればしている程に、
他人とは違う自分を必要以上に意識することにもなり、
己の才能、それに基づいた特殊の価値観を信じれば信じる程に、
それを持たぬ人々との間に無駄な軋轢が生じることにもなる。
その悲しくなるほどの徹底的なまでにすれ違い、
そんな違和感の中において、
ともすれば、真の才者は、得てしていつも孤独で、そして何より、イジメの対象になりやすい。
集団生活と言う同調圧力の檻の中にあって、
敢えて自身の特殊能力が露呈することを恐れては、
それを表に出さないように、と、極力気を使っては控えめに生きる、
そんな処世術の中に逃げ込むことにもなるのだが。

そう、才能というのは極個人的な者で、
それを可視化したり、共有したり、あるいは数値化したり、
という世界とはまったく違う。
あるいは実はそんなことをしなくても
天才は天才としてその能力は確実にあっけらかんとして存在する。
つまりは己の才能を証明しようとする行為それ自体が、
実は自身の才能を疑った、つまりは、才能がないことの現れ。

真に才能のある人は、
その才能という両刃の剣を始終持て余しながらも、
否応ないところで思わずその得意な能力を発露してしまう、
そういう人種なのである。








「才能とは見つけ出され作り出されるものである」


という訳で、才能、なのであった。

有るものはその人生において、
己の才能を遺憾なく発揮しては、
人類の歴史に名を残すような偉業を成し遂げ、
それと同時に、
この地球上に暮らすほとんどすべての人々は、
自身を凡人と割り切ったまま、
他人の才能を褒めそやし、
あるいはときとして羨み、妬み、そして憎み、
しょうもない烏合の衆のひとりとして、集団的な同調圧力の強要、
つまりは、イジメ、などというものの一端を担うことにもなるのだろうが、

ただ、そんな烏合の衆的な、所謂ひとつの凡人、という人々。

自身では良いもの悪いものの判断がつけることができず、
で、これ、良いの?悪いの?
といちいち他人に意見を聞いて回らなくては、
ものの良し悪しを判断することにできない脳停止乙たち。
そんな知恵足らずの脳停止乙たちが、
他人の意見を得意げに吹聴しては、
だから世の中はそういうものなんだ、と強要するところの常識という奴。

その大衆扇動の最も醜悪な部分が、
このWEBという新しいメディア、
つまりは、規制の確立していない無秩序の中を、
そんな幼稚な悪意ばかりがこれでもか、と席巻、ないしは、汚染してしまっているこのご時世。

ただ、俺的に言わせて貰えば、
物事のすべてを自分自身の独断と偏見で断定する、
そんな極主観的な独善的性癖を持った俺にとって見れば、
バカのバカによるバカの世界、そんなイディオクラシー的な展開も、
それはそれで、良いではないか、とも思える訳で。
つまりは、世界がどうなろうが俺は俺。
誰がなにをどう言おうが俺の判断に揺るぎはない、
それを信じ切った上で、
馬鹿ども、それほどまでに死にたければ勝手に死ねば良い、
ただ、その馬鹿の津波にこの俺を巻き込むなよ、と。
ただ、そう、ただ、つまりはバカな人たちである。
そんなバカの津波を前にして、
馬耳東風気取りのスタンスを、果たしていつまで続けられるのか、
その危機感の中で、悶々として過ごす、
そんなところも無いわけではないのであるが。

という訳で、ここで敢えて、そんな時流を根本から覆す、
ひとつの視点の転換を促してみたい。

路傍の石、ではないが、この世の全てに何らかの意味がある。

あるいは良く言われることに、
誰にでも必ず、ひとつぐらいは、取り柄があったりもする、
そういうものなのである、と。

で、もしも、この世のすべての人々に、
実は本人が自覚していないだけで、
それはそれでそれなりの特異な能力があるのだとすれば、
才人と凡人の差は、それを自覚しているかしていないか、
つまりは、それを見つけられた人と見つけられない人、
その差でしかないのである、と。

であれば、他人の才能を妬みやっかみ、
妙なイジメの中で同調圧力を強要することよりは、
そんなことをしている暇があったら、
自分自身の能力を早く探し出す、そのための努力をしたらどうだ、と。

イジメを止めさせる唯一の方法は、その個人としての自覚、であり、
つまりは、真の意味での「自愛」なのである。

自分を愛せない人々が、その不甲斐なさの八つ当たりとして、
他人に無理やりに同調を強いるのである。

あるいは、自身の見つけた特技、あるいは嗜好を、
貫くことができない不自由さこそが不幸の源泉なのであり、
それが許されない社会、その理由とは、
つまりは社会としての精神的な貧困、
言い方を変えれば、民度の低さ、なのでありなむ。

という訳で、この才能、という奴である。
その才能が、何のバイアスもなしに遺憾なく発揮されるのは、
まさに、幼少期、である。
個人の才能、それを見つける手がかりは、
すでに物心ついたときから、そこかしこに現れている筈なのである。

もしも三歳の頃の俺を見て、
おいおい、見ろよこいつ、こんなガキのくせに、
ローリング・ストーンズのリズムをバックビートで取っているぜ、
それに気がついてくれる人が居たとしたら、
俺の人生ももうちょっと変わったものになっていただろうし、

あるいは、生まれてこの方、目を開けているときにはいつも歌ばかり歌っている、
そんな一見して頭の温かい少女を、
ちょっとあんた、うるさいからそれいい加減にやめなさい、やら、
馬鹿と思われるから人前で歌ばかり歌ってるんじゃないよ、
などと叱りつけてばかりいたら、
あの世紀の逸材の人生も、かなり違ったものになっていた筈である。

あるいは、ミスタッチする度に怒鳴りつけては頭を叩きつつける、
その体罰教育の中で、
もしも一言でも、
あなたには才能がある。
あなたの才能はもしかしたら、人類の歴史を変えるようなものであるかもしれない。
ただ、その才能を十二分に発揮する為には、
徹底的な反復練習に鍛えられた基礎体力、それがなによりも必要なの。
だからこの練習を厭いて駄目。
この退屈な反復練習の中に、あなたはいったいなにを見つけるのか、
それを膨らませていかなくてはいけない。

まずは子どもたち、その自主性を重んじる包容力と、
その才能に対する尊敬、あるいは尊重に基づいた威厳を与えることができれば、
子どもたちはその一種体罰的なトレーニングを、
敢えて率先して受け入れていくものなのではなかろうか。

そう、才能の開花に幼児教育の充実こそが必要不可欠なのである。

親の主観を押し付けることなく、
子供の自主性を遺憾なく発揮できるその自由な場において、
バイアスなしで発揮されるその能力を嗜好を方向を、
冷徹に観察しては、それを記録する、
その鷹揚さこそが、教育の原点となるべき筈なのだ。

という訳で、現代のこの風潮のその源泉としてある「バカの壁」
その根本にあるのは、自愛するべき自意識を持ち得なかった、
つまりは自身の隠れた才能に気づくことのできなかった、
その自虐的な自称バカたちの、自滅的な破壊行為、
つまりはマソヒズム。

自身のバカと貧困を自覚したつもりになっている、
つまりは世の中そんなもの、としらを切る、
そんな同調圧力的な烏合の衆たちが、
だがしかし、そんな凡人であった筈の人々が、
もしかして自身の中になにか特異な能力が眠っている、
そんな才能に気がついた時、
それまで論調が、一瞬にして覆る、その筈である。

俺の才能を、俺の嗜好を、俺のやることを、
頼むから邪魔しないで欲しい。

そう、それこそが個人としての自覚であり、
真の意味での「自愛」なのだ。

それに気づくことのできない十把一絡げにされた大衆という幻想こそが、
この時代の元凶なのである。

プライドを外に求めてはいけない。
神は内在するのだ。
その個人として与えられたそれぞれの天命を見つけ出すことが、
人として生まれた、その使命なのだ。

教育の基本とは、まさにそれ、なのだ。
それを見失ったところに、すべての間違いがある。
それを見失わせる人々を、信じてはいけない。










「遺伝子という罠 ~ 宇虫国人再び」

という訳で、この才能、というものを考えれば考えるほどに、
今一つの大きな罠に気がつく。

つまりはそう、遺伝子、という奴である。

幼児教育どころか、もっともっと根源的なもの、
つまりは、先祖から受け継いだDNA情報によって、
その特異な才能を早くから見つけ出して、
その才能をピンポイント的に鍛え上げることによって、
己の天啓に従った素晴らしい能力を発揮できるのでは、
というあの考え方である。

その神のご意思を先読みしては裏をかくような姑息さ、
その恥も外聞もない実利主義、と聞いてまず頭に浮かぶのが、
なにを隠そうあの、虫国、である。

国民層番号制のポイント制から始まって、
そこにあるのは徹底的なまでの実利主義、
つまりは、愛だ平和だ、自由だ平等だ民主主義だ、
という前時代的な人間主義のすべてに手洟をかんだ、
その徹底的なまでに短絡的な現世利益主義。

ただ一見してこの耳障りのよい効率主義が、
実は神への冒涜、その特権への侵害、
つまりは反宗教的である、というのと同時に、
そこにある徹底的なまでの現実主義こそは、
まさに為政者の為政者による為政者の為の上から目線。
人間を「資源」として割り切った上での有効活用、
その現世利益にだけ特化した、その打算の産物。

ただ、そう、ただ、なのだが、
1%の超金持ちが99%の貧民を束ねるこの超高度資本主義社会の中にあって、
ともすれば、人間という資源の徹底的なまでの有効活用、
その無理強いがゴリ押しが、通れば通るほどに、コスパが上がる。
ぶっちゃけ、その資源に、人権やら、愛やら慈悲やら、
本人の希望やら自意識やらにまったく関与する必要がなければ、、
より効率的により徹底的にその能力を活用し酷使することができる、
そんなことはどんなバカだって思いつくことであろう。
モチベーションだ?本人のやる気だやり甲斐だ自由意志だ?
そんなものがあるからこそ、効率が悪くなるのだ。
つまりはそう、愛だ平和だ平等だ、
そんな前時代的な人間主義のすべてが、
いまになってはすっかりと負の遺産。
そんなものに拘れば拘るほどに効率が落ちる。
その人間性をどこまで統制できるかこそが、
この高度資本主義に勝ち抜くキーポイントなのでありなむ、と。

予てから政治犯を死ぬまで酷使して成り上がったこの人間工場国家にとって、
人間という資源の有効活用こそが民族繁栄の道標。
その恐るべき短絡に貫かれた反人間思想こそが、
この後の未来を支配する為の唯一絶対の武器なのである。

で、そんな虫国が、いかにも考えつきそうなこと、であるところの、この遺伝子という魔法。

それはまさに神の御心のその思し召し。
カプセルに手洟、ならぬ、痰唾を吐きつけては、
そして届いた結果の中に、よし、この子供にはなにをやらせよう、
そのシンプルかつ明確な目的意識。

という訳で、この遺伝子診断サービス、
虫国からの依頼が殺到しているそうなのであるが、
果たしてその是非、なんてところでもたもたしているうちに、
それに輪をかけたとんでもないニュースが世界を駆け巡った。

受精卵に手を加えた遺伝子編集技術により、
HIVに耐性を持つアップグレード遺伝子を持った双子、
その誕生に成功した、と。

そして思った通り、それを発表したのが虫国の研究者。

ああ、やっぱりな、とは思いながらも、
でもそれ、やばいだろ、と、まともな人間であれば誰もがそう思ったであろう、
つまりはそれこそが、20世紀までの人類の歴史、
そこに貫かれた、人間主義の概念、その常識的な基盤。

で、そのニュースを前に、
どんなバカだって知恵が回る筈だ。

だったら、これだってこれだってこれだって、可能、ということじゃないのか?
そんなことが、なんの歯止めもなしに繰り広げられてしまったら、
いったい人類は、どういうことになってしまうのか・・

そんな脳天気な発表を前に、
あのなあ、と世界中の研究者が声を揃える。

遺伝子編集だ?
あのなあ、それができることは、誰もが認識していた。
だって、そう、馬から牛から羊から、
犬から猫からにしたって、遺伝子操作の研究はすでに、
これでもか、と続けられている訳で。
ただ、しかし、それを人間に対してだけは、
敢えてやらなかった、やれなかった。

なぜかと言えば、それは、やってはいけないこと、
つまりは、神に背く行為にほかならない、
その筈じゃなかったのか?と。

という訳で、この神をも恐れぬ掟破り。

で、思った通りの世界中からの非難轟々を前に、
この虫国の研究成果、その信憑性を、
世界中に向けて共同認識を促すべきだ、
その上で、それをしっかりと、規制するべきだ、
というのがまあ、ほとんど大抵の人間たちの考えなのであろうが、

ただ、そう、誰もが気づいている。
それは、つまり、人権は効率が悪い。
つまりは、前時代からの負の遺産であるところの、
人道主義、その人権の匂いのすることには、
ことごとく手洟を以て解答することが、
21世紀的勝者の絶対条件なのである。

つまりはこの虫国研究者。
世間的な、世界的な非難を前に、
厳罰に処す、と発表した虫国政府が、
しかしその情報とノウハウを、
国家戦略の一環として取り込みたいであろうことは誰の目にも明らか。
つまりは、処罰を理由にしてこの研究者を拘束しては、
秘密裏にその研究を促進させる為のブラフに過ぎず。

つまりはこの双子、
生まれながらしてパンドラの箱、
あるいは、鉄人28号、と化してしまっているわけか、と。

で、そんな運命を背負ったこのアップグレード遺伝子を持った双子たち。
果たしてその人生が、本人たちにとって幸せなものになるのかどうか、
なんてことを、これっぽっちも考えていないからこそ、
こういう蛮行をしゃあしゃあとやってのけてしまう、
それこそがこの大いなるすれ違いの、その元凶なんだけどね。

という訳で、この遺伝子操作の人体実験をあっけらかんとやってのけてしまった虫国人、
この遅れてきたバブル馬鹿たち。
これまで散々と言われてきたこの野蛮人たちの御乱行の数々。
やれ爆買いだ、経済戦争だ、軍事拡大だ、なんてところでは、
はいはい、判りました、判りました、
あんたらは徹底的に、物分りの悪いクソダサの田舎者、
つまりはそれが言ったかっただけなんでしょ?
など鼻で笑っていはいたものの、
そうか、遺伝子操作か、
その人体実験をあっけらかんと発表してしまう、
そしてその人体実験の素材は無尽蔵に存在する、と思っているだろう、
つまりはこの人達、なにからなにまで徹底的なまでの宇虫国人。
このバカどもを早いところ規制しない限り、
人類はまさに、とてつもなく妙なところに引きずり込まれることになる、
とそんなことを確信しながらも、
であれば、その宇虫国人の宇虫国人による宇虫国人的な茶番的地獄絵図、
その修羅が果たしてどこまでバカバカしくも凄惨を極めたものになるのか、
ちょっと見物してみたい気がしない訳でもない、
なんて性懲りもないゲテモノ趣味が、またむくむくと頭をもたげてくるのではあるが。








「この冬、クリスマス大セールでこじ開けられる遺伝子というパンドラの箱」

と言う訳で、
矢野顕子+セイホー、その無意識を解凍する電子レンジ的演奏の中で、
思わず開いてしまった妄想の扉。

巡って辿り着いたこの遺伝子というパンドラの箱。

果てさて、人類はこの新たな遺伝操作という局面の中で、
いったいどんな選択をしていくのなのだろうか。

まあそう、いまさら俺の知ったことじゃないんだけどね、
と鼻で笑っていた、そんな時、
久しぶりに食事を共にした古い友人から、
そう言えばさ、と妙な話題を振られた。

ねえ、23 AND ME って知ってる?

23 と わたし?なんだそれ。

ほら、いまテレビの宣伝でガンガンやってる、つまりはDNAテスト。

ああ知ってる知ってる。カプセルに痰唾吐いて送ると、
あんたはこういう人です、ってな診断結果が届くっていう、あれだろ?

そう、でさ、実はそれ、受けてみたんだよね。

おおおお!まじで?で?で?どうだった?

まずはね、アンセスター、つまりはご先祖さま検査。
やっぱあたし、ザイニチじゃなかったみたい。

あ、そうなの?

でしょ?そう、あたしも実はちょっとそう思ってた部分あってさ。
っていうか、そう、このキメの細かいお肌から、この切れ長の瞳から、
ちょっとあたし、日本人離れしてるところあるよな、とは思っていて。

つまりその直情的かつ短絡的な物言いから、
些細に拘るばかりですぐに大局を見失う、
木を見て森を見ず的狭視的な狐火思考から、と。

なによ、それぜんぶ、まさしくあんたのことじゃないの。
自己紹介でもしてるつもり?
でさ、そうそう、その23ANDMEなんだけど。

で?どうだった?癌?アルツハイマー?パーキンソン・ディズィーズ?

あ、それは大丈夫だって。ただ・・

ただ?

いきなり糖尿病の、とか言われてさ。

糖尿?だってお前、酒飲まないじゃないか。

そうなのよ。なんだけど、家系として、糖尿病に罹る率が高い、と。

つまり酒が飲めなくて命拾いした、と。

そう、つまりはそういうことらしいのよ。

でさ、もっともっと色々なこと書いてあってさ。
音楽的才能から、画才から、数学的能力から、文才まで。

でもさ、この歳になっていきなり、
あなたは音楽的才能はこれっぽっちもありません。
頭も悪いので何をやっても無駄。
せいぜいブルーカラーなガテン系の人生を歩みなさい、
なんて言われても困っちまうよな。

だから、じゃないの、と我が旧友。

だから、だからこそ、いまになってそれやったのよ。
人生のゴールが見えてきた、
その歳になって初めて、その答えを知る気になれたのよ。
そう、いまであれば、そんな結果が判っても、大したことも無いじゃない?
あれあれ、なんだ、そういうことだったのか。
やれやれ、あぁあ、間違えたなぁ。
いやはやこの人生、徹底的に間違え切ったな、
あっはっは、でもまあいいか、って笑って済むかな、と。
ただね、これをもっと早い段階で見せられていたとしたら、
なんとなく、この結果を信じちゃう、というか、
この検査結果に沿った形で、自分を規定してしまう、
そういうことになっただろうな、と。
ねえ、それってさ、実は凄く怖いことだと思わない?

でもさ、と俺。
俺ほら、ずっとドラムやってたけど結局は芽が出なかったしさ、
テニスもあれだけやって、こりゃ駄目だ、と自分でも思い知ったし、
本は読むけど、文章書かせたらこのザマだろ?
結局、自分が好きなこととかやりたいことってさ、
ことごとくその潜在的な能力のハズレばかり引いた、というか、
俺のやってきたことって、もしかしたら俺の才能とは、
180度違うものばかりだったのかな、と。

そう、そうなのよ。でもさ、だからこそ、良かったんじゃない?と旧友。

そう、そのすれ違いこそが、人生、なのよ。
下手の横好きじゃないけどさ。
つまりはその無いものねだりの天の邪鬼さ。
向いていなことを向いていないと知った上で、
敢えてそれをやり続けること、
それこそが人生の美学であり、ダイナミズムなのよ。
人間ってさ、実は自分の不向きなものに敢えて憧れる、
そういう不条理且つわがままな生き物、なんじゃないの?

ただな、と俺。
でもさ、もっともっと早い段階でそれを知らされていたら、
これほど無駄なことばかりに時間を無駄にすることもなかったよな、とか、
事前にある程度の方向を知らされていたほうが、
迷いもなくその道に猛進できた、あるいはすっぱりと諦めもついた、
そのほうが、ずっとずっと手っ取り早かったような、
そんな気がするんだけどさ。

だったら、もしもあなたがさ、
あなたはチマチマしたおかめみじんこみたいな性格をしているクソ野郎で、
些細に拘るばかりですぐに大局を見失う直情的かつ短絡的なバカ。
なので、それに見合った人生を歩みなさい、
それは例えば・・
なんて感じで、それを周りから強要されたとしたら、
あなたはそれに素直に従った?

いや判らない。

あなただったら、その天命にあえて、徹底的に抗った、
そんな気がしない?

そう、そんな気がする。

そう、それで良いのよ。それでこそ、人間という奴なのよ。

その紆余曲折のハズレくじばかりの大間違い、
その徒労こそが、人生の醍醐味、そのものなのよ。

どう?なんか悟ったこと言うでしょ?
そう、そのことに気づけた、それだけでも、
この23アンドミー、その$165のパンドラの箱、
開けてみた甲斐があったかな、と思ったりしたのよ。

ねえ、人間が有益である必要なんてないのよ。
すべての人間が天才である必要も、
偉人にならなくっちゃいけない必要もないのよ。

ただの人の人生。
あえて、凡人の道を進む、その徒労を徒労と知った上での人生。
その暗中模索の中で、いったいどんな運命が出会いが待ち構えているのか、
それこそが、人生というドラマ、その魅力のすべてなのよ。

ねえどう?あなたはまだ、23アンドミー、受けてみる気にならない?
サンクス・ギビングのブラック・フライデーで半額セール、
クリスマスにはギフト用で、一大セールをやるらしいわよ。

で、その情報がしっかり当局に管理されては、
なにかの際には、ファック・ビー・アイやらチー・アイ・エーやらの極秘操作資料の一部ともなり得る、と。

つまりはそういうことよね。地球規模のデーターベース、その時代なのよね。

という訳で、この23ANDME、果たして、受けるべきか受けないべきか。

その説明には、知りたくない情報は予めご指定ください、とある。
つまりは、知らずにいる権利、なのである。
ただ、そのRAW:生データを送って貰える以上、
この先、この情報の公開が許可されるようになった、
その規制の緩みと共に、遺伝子情報から導き出される情報、
そのひとつひとつが、どんどんと明らかになっていく、ということらしいのだ。

ただ、と改めて思う。
果たしてこの遺伝子というパンドラの箱、
見ようによっては、玉手箱、ではなかろうか。

つまりは、人生という旅を終えた浦島さんが、
貰ったお土産、いったいこれなんだろう、と開けた途端に、
すべての夢から醒めてしまう、そんな不吉な想いがつきまとうのである。

いまさらになって、
音楽的な才能からなにからなにまで、
これまであなたの続けてきたあなたという人とは、
実は、さっぱりまったく違う人であったりしたんですよ、
そんな答えを知ってしまった時、
果たして、この先の人生で、なにを愉しみにしたら良いのだろうか。

或いは、いまになってから、
あなたの音楽的な才能は天才の域に近く、
そんなことを知ってしまったからと言って、
ああ、だったらなぜ、あの時にあのオファーを断ってしまったのか、
そんな悔恨ばかりを募らせることにもなろう。

だがしかし、思ったとおり妻は乗り気である。

女の浅知恵からか、その生まれ持っての南国基質からか、
すべてにおいて楽観的であるところの我が愚妻。

ねえ、23アンドミー、どんどん安くなってるよ。
ねえ、ねえ、やろうよ、やろうよ、
これで罹りやすい病気がわかれば、
今のうちから食事療法からなにからで、
有効な手段を講じることができるでしょ?

そう、そうなんだけどさ、それは判っているんだけどさ、
と生返事を繰り返す俺。

果たして、俺は、なにを怖がっているのだろうか?

なんてことを、ツラツラと考えてもみたりするのである。

あれえ、あんた、アルツハイマーの可能性が異常に高いよ、
そんなことを妻に知られては、早々に見捨てられる、
そういう展開もありなのか、なんてことでは勿論なく、
つまりは、あなたは明日を知りたいですか?
その根源的な疑問。

それはまさに、マクベスを誘い込んだ三人の魔女の呪文、
ダーブル・ダーブル・トイル・アンド・トラブル、
綺麗は穢い、穢いは綺麗・・・

それは地獄へと誘うパンドラの箱なのか、
すべてを終わらせる玉手箱なのか、
あるいは、誤った自己認識から自身を解き放つ、
解放の讃歌なのか。

たぶん、そのすべて、そのチャンポンなんだろうな、と。









「今日も今日とて幻の世界チャンピオンに顔中を舐め回されて」


という訳で、この才能、という奴である。

これまで垂れ流してきた脈絡のない駄文、
その最後に、我が愛するべき駄犬についての、
ちょっとしたこぼれ話。

まだこいつが、一歳にも満たない子犬、
つまりはやんちゃ盛りの鬼金棒三昧だったころ、

ドッグランの犬という犬、そのすべてにちょっかい出しては喧嘩をふっかけ、
怒り狂っては口から泡を飛び散らして追いかける猛犬たちの群れ、
その怒涛の集団に襲いかかられる壮絶なおいかけっこの中で、
それを嬉々としては逃げ回るだけ逃げ回り、
挙げ句の果てにすべてをブッチ切ってはコケにするだけコケにしては後ろ足で小便を引っ掛ける、
そんな蛮行を目の当たりにした老紳士の一人から、

この子犬、どうか私に売ってくれないか、と持ちかけられたのである。

この犬を買いたい?

そう、金はいくらでも出す。一万ドルか?二万ドルか?
それぐらいならいますぐキャッシュで払ってやる。

聞くところによれば、世界アイジリティ協会の重席である、と言う。

こんな凄まじい才能に溢れた子犬を見るのは初めてだ。

この俊足、この瞬発力、この敏捷さ、
このバネから筋肉から、そしてこの知能の高さ、
この気の強さ、度胸の良さから、
そして何よりこの気の触れたようなハイパーさ。
そのなにからなにまでがアジリティの才能の現れ。
まさにこの犬、生まれながらのアジリティ野郎、
その素質は潜在能力は才能は、まったくもってチャンピオン・クラス。

私であれば、世界一のトレーナーの元に世界一の訓練を施し、
必ずや、アジリティー世界チャンピオンにしてみせる、
それを、確約、する、と。

いや、で、あれば、
この子犬を、私に預けてくれないか?
つまり、オーナーとしての権利はあなたの名前を残す。
それだけでもよい。それだけでも十分だ。
私は、アジリティー協会の重鎮として、世界アジリティーの発展に貢献したい。
この子犬は、必ずや、世界のアジリティー、その歴史を塗り替えることになるぞ。





という訳で、実はその老人から、
その後も、度々に渡って、しつこくも勧誘を受けたのだが、
色々と考えた末に、俺達はそのオファーを断った、のである。

なぜ?
そう、なぜかと言えば、俺達がこの犬を片時も手放したくはなかった。
或いは、アジリティのコンテストに世界中を飛び回る、
その苦労を、こんな子犬に担わせたくなかったのである。

やっぱり、コンテスト・ドッグって、寿命が短いんだって。
飛行機での移動とか、そういうのが、凄いストレスになるんだって。

この幼気な子犬を前にして、
改めてその子犬としての人生。
太く短くチャンピオンの王冠を手に人生を燃焼するか、
或いは、ただの犬、として可もなく不可もなく、
そんな平凡な人生をまっとうするか。
そう考えた時、俺達は、日和った、のである。

できることなら、平凡でも良い、退屈でもよい、
ただ、一日でも長く、この子犬に生きていて欲しい、
俺達の願いは、ただそれだけだったのである。

もしかしてあんたたちは、その愚劣さと下らないエゴの為に、
この天才ドッグの才能を、丸潰れにしてしまったのではないのか?

確かにそう、確かにそうかも知れない、のではあるが、

だとしたとしても、この愛する子犬に、
平凡ながらも、平穏な人生をまっとうして欲しい、
そう望むことに、いったいなんの罪があるというのか。

そしてその時に気づいたのである。

つまりは俺達の親も、そう思っていたのではないのだろうか。

天才であろうがなかろうが、
とりあえずは、幸せな人生を送って欲しい。

親が子供に望むこと、その愛のすべてが、
つまりそんなありふれた平々凡々なこと無かれ主義。
その愚劣さこそが、親の愛、そのものであったのではなかろうか。

という訳で、我が駄犬である。
今日も今日とて、朝6時に起きて犬の散歩。
朝焼けの公園を、これでもかと走り回りながら、
おい、幻の世界チャンピオン、調子はどうだ、と、
思わず苦笑いしては途端にこれでもかと前蹴りを喰らっては、
これ見よがし満面のゲラゲラ笑いを返しては、
当たり前だろ、絶好調だよ、
そんなドヤ顔で答えてくれるのである。

という訳で、そんな駄犬も十歳になった。

もしかしたら世界チャンピオンになっていたかもしれない。
世界中の犬雑誌にこの犬の写真が載り、
世界中を飛び回っては拍手喝采に包まれ、
そんな夢のようなスーパースターであったかもしれない、
その筈が、
今日も今日とてこんなところでこんな奴らと、
下らないボール遊びに一喜一憂を繰り返しながらも、
だからこそ、敢えて言いたい。
この犬はそれでも、十分に思い切りに、幸せそうだ。

天才の一生はそれはそれで尊いものなのだろうが、
ただの人の人生にも、それはそれで、なんらかの意味は存在するのだ。
その慈しみこそが、この世に生を受けたことへの、
最大の恩返し、となるべき筈なのだ。

という訳で、振り返るのは我と我が身である。
なにからなにまで、すれ違ってばかりの間違えだらけのこの人生、
このうだつの上がらない、どこか完全にネジの外れた行き当たりばっかりの珍道中。
だがしかし、くそったれ、俺はそれでもだからこそ、声を大にして言い切ってやる。

俺はそれでも、幸せだ、ざまあみろだ、馬鹿野郎、と。

そう、幸せは演技から、なのだ。
嘘でも意地でも痩せ我慢でも、
なにはなくとも幸せだ、と虚勢を張り続ける、
あるいは幸せになるために自分なりの努力を続ける、
その姿勢だけは諦めたつもりはない。
そしてこの幻の世界チャンピオンから顔中を舐め回されながら、
くそったれ、ここまで来たら、死んでも幸せになってやるからな、
そんな穿った熱意が、込み上げてくるこのただのひとの人生。

さあて、残された人生のその最初の一日、
果たして、いったい、なにが起こるのか。
この暗中模索の七転八倒を、
まだまだ終わらせるつもりはサラサラ無い、
こんなところでコケているわけにはいかねえんでい、
それだけは言わせて貰うぜ、と。









という訳で、またまた脈絡のない愚痴・戯言を垂れ流しただけだったが、
なにか思うところ、お有りだろうか、と。

とそう言えば、うかうかしているうちにシンガポールでのジューダスとの共演がそろそろだな、と。

シンガポールはどうか知らないが、インドネシアにおいては、
メタル、あるいはロックというジャンルが、とてつもなくホットである、と聴いていた。
嘗て、対バンとしてジョイントのステージを共にしたインドネシアのメタル・ロッカーたちから、
ロック、そして、ヘヴィーメタルに対するその熱き想いを語られた記憶をたどりながら、
アイツラに、ベビーメタルをひと目でも見せてやりたいな、そう思っていたのである。

という訳で言わずと知れたこのシンガポールはインドネシアの目と鼻の先、である。
ひとたびベビーメタルがそんなアジアの熱き若者たちの目に触れたならば、
それはアイドル、あるいは、希望の星、どころか、
下手をすれば正真正銘の社会現象にまでなりうる、
そのインパクトを確信しつつ、
これを機に、アジアを含めた上での世界戦略、
その世界征服の野望の礎にしてほしいと思うばかりである。


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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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