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ボヘミアン・ラプソディのその後 ~ 蛇足的厄落とし的後追い解釈

Posted by 高見鈴虫 on 14.2018 音楽ねた   0 comments
いやあ、ははは、
お気づきの方、など、ほとんど居ないだろうが、
前作の、あの、ボヘミアン・ラプソディ、
いまだに、改竄に改竄を続けていて、
それはまさに、沼にハマったが如く。

ご承知のように、QUEENというバンド、
ある時期、つまりはあの少年時代:童貞期に熱狂的に聴き込んだ、
にも関わらず、その後、ある時期から(笑
まったく聴くことのなくなった、この特異なバンド、

そのあたりの不思議から始まって、
あのロックの魅力に目覚めたばかりの頃の熱狂から、
それと同時に必然的に、
ロックの魅力の中に引きずり込まれれば込まれるほど、
あるいは、このロックという美学に導かれながら迷い込みながら、
オトナへの階段を駆け上がる、
あるいは、足を踏み外して転げ落ちる、
そんな茶番的な青春模様と相成って、

そう、このQUEENというバンド、
ある年代の人々に取っては、まさに、開けてびっくり玉手箱、
その何十年ぶりに聴くことになった旋律に、
思わず、午後の紅茶に導かれる忘れていた初恋の記憶のように、
止めどもなく流れ出す、いまだから語れるわたしのロック自伝。

でさ、そうあの映画、
まあ、映画としては、うーん、どうなんだろう、と。
つまりは、ゲイ(あるいはバイ)の少年の持つ、家族、
特に父親との確執から始まって、

移民の子としての、社会的な隔絶から、

そしてQUEENというあまりにも特異な美学、
それを極め続けては、変化を繰り広げていくその様、

つまりは、フレディ・マーキュリーという永遠の少年の、
人生、あるいは、成長の様、
そのRISE&FALLと、そしてREBORNの物語り、と。

まあそう、言ってしまえば、ゲイの少年の苦悩と孤独、
そのハッピーエンド、ってのがテーマである筈なのだが、
そのLGBT的な視点に限定してしまうと、
なかなか一般受けを狙えない、
なんていうところから、

ゲイの移民が、バンドの中で初めて友達ができて、
そこで初めて、自己表現の可能性に気づき、
その美学を貫き通しながら、当然のことながら、
ゲイでもなんでもない仲間たちとの障壁を産み、
自己か、仲間か、あるいは、音楽性、なんてところも絡み、
それを、どうにかこうにか、
ロック的な意味でのサクセス・ストーリーにでっち上げる、
まあその苦肉の、つまりは、どっち着かずの、
その結果としての、開き直り的なまでにご都合主義的な映画に落ち着いた、
というのが真相なのだろうが、
まあそう、なにはなくともその匙加減、
それになにより、あの、主役を演じた ラミ・マレックの、その成り切りぶりが、
良い意味でも悪い意味でも、あまりにも印象が強すぎた、と。







とまあ、そんなこんなで、
映画そのものの混沌、その印象を、
例によってそのまま惰性的にもなんの考えもなしに、
綴りはじめてしまったものだから、
その後になって、
言い忘れたことから、
言いたくても言い切れないこととかが、
これでもか、と吹き出てきては、
これも付け足さなくては、これもこれも、と、
やればやるほどますます主軸を失っては迷走を続け・・

ただ、それって、まさに、この映画、
あるいは、QUEENというバンドの音楽性、そのものじゃねえか、と。

でさ、改めて、このQUEENというバンド、
そのフル・アルバム、なんてのを、聞くともなしに聞いてみると、
なんだよ、この、あまりのバラエティの豊かさ、というか、

一種、荒唐無稽なほどに、その曲調の、そのジャンルの、その歌詞の、
あまりの、千差万別さ、つまりは、とっちらかり方が半端じゃない、と。

そう、QUEENの四人、全員が全員、その作曲に名を連ねてる訳で、
つまりは、演奏、あるいは、ステージそのものに加えて、
曲作り、というものに、深い深い喜びを見出していたバンド、だったんだよね、実に。

でさ、ふと、思ったんだけどさ、
俺ら、あのバンド仲間の奴ら、
あれだけ24時間、ずっとずっと寝食を共にしながら、
なにを演っていたのか、と言えば、
まあ、そう、下らない猥談ばかり、ってのもあったのだが、
バンド仲間たちが、その止めども尽きぬ猥談の狭間で、いったいなにをしていたのかと言えば、
勿論楽器の練習と、そして、曲作り。

そう、そうなんだよ、
何気ないおしゃべりのその中で、
おっ!おい、いまの、その、リフ、
おい、それもう一回演ってみろよ、
で、それに、ベースが、こう絡んでさ、
で、それに、ドラムが、で、それに歌が、
おおお、なんかこれ、
ほら、初期のQUEENみたいで、
あるいは、パンク、
あるいは、グラムロック、あるいはグランジ?
そう、それだよそれ!
おい、いまからスタジオ入って合わせてみねえか?
うっし、あいつらも呼ばなくては、
これはもしかすると世界的なミリオンセラー!?
なんてことを、朝から晩まで限りなく繰り返していた訳でさ。

そう、あの時代、曲はバンドで作るもの。
あるいは、どこかの誰かがふっと思いついたアイデアを、
みんながみんな雁首を付き合わせながら、
ああでもねえこうでもねえと、アレンジを練っていた、
つまりはそうやって、あの青春時代の膨大な時間が、
あっという間に費やされてしまったのでありなむ、と。

そうなんだよ。
バンドマンてさ、楽器の演奏家、って言う意味もあるが、
実はその殆どの時間を、アレンジ、あるいは、作曲、
つまりは、創作に費やしていたんだよね。

でさ、それが、そう、あのDX7から、MIDIからプロツールからで、
そんなアイデアを、おい、凄いリフ思いついたからいまから来い、
なんてこともなしに、
そのまま一人で、ベースからドラムから、下手すればボーカルまで、
すべて独力で作れてしまうようになって。

その便利さ、あるいは、安易さから、
バンド全員でひとつの曲を練り上げる、
なんていう、膨大な時間の浪費なくして、

おい、一曲できたぜ
はい、これ、これを、スタジオで合わせましょう、
と渡される音源。

つまりは、作曲者のイメージが、より具体的に完璧に近い形で、
他のメンバーに理解させられることにもなったのだが、
それと同時に、音源として渡されるそのデジタル音、
それがあまりにも具体的すぎて、
ひとつの閃きから、イメージを膨らませて、アレンジを練って、
イントロを変えて、テンポを変えて、曲調そのものを変えて、
バラードの筈が、いつしか、サンバになっちゃった、
なんていう、妙な変遷を転がりながら、
そんな無駄な葛藤もないままに、
デモ曲作りがとてもとても簡単になった分、
曲作りそのものが、より作曲者の独断的且つ独白的に、
成らざるを得なかった、と。

という訳で、曲を作る人、と、それを演奏する・表現する人、
その、棲み分け、あるいは、分業化が進む中、
少なくともそこに、力を合わせてなにかを作り上げる、
そういう共同制作的な創作的喜び、
つまりは、バンド内での濃すぎるコミュニケーション、
それが失われてしまったのは確かなようだ、と。








という訳で、ここでようやく、我らがベビーメタル、である。

三人のアイドルと、そして、神バンド、というバックバンドによるグループである、
このベビーメタル。

で当然のことながら、その曲の作者は、メンバーではなく、
列記とした作曲家先生の名前がクレジットされている訳で、
つまりはこのベビーメタルの楽曲は、
スタジオの中で、自然発生的に作られたものではない。

なので、その演奏そのものに、作者に対する尊敬があり、
つまりは、決められたことを決められた通りにがっちりとこなす、
その律儀さがある訳で、
それがつまりは、ベビーメタルが、
ロック史上初めて出現した、ワガママでないロックスター、
であった、その所以なのであるが、
それと同時に、その壮大なるデジ音源、
そのイメージを極力壊さないが為に、
毎回のステージ、その構成は、
まるで、判で押したように同じ、
それに加えて、マニュピレーター、
つまりは、すでにプログラミングされた元音の土台、
それが、完璧なまでに存在する訳で、
つまりはそこに、偶発性、あるいは、創作性、
あるいは、でっち上げ的な、ハプニングが極力排除されている、と。

でさ、改めてベビーメタルの特異性は、
通常であればそういう音楽って、一度二度と聴くうちに、
すぐに飽きが来る筈なのだが、
そう、ベビーメタル、
不思議なことに、それは魔法的なまでに、
何度聴いても、なぜか、まったく飽きが来ないんだよね、と。

それが何故かってのが、
本当の本当に不思議、ではあるのだが、
そう、ベビーメタル、
そのステージ、その大まかなところはすべて同じ、である筈なのに、
そのすべての演奏においてことごとく感動し、
そして、そのすべての演奏を、すべて、ひとつ残らず、手元に置きたくなる。

ねえ、旦那、と改めて。

な?おかしいだろ?
なんで俺達、ベビーメタルに飽きないんだろうね、と。

つまりはまあ、それだけ、ヘビーローテーションに耐えうるぐらいの、
とてつもない作り込みがなされている、その曲としてのクオリティの高さから、
そしてなにより、すぅめたる、そして神バンドの方々が、
クラッシクや、伝統芸能、つまりは、芸術的なまでの、
この楽曲を、とてつもなく高いクオリティに仕上げている、
ということでもあるんだけどさ。

で、またまたの内容の重複になるのだが、

原曲を原曲のままに芸術性のレベルにまで高めて来た、
そのストイックさの土台にあるのは、
それが自分自身の作った曲ではない、ということを前提とした、
作曲家=先生に対する、敬意、つまりは尊敬、
或いは契約:お決まりのお約束ごとがあった、と。

でさ、それがもし、作者は自分、ということになると、
その楽曲に対する対峙の仕方が、微妙に変わってくる、その筈。

つまりは、自身の曲を、より、高いレベルにまで変化させる、
そのトライアンドエラーの試行錯誤が繰り返される訳で、
つまりはそう、昔懐かしき、あの、ONE PLUS ONE、

スタジオに篭っては、ああでもねえ、こーでもねえ、
その限りない頭の体操。

という訳で、
原曲からの、アレンジを変化させる、
その伸びしろ、というか、余白、というか余裕というか、
それに挑戦したのが、この2018年に発表された三曲。

ディストーションはまあ、最初から非常に高いレベルに仕上がっていた、
とは思うのだけれど、
エレガ、そして、あの悪名高き TATOO、
この二曲、明らかに、演ればやるほど、どんどんと、
曲が、演奏が、歌い方が、解釈が、変わっていった、
そんな気がしてるんだけど。

でね、そう、このエレガと、そしてTATOO、
最初に聴いた時、そのあまりの荒削りさ、
強いて言えば、素人臭さに、
ある種の確信を持っていてさ。

これ、多分、すぅちゃんがその作成に携わったんじゃないのかな、と。

隠れ文学おたくのすぅちゃんのこと、
絶対に、ノートの片隅とかに、
次作の詩を書き付けている、それを確信する俺としては、

そう、あのボヘミアン・ラプソディの中でもあったでしょ?

バスの待ち時間、地下鉄の中で、
バンド仲間の到着を待ちながら、喫茶店のテーブルに一人、
バンドマンは、いついかなるときにも創作者、つまりはクリエーター。

で、そう、実は俺もそうでさ・笑
カバンの中には、スティックやらカセットテープやら文庫本やらと一緒に、
必ず分厚いクロッキー帳が突っ込まれていて、
でその無残な挿絵やらいたずら書きだらけのクロッキー帳、
そのそこかしこに、自作の詩、やら、
眼の前の情景描写やら、友達の似顔絵やら、
あるいは、今日あったこと、思ったこと、とか、
そう、つまりは、この糞ブログのその原型となる、
そんな他愛のない雑文を、所狭しと綴り続けていた、
そんな記憶がある訳でさ。

で、そう、あのフレディ・マーキュリーが、
そして、すぅめたるが、それを、していない筈がない、と。

という訳で、もしかするともしかすると、すぅめたる、
そんな自作の歌詞を、カラオケに合わせて歌ってみたり、
あるいは、神バンドの先生方にはちょっと恐れ多い、
そんなところから、
友人のバンド少年たちにちょっと声をかけて、
ねえ、ちょっと、スタジオで遊んでみない?
なんて風に、Eから始まるスリーコードで適当に初めてみてくれない?
なんて感じで、

アイ、わたし、愛、BELIEVE、
隠していても わかる事でしょう
CRAZY CRAZY どうかしてる
ゆら ゆら ゆら ゆら ゆら 揺れる
振り子のリズムで
ゆら ゆら ゆら ゆら ゆら 揺れる
陽炎今 ゆらり ゆらり ゆらり

改めてこのTATOO、
その、秘めたる熱情の迸るが如き、
禁じられた恋の歌。
そんなものを、人知れず綴っていた、
あるいは、綴らずにはいられなかった、
一人の少女の胸のうちに、
そんな、想いがあったのか、なかったのか、

なんてことを思ってみたりもしたのだが、

なんだけど、
だとすれば、尚更、もう一歩、二歩、三歩、
踏み込みが欲しかったなあ、とも思う訳で、
つまりは、
へっへっへ、すうちゃん、
その世界に関しては、
まだまだ、経験が足りませぬ、というか、
ゆらゆら揺れるばかりで、
まだ踏み越えられないんだね、
なんてちょっと安心してもみたり・笑

で、もしも、そんなすぅちゃんの熱情に、
横から、あの最愛ちゃんが、
要らぬチャチャ、なんて入れたら、
それはまさに、大爆笑的ではあるのだが、

そんな意味で、すぅと最愛、
まさに、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ的に、
絶妙の珍道中コンビ、ではあるのだが、

つまりはバンドって、あるいは友達ってそんなもの、ってか、
ひとりの心の中の燻りを、悩みを、煮詰まりを、
みんなして、ちゃちゃ入れなが、弄り回しては、
それがすっかりと、別なものに作り変えられる過程で、
俺達は、他人との共存を、譲歩を、そしてなにより、
他の考え方、あるいは、そう、オトナになる、あるいは、こなれる、
という大切な大切な勉強を、日夜続けていた訳でさ。

最近の世の、この独善って、
つまりは、一人のアイデアが最後までひとりの力で作り出されてしまう、
その便利さ、その安易さ。
その閉じたる美意識から、発展がない、同時に、救いがない、
それが原因じゃないのかな、と。

まあそれを言ったら、俺のこの糞ブログなんて、
独善的独白以外のなにものでもないんだけどさ、

ただそれが、文章と、そして、音楽の違うところ、というか、
その時として支離滅裂なほどに破茶滅茶な共同(破壊)作業こそが、
ロックの醍醐味。
それを即興でやっちゃたのが、JAZZ、
そんな気もしてたんだけど。

で、そう、つまりは、ベビーメタルはバンドじゃない。

つまり、すぅと最愛と、そして神バンドの面々が、
スタジオの床に転がって、タバコをフカシてビールを回し飲みして、
ああでもねえ、こーでもねえ、と日夜、創作活動にふける、
そういうたぐいのバンドでは、あらない、と。

それがまあ、強さでもあり、弱さでもあるんだけどね。

ただ、言わせて貰えば、あの悪名高きTATOO、

俺はあの中に、うーん、で、この曲、どうする訳?
どうしたい訳?で?俺になにができる訳?
なんてところで、24時間、寝ても覚めても、
ない頭をひねり続けていた、あの時代のことを、
ふっと、思い出しちゃったりもしてたんだよね。

で、そう、だから、言える。

そういう、アイデア、とか、閃きとか、
試みとか、挑戦とか、試行錯誤に、
ネガティブなことは、言ってはいけないんだよ。
それが、絶対のルール。

ひとつのアイデア、その芽に、
良くも考えずに反射的なネガティブな言葉で水をかける、
それは、創作に対する、大いなる冒涜なんだよ。

つまり、この世にあふれかえるネガコメの暴言、
それは、自身の創作手段を持たない人たちと、
嫉妬と欲求不満と無力感、
その出口のない思念の呪詛に過ぎず、と。
つまり、内向しちゃってる、
ぶっちゃけ、友達がいないから、なんだよね、と。

ああ、これ、この部分、このくだり、
あいつだったらどういうかな、あいつらなこう合わせるだろうな、
とか、そうやって、バンドのメンバーの心の底を探りながら、
へへへ、この曲、あいつがいかにも好きそうだよな、
なんて、そうやって、互いに互いを慈しむ、
それこそが、バンドマンたち、だったりもしたんだけどさ。

すぅちゃんに、そういう友達いるのかな、と。
そんなことを、ふと、思ってもいた。

という訳で、冒頭のクィーン、
ボヘミアン・ラプソディ、あの映画の素晴らしさ。

(移民で、ゲイで、貧民家庭で)
ひとりぼっちだった俺に、ついに、ついに、友達が、できた!

その友達たちと、力をあわせて、一つのものを作り出し、
そのバンドが、スターダムを駆け上がる、その喜び。

つまりは、友達となにかを作る喜び、
その真髄が描かれていた、と。

俺には、お前たちが、とても大切だ、
そうやって結びついていた仲間たち。
つまりは、バンド、つまりは、ロック。
つまりは、仲間、つまりは、友達、だったんだよね。

そんなクィーンの作り上げた音楽、

それは、まさに、友達讃歌、だったわけでさ。

このナードの童貞野郎が、と不良連中に鼻で笑われながら、

サンバディ、サンバディ、キャン・エニバディ・ファインド・ミー
サンバディトゥ・ラ~ヴ!

となにも知らずに声を合わせて歌っていたニキビ面の少年たち、
つまりは、お友達、という奴ら。

あの映画に対する涙の本質とは、
そんな仲間たちを失った、その寂しさだろ、と、
思ったのだが、いかがだろうか、と。

フィリップ・マーロウではないが、
まだ友達を欲する年齢、つまりはそれこそが、少年期、
という奴でさ。

QUEENって、宿命的に、
少年の少年による少年期のバンドで有り続けた訳で、
その後、否応なくオトナに成らざるを得ない仲間たちとの間で、
永遠のピーターパンで有り続けようとするフレディ・マーキュリー、
それこそが孤独の本質であったりもしたんだけどね。

という訳で、我が究極の腐れ縁であるところの、
絶対の親友であり、ソウル・メイトであり、一生のバディ、
いまどこでなにをしているやら、と。

そのすべての思いを込めて、さらば少年たち、と。

激しい蛇足となったが、
ああ、これで、ようやくQUEEN地獄から開放される、
その厄落としであった、と。

もう一度映画館に行く気にはならないが、
DVDが出たら、またちょっと借りてみようかな、
とは思っている。

おやすみ。








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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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