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ボヘミアン・ラプソディ ~ 孤独の流浪その旅路の果てに

Posted by 高見鈴虫 on 11.2018 音楽ねた   0 comments
オーストラリア風に言うところの、バイビーメロー、
GOOD THINGS FESの三連戦も、
未曾有の大成功の中で幕を閉じた日曜の朝。
普段であれば、ベビーメタルのツアー中は、
明け方まで動画漁りだ駄文綴りだに没頭する関係から、
朝の犬の散歩は代わってもらえる、
そんな紳士協定にあった筈の午前9時、
いきなり妻から叩き起こされた。

早く起きて、すぐ出かけるわよ。
出かけるって、どこに?
なによ、約束だったでしょ?クイーンよ、クイーン。
ベビーメタルのツアーが終わったら、
すぐにクイーンに行くって、約束してたじゃないの。
クイーン?女王様と言えば、すぅめたる様を置いて他にあらなし。
あるいはクイーンズ、と言えば、アストリア・シーフード?
バカなこと言ってないで早く服を着て。
朝一番の半額割引上映、10時からなのよ。もう始まっちゃうじゃないの。

という訳で、言わずと知れたQUEEN、
つまりは、映画:ボヘミアン・ラプソディ、である。

このボヘミアン・ラプソディ、
すでに全米公開から一ヶ月以上を過ぎながらも、
いまだにしぶとく上映が続いているこの未曽有の大ヒット映画。
公開当時から連続して観客動員数ナンバーワンを記録し、
なにより観た人々からの怒涛のように響く大絶賛の声声声。

ボヘミアン・ラプソディ、
泣いた、泣いて泣いて、泣きまくった・・

そんな噂が、俺どころか、カミさんのところにまで、
これでもか、と届いていたのである。

汝、見給うやボヘミアン・ラプソディ・・

いや、ただ、といつもの奴で気乗りのしない俺である。

だって、クィーン、だろ?
クィーン、好きじゃなかったの?
なんてったってパンクの天敵だからな。
そうだったんだ。
クィーンが好きか嫌いか、と言われて、
言われて?
好きだ、と言うやつは、
言うやつは?
芸だ。
ばかばかしい。芸だったらどうだって言うのよ。
あるいは。
あるいは?
童貞だ。
だからなんだっていうのよ。
でなかったら、そいつは、マザコン、それは確実。
男なんてみんなマザコンじゃないの。
いや、俺は違う。
あんただけよ。そうじゃないのは。
だから尚更タチが悪いのよ。
あのさ、言わせて貰えば、あなたのお母さんの代わりをやらされるの、心の底からうんざりなんだよね。もういい加減に・・
いや、あの、それは、クィーンの話題とはちょっと違う。
だから
だから?
だから早く服着なさいよ。10時よ10時。あと30分しかないじゃない。

おいおい、ベビーメタルのツアーが終わった途端、
日曜の朝から、ボヘミアン・ラプソディかよ・・














という訳で、毎度ながらではあるが、
ここからは、私信、である。

私信であるということは、多分に主観的な内容、
つまりは、客観性にも欠け、教育上にも芳しからざる、
ぶっちゃけ、あまり公には、つまりは、鍵なしの一般公開には、
するべきでない内容を含む、ということである。

である以上、ここから先を読み進めるのは自己責任である。
つまりはこれからの文章は、極個人が極個人的に向けてシタタメられたもの、
つまりは、そこにちょっとでも不快感、あるいは、胡散臭さを感じた、その時点で、
この文章はあなたに宛てたものではない、ということを予めご承知頂きたい。

そう、私信とは、あるいは、個人ブログとは、そういうものである。
そこにあることが、客観的である必要など、
ましてや、それが正論である必要などまるでなく、
そこに書かれた逸話が真実がどうかなどは得てして問題ではあらない。
あるいは、そこに真実と虚実を見分ける読解力のない方々は、
敢えてお引取り頂いたほうがご賢明であらう。

つまりは、世にある様々なトリック、
そのすべてに、コロリと騙され安い方々。
そういうタイプの方々は、
この悪意に満ち満ちた世、その毒に対する耐性のない、
つまりはこの高度情報化社会の修羅の世を、
生き伸びる力に欠ける虚弱人、
あるいはただ単に、ガキ、ということである。
という訳で、そんな未熟なとっちゃん小僧な方々、
くだらない掲示板に思い違い勘違い、
手前勝手な糞のような書き込みを撒き散らしているぐらいなら、
GO FUCK YOURSELF!
マスでもかいてさっさと寝ろ、ということである。



という訳で、ボヘミアン・ラプソディ、であった。

ベビーメタルのツアーが終わったその胸いっぱいの祝祭の中で、
なにが哀しくて朝から、ボヘミアン・ラプソディか、と。

そう、俺は気が進まなかった。

俺の気が進まなかったその理由はと言えば、
なにより俺は、ロック映画というものが好きではない。

こと、ロック・ミュージシャンの伝記映画に関しては冗談至極、
それが例え誰に関するものであっても、極力避けることにしている。

シド&ナンシーも、ラスト・デイズも、
ローズも、ドアーズも、ベルベット・ゴールドマインも、
或いは、ブライアン・ジョーンズ~ストーンズから消えた男、さえも、
俺はろくに観てはいない。

いや、実は、観た。
観るには観たが、二度見は愚か、
好き嫌い、どころか、
ろくに最後まで観ていない、見るに耐えない、
あまりの嘘臭さに、安っぽさに、軽薄さに、短絡さに、
思わず、大切ななにかを侮辱され蔑まれたような、
そんな気がしてきては、
こんな糞のようなオハナシ、
可笑しくて腹が立って馬鹿馬鹿し過ぎって、
最後まで見続けることができないことが、
ほとんど、なのである。

つまりは俺にとって、ロックとはそんなものではない。
少なくとも、お子様連れのご家族向け、などの前に、
大手を降って晒せるようなものではない、
あるいは、そうあってはならない、ものなのである。

何故かと言えば、
ロックと言うのは、ある種の特定され限定された
幻想、或いは幻影の賜物なのだ。

それは既に、ロックという美学、
つまりは、一度限りの刹那的ステージ・パフォーマンスの中に、
集約され昇華されるべきものであり、
少なくともそこに、映画的つまりは演技的映像的、
そして物語的な、二番煎じ的焼き直し、
つまりは一般的客観的普遍的視点を、
敢えて加える必要など、どこにもないのである。

ロック映画を見ればみるほど、
それは質の悪いコピーバンドを見させられたような、
あのよお、どうでもいいけど、
あんたら、なんにも、判っちゃいねえんだな、
そんな苦言を吐き捨てては、さっさとばっくれるに越したことはない。

であれば、そんな俺の許せる唯一のロック的な映像作品はと言えば、
なにはなくとも、コック・サッカー・ブルース、
言わずとしれたローリング・ストーンズのツアー・ドキュメンタリー。

その全編に渡って、まさにセックス・ドラッグス、そればっかり。
その登場人物のすべてがすべてらりらりのデロデロ。
すっぽんぽんのグルーピーたちが文字通りに宙を飛び交う、
あの門外不出の狂気の禁断映像集、
でもあるのだが、
→ ウルフ・オブ・ウォールストリート を観る

いやはや、そのぐらいでなくては、ロックとは言えない、言っちゃいけない、
その偏見が偏狭が思い込みがルサンチマンこそが、
ロックというもの、その幻影のすべてであった筈、なのだ。

そういった意味を含めた上で、
そしてなにより、俺は、QUEENが嫌い、であった。
いや、QUEENが嫌いだ、と言い続けてきた、
強いて言えば、QUEENが嫌いだ、と言わざるを得なかった。

なぜかと言えば、俺のまわりにいた連中、
つまりは、パンクス、と言われた奴ら、
そのすべてが、判で押したように、
このQUEENとうバンド、
そのテーマであり手法であり、なによりそのスタイル、つまりは美学を、
殊の外毛嫌いし、或いは、嘲笑っていた、からである。

クラッシックとロックの融合だって?
オペラだ?華麗なるなんちゃらだ?
聞いて呆れるぜ。

そう、パンクと、そしてQUEEN、
その美学、まさに水と油、なのである。

そんな訳で、俺はQUEENが嫌いだ、
敢えてそう宣言することこそが、
新たなる潮流、つまりは、パンク・ロック・ムーブメント、
そのマニュフェストに他ならず。

それこそが、幸か不幸かあの時代の空気
という奴であった筈だ。

そして敢えて、蛇足ながらも付け加えさせて頂ければ、
特にある時期からのクィーン、
あるいはフレディ・マーキュリーという人物を、
敢えて、好きだ、と公言することは、
パンクに限らず、一般世間体からしても、
ある種、特別な意味を持ち得た、その筈である。

そしてそんな”ある種の人びと”に対する、
世間一般の反応は、困惑というよりは蔑視、
嫌悪と言うよりは嘲笑、
不謹慎というよりはフリークス、
憎悪と言うよりは、寧ろエンガチョに近かった。

つまりは、そんな世間一般な常識に対し、
その蔑視的嘲笑的えんがちょ的フリークスたちが、
その秘められた美学を、敢えて白日の下にさらけ出しては、
それを謳歌するかのような態度は、
決して喜ばしいものではなかった、
少なくとも、子供には見せられない類の、
そんな特異な特殊なゲテモノ的見世物に過ぎなかった筈だ。

つまりは、あの胸毛の裸身をさらけ出した姿が、
あるいは、白いタンクトップに口ひげを蓄えたあの出で立ち、
つまりはQUEEN、つまりはフレディ・マーキュリーの、
そのトレードマークとされたあのスタイルこそが、
ある種、そんな世間一般的の持つ違和感に対する、
大いなる、挑戦、であったのである。

少なくともそれを知らずして、この映画は見ることはできない。

あるいは、
もしもその事実を知らないものがこの映画を作ったのだとすれば、
あるいは敢えて、家族向け映画という、
一般的客観的普遍的独善的な視点に置いて、
その、違和感の部分を、敢えて抹消した上で、
このフレディ・マーキュリーという人の人生を語る、
というのであれば、
そんな映画には、まったく、なにひとつとして、
糞の欠片ほどの意味も持ちえない、そう言い切れるのである。

そう、つまりは、QUEENというバンドは、
そしてなによりあの、フレディ・マーキュリーという人は、
まさしく、そのよう種の人びとを背負って立った、
その象徴的な人であった、その筈なのである。

そう、フレディ・マーキュリーとは、
自他共に認める、そういう人、であった。
少なくとも、あの時代、そういう位置づけであった。

意地の悪いメディアからは、
そうなのか?あなたはやはり、これ、なのか?
そんな意地悪な質問の矢面に立たされながら、

がしかし、フレディ・マーキュリーは敢えて、
それを否定も肯定もせず、
がしかしながら、
そのステージにおいては、
いかにもいかにも、それをまさにあっけらかんと、
ともすれば見せつけるようにして、
あからさまにも、大胆不敵にも、
その世界に特有する美学、
その典型的象徴として、
それを、体現、せしめ続けた、のである。

見ろ、俺のこのステージを見てくれ!
もう逃げも隠れもしない。
見ろ、これが俺だ。 俺は、俺なんだ!

当然のことながら、その覚悟が、開き直りが、
その、ふてぶてしくも挑戦的な態度が、
尚更に人々の困惑を誘い、
そしてある種の団体の、
集団的憎悪に火を点けることにもなった。

神の名を旗印に、社会秩序を理由に、
教育上の、自然の摂理の、医学的根拠、
などを持ち出しては、
この象徴はまさに、世界中から袋叩き、
ともすれば、世界中から嘲笑のまと、
ともすれば、エンガチョ扱いにあった。

そう、あの時代、つまりは
フレディ・マーキュリーが生きたの時代、
それが誰もが知る常識であった。
そしてフレディ・マーキュリー自身、
そうなることは、覚悟の上、であった筈だ。
しかしフレディ・マーキュリーは、
それを重々知っていながら、敢えてそれをやった。
やり続けた。
つまりは、世間一般のその価値観そのものに、
挑み、そして戦い続けたのである。
そこに、フレディ・マーキュリーという人の人生、
その大きな図太い、柱、つまりはテーマ、
言うなればアイデンティティが、
レーゾンデートルがあった、
まずはその世界的共通認識を理解しなくては、
何一つとして何も見えてはこない、
そこを間違えて貰っては困るのである。





何を馬鹿なことをクドクドと、だって?
そう、確かにその通り。
ただ、改めて言わせて頂ければ、
過ぎし日のあの時代、という空気、
今になって思えば、
それはまさに茶番的なぐらいの
大間違い的な時代遅れさ、ではある筈だ。
何故なら現代とは、
その時代遅れの大間違いを乗り越えて始めて、
現代足りうるのだ。
その時代における大間違い、
つまりは偏見というものが、
自然といつのまにか、知らぬうちに乗り越えていたのでは全くない。
かつての時代の持ち得たその悪しき偏見と戦い、
そしてそれに勝利して始めて、偏見は時代遅れになり得るのである。
そこを間違えて貰っては困るのである。

ただしかし、そんな時代の空気というものを除外視したまま、
全ての偏見が人畜無害の時代遅れ、その安全な河岸から、その適当な人物像、
その見栄えの良いところばかり切り取っては、
いまの時代に合わせたご都合主義的な美談のでっち上げる、
そういう愚かなリメイクは、まさに、卑怯千万の後出しジャンケン、
時代の、真実の、捏造に過ぎず、
そんなものには、クソの意味さえもありはしない、
あってはいけないのである。

そんな中で、ボヘミアン・ラプソディ?
あの、フレディ・マーキュリーの伝記の、
お子ちゃま向けの、PG13の、ロック映画?
それを、リンカーンIMAXシアター、
なんていう、家族連れ向けの巨大映画館で?

それはまさに、悪趣味なほどに、
バカバカしいにも程があるぜ、と。

で?感動巨編?泣いた泣いた?
いったい、なんの、ことなんだよ、と。

ロックを舐めるんじゃねえ、
あるいは、
あんたら、なにからなにまで、
なにひとつとして、なにも、判ってねえんじゃねえのか?

あのフレディ・マーキュリーが、
いったい、どういう人であったか、ということを・・

そう、俺は機嫌が悪かった、のである。

正直なところ、もっともっと、できれば永遠に、
ベビーメタルの大成功公演、
その甘い甘い余韻に浸っていたかったのである。

そう、俺はすでにベビーメタル、
つまりは、これまでのロックというもの、
その全てに、RIP! と中指を突き立てた男である。
→ アンチ・ベビメタに送る R.I.P ~ ロックよ安らかに眠れ  副題:キース・リチャーズがBABYMETALを見たら

ベビーメタル以外のロックは、おかしくて聴いていられねえ、
それこそが、俺の偽らざる本心。

いまだにこの脳髄いっぱいに、
あの、ギミチョコが、ディストーションが、
エレガが、KARATEが、RORが、響き渡っている、
そんな俺に、
よりによって今更、QUEENだ?
ボヘミアン・ラプソディだ?フレディ・マーキュリーだ?

あのなあ、と、

という訳で、映画館への道すがら、
ねえ、早く早く!と、はしゃいだ子犬そのままに、
先へ先へと急ぐカミさんに急き立てられながら、
まあ、どうでも良いけど、と、寝癖の頭をかきながら大あくびを繰り返す俺。

だがしかし、正直なところ、
起き抜けにQUEENと聞いた時点で、
確かに、嘗て聴いた、聴き狂っていた記憶もある、
あの旋律・・

WE WILL ROCK YOUが、
BRIGHTON ROCKが、
SHEER HEART ATTACKが、
TIE YOUR MOTHER DOWNが、
あるいは、あの、輝ける七つの海、が、
止めども尽きぬ泉のように、
溢れ出しては止まらなかったのは確か、なのである。








でさ、そう、QUEENだろ。
あんま大きな声じゃ言えないんだけどさ、
正直、俺、QUEENとか、
厨房、どころか、小学生の頃から知っていてさ。

つまりは、同級生的世界がまだ、
アイドルだ、歌謡曲だ、なんちゃら御三家だ、とやっていたその時分に、
ある種の、こましゃくれた糞ガキたちは、
キャロルだクールスだダンブギだからの和製ロック、
その本家ルーツとなるところの、
つまりは洋楽の洗礼、
初心者向けのビートルズからストーンズから、
そんな歴史的な大御所たちを卒業し、
すでに、その話題の焦点は、と言えば、
今をときめく洋楽ロック新御三家、
つまりは、KISSと、エアロスミスと、
そして、このQUEEN であった訳だ。

当時、まだ万引きの技術に長けていなかった俺達は、
その洋楽という世界の情報のほとんどを、
かわゆくも奥ゆかしくも、
おねえちゃん、おにいちゃん、
つまりは家族の年上の兄弟を通じて仕入れることになり、
その買ったばかりのミュージックライフ、
汚さないでね、ページに癖つけたら承知しないからね、
と、まるでご家宝のようにして一つ机を囲んでは、
雁首そろえてはあーだこーだと奪い合うように、
感嘆を、特には罵声を歓声を叫びながら、
あるいは、その本物のLPレコード、などと言ってみれば、
それはまるで、禁断の御宝物をお預かりするが如く、
その傷一つない黒光りする円盤を捧げ持っては、
おおおおお!これが、ロックか!などと、
見るだけ見るだけ、であっても、
思わずその後光に平伏したくもなったもの。

という訳でロックであった。
つまりは、洋楽の洗礼なのであった。
つまりは、無我夢中、であった。

ユキオのところのねえちゃんがKISSのファンで、
で、カツユキのところの兄ちゃんがエアロスミス、
そう言えば、タカシのところのねえちゃん、
いまだにベイシティー・ローラーズ、なんだろ?
ありゃ駄目だ、まじで、話にならねえ。
でもさ、ミユキのところのにいちゃんとか、
まじで極道の盃貰ちゃった人で、
米キャンからの流れもの、
輸入盤の、グランド・ファンクやら、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルやら、
ジェームス・ギャングやら、オールマン・ブラザーズやら、山程持ってるって言うけどさ、
欲しけりゃやるよ、って言われたんだけど、
そんなもの貰ってもちょっと訳わからねえしなあ。
米キャンの輸入盤かあ、なんかちょっと違うよな。
それを言ったらクニヒロのところのねえちゃんなんて、
高校中退でいまは本ちゃんでドブ板のキャバスケ。
アタイはもうソウルしか聴かないわ、なんて感じで。
ああコクジンかよ。あいつも可哀想になあ。
コクジン行っちゃったら、もうあのねえちゃん駄目だろうな。

という訳で、そんな中、
かくなる俺の役割りは、と言えば、
実は実は、俺のねえちゃんが、実はつまりは、この、QUEEN、
よりによってそんなもののファンだったにである。

そんな関係から、俺はそんなリーゼントの糞ガキたちの中にあって、
なにが哀しくてか、この、QUEENの担当。
あの白タイツのオバケ茄子?
なんだって俺がこんなものを、とは言いながら、
当時の少年たちにとって、
KISSよりも、エアロスミスよりも、
なによりこのQUEENこそが良い子の味方。

断然の人気を誇っていたことは間違いない。



という訳で、QUEENであった。

俺は正直、このQUEENというバンド、
デビュー当時から、その白いタイツ的な美意識が、
どうしても好きにはなれなかった。

確かに音楽的には、
他のバンドに比べても格段に上、
であることは渋々と承知しながらも、
でも、あのシェーみたいなオバケ茄子だろ?
いったい何考えてるのか、
恥ずかしくて見てらんねえよ。
こいつ、なにかちょっと、おかしいんじゃねえのか?
なのであった。

当時から、俺の一番お気に入りのバンドは、
ちょっとオトナのレッド・ツェッペリンであった。
パープルの方が判りやすいし人気も高かった、
のではあるが、
だがしかし、俺はつまりはドラマー志向であったのだ。
レッド・ゼッペリンが果たしてどんなバンドであろうとも、
少なくともドラムに関してだけ言えば、
このバンドに勝てるものはいない、そう固く信じていた。

その数年後にはセックス・ピストルズからJAMからダムドから、
そして、クラッシュへとつながるロンドン・パンク、
そして必然的にジョニー・サンダースからイギーポップからの、
ニューヨーク・パンクに飛び火しては、
ついには、いきなりの先祖返り、
かのロックのゴッドファーザーであるところの、
ローリング・ストーンズに落ち着く、という俺自身の行く末から見ても、

QUEEN?なんのこっちゃ、というところ、であったのだが・・

まったく、ねえちゃん、なに考えてんだよ、と。

そう俺はあの当時から、このQUEENというバンドに、
どうにも理解のできない、意味不明な、闇を、
感じとって居たのかもしれない。




だがしかしこのQUEENというバンド、
俺の中ではすっかりと黒歴史、ではありながらも、
だがしかし、何はなくともその音楽性である。

フレディの5オクターブを操るその超絶なヴォーカル、
ブライアン・メイの津軽三味線奏法、
そしてロジャー・テイラーは、
曲がりなりにも上手いとは思えないが、
それでも一応は、ジョン・ボーナムを目標としているという。

まあそんな因果から、このQUEEN、
少なくとも、シアー・ハート・アタックから、
そして、オペラ座の夜、そして華麗なるレース、
遂には、世界に捧ぐ、に至る、
つまりは、このQUEENというバンドの黄金期、
それぐらいまでに関しては、
それこそ、レコード針を落としてから、
A面からB面、その全曲、そのはじめからおわりまで、
一字一句、一音符さえも間違わぬほどに、
聴いて聴いて聴きまくった、そんな覚えも、確かに、ある。

その白いタイツのおばけ茄子が、
あるいは、思い切り濃いシェえ~、
そんなあの妙に強烈な自称貴公子が、
しかし殊、音楽性、という意味においては、
まさに、誰をも寄せ付けない才能に溢れている、
それだけは確かであった。

だがしかし、このおばけ茄子、
あまりにも、気持ちが悪すぎる・・

その後の、バーイシクル、から始まる大いなる倒壊、
そして、フラッシュ・ゴードンあたりに至る過程において、
その悪い予感があっけらかんと的中をしてしまう訳で、
ついには、まさに、恥辱、以外のなにものでもない世界に
突入していくのではあるが、

まあその頃にはすでに俺は、ねえちゃん、どころか、
溜まり場と江ノ島と新宿を行ったり来たりしては、
つまりは、矢沢永吉とクラッシュとアラベスクと荒井由実、
そんな倒錯的な不良生活の日常の中で、
家にさえもさっぱりと寄り付かなくなっていた訳で、
つまりは、QUEENなど、知ったことではなかった、
というのが正直なところ。

という訳で、そんな俺が、いまさらながら、QUEENだって?
なんのこっちゃ、と。



という訳で、ベビーメタルの豪州公演が大勝利の中で終わった、
その日曜の朝10時。
なにが哀しくてか、俺はIMAXリンカーン・スクエア、
その巨大映画コンプレックスの中でも、
期限切れ寸前の地下室の小劇場、
最新音響設備の巨大スクリーン、どころか、
試写室のような小部屋を貸し切り状態。

良かった、席が空いてて、と無邪気に喜ぶカミさんの隣りで、
最早伽藍堂に近い空席ばかりの、
その薄ら寒いほどの場内のそのど真ん中、
両腕をこれ見よがしに鷲の翼のように左右に広げては、
両足をこれでもか、と前の座席の背もたれにおっ立てながら、

日曜の朝の10時から、公開一ヶ月もたった糞映画、
三十年も前にエイズでおっ死んだ、腐れオカマ:QUEEN、
なんていうバンドの苔の生えた伝記映画、
そんなもの、どこのバカが観に来るって言うんだよ、と、
鼻で笑いながらも、

それでも上映時間ギリギリになってから、
あれよあれよと埋まり始めた薄暗い場内。

そのどいつもこいつもが、
すでに老齢に両足を突っ込んだヨイヨイたちか、
あるいは、なにかを勘違した、いま流行りのLGBTな方々、
いずれにしても、あの時代、その空気、
そこに充ちていた、あの毒々しいまでのロックの息吹を、
感じさせるものなんて、ひとつもありゃしねえ、と。

と、そんな奴らに当てつけるように、
さり気なくも確信的に、バーイシクル、バーイシクル、
と、そんな旋律を、これ見よがしに、歌っていた俺、
であった訳なのだが・・







という訳で、ボヘミアン・ラプソディ、
つまりは、フレディ・マーキュリー、なのであった。

キラークイーンに始まり、I WANT TO BREAK FREEに至る前、
つまりは、DON’T STOP ME NOWで封印された、
この俺的なQUEENの歴史。

当時の洋楽ロック御三家、
KISSと、エアロスミスと、そして、このQUEEN、
その中にあっても、異彩の中の異彩、
いまとなっては、そんな雑魚的なロックバンドたちとは、
レベルが違うまでの高い評価を勝ち得たこの異色のスーパーバンド:QUEEN。

音楽的には、まさにロック界に惑星直列的なまでの大変革を齎した、
このスーパーバンド、でありながら、
その評価が異様なまでに低い、あるいは、敢えて低く抑えられ続けた、
そのQUEENというバンドの呪われた歴史。

その良い意味でも、そして悪い意味でも、
中核であり、看板であり、象徴であり続けた、
この、フレディ・マーキュリー、という謎のロック・ボーカリスト。

当初、俺がフレディ・マーキュリーに対して感じていた違和感、
あるいは、嫌悪、或いは、気味の悪さ、気持ち悪さ、
つまりは、エンガチョ感。
当然のことなら、イギリスの人々はすでにそれに気がついていた。
あるいは、それを、前提としていた。
なぜならら、そう、その名前。
QUEEN、つまりは、そう、このQUEENという名前自体からして、
そのものずばり、そういう意味、であったのだ。

という訳で、そのあまりにもずば抜けた音楽性、ながらも、
QUEENはその存在自体、異質、のバンドであった。
そうでなかったら、誰がよりによって、
わざわざそんな名前をバンドにつけるというのか。

という訳で、QUEENのデビューは、
そのあまりにもずば抜けた音楽性を、
誰もが認めていたにしても、
しかしそれは、決して恵まれたものではなかった。

しかし、フレディ・マーキュリーは、
敢えてそれを、やり続けた。

なぜか。

それが、我が、我であるから。
つまりは、それだからこそが、ROCK だったからである。

QUEENという名前をつけて、
自らデザインした白鳥の衣装を着ては、
白いタイツにもっこりとおばけ茄子を浮かべながら、
フレディ・マーキュリーは歌い続けた。戦い続けた。

なぜならばそれが、フレディ・マーキュリーだから。

そしてそれこそが、ロック、だから。

そしてフレディ・マーキュリーは戦い続けた。
すべての偏見と、すべての嘲笑と、
すべての、エンガチョ、つまりは、イジメと隔絶に対して。

音楽、という絶対的な才能を武器にして・・



という訳で、このボヘミアン・ラプソディ。

QUEENと、
そして、そのリードシンガーであった、フレディ・マーキュリー、

その人生、その全貌を辿る、異色のロック伝記映画、
であるらしい。

けっ、たかがオカマの糞バンド、
なにを今更のバーイシクル・レースの、フラッシュ・ゴードンか、
と形ばかりは鼻で笑っていたこの俺が、
その冒頭に流れた、あの懐かしき旋律。

ボヘミアン・ラプソディ・・

いまになって改めて聴く、そのあまりにも美しい旋律の中で、
思わず、ふと、気が遠くなっては、
知らぬうちに、不覚にも、熱い涙が込み上げて来たのには、
俺自身、心底、驚いたものであったのだが・・








いや、でもさ、そう、でもさ、と敢えて言わせて貰うぜ。

でもさ、そう、フレディ・マーキュリーだろ?

つまりは、QUEEN、ぶっちゃけ、オ・カ・マ。
そんなことは世界中のひとびとが、
そのスラングを聞いたとたんに誰でも瞬時にして判った、
その筈なんだけどさ。

という訳で、デビュー当時から、
ぶっちゃけ、誰にも相手にされなかった、
このオカマちゃんバンド、ではあったのだが、
ただそう、幸か不幸か、
唯一、その事実にまったく気づかない妙な勘違い乙な人たちがいた。

つまりは、ジャパン、東洋のガラパゴス・・

その高い音楽性を誇りながら、
泣かず飛ばすのまま三年間、
お蔵入りに同然に封印され続けたファースト・アルバム、
デビューから四年後にようやく完成したセカンド・アルバム、
ではあったものの、事実上それも、黙殺に近く、
という訳でこのオカマちゃんバンド、
泣かず飛ばすのまま藻屑として消え去るのみ、
そんな命運にあった筈のこのQUEEN:おかまちゃん、というバンド。

そのおかまちゃんが、どういう訳か、
東洋のガラパゴス、ジパング、なんてところで、
妙な人気を誇っている、そんな噂だけが、
この首の皮一枚の瀕死のロックバンドの、
その唯一、最後の、チャンス、であった訳だ。

そう、このQUEENというバンド、
バンド名に、オカマちゃん、と名乗っては、
出っ歯のブサイクな男が化粧をしては、
ハードロックに合わせて白鳥の湖を踊る、
そんなゲテモノバンド以外のなにものでもなかった筈の、
その瀕死のクソバンドが、
そんなこととは露とも知らぬ、ジパングの女性ファンたち。
そんなものがいったい、どこから降って湧いたのか、
そんな訳のわからない、まるでなにも判っていない、
そんな東洋の女性ファン。
つまりはそう、あの我らがバイブルであった
ロック雑誌:ミュージックライフ。
このゲテモノ趣味のオカマバンドを、
なにを間違えたか、純白の貴公子だ、白馬の王子様だ、と、
わけも分からず、なにもわからずに幻想を煽り続け、
その喧伝にすっかりと騙された、いたいけな女子供の洋楽ファン。
QUEENは、そんな無邪気な東洋人たちの勘違いを支えに、
辛くも生き抜いては、ついにあの名作、サード・アルバムである、
シアー・ハート・アタックをリリースするまでに漕ぎ着ける。






QUEENのサード・アルバム、シアー・ハートアタック、

たとえ、それを歌っているのが、
オカマであろうが、白タイツのおばけ茄子であろうが、

ブライトン・ロック、キラー・クイーン、
フリック・オブ・ザ・リスト 、 谷間のゆり
ナウ・アイム・ヒア、そして、ストーン・コールド・クレイジー

この名曲のつづれ織り前に、見た目が、ファッションが、オカマが、人種が、
そんな御託を並べられる奴など、いる筈がない、居てはいけない。

だって、これは、ロック、そう、ロックなんだぜ。

それこそが、まさに、このフレディ・マーキュリーが、
ロックという音楽に、託した、その想いであった筈だ。
全英チャート、第二位、その堂々の大ヒットを記録したこのサード・アルバム。

その勢いを元に、QUEENは遂に、音楽史の歴史に残る、金字塔を打ち立てる。

四枚目のアルバム:「オペラ座の夜」

言うまでもなく、この映画のタイトルともなる、
ボヘミアン・ラプソディ、を看板曲としたこの世紀の名盤。

発売と同時に全世界でヒットチャート一位を独占し、
賞という賞を総なめ。
いまだに、ロック史上最高の名盤と謳われる歴史的偉業。

フレディ・マーキュリーというアーティスト、
敢えてバンド名を、QUEEN:オカマちゃん、と名付けては、
音楽性だけを武器に世界に戦いを挑んだこの純白のブ公子が、
その才能と情熱だけを武器に、遂に世界を手中に収めた、その瞬間であった。




で、フレディ・マーキュリー、
へえ、インド人だったの?
まさか、ってか、俺、フレディ・マーキュリーは、
アルメニア人、って聞いていた覚えがあってさ。

で、ええ、結婚してたの?女と?

いや、俺が聞いた話では、って、
またそう、当時の不良仲間同士での与太話、ではあるのだが、
知り合いにその世界ではちょっと有名だった、
いかれたグルーピーのねえちゃんがいてさ、
あの、レインボウの、コージー・パウエルとやった、
ってな話で、一躍名を上げた人なんだけど、
そのピーのねえちゃんから、
QUEENは、ホモよ、ってな話を聞いてたんだよね。
というのも、あのブライアン・メイを、
なんとなく、ジミー・ペイジみたいで素敵、
とか言って、どんな秘策を使ってか忍び込んだホテルの部屋、
で、ドアの間から顔を覗かせてたあの巨体を前に、
これでもかと思い切りシナを作るキラークィーン気取りの小娘を前に、
HOW MAY I HELP YOU、と、コテコテのブリティッシュアクセント。
で、その手には、なんと、楽譜やらエロ本、どころか、
何が書いてあるか判らない、分厚い物理学の本が開かれていた、と。

その時には、ああ、パーティだったら、ロジャーの部屋に行けば良いよ、
と言われたらしいのだが、そんな訳で、
QUEENというそのバンド名が、いったいなにを表しているのか、
それさえも知らなかったいたいけな日本女性ファンたち。
ロック、というよりは、アイドル、
ともすれば、テレビでお馴染みの歌謡曲のちょっと偉い奴、
ぐらいにしか認識していなかったやも知れぬ、
その、ジャパニーズ・グルーピーの小娘たち、
この美貌の女形:QUEENとうバンド、
その喧伝に騙されて迷い込んだその先が、
すべて、ロジャー・テイラーの部屋に導かれては鮨詰め状態であった、
なんて話を聞かされて、
で?
で、フレディ・マーキュリー?
だから、とそのグルーピーあがり。
だから、フレディは、つまりは・・・
つまりは?
男の子。
男の子?
判らないの?判らないわよね。判るわけないだろうけどさ。
つまりは?
つまりは、そう、男の子、二丁目さん、なのよ。
二丁目?
バカ、そこまで言わせないでよ。

とそんな話を聞くともなく聞かされていたその手前、
後になってから、ついにはその、QUEENという単語、
そこに隠された本当の意味を知るにあたって、
そう、後々にあのムキムキマッチョの漆黒の口ひげ、
あの姿に至る、その過程から考えても、
つまりは、フレディは、その最初から最後まで、
こってこての、二丁目さんであった、と思っていたのだが・・

へえ、フレディって、バイだったんだね、と。

まあ良い、そんなことはどうでも良いのではあるが、
そう、つまりはQUEEN、
そのデビュー当時から、我が日本にはなにかと縁が深く、
そして、その姿を、どこでお見かけして、
なんていうここだけ的な裏話が次から次へと・・

という訳で、思い知ったか、な訳である。
それこそが、時代の空気、という奴なのである。
つまりは、そう、生の声、という類の与太話、なのであるが、

改めて言わせて頂ければ、
このグルーピー嬢の言葉にもあるように、
あの当時、LGBTなんてものが、
まさかこの世に存在する、なんて、思っても見なかった、
それぐらいなまでに、
あの時代、少なくとも、俺達、
つまりは、土曜の夜のバリバリの健康優良不良少年たちの中にあっては、
LGBTなんていう世界は、
ムショ上がりで妙な癖を覚えさせられたアニキ~な方々、
つまりは薔薇族的世界に限定されたもの、
そこまでに、禁断、というよりはむしろ、異端、あるいは、異質、
ともすれば、妖怪変化、というよりは、まだ見ぬ宇宙人に近いまでの、
まったくもって訳の解らない世界、であった筈なのである。

でまあ、そう、その後、時代は流れ流れて21世紀。
すでにここ、ニューヨークなんてところで暮らしている関係もあって、
その手の話は、耳にタコ、どころか、あまりにも普通。
なにひとつとしてなにも、こだわりも引っかかりもなく。
下手をすれば、一時期は、自ら率先して、
その手の人々の発展場、つまりはハードコア・ゲイ・クラブ、
なんてところでDJ三昧、なんてことを続けていた関係もあって、
いまだにその手の方々とわけ隔てもなく、
どころか、そう、なんの屈託もなにもなく、
普通にご近所づきあいお仕事つながり、
あるいはともすれば、普通な意味でのお友達をしている、
なんていうことにもなっている訳で、

でもさ、その手のケのなにもない、
120%ノンケの塊りであるところの俺としては、
べつに、ゲイでもノンケでも良くねえか?
そんなの、ただの好き好き。
あんたは巨乳好き、ああ、俺はデブは駄目だ。
貧乳でも美形が良いな、とそれぐらいのただの好み。
あんたらが逆に、勝手にそれに、拘り過ぎてんじゃねえのか?
つまりは、おせちも良いけどカレーもね、
あ、ごめん、俺、ベジタリアンなんだよね、と、
そのぐらいの認識で十分なんじゃね?
なんていう無邪気なことを言ってしまったりもするのだが、
いざ実際、そういう方々から、
なにを間違えてか、くどかれ告られラブレターを貰い、
なんてことが度重なっては、
だから、悪い、俺、その手のケ、まるでなくて、
と苦笑いで返すそのたびに、

あなたは、判っていない、と詰られては責められて・・

いや、分かってる判ってないじゃなくて、
それはつまりは、俺は違う、ただそれだけの話な訳で。
つまりはこんなゲイクラブなんてところでクダをまいていながら、
面白がっているのはものの15分、
そのうち、このどこもかしこもゴリゴリのガチムチの固い固い筋肉の塊り、
そういうものがつくづくイヤになってきて、
あの淑やかで、柔らかくて良いにおいのする白い肌、
つまりは、それが女であったら、ババアでもブスでもデブでも構いやしない、
そんな気にさえなってしまう、なんていうことからして、
悪い、つまりは俺、そういう人。
そんなことを、思わず漏らしてしまったりもしたのであるが。

そう、そんな時代、つまりはこの21世紀的な世界。

いまや、LGBTなんて、どこにでも吐いて捨てるほどいる、
あるいは、AIDSなんて病気にしたって、
ちょっと性質の悪い持病、ぐらいの認識しか持たれていない、
そんな時代の中にあって、

何故に、いまになって、ボヘミアン・ラプソディ、
そんなフレディ・マーキュリーの伝記映画、なのか、と。

ただ、それが、知りたかった、それだけの話なのだ、と。




という訳でだ、
正直なところ、それはまさに、嘘偽りのない正直なところ、
まあこれまで挙げ連ねてきた暴言の数々にも見られるように、
俺は、このボヘミアン・ラプソディという映画、
ちょっと見、正直、よく判らなかった。

いや、判ったよ、判ってはいた、その筋書きぐらいは。
なんてったって、PG13、つまりはお子様向けの健全たる一般映画。
セックス・ドラッグスでもなければ、
血潮飛び散るバイオレンスもなければ、
ともすれば、ロックンロール、でもなく、
主観的な抽象的イメージ映像のつづれ織り、なんてのもまるでなく。
言ってみれば、忘れかけたロックの偉人の、その美談的な啓蒙映画。

まあ確かに、そのクライマックス、
嘗て家族とまで誓いあった仲間たちが志を異にしては離れ離れ、
それが、ライブエイド、というあのいかにもブームタウン・ラッツ的なイベント、
その趣旨はとりあえずとして、その世界初の巨大イベントで見事に花開き、
いやあ、めでたしめでたし、ってな感じの、
超ウルトラご都合主義的な感動巨編、と。

ただ、正直なところ、俺は泣かなかった。
と言うか、この映画の、いったい、どこで、泣くべきなのか、
なにを悼むべきなのか、慈しむべきなのか、
その勘所が、どうしても、よく、判らなかった、
そんな気がしたのである。

ただ、そうでありながら、
確かに、映画が終わっても席を立てなかった。
すぐに立つ気にはなれなかった。

あのシン・ゴジラの時のように、
思わず居座って、二度三度と見続けたい、
さすがにそこまでは思わなかったが、

通常であれば、ストーリーが終わり、終奏のタイトルが流れ初めた途端に、
さあ、終わった終わった、とすぐさま席を立つ、そんなせっかちなニューヨーカーたちが、
最後の最後のテロップが消えるまで、そして灯りが点いても尚、
席を離れようとはしなかった。
で、箒を片手のお掃除おにいさんたち、
つまりは、見るからにゲトーなコクジンのクソガキたちが、
開いた出口のところに控えながらも、
呆然として席に座り続ける人々を前にして、いかにも慣れた感じで、
いいよいいよ、急がないから、とそんな感じの優しい笑顔。

この映画、いつもそうさ。
映画が終わっても、誰も席を立たない。
みんな泣いていて、でも、みんな凄くハッピーなんだ。
俺?ああ、勿論見たさ。
泣いたよ、それは泣いたさ。
だから判るんだよ。
この映画は素晴らしい映画だ。
なんど見ても泣いてしまう。
いやあ、このバスボーイのアルバイト、やって本当に良かった、
俺はこの映画をみて、初めてそう思ったんだ。

映画中盤から泣きじゃくっていた我が愚妻が、
トイレに行ったままいつまでも帰らず。
両手に二人分の真冬用の分厚いオーバーコートを抱えながら、
その妙に間延びした待ちぼうけの時間、
そんなガキどもと他愛ない会話を続けていたのだが。

長い長いトイレの後に、
ようやく化粧を直して来たであろう我が愚妻。
お腹減ったよね、と笑顔を繕いながら、
ああ、腹減ったな、とは返しながらも、
果たして、とちょっと不思議な気がしていた。
俺、なんで泣かなかったのかな、と。

なんか俺、ベビーメタルで、日々感動過多って言うかさ。
そう、日夜あのベビーメタルの壮絶な感動の嵐に晒されて、
そんな関係から、もうそんじょそこらの感動ものには、
この感情的感性がバカになっちゃっていたりするのかな。

ベビーメタルってそんなに感動的なんだ?
ああ、感動するねえ。
今回の豪州の三連戦にしたってさ、
この絶体絶命の底の底であった筈が、
会場を埋め尽くした大観衆の、
あのオージーたちの怒涛の大歓声の中で、
不死鳥のように蘇る三姫の姿。

うわあ、すげえ、すげえ、すげええ、ってさ、
もう、見ているだけで、思わず涙が滲んでさ。

と今更ながらにそんなことを呟きながらも、
ただ、と、改めて言わせて貰えば、
確かに、この、ボヘミアン・ラプソディの余韻、
この妙な切なさ、この妙な愛惜感、
この妙な重さと、そしてなにより、この身体中を包んだ清涼感。
その異様なほどの観後感の中で、
正直、これはヤバイもの見ちまったな、という予感はしていた。

ヤバイもの?
そう、つまりは、これ、
あまりにも身近だった人の訃報を聞いた時、
すぐには涙も出ず悲鳴も上げず、
へえ、なんだ、そうなんだ、と、
ちょっと妙な穴の中に入り込んだような、
そんなとぼけた感情しか持ちえないまま、
その訃報の持つ痛みが、
まるで踵にささったトゲのようにして、
事あるごとにずきりずきりと痛み始める、
あの妙な感覚に酷似していたのである。

ダチが死んだ?まさか。
だって、フレディ・マーキュリー、
死んでからすでに、三十年近くも前なんだぜ。

今更そんな昔話に、どこでどう心が痛むものか、と。



という訳で、一夜明けた月曜の朝。
ベビーメタル的にはすでに2018も仕事納め、
そしてクリスマスを前にして、日一日と高まるこの終末感。
今となっては毎年の恒例となってしまった、
義理の父の三回忌に向けての妻の里帰りを前にして、
そうかまたクリスマスも正月もこの犬と二人ぼっちという訳か、
そんな妙な心細さの中にあって、
ふと、観たばかりのあのボヘミアン・ラプソディ、
あの時、鑑賞後に漂っていた妙な感覚が、
時間を経るごとに、薄れるどころかますますと、
妙な具合に膨れ上がって来て・・

つまりはQUEENであった。
あの不滅の名曲:ボヘミアン・ラプソディから始まって、
伝説のチャンピオンから、僕を止めないでから、
そして、忘れもしない愛にすべてを:SOMEBODY TO LOVE、
その嘗て知った名曲の数々。

改めてあの旋律が、そしてなによりそこに秘められていた、
フレディ・マーキュリーという人のその生き様が、
その想いが、メッセージが、
次から次へと打ち寄せる波のように押し寄せてきては、
それはまさに錐揉み状態。

つまりは・・あの曲、あの旋律、あの歌詞には、
実はこんな想いが、篭められていたのか・・

そう思った時、いまになって不覚にも、
ジワジワと膨らみ初めた涙腺が、
ついには籍を切ったように流れ初めて・・

そう、フレディ・マーキュリー、なのであった。

なぜいまになって、フレディ・マーキュリーなのか。
なぜこの時代、ロックも、LGBTも、
あるいはAIDSさえもが、深く認知され、
広く許容され、それはまるで、あまりにも普通になってしまった、
そんな時代にになって、
改めて、何故に、フレディ・マーキュリー、
死後すでに三十年近くを経たその人生を、
何故にいまになってわざわざ映画になどする必要があったのか。

そしてなにより、そんなイニシエのロックスターの人生が、
何故にいまになって、これほどまでに沢山の人々に、
感動を与えるようなことになったのだろうが・・

その理由が、その真相が、
ストーリーの終り、その最後のテロップがスクリーンに消えた、
その二十四時間を経て、ついについに、
それはまるで、嵐の去ったその翌日、
晴れ上がった空にほっと胸をなでおろした、
そんな時になっていきなり、
背後から地すべりが襲いかかって来たかのように、
このボヘミアン・ラプソディという映画、
それに秘められた本当の本当の意味が、
一挙に、それはまさに、怒涛の波として、
押し寄せてきたのであつた。



改めて、フレディ・マーキュリーと言う人は、
謎の人、であった。

当時はその見るからに東洋人風の風貌を、
外人音痴な田舎者たちは、
そういうイギリス人もいるにはいるのか、
などと、なんの疑問も持たずに受け入れていたのだろうが、
改めてこの映画において、
フレディ・マーキュリーは、保守的なインド人家庭の出身、
と描かれていた筈。

インド人?フレディ・マーキュリーが?
以前に小耳に挟んだ与太話的な裏話では、
フレディ・マーキュリーは、実は、アルメニア系、
と確かに聞いた覚えがあったのだが、
このWIKIPEDIAの時代、真実はすぐに目の前に転がり出る。

フレディ・マーキュリー、正確には、イラン系インド人、
つまりは、古くはペルシア(イラン)から移民したパルシー、
つまりは、ゾロアスター教徒の家系であった、という。
フレディ・マーキュリーの本名であるファルーク・バルサラ、
その名字の所以であるところのグジャラート州に暮らすインド人たちが、
歴史的な意味でも印僑と呼ばれる世界的な流浪の行商人たちであったように、
それはまさに終生に渡って世界世界を流れる民、つまりは、ボヘミアンの血族。

フレディ・マーキュリーはそんな印僑的なインド系移民として、
アフリカはタンザニアに生まれる。
その後にはインドに移り、ボンベイの学校に通っては、
そしてアフリカ:ザンジバルへと移り、
そこで戦乱に巻き込まれては難民同然にイギリスへと渡り、
ロンドン近郊の片田舎:ミドルセックスに辿り着く。

嘗てはお役所の会計士であった堅物エリートの父親が、
すべてを投げ売って逃げ延びたイギリスの地においては、
近郊住宅の使用人扱い、つまりは小間使いのお手伝いさん。
ようやく辿り着いたその安息の地において、
しかし、貧しき移民の家族として、
鬱屈した境遇に甘んじるしか、為す術もなかったに違いない。

そしてフレディ・マーキュリーであった。
遥か昔に故郷を失っては流転に流転を繰り返す
そのさすらいの日々を運命づけられたこのボヘミアンの末裔、
ロックンロールと、オペラと、シェークスピアをこよなく愛した、
この孤独な移民青年の胸に、いったいなにが、満ちていたのであろうか。

その背景の中で、改めて、このQUEENというバンド、
そのあまりにもとらえどころのない音楽性、
そのときとして空想勝ちな、
詩的というよりは、倒錯的且つ内省的な歌詞を思うに、
つまりはそう、それこそが、世界をさすらう流民の調べ、
つまりは、ボヘミアンたちの奏でるロック=ラプソディ:狂詩曲、
それは、孤独な流人の、魂の歌声、そのタペストリーであったのだな、と。



そして改めて、QUEENの音楽性である。
この映画の中にも触れられていたように、
ハードロックの隆盛から飽和から、
その後のメタルと、そしてパンクロック・ムーブメント、
そんな時代を前にした、あのロック全盛であった時代において、
フレディ・マーキュリーは、敢えてそこに、オペラ、を持ち込もうと試みたのである。

当時、オペラのオの字も知らなかった幼気なロックの糞ガキであった俺達にとって、
その、フレディ・マーキュリー言うところの、オペラ的な音楽、
つまりは、弦楽器のアンサンブルの代わりに、
多重コーラスによる、荘厳を持ちんだ妙なジャンル。

それはまさしく、ロックという音楽に、美しさを持ち込んだ、
まったく新しい画期的な旋律であったことは間違いない。

果たして、このロックとオペラの融合という、
まったく新しい旋律を、当時の人々が、
いったいどう理解していたのであろうか。

クィーンはね、と訳知り顔の先輩たちがこう宣もうた。

QUEENは、ハードロックでも、ロックンロールでもない。
それはむしろ、プログレッシブ・ロック、と言うか・・

そう、当時のロックの糞ガキたちにとって、
QUEENの音楽性とは、
クラッシック、あるいは、オペラというよりは、
とてもわかり易い、プログレッシブ・ロックであった。

それはまさしく、ポップな YES、であり、
陽気な キング・クリムゾンであり、
不良じゃない レッド・ゼッペリンであり、

そしてなにより、そこが大いなる間違いでもあったのだが、
こと日本において つまりは、あのミュージックライフ誌においては、
QUEENは、なにより、ロックというよりはアイドル、
つまりは、あのベイシティ・ローラーズの向こうを張った、
いかにも少女漫画的な美形的な白馬の王子様的な、
つまりはそう、音楽性よりはむしろ視覚的にアピールするべき、
女学生の友、つまりはおんな子ども向けの歌謡ロック、
という売り方がなされていたのである。

デトロイト・ロック・シティのKISS、
WALK THIS WAYのエアロスミス、
そんな蛮族的なロックの猛者たちに対し、
この、白い貴公子を思わせるQUEENというバンド。

まさにお嬢ちゃま好みの、いかにも少女漫画的な歌謡バンド、
であった訳なのだが、
そのイメージに騙されたグルーピー嬢たちの狂騒もさることながら、
ありとあらゆる面で、このQUEENというバンドは、
誤解に誤解を積み重ねては、ますますと妙なところに祭り上げられた、
まったくもって訳の解らないバンド、であった訳なのだが、
そして改めて、その謎のバンドが果たしていったいなにを歌っていたのか、
正直なところ、この映画を観るまでは、
実は誰も、気がついていなかったのではないだろうか。

では果たして、いまになって、
そんな謎のバンドであったところのこのQUEEN、
女子校生たちのアイドルであった筈が、
世界の音楽史を根こそぎ覆すような名曲を発し、
その後には、ゲイのシンボル、なんてところに祀り上げられる、
デビュー以来、流転に流転を繰り返したこのバンドが、
果たしていったい、なにを目指していたのか。

それはまさにこの映画のタイトル、
つまりは、そう、ボヘミアン・ラプソディ、
ボヘミアン、流民、あるいは、放浪人、つまりは、旅人。

そしてそこにあったのは、まさしく旅人の宿命であるところの、
孤独、では、なかったのだろうか。

そう、このボヘミアン・ラプソディという映画、
人々は、そこにいったいなにを観たのか。
果たして、そのなにに感応し、そこでなぜ、涙を流したのか。

敢えて言おう。それはまさしく、孤独。

このフレディ・マーキュリーという人が宿命的に持ち続けた、
そして、その歌のテーマとなり続けたのは、
まさしく、この、孤独、という奴だったのだ。



改めて、当時を知る俺達が何故に、QUEENというバンドに対し、
正面切っては、好き、と言えなかったその躊躇、
その理由とはいったいなんだったのだろうか。

あの白馬の王子さまのような少女趣味なステージ衣装から、
女の子向けのアイドルバンド、として売り出された、
そのイメージだったのだろうか。

或いは、ロックにオペラなんてものを持ち込んだ、
その訳のわからない、妙な精錬さに対してだったのであろうか。

確かに、ポップなYESであり、陽気なキンクリであったところの、
このQUEENというバンド。
五オクターブを自由自在に操るそのボーカル芸の凄まじさから、
かのレッド・ゼッペリンを並び称されることも多かったのだが、
前述もしたように、このQUEEN、
その特異性の最もたるものとして、
それまでのロックの持ち得た、まさに蛮族性、あるいは野獣性、
つまりはロックというイメージに必要不可欠であった、その露骨なほどの不良性、
そのあまりに決定的なまでの欠如であった。

物理学専攻であった一見して学者風情であったブライアン・メイを初めとして、
歯医者(実は歯科技工士)志望のロジャー・テイラー、
このQUEENというバンドには、不良性が微塵もなかったのである。

それは見るからに物腰の柔らかそうな、
つまりは、頭の良さそうな、
いかにもお勉強のできそうな、
お行儀の良さそうな優等生的な、
つまりは、蛮族的ロックというイメージからは、
とことんかけ離れた、異色のバンド。

そんなQUEENというバンドを指して、
QUEENは、童貞のバンドだ、
と言い切ったりもしたのである。

QUEENが好きなんてやつは、チンカス臭い童貞野郎さ。

確かに、あの一種、気味が悪いほどにまで精錬なイメージ、
その溌剌さから、爽やかさから、
何よりその聖なる祝祭に溢れた音楽から、
そのすべてにおいて、このQUEENというバンドには、
不良性が微塵もなかった。

このバンド、オペラというより、
賛美歌を聞かされているようだな。

そんなQUEENというバンド、
当然の事ながら、蛮族的ロッカーたち、
不良性のみを最後の拠り所とする、
不良系達にはことごとく総スカン。

では不良性とはいったいなんだったのか?

その蛮族ぶりっ子の少年たち、
その頭にあったのは、
喧嘩と、そしてセックス。
頭の中が張り裂けそうな程に
性的欲求不満の塊であった少年達にとって、
QUEENというバンドの持っていた
賛美歌さえも思わせるその清廉性、
そのあまりに茶番的なまでのすれ違い。

それはつまりは、少なくとも当時のロックの糞ガキたちにとっては、
QUEENのその恐れを知らぬ浮世離れさこそは、
セックスを知らぬ童貞たちの、無邪気な馬鹿騒ぎにしか思えなかったのである。

後にウェインズ・ワールドの看板シーンにもなったボヘミアン・ラプソディ。
あの、いかにも女にもてなそうなオタクでナードでギークな主人公たちが、
そんなイケてない男ばかりの詰め込まれた車の中で、声を合わせて歌う、
このボヘミアン・ラプソディ。





そう、俺にも覚えがある。
それはまだ少年と言われていた時代。
休み時間の教室でニキビ面を並べては、
あのボヘミアン・ラプソディを、
まさしく、完コピ、していた俺たちである。
それこそはまさに、童貞のパワーであった。
つまりは少年の世界であった。

女の甘さも酸っぱさも知らず、
女子にだって性欲がある、
そんな当然の事さえ知らぬまま、
己の下心を恥の中にひた隠しに封じ込めたまま、
自身の憧れるロックという音楽に秘められたその暗号に、
何一つとして気がつかなかった少年たち。

ロックという音楽の持っていたあの自堕落さ。
セックスの後の、あの甘い倦怠や、
恐る恐る吸い込んで紫煙が見る見ると身体中に溶け込んでいく、
あの自虐的な快楽を知らず、
虚ろな夢の中で寝返りをうった、
そのはだけたシーツの中から覗いたあられもない白い肌。
そこに浮いた汗から、むき出しの陰毛から、その奥に秘めた潤いの訳さえも知らぬまま、
ロックと言う音楽、その激しいビートだけを、
遣るどころのない性の発散の捌け口としていた
そんな無邪気なロック少年たち。

そんな少年達にとって、
QUEENこそがまさにアイドル。
放課後の帝王たち、元気いっぱいのニキビ面の少年たちが、
噎せるような青い匂いを発散させながら、
歌い続けた童貞のラプソディー。

そののち、
運命の悪戯か、神の御心か悪魔の囁きか、
ひとりふたりとその秘密の花園のその危ない世界に飛び込んでは迷い込み踠きながらも浸り切り。
その甘く危険な香りが、
身体中に染み込めば染み込むほどに、
いつしか、拭いに拭い去れぬほどに漂い始める、
一種の荒み、という奴。

そう、この荒みこそが、大人の本質、であった。

いまだに同級生たちが、アイドルだ、歌謡曲だ、
なんちゃら御三家だ、とやっていたその時分に、
いっぱしのふりをしたこましゃくれたロックの糞ガキたちが、
いつしか、吸い込んだタバコに死ぬほど咽せながら、
あるいは、気合もろともに飲み下した琥珀の酒精に、
思い切り喉を焼き胸を焼きついには内臓のすべてを吐き散らし、
それでも尚且、挑みに挑み続けたオトナへのハードル、
そしてついに、童貞を切った少年たちが、
いつしか迷い込むことになったその早すぎる快楽の霧の中にあって、
嘗て、あれほどまでに心を震わせたQUEENの旋律が、
いつのまにかどうにもこうにも、
ガキ臭くて聞いてられねえ、
そんなことを呟いてしまったとしても、
誰に責められようか。

そして少年たちは知るのである。
ロックの本質とは、その魅力の真髄、
つまりはそこに見た隠しようもない不良性、
その真意とは、まさにこの、荒み、であったのだ、と。

そして、QUEENを卒業したロックの糞ガキたちは、
パンク、あるいは、ブルース、あるいは、ジャズ、という音楽、
つまりは、その荒みをスパイスとした、大人の音、
或いは強いて言えば、その荒みばかりを凝縮させたような、
おどろおどろしくも、甘く危険な香りを漂わせた、
その、ルーズでアンニュイで重々しくも自堕落な、
しかし抑えるに抑えられるパワーを秘めた、
つまりは、そう、ロックという音楽、その真髄、
その深みの沼の底の底にまで引きずり込まれることにもなったのだが。

改めて、そんなロックの糞ガキたちにとって、
童貞のガキの馬鹿はしゃぎ、であったところの、
QUEEN、なんていうバンド、
はっきり言って、知ったことじゃねえな、
小便臭くて、聞いてられねえぜ、
と宣うたりもされたものなのだが、

だがしかし、当時のそんなロックの糞ガキには思いも依らなかった、
この世の深み、つまりは、逆説、という奴。

ロックという音楽の象徴した、その荒み、
セックスであり、ドラッグであり、
そして、いつしかその荒みの根本であるところの社会性、
この世の貧困であり、不正であり、不純であり、不条理であり、
つまりは、少年たちを取り巻く社会の、そのフラストレーションの根源であった、
つまりは、オトナたちの社会。
自身を束縛する、法であり常識であり秩序であり、
そんな社会の規制、つまりは俺達の知らないところですでにすっかりと出来上がっている、
このいけ好かない既成概念という縛り、そのものに対する根源的な怒り、
少年たちの関心が、みるみるとそんな次元、
つまりは、街の喧嘩なんてものよりも、もっともっと面白そうななにか、
なんてものに引き寄せられていく、その移行の中にあって、
QUEENというバンドは、その歌詞から旋律からその存在そのものに、
荒みもなければ、怒りもなく、反抗もなければ、社会性の欠片もない、

つまりはそう、何も知らない、童貞の、ガキの、チンカス臭い馬鹿はしゃぎ。
或いは、そんなオトナたちの糞社会に、これっぽっちも疑問を持たない、
優等性の、勉強めがねの、そんな腰抜けの糞ナード野郎たちの・・・

そんな無邪気な罵倒に包まれながら、
このQUEENというバンドが、
ありとあらゆる面で、誤解に誤解を重ねて来た、
その本当の理由。

つまりは、ロックが、あるいは、時代が、
そして、当時、未曾有の大不況の中にあえいでいた大英帝国、
その末期的な社会秩序崩壊の中にあって、
人々は、ある種の、荒み を、共有する必要に迫られていたのだ。

QUEEN、オカマちゃんたちの貴公子の奏でる、
お子ちゃま向けの、荘厳なるロック・オペラ・・

なんともまあ、おめでたい人たちじゃねえか、と。

だがしかし、そこに大いなる逆説が存在したのである。



少年たちが痩せ我慢に蒸せながら吸い込んだタバコが、
無理矢理に飲み下したウィスキーが、
いつしか、ボンドからアンパンから、
そして草からシャブから粉からへとエスカレートを続ける、
あの愚かな自滅への旅。

あるいは、放課後の教室で耳たぶを赤くして渡したラブレターが、
いつしか汗ばんだ手を繋ぎ、鼻息を押し殺して震える唇を重ね、
そしてついにはかさついた肌を重ねて友達と恋人の境を飛び越えた、
その無邪気にも切実な冒険の旅。
あるいは、休み時間の小競り合いが、非常階段から校庭の裏庭から、
街の路地裏から、夜の街の追いかけっ子から、
いつしか街の顔役相手の切った張ったから、
遂にはパトカーをひっくり返して火を放ち、
いつしかみんな並んで丸坊主の裁判所、
なんてところに転がり落ちる、その無頼の旅、

そんな少年たちのお決まりのドラマ、
その旅路の果てのどん詰まりに追い込まれては、
ロックも反抗も反逆も社会性も、
連帯も救済も思想も哲学も、
しいては夢も希望も理想も建前さえもが、
無残な瓦礫の山からと成り果てた現代社会。

その時になって、
そんなものとは、一切かけ離れてはかっ飛んだところに存在した、このQUEENというバンド、
その本当の凄みが、まさに燻し銀のように、
凄味を増していくのである。

嘗て、短絡的ステレオタイプの蛮族達から、
果たしてこんな優等生バンドに、
ロックなんてものを名乗らせるその理由があるのか、
そんなことさえも言われ続けた、
この無邪気で無託な童貞ナード野郎たちの御用達バンドが、
しかし、そんな旅のすべてを通り過ぎた嘗てのロックの糞ガキたちが、
いまになって漸く気づいたその真相。

果たしてこのQUEENというバンド、
その根本にあったのは、
いったい、なんであったのか。

敢えて、ロックの荒みを排除し、
社会性を持たず、反抗も暴力性も無く、
ただひたすらに、愛を、歌い続けたこのバンド。

そんなQUEENというバンドを、
たかがお嬢様相手のアイドル・バンド、
まあ確かに、歌はうまかったけどね、
まあ確かに、あのオペラっぽいコーラスは奇抜で面白かったけどね、
でも、まあ、それだけ、だろ、
と、軽く片付けられていたであろうこのQUEENという異端の徒。
そんな風変わりなだけのオカマとナードの御用達バンドが、
果たしていまになって、
何故にこれほどまでの存在感を示すことになったのか。

そう、まさに、そこに逆説があった。

セックスでもドラッグスでも、あるいは、社会性でもなかった、
このQUEENというバンド、
その一見して、人畜無害な優等生バンドであった筈の、
このQUEENというバンドが隠し持ていたいた、
その根源的な深み。

そして嘗ての無頼な少年たちは、はたと気づくのである。

深い湖の水面は得てして静かなもの、なのだ。

時として、虚勢もはったりも一切感じさせない奴に限って、
その実、思い切り喧嘩が強かったりするように、
一見して、美人でもなく、ナイス・ボディでもなかった、
見るからにぱっとしなかった女に、
ふと気がつけば、人生そのものを毟られるほどに深い入りをさせられたり、
あるいはそう、悩みも迷いもなにもない、そんな幼気な奴に限って、
その裏に、計り知れない闇を抱えていたりする、
そんな、表からは見えない、あるいは敢えてそれを、表に出さない、
そんなタイプの奴が隠し持った、その深み。

改めていまになって思う。
あの時代、セックスだ、ドラッグだ、ロックンロールだ、とはしゃぎまわっていた、
そんなロックの糞ガキたち。
ちびたヤマを踏んでは、いっぱしにいきがった振りをしながら、
あるいは、髪の毛を逆立て、ダブルの革ジャンの襟を立てては、
擦り切れたジーンズにこれ見よがしに赤いペンキを塗りつけ、
そんな無邪気な不良もどきたちから、これでもかと辛辣な中傷にさらされながら、
しかし、このQUEENというバンド、
あるいは、フレディ・マーキュリーという人物が、
敢えて黙して語らないままに、しかし、その思いのすべてを込め続けた、
この、歌、という、唯一絶対の表現手段。

果たして、フレディ・マーキュリーは、いったいなにを、この歌に託して来たのか。

その根源に、時代は、いまになって、ようやく、辿り着いた、のである。

それはまさに、底なし、とまで言えるほどの、
深い深い、絶望的なまでに深い、孤独、
ではなかったのか。

ボヘミアン・ラプソディ、

ジプシーの末裔、
故郷もなく、家もなく、国もなく、
帰り着く場所をなくしては、
土地から土地へと流れ続ける、
この流浪の民。
そんなボヘミアンたちの、魂の歌。

そこにあるのは、流民の孤独であり、
その孤独が求めるものとは、
追って追って追い続けた流浪の果ての、
その唯一絶対の終着、
その答えとは、まさしく、愛、
それだけ、であった、その筈なのに・・







という訳で、改めて言おう。

このボヘミアン・ラプソディ、

その確信的に篭められた強烈なメッセージ、

それは、少年の孤独、であったのだ。

その少年の孤独にこそ、
敢えてこの三十年前に死んだフレディ・マーキュリーという人物、
その永遠の少年たる生涯の中に篭められたメッセージを、
いまに蘇らせる、その真意がある。

故郷を追われ、国から国へと流浪を繰り返す幾万の移民たち。
その安住の土地であった筈の場所で、
虐げられたゲトーに押し込められた部外者として、
一生を飼い殺しにされる、その祀ろわぬ民。
その者たちの持つ、根源的な喪失感。

仮初の場所で仮初めの人生を押し付けられた、
そんな移民の子どもたちが一様に感じる、
そのアイデンティティの喪失感。

あるいはそんな新入りのこ汚い移民連中に、
職を奪われ、税金を毟られ、
自身の国と信じて疑わなかった母国から、
徹底的なまでに蔑まれ蹂躙を繰り返されて尚、
同調を強要されるこの不条理。

同じ屋根の下に暮らしながら、
誰一人として共通の話題を持ちえないまま、
各自が各自、手元のIPHONEを覗き込むばかりの無言の家族。

挨拶どころか、誰一人として会話を交わすこともなく、
日がな一日、眼の前のモニターをにらみ続けるだけの職場。

どこにいってもなにをしても、
手元のIPHONEばかりで気もそぞろ、
自我撮りの見栄えばかりを気にしては、
終わった途端に枕元のIPHONEを手に取る恋人たちから、

そこにあるのは、まさしく国家、
あるいは仲間、あるいは家庭、あるいは、愛、あるいは、自我さえもを喪失してしまった、
この、あっけらかんとしてしかし、
絶望的なまでに救いのない、この孤独、という闇。

そして改めてフレディ・マーキュリーである。

ボヘミアンの子孫として生まれ、
数多の運命に翻弄されながら、
そして辿り着いた安住の地で、
一生を移民として虐げられる、
そんな牢獄の中にあって、

自身のアイデンティティ、
その喪失感の中にあって、
ひたすらに、赤裸々なまでに、
愛、というものを追い続けた、
その見果てぬ夢、その大いなる徒労。

そしてなにより、その絶望的なまでの孤独、
その真髄にあった筈の、ゲイ、あるいは、バイ、
であることの轍。

自身の中に秘めた、その衝動に、
自らが驚き、そして恐れながらも、
しかし、その秘密を誰に打ち明けることもできないまま、
家族、そして、友人たち、そして妻、
その全てに、言いたくても言えない、言ってはいけない、
その禁断を抱え続けた、その絶望的隔絶。

フレディ・マーキュリーが体現したのは、
まさにその、愛の不毛と、愛への恐れと、
そして、尽きることのない、愛への渇望、
その見果てぬ夢、そのものではなかったのか。

そして改めて、この映画のそのクライマックス、
離れ離れになった仲間たち、
その嘗ての家族を前に、自身の孤独と葛藤と、
その代償としての死の病、
その懺悔を告げながら、
互いの大切さ、そのつながりのすべてに、
限りない愛を告げて上ったステージ、

そこに見たものは、ボヘミアンの民が、
孤独と喪失、その流浪の果てに、
最後に辿り着いた砂上の楼閣、
或いは、ゲイであることの轍、
その、秘められた自己に、
翻弄されて続けた絶望の中、
その、脆くも崩れ続けながらも、
しかし確実にそこに存在した、
愛の絆という陽炎、その光ではなかったのか。

そしてそんなQUEENを
フレディ・マーキュリーを、
誤解と中傷に晒されて続けた
この全てのステレオタイプ的周到から逸脱した異端の徒、
自身のスキャンダルと醜聞と、
その絶望的なまでの孤独との葛藤、
そのすべてを曝け出し、戦い続た、
この永遠の流浪の徒を前に、
ロンドン・ウェンブリー・スタジアムを埋め尽くした、
数万人の大観衆が、
如いては、イギリスが、そして世界が、
限りない尊敬と愛着を込めて、
ここに遂に、
このフレディ・マーキュリーという、
永遠の少年の存在そのものを、
胸いっぱいに、力の限りの拍手喝采とともに、
受け入れた、のである。





この映画を、移民の子として生まれた、
貧困家庭の青年の、立身出世の物語り、とするのも良いだろう。

あるいは、偏見と戦い続けた、LBGTの戦士、
そのプライドの象徴、とみるのも良いだろう。

まだロックという音楽が、
なにがしかの意味を持ち得た、
そんなイニシエの時代の古き良き寓話、
と懐かしむのも良いだろう。

ただ、死後三十年を経た、
この、ボヘミアンの生き様、
その追憶のドラマに、
世界中の人々がこうまでして感応し、
涙を流し続けた、その理由とはなんなのか。

改めて言おう、それは、孤独、ではなかったのか。

そして、この映画を観終わった後、
涙を拭いた人々が、しかし、灯りのついた場内で、
なおも立ち上がることができなかった、
その理由とはなんなのか。

つまりは、そう、まさにそれは、底なしの、寂しさ、ではなかったのか。

そして、最後のテロップが銀幕の中に吸い込まれた後、
このフレディ・マーキュリーの一生を辿る、
その壮大かつ、爽快な物語の終わったいま、
人々が感じたのは、まさに、寂しさであり、侘しさであり、
その愛惜であり、追憶であり、望郷であり、
そしてなにより、愛の尊さ、ではなかったのか。

そしてこのボヘミアン・ラプソディの中で、
人々は改めて、現代という時代、
この、無力感の、この喪失感の、このなんとも言えぬ不安感の、
その根源がいったいなんであるのか。

その愛の不毛、そのアイデンティティの喪失、
そのあまりの罪の深さを、
改めて、思い知らされながら、
大切なのは、
認め合うことであり、許し合うことであり、
分かち合うことであり、癒しあうこと、
その心の広さが、優しさが、許容が、抱擁が、
人類をこの悪夢から救い出す、唯一の道なのだ。


     手を取りあって 
     このまま行こう
     愛するひとよ
     静かな宵に
     光を灯し
     愛しき教えを抱き

フレディのその心の叫びが
いま新たなに、
世界にささやかな希望の光を灯す
その奇跡を、信じよう。








映画館を出て、木枯らしの中で背を丸めながら、
ねえ、何食べる?
ああ、腹減ったな、
と、呟くばかりで、具体的なアイデアも出ないまま、
ただなんとなく、さり気なくも確信的に、
とにかく、家に帰ろうと、いつしか家路への道を辿り続けながら、

ねえ、とかみさんが聞いた。

ねえ、なんで、フレディは、メアリー・オースティンと別れちゃったのかな。
それはやっぱり、フレディがゲイだったからだろ?
フレディはゲイでありながら、メアリーとつきあってたんだよね。
セックスしてたのかどうかは知らないけどさ。
でも、セックス以上に、二人はなにかに通じ合っていたんじゃないのかな。
でもメアリーはそれが嫌だったんだよね。
メアリーは子供が欲しかったんだよ。家庭が持ちたかったんだろ。
で、そんなメアリーにも匙投げられて、
QUEENの嘗ての仲間たちもみんな結婚して家庭を持って、
自分だけが家族を持ちえなかった、その孤独感というか。
で、ゲイ仲間を集めてパーティをしてたんだ。
実際には乱交パーティのマニアだったって聞いたことがあるけどな。
なんでそんなことしてたんだろ。
愛が信じられなかったからじゃないのかな。
愛の不毛を証明しようとでもしていたのかもしれないな。
良く判らないけど。
判らなくても良いんだよ。そんな事判らなくても生きては行けるし、
少なくとも俺はゲイでもなんでもないし。
ねえ、もしも、メアリーと別れなかったら、
フレディはいったいどうなっていたんだろうね。
まあこれほどの成功をすることもなかったけど、
あの若さで死ぬこともなかっただろうな。
フレディ的にはどっちが良かったのかな。
つまりはそれを考えさせるのが、この映画の趣旨じゃなかったのかな。
あんた、泣かなかったよね。
ああ俺が泣かなくっちゃいけない理由なんて無いからな。
ちょっと安心したよ。
なにが?
あなたが泣かなかったから。
バカバカしい。
俺にはベビーメタルがいるからな。
やっぱりそこなんだ。
ベビーメタルを知ってこの方、感動にはちょっとした耐性ができちまってるんだ。
馬鹿みたい。
腹減ったな。
お腹空いた。
このまま帰っても家になんにも食うものないぜ。
納豆でもお茶漬けでも良いじゃない。
確かに、そう、そういう気分だな。

とそんな時、あ、思い出した、とかみさんが素っ頓狂な声を上げた。
なにを?
あの、メアリー・オースティンをやった女優さん。
あのひと、どこかで観たな、と思ってたら、
シング・ストリートのラフィーナ、じゃない?
シング・ストリート?あの高校生バンドの話?
そう、ねえ、あのラストシーン覚えてる?
ラストシーン?ラストシーン・・ いや覚えてない。
なんだ、そういうことか、とかみさんが言った。

このボヘミアン・ラプソディの答えは、
すでにあのシング・ストリートの中にあったんじゃないの。
だからよ、だからラフィーナが、この映画でメアリー・オースティンを演ったのよ。
つまりは、そういうことよ。
訳判らないけどな。
判らなくてもいいのよ。答えはすでに出てるんだから。



友よ、魂の友よ。
ボヘミアン・ラプソディに涙した友よ。

俺はすっかり忘れてしまったが、
嘗て確かに見た覚えのある、
シング・ストリート、
あの出来損ないの青春映画、
我が愚妻のいうところでは、
あの映画の中に、その答えがあると、
そういうことであるらしい。

シング・ストリートのラフィーナと、
ボヘミアン・ラプソディのメアリー・オースティンが、
実は同じ人物であった、
それこそが、この一見して救いのない感動巨編、
その隠されたトリックであったらしいのだ。

今更そんな古い映画を見直すつもりもないのだが、
もしも興味があるのなら、
改めてシング・ストリート、
あの出来損ないの青春ドラマ、
そのラストシーンだけでも、
見返して観るのも良いかもしれない。



いやはや、予想はしていたが、
なんともとりとめのない、長い長い駄文となった。

そしてついに結論を述べさせて頂く。

もしも、ベビーメタルの伝記映画をつくるとしたら、
その物語りのクライマックス、
キャリアのピークは一体、どのライブになるのだろう、
ふとそんな事を考えながら、
ベビーメタルは、そんなキャリアの最高峰を、
毎回毎回、更新し続けているのだ、
その事実に改めて気づかされた時、
今更ながらベビーメタル、
その生きた姿に触れることの喜びを、
心の底から噛み締めたい、
そんな至福感が、一挙に押し寄せて来たのである。

そしてフレディ、今だから言える。
俺は貴方がとてもとても好きだった。

今日も今日とて
偽りの仮面の下、
痩せ我慢の大人ぶりっ子の、
その徒労の果て。

漸くひとりになっては、
深夜の家路を辿る
摩天楼の星屑の谷間。
遥か頭上の歪な空を見上げながら、
ふと蘇るあの懐かしのメロディー。

ボヘミアン・ラプソディー

机を並べたステージで、
モップを箒をチリトリを、
マイクスタンドや
ギターがわりに振り回しながら、
共に歌ったニキビ面の仲間たち、
家族、或いは、兄弟のようであった、
その無邪気な面影を思い出しながら。

フレディ、

貴方の孤独の叫びは、
世界の少年たちにとって、
永遠の友情の讃歌だった。
優しい歌をありがとう。
安らかに眠って欲しい。

そしてこの孤独の時代、
無残にも砕け散ってしまった
俺たちの夢の欠けらを繋ぎ止められるのは、
友よ、それはベビーメタル。

フレディ・マーキュリーの見果てぬ夢を、
ベビーメタルが果たす、
その豪快なドラマ
その続きに思いを馳せながら、
友よ、おやすみ。
安心しな、俺達にはベビーメタルがいる。
それを信じて、今夜こそは、良い夢を観よう。







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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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