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フリーウエイ天下夢想 ~ 悪夢のファンタジーランドその狂気の深淵に見るベビーメタル待望論

Posted by 高見鈴虫 on 04.2019 アメリカ爺時事   0 comments

久々に長いドライブに出ていた
ニューヨークからニュージャージを越え、一路ペンシルバニアへ。
見渡す限りの雪原をレンタカーを駆使して白き地平線の彼方まで。
凍りついたガラスのフリーウエイを時速150キロでぶっ飛ばすこの自殺行。

そしてフリーウエイであった。
この広大なアメリカ大陸、
ミドル・オブ・ノーウエァ:見捨てられた大地を貫く白き迷宮。
その風景はまさしくアメリカであった。
そして俺は、この神の失せた地において、
絶望的なまでに、ひとり、であった。


昨日は朝方に降り始めた雪が午後を過ぎて氷混じりの雨に変り、
夜半になって犬の散歩に出た時には
なにもかもが凍りついて街中がスケートリンク。
レンタカーの車種を四駆のSUVに変えておいたものの、
こんな状態では明日は会社も学校も休みになるに違いない、
そんな甘い予想を嘲笑うかのように、
そして一夜明けた空は雲ひとつない大快晴。
射し込む朝日に照らされた、
見渡す限りがカチンコチンに凍りついた摩天楼は氷の渓谷。

アイスバーンの路面に投棄車の犇めきあったウエストサイドハイウエイ、
その末期的な渋滞を抜けるのに小一時間、
ようやくジョージ・ワシントン橋を越えてI-95へ。
連なる長距離トラックに囲まれては
ブレーキの度に前後左右から不気味な軋みを響かせては迫りくる巨大な鉄壁に
いまにも押しつぶされそうになりながら
そしてようやくとI-80Wに入ったとたん、
これまで犇めきあった車影、
その悪夢の様相が嘘のように消え失せては、
そして世界は見渡すかぎりの白い雪原へと変わっっていった。











そしてどこまでも続くフリーウエイであった。
後はこの道を二時間あまり、ひたすらまっすぐに走るだけだ。
耳障りなGPSのスイッチを切り、そしてようやくふっと長い溜息をつく。

このところ日々気狂いじみた忙しさが続いていた。
次から次へと片付けねばならないコマゴマとした仔細な物事が
次から次へと絶え間なく押し寄せて来ては、
あれやってこれやってそれやってなにやって、
時間が足りない時間が足りない時間が足りない、
毎日がその堂々巡り。
そのあまりにどうでも良い事ばかりの集積。
こんな事がなんだって言うのだ。
多少の事があったにしたってまさかそれでひとが死ぬ訳でもあるまいに。
そんな取るに足らない様々細々な事々。
だがしかしいつしかその藪蚊が大群となっては
目を覆い顔を覆い口を覆い、
いつしかそのベールの中に密封されては窒息状態。

毎日毎日朝から深夜過ぎまで、
飯を食う暇どころかトイレに立つ間も惜しみながら、
ああ一週間が八日どころか、
土曜も日曜もかっ飛ばしての月月火水木金金。
この永遠と続く泥沼の平原化。
こんな状態でよりによって一日かけての出張ドライブ!?
思わず落ちた顎に開いた口が塞がらないとはこのこと。

昼を過ぎての大雪警報発令を待ちわびたように、
早々と帰宅を初めた米人社員たち。
いつの間にかすっかりともぬけの殻となったオフィスに一人、
思いつく限りの呪いの言葉を呻きながら、
深夜過ぎまでかかって翌日一日分の工程を
無理やり我武者羅にやっつけては青色吐息。

どこでどう間違えてこんな低俗な穴の底に、
自ら転がり落ちることになったやら。

という訳で、この不条理は百も承知の上で
やむなく出かけたこの出張ドライブ旅行。
二日間の日程を早朝発深夜帰りの
超強行スケジュールに切り替えての自殺行。
とは言うものの、
やっていることと言えば車線のレールをただ真っ直ぐに走るだけ。
ブレーキどころかハンドルさえ殆ど動かす事のない、
このあまりにも間延びした時間、
その壮絶なまでの徒労感。

ああこうしているいまにだって、
本来であればあれやってこれやってそれやってなにやって、
やらねばならないことが山程あるというのに。

俺はいったいこんなところでなにをやっているのか・・

そしてなにより、今回のドライブ旅行、
その致命的なまでの失敗。

信じられないことに、このレンタカー、
USBポートが見つからない・・

今朝の慌ただしい出発時に、
運転席に座っては渡されたばかりのキーを差し込みながら、
ふと、え? この車、
USBポートが付いてないの?
まさか・・
そのあまりの絶望感に絶句しては唖然呆然。

しまった、昨夜の予約変更時、
4WDは指定したのだが、
IPHONE接続、つまりは、USBポートの有無を、
確認するのを忘れていた・・

改めてこの21世紀というその時代にあって、
USBポートの存在しない、
つまりは、IPHONEが接続できない、
そんな前時代的な代物が、
この世に存在することが許されるのか?

つまりはレンタカー会社の窓口
そのカウンターの上に並べてあった謎の物体
旧時代的GPS端末、その押し売りオプション、
つまりはその小銭稼ぎの銭儲けの為に、
敢えてスマフォと言うこの現代人必携の神器を使用させない、
そんな小細工がなされているというのか?

改めてこの現代の悪意、
その底知れぬ邪悪さに震えながら、
ああ、と思わず溢れる泣き言の

だから、だから、だから、
出張になんか、出たくなかったんだよ!

バカヤロウ、どいつもこいつも死に腐れ、
世界中、ぶっ壊れてしまえばいい!











そして見渡すかぎりの雪原であった。
なにもかもが洗い流された冬の青空の下、
風に舞い上がった粉雪の粉が星屑のように瞬いては、
いっぱいに開けた窓からサラサラとその冬の精が吹き込んでくる。

まったくやれやれだぜ、と舌打ちをくり返しながらも、
ここに来てようやく久しぶりに、
それは気の遠くなるまでに久方ぶりに、
肚の底から長い長い溜息を吐き出しては、
ハンドルから両手を離して大きく伸びをした。

どうせだったらこの思い切りバカバカしい長距離ドライブ、
オートクルーズにセットしてしまえば、
アクセルを踏む必要もない筈なのに。
或いは早いところAI仕様の完全自動運転にでもなれば、
アメリカ人はついにこの日常的徒労の集積から、
解き放たれることができるだろうに。
とは思いながらも、
そうなったらそうなったで、それは完全に鉄の棺桶。
下手をすれば行く先もわからないままに放り込まれたこの棺桶の中で、
やることもなくうつらうつらしているうちに、
人里離れたタコ部屋的密室に置き去りにされては、
地獄のデスマーチに放り込まれている、
そんなデストピア的光景を想って薄く笑いながら、
そして思わずアクセルを踏み込んではフルスロットル。
雪の路面に散らばる目障りな先行車を、
次から次へと抜き去っては
三車線のフリーウエイ、そのすべてを独り占め状態。

改めて今更ながら、
俺は車の運転が嫌いじゃない。
それはいうなれば、一種病的なまでの快感。
いや実は、車が好きというよりは移動が、
あるいは、スピードそのものがなによりも好きなのだ。
それが証拠にこうしているいま、
雪に滑った前輪が後輪が不穏なスピンを繰り返しながら、
敢えてアクセルを踏み続けては時速はみるみると100マイルをブッチ切り。
くそ、できることならこの地獄の悪路、
四輪なんていうトロ臭い箱ではなく、
大型二輪で思い切りぶっ飛ばすことができれば、
どれだけ素敵であったことだろう。

そしてこのフリーウエイ、
ああ、忘れていたかも知れない。
俺はフリーウエイが好きだった。
この絶望的なまでの孤独感。
この物寂しさが、このやるせなさが、
この投げやりなまでの隔世感、
このフリーウエイの孤独が、
なによりも好きだったのだ。

そしてこのなんとも間の抜けた風景。
宇宙までスコンと飛び抜けたかのような青い空と、
そして雪にまみれたフリーウエイと
そして風に揺れるエグジットの看板。
行けども行けどもそんな風景ばかりが永遠と続く
このアメリカのあまりにもありふれた風景。
そしてどこまでもただただ真っ直ぐに続くばかりの
この陰鬱なアスファルトの轍。
ブレーキどころか、
ハンドルさえほとんど動かすことがないまま、
ただぼんやりとこれ以上なく殺風景な風景を目で追うばかりの
このあまりにも空虚な時間の中で、
ふとすれば自我が、主体が、自意識が、
あるいは生体、あるいは個体としての意識さえもがみるみると曖昧になり、
そんな希薄になった意識の隙間を埋めるように、
ふと過ぎ去った日々
その様々な記憶の断面が、
何の脈絡もないまま唐突に、
そしてやけに生々しくもふと蘇って来ては、
そのフラッシュバックに誘い込まれる白日夢、
時空を越えた思念の迷宮の底へと
迷い込んでいくのである。

そしてフリーウェイであった。
凍った路面を時速150キロでぶっ飛ばすこのロケット感覚。
ハンドルひとつ間違えば一瞬のうちにあの世行き
そのコックピットにたったひとり密封されては、
絶え間無く響くエグゾーストノイズに包まれた
この奇妙な静寂とそして安息感。
この不思議な遊離感覚の中で、
ふと現実感が希薄になっていくのを知るである。











改めて、このフリーウエイという場所。

言うまでもなくここアメリカの地において、
このフリーウエイこそが生命線。

ニューヨークを越えたら太平洋を越えた東京までなにもない、
そんなジョークが謳われるほどに、
なにひとつとしてなにもない、
ただ茫漠とした荒れ地ばかりの広がる、
このあまりにも殺伐とした大陸。
ミドル・オブ・ノーウェア:地の果てと呼ばれる
そののっぺらして掴みどころのまるでないそんな広大な大陸に、
取ってつけたように散らばるバードシット・リトル・タウン、
路面に落ちた鳥の糞のような地方都市。

そんな街と街とをつなぐ唯一の命綱である
このインターステート・ハイウェイ。

鉄道網の発達していない、あるいは、故意に、
それも思い切りの悪意を以て引っ剥がされた鉄道網、
その代わりに発達したこの州間高速道:フリーウエイ・システム。

車を持たぬものは移動ができず、
まともに走る車でなければそれこそ地の果ての途中で行き果てる。
このあまりにも脆弱且つ特権的な交通手段の中にあって、
時速100キロを遥かに越える高速走行。

行けども行けども同じ風景ばかりが永遠と続く、
このあまりにも殺伐としたフランチャイズ的風景の中で、
そしてようやく辿り着いた隣町。
しかしそこにあるのは、地方名産どころか、
文化の、歴史の、人々の営みの温かさ、
そんな気配をまるで感じさせない、
ただ判で押したように、似たような風景。
全米、全世界、どこに行っても同じ味を誇る、
つまりはどこでなにを食べてもまったく同じ味、
そんな砂を噛むようなファストフードを、
来る日も来る日も車のダッシュボードをテーブル代わりに食い散らしながら、
そして目の前に広がるこの殺伐茫漠たるフリーウエイの風景。
そしてまた、まったく同じ風景、その既視感的風景に迷い込んでは、
そしてまた、まったく同じような無人の街。
それはまるで、時間の止まった風景。
あるいは、パステルカラーのゴースト・タウン。
どこまでいってもどこにもたどりつけない、
そのポップでカラフルなラビリンス:迷宮。

そのあまりに絶望的なまでの無力感。
そのあまりの空虚、
その絶望的なまでの隔絶感の中にあって、
あっけらかんとした空回りの中に徒労ばかりが押し寄せてくる、
カラフルな陰鬱に満ち満ちたこのあまりに殺伐とした風景。

この地には神がいない、そう確信させる、
この見捨てられた大陸:ミドル・オブ・ノーウエァ。

そんな風景の中を、一時間、二時間、
ロケット的なまでのスピードで走り続けながら、
その永遠と続くありふれた風景の中の中にあって、
目につくものと言えば、灰色のフリーウエイと漠然と広がるばかりのビッグ・スカイ。
そして、次から次へと並ぶ、
あまりに代わり映えのしないファスト・フードの広告看板:ビルボード。

そこに繰り返されるメッセージ、

幸せになりなさい、もっと幸せになりなさい、もっともっと幸せになりなさい、
買いなさい、食べなさい、飲みなさい、飾りなさい、買い替えなさい。
もっともっともっと、強欲になりなさい・・

それはまるで洗脳的なまでに繰り返される、
そのこの地の絶対神であるところの、資本主義からのメッセージ。

そんなものが、嘘ばかりだってことぐらい、
どんなバカだって気がついているだろうに。。

だって見ろよ、この眼の前の世界。
なにもかもが、判で押したような既視感の中の、
このあまりにも退屈な風景。

だがしかし、資本主義の神様のお告げが届く。

であれば、もっと幸せになればよい。
そのためには、もっと買いなさい、食べなさい、飲みなさい、
そしてもっともっと、徳をしなさい。

このあまりにも短絡的な幸福至上主義、
そこに貫かれた神をも恐れぬご都合主義的。
俺はこの街を一歩も出たことがないが、
この街が世界で一番だってことはこの俺が一番良く知っている。
その独善を強要する現状肯定論。

夢と現実、幻想と真実、ファンタジーとリアリティ、
そのあまりに歴然としたギャップを、
しかしギャップとして認めることが許されないところに、
このアメリカのジレンマがあり、
その感傷をセンチメンタリズムと割り切らないところに、
このアメリカのリリシズムがあり、
その傷心を悲劇と認めないところに、
アメリカの健気さにあり、
そこまでの棄人的現実の中にあっても、
あらためて生きる価値を探そうともがき続けることに、
現代のアメリカその悲劇、その真相があるのだ。







そしてフリーウエイであった。
どこにでも行ける筈でありながら、
どこにも辿り着けないこのあっけらかんとした迷宮。
その末期的なまでの退屈さの中で、
苛立ちを、焦燥を、無力感を、
そして絶え間なく押し寄せてくる眠気を振り払おうと、
そして思わず踏み込むアクセル。
80 85 90 95 そして 100マイル・・
そのロケット感覚の中で、
遠のく意識と曖昧な自我の狭間に、
ふと流れ込んでくる曖昧模糊な自意識の悲鳴。

神の教えにすり替えられた資本主義の喧伝の洪水の中、
眼の前の現実との自己矛盾を振り切ろうとすればするほどに、
神の不在の実証ばかりを掴まされるこの徒労的日常の中にあって、
そして目の前のフリーウエイの風景。
時速100キロを越すロケット車のコックピット
この非現実的なまでの永劫感覚に包まれながら、
その末期的な孤独に密封されたまま、
そこで誰に知られることもなく呟き続ける独り言。

フリーウエイでの呟き、
それはつまりは、自分自身の対話。

それは時として、
資本主義化されたバイブルに表されることのない、
自己矛盾を自己矛盾で包括する曖昧さの露呈でもあり、
つまりは、真の神との、その交信に他ならない。

なあに、寂しいのはなにも俺だけじゃないさ。
寂しい?俺が寂しいだって?
まさか、俺にはジーザスがいるではないか。
俺は幸せだ。不幸である筈がない。
そしてもっともっと幸せに、ポジティブにならねばならない。
であればジーザスの教えにしたかって、
もっともっともっと、幸せになるために、
もっともっと、買って食べて飲んで飾って買い替えて。
であれば帰り道でまたウォルマートに立ち寄って、
ビールとアイスクリームとチップスを山のように買いこんで、
つまりは資本主義の恩恵をこれでもかと謳歌して、
そして寝る前にまたバイブルを読もう・・・

待てよ、待ってくれ、そんなことを本当に幸せなどと言うのか?
あるいは人間は幸せあらねばならない、そんな必要があるのか?
幸せを幸せとして飾らないことにこそ、本当の幸せがあるのではないのか?

待て待て、矛盾を矛盾として認めてしまってはいけない。
俺はキリスト教徒なのだ。
すべては神の御心、神の教えに矛盾などありえない。
矛盾こそは悪魔のささやきなのだ・・

現状に幸福感を無理強いされては、
それを増幅させること以外には許されない、
このあまりに短絡的な二元論のドグマ。

フリーウエイという隔絶されたロケット感覚的無我の中、
繰り返される自己との対話、
つまりは、独り言の中にあって、
その希薄になった自意識の中に、
ふと唐突に閃くキーワード。

え?まさか、そうか、つまりは、そういうこと、であったのか・・

それはまさに、このアメリカにおける奇跡の瞬間。
神の啓示、天啓として、確信してしまうその罠こそが、
このフリーウエイに秘められた、魔力でもある。

この地に暮らすアメリカ人の深層心理、
なにかにつけてえげつない程に合理的なアメリカ人たち。
その唯物論と強欲と個人主義と利己主義とが綯い交ぜなった、
そのあまりに現実主義的なドライさの中にあって、
しかし、その心中に秘めたあの一種滑稽なほどの神秘主義。

ジーザスに対するあまりにも狂信的なまでの信仰心から始まり、
映画を、テレビを、ディズニーランドを産み出したその底知れぬ夢想癖から、
そんな夢の世界と、この眼の前の現実とのあまりの隔絶:ギャップ、
その末期的なまでの倒錯の中にあって、
このフリーウエイ、
時速1五〇キロでぶっ飛ばすロケット的隔絶感と、
そに満ちた不穏なほどの静寂感に包まれたまま、
その超現実的なまでに独善的安息の中にあって、
ふと訪れる無心の境地、
その一瞬に閃く宿命的な神からの啓示。

つまり、スターウォーズが、X-FILEが、
モルタル・コンバットが、バイオハザードが、
ミッション・インポッシブルが、アヴェンジャーズが、
あるいは、ディズニーの世界こそが現実で、
そしてこの眼の前の光景は、
パラレルワールドのその裏側に過ぎないのではないのか!?
そうだ、きっとそうだ、そうに違いない!!

ともすればそんな夢と現実、幻想と真実、
ファンタジーとリアリティが綯い交ぜになっては、
夢を夢と知って信じ切る、
あるいは、信じないには居られない、
その絶望的なまでに退屈なこの既視感:デジャヴ的光景と、
そんな現実を幸せとして享受せざるを得ない悲愴的なまでの宗教観。

神は実在する。
宇宙人は実在する。
であれば、きっと悪魔も実在するに違いない。

アメリカ人がなにかにつけて主張するあの独尊的なまでの自己充足論と
その中に秘めた荒唐無稽なほどの錯乱的矛盾、そのあまりの隔絶。
そんな子どもじみたレトリックに騙される、というよりは、
むしろ縋らざるを得ないほどにまで、
夢と現実、幻想と真実、ファンタジーとリアリティ、
そのギャップが、もはや救いようのない超現実的なレベルにまで、
隔絶されてしまった、ということにほかならないのだ。

そして、そんなファンタジーの世界から、
最も遠く離れた、このミドル・オブ・ノーウエァ、
つまりは、見捨てられた土地。
その空虚な大陸を真っ直ぐに貫いたこのフリーウエイ。
どこまで走ってもどこにも辿り着けない、
この永遠と続く灰色の牢獄。

ロケット感覚で疾走するこの一種非現実的なまでの隔絶感の中で、
そのあまりに間延びした時間、そのあまりにも空虚な人生、
その寂寥感と徒労感と離人感にどっぷりと浸りきりながら、
永遠と呟き続ける独り言、
その思考の揺蕩い、その曖昧模糊とした意識の撹拌、
その白日夢的世界。

このフリーウエイでの時間こそが、
アメリカ人の真の意味での懺悔の時間であり、
その滑稽なほどの夢想癖に導かれた神秘主義、
その温床でもあるのだ。

改めて、東京の現実が、
鮨詰めのラッシュアワーの通勤電車と、
深夜を過ぎたサービス残業中の会議室、
そしてその救いが夜更けのコンビニと
車の運転席よりも狭い1LDKのカプセルルーム
だとすれば、

ニューヨークの現実とは、
あの下水道のトンネルのような地下鉄のプラットフォームであり、
その救いが、雪のセントラルパークで聴く、
乞食ギタリストの爪弾くアヴェ・マリアの旋律であったり、

そしてそんな現実を知ることもないままに、
見捨てられた土地に幽閉されたジーザス・ゾンビたち。
その現実こそが、このフリーウエイに集約されている、
と言い切ることができる。

アメリカが知りたければ、三日三晩、
フリーウエイをぶっ飛ばして見ることだ。

そのどこまでも続く直線、
この絶望的なまでの既視感に閉ざされた、
ミドル・オブ・ノーウエァ。
どれだけ走ろうともどれほどのスピードでぶっ飛ばそうとも、
決してどこにも辿り着けない、
このあまりにもあっけらかんとした既視感:デジャヴの迷宮:ラビリンス。
そんなフリーウエイの風景にこそ、
アメリカの醍醐味、その悲劇とダイナミズムその深淵、
つまりはアメリカのすべてが、見事に凝縮されているのである。

改めて、真実はそのあまりにありふれたルーティンの中にある。

東京の朝の通勤電車、
ニューヨークの深夜の地下鉄、
そして、
この見捨てられた土地のフリーウエイの殺伐を知らないものには、
なにひとつとしてなにもわからない。

その絶望、その悲しみ、その憤怒、そのやるせなさ、
そのあまりにもありふれた現実の中に、
敢えてなけなしの救いを見出そうとする、
その切実にこそ、
人の営みの愛しさ、その真実の一欠片が、
隠されている筈なのだ。

トランプが勝った訳ではないんだよ。
アヴェがどれほど人気がある訳でもないんだよ。

それはただ、高慢ちきなヒラリーが嫌われ過ぎた、
そして、アヴェに代わる者が誰もいないだけ。

その絶望と切実の、真の意味に気付いていない、
ただそれだけの話しなのだ。

現実の孤独から、隔絶から、殺伐から、絶望から、
そんなありふれた修羅から逃れようと、
ファンタジーの白日夢に逃げ込んだものに、
どれほど現実を語っても誰にも聞く耳を持たる筈もない。
現実と真実とリアリティの中に、なんの救いも見いだせない人々にとって、
それがたとえ、どれだけ邪悪なものであったとしても、
夢幻想とファンタジー、そのパラレルワールドの中に、
閉じ籠もる以外になにができよう。

敢えて人間としての最後の望みを託して、
その悪意の幻想に打ち勝てるものがあるとすれば、
人の営みの愛しさ、その切実さの中に生まれた救い、
その救いの一欠片を提示できる、
そんなささやかな、そして具体的な事例に過ぎないのだ。

或いはそんな見捨てられた投棄民たち、
憎悪と憤怒の狂気の中に幻想を見る、
そんなゾンビーたちの目を覚まさせる唯一の光。
つまりは、個々の内にすっかりとくすんでしまった、
プライド、つまりは、自尊心、
その最後の一滴の真心に火を灯す、
愛の声に他ならないのだ。

ではその邪悪な夢と幻想とファンタジー、
それに対することのできる、
現実と真実とリアリティ、
その具体的な例とはいったいなんなのか?

それこそは、唯一絶対の愛。
夢と幻想とファンタジーを上回る、
徹底的なまでの夢と幻想とファンタジー、
真の神の啓示、
あるいはすべての呪怨を洗い流す、
絶対的なパワーに満ちた天使の歌声に、
他ならないのではないのか・・・!?









そして見渡す限りの雪原であった。
そしてどこまでも続くフリーウエイであった。
残雪にまみれたこの思い切り投げやりな風景。
その殺伐とした茫漠ばかりが悪戯に広がる、
この空虚な永続性の中に浸りこみながら、
俺はすっかりと、白日夢の虜。

とめども尽きず溢れ出すその思念の堂々巡りの中にあって、
そしてその当然の帰着としての終着点。

つまりは、ベビーメタル。

世界を闇に一条の光を放つ、
究極の救世主であった、
あの絶対神的なまでの姿。

ベビーメタルは、いったい、どこに行ってしまったのか?

天は、本当の本当に、我々を、お見捨てになられる、
そのおつもりであられるのか!?・・・

しかしいまになって、
そんなセンチメンタルを、鼻で笑う自分がある。

なにをいつまでも寝ぼけたことを言っているのだ。
逃げた女に追いすがるストーカーじゃあるまいし。

気づかないのか?
すべては終わっちまったんだよ。
内で100回、外で100回、
最初からそういうお約束じゃなかったのか?

いい加減に目を覚ませ。
そして、とっとと、現実を見つめろ!





改めてここ数年の間、
俺は明らかにどうかしていたに違いない。
それは恋の魔力、
まるで熱病に冒されたように、
一種錯乱にも似た陶酔の中にあった。
怒涛と狂乱の坩堝、
断末魔の阿鼻叫喚の中にあって、
その修羅の巷、地獄の鍋の底に、
天に届けとばかりに煌々と響き渡る
あの天使の美声。
それは救いの福音なのか
あるいは、破滅へと誘い込む、
ローレライの呪い歌声なのか。

乙女の純真と悪魔の威厳を兼ね備えた、
あの禁断の女神の姿。
天使への憧憬と悪魔への畏敬の交錯する、
この破壊と創造、死と再生のドラマ。

この至福の中に浸っていられるのなら、
例えこのまま死んでしまったとしてもかまわない、
その破滅的なまでの高揚感・・

あの夜からその後、
俺はそんな刹那的なまでの熱狂のベールの中に、
すっぽりと包み込まれていたのだ。

いったい、あれは、なんだったのだろう・・

それはまるで、
上映中の映画館にいきなり灯りが点いてしまったかのように、
あるいは、地下クラブの沸騰するような熱気の底から、
押し開けた鉄の扉の向こう、突如としてあっけらかんと、
朝の光の中に転がり落ちてしまったかのように・・

そうか、あれは、夢、だったのかもしれないな・・

だがしかし、幻想というにはあまりにも生々しいまでに、
まるで手を伸ばせばその光に触れられそうなほど、
あの興奮の余韻が未だに熱を孕んだまま、
身体中に燻り続けているというのに。

いや、まさか、そんな筈はない。
この夢は、このドラマは、いまからがクライマックス、
その最後の総仕上げ、
まさにその目前であったというにの。

それはラストシーンを前にしてブツ切れてしまった銀幕。
あるいは、大切にとっておいた最後の一口を、
手に取るまえに下げられてしまったデザート。
あるいはゴール前のラストスパートを目前に、
いきなり走るのを止めてしまったトップランナーのようではないか・・

おい、ちょっと待ってくれ、
一体全体、なにがあったというのだ・・

まるでキツネに化かされたかのような唖然呆然の中で、
そして目の前にあっけらかんと広がるこの殺伐とした日常の平原。

ギグのはねた後のライブハウス、
すっかりと客がはけては、
散らばるグラスと割れたビール瓶の転がるばかりの、
伽藍堂になったフロアの上、
無人のままに静まり返ったステージの袖にへばりつくように、
夢の余韻、その最後の一欠片、
床に落ちた汗の雫、その一滴さえをも掬い取ろうとするかのように、

バカヤロウ、この夢が終わってしまったなんて、
俺は絶対に信じない。
絶対にそんなことがある筈がない。

尚も未練たらしくも、その夢の片鱗にしがみつきながら、

そしてモップを下げた掃除夫たちが、
さあさあ、帰った帰った、お祭りは終わりだ。
これはすべて夢、つまりは造り物の見世物、
つまりは、ショウ、だったんだぜ。
あんただって、それを知らなかった訳じゃあるまい。

すべてはショウ、すべては絵空事なのさ。
いい加減に目を醒ましたらどうだ。
目を醒まして、その退屈な日常という奴に、
立ち返る頃だぜ・・

そして背後で閉じられたドア。
そして目の前に広がるこのあまりにも殺伐茫漠とした日常の平原。

そうこれが現実というやつ。
そう、これが、俺の生活、俺の人生、その本当の姿。
つまりは、夢の残骸、と言うやつなのか・・

もうなにもかも、諦めた方が、良いのかもしれないな・・・









ふと目をあげると、いつしか世界はすでに、
ニュージャージ州を通り過ぎてペンシルバニアの一歩手前。
その州境にあるデラウェア・ウォーターギャップを前にして、
突如として眼前に広がる雪に覆われた山々。
無骨な岩山を枯れ木の森が鬱蒼と茂るその壮大な渓谷の狭間、
これまで小一時間あまりの間、まったくハンドルを切ることさえ忘れていた、
そのあまりにも単調な一直線の中で、
いつしかそのスピードが100マイルを超えていることにさえ気が付いていなかった。
樹氷の木立に向こうに広がる白き貯水池、
流氷の折り重なるその壮絶な景色に目を奪われていた途端、
いきなり始まったこの右に左へのワインディング。
思わず踏みこんだ迂闊なブレーキにいきなりのロック状態。
その途端、後輪が不穏なスライドを初めては見る見ると車体が滑り始め。
やばい!ぶつかる!
無意識なうちに咄嗟に逆に切ったハンドルで、
なんとか無様なドリフトからは持ち直したものの、
いやあ、やれやれ、命拾いしたぜ、と、
思わず照れ隠しの苦笑いを浮かべながら、
と同時に全身に冷や汗が滲み出しては、
いやあ、まじで、危なかったな、
といまになってから遅ればせながらの胸が高鳴り始める。

前後に車が居なかったのはなんとも幸運であった。
あるいはこの車が四駆でなければ、いまごろガードレールを突っ切って、
あの氷漬けの湖の底に真っ逆さまであったかもしれない。

いやはや、であった。
そして改めて、と俺は思う。
改めて、俺は運が良い。
これまでなんどもこんな危機一髪に直面しながら、
どういう訳か結果的にはどうにか生き延びてしまう。

そうか、俺の悪運、
この邪悪な宿命はまだまだ続いていたのだな。

そう思うとちょっとした爽快感。
してやったり!俺もまだまだ捨てたものじゃねえな。
そんな悪童的なピカレスク感覚を自嘲しながら、
既にニューヨークを出て二時間近く。
なに、今日の仕事にしたって、保守点検とは建前だけで、
言ってみればただの表敬訪問。
客先への顔つなぎを兼ねて、
で、最近どうっすか?いやあボチボチでんなあ、
そんな実のない会話を交わすのが主目的。
別に急ぐ行程でもあるまいに。

そして厄払いも兼ねては目についた次のエグジット、
自然公園入り口、の掲示に誘われるように、
人気の無い小道の中を分け入っては、
夏期の自然行楽客向けの仮設駐車場。
いまだに一面に足跡一つない残雪に包まれたその真中に車を停めて、
そしてエンジンを切った途端、まるで穴の底に落ちたような静寂に包まれた。

見上げれば、それはまさにクリスタルの渓谷。
駐車場の包み込んだ鬱蒼と枯れた木立。
その全てが白き氷漬けになった樹氷の森の底の底。
射し込んだ朝の陽のその鮮烈な光線の中で、
世界のすべてがミラーボールさながらにキラキラと瞬いている。

思わず息を飲んではその魔術的なまでに光景に目を見張りながら、
そしてふとした命拾いの中で罠に落ちるように誘い込まれたこの壮絶な風景。

これはこれは、であった。

この馬鹿げた出張の途中でいきなり事故で死にかけたかと思えば、
突如として迷い込んだこの絶景。
その不運な幸運、その茶番的な展開に改めて唖然としながらも、
改めてこの眼の前に展開される一種壮絶なまでの異次元的なパワー。

それはまさに、人間の力を超越した、
自然界、しいて言えば神の力、そのもの。

日本の自然が一種箱庭的な美学、
神々しいというよりは寧ろ霊的な美しさ、
強いて言えば詩的なセンチメンタリズム、
その女性的母性的な美に彩られていたのだとすれば、
このアメリカの自然美、
そこにあるのは寧ろ無骨な荒削りな、自然本来の力に溢れた、
父性的な暴力的なまでの祝祭に満ちた神々の美。
そこにある大きな違いとは、祝祭であり、つまりはパワーなのかもしれない。

見渡すかぎりの鬱蒼と茂った氷の森が、
一斉に光の乱舞、スパークとハレーションを繰り返すその光景には、
明らかにあの日本における詩的なセンチメンタリズムとは異なる、
えげつないほどに抑制を失ったハチャメチャなまでの祝祭感。
それはまさにパワーであった。
その光景に満ちたパワーの美学。
そのパワーこそが、俺が日本を捨てここアメリカに落ち着いた、
その根源的な理由では無かったのか。










大学時代の友人のひとりが、
いきなり大学を休学してアラスカに行く、と言い出した。
アラスカ?なんでアラスカなんだ?

これだよ、と友人が一冊の本を差し出した。
村上龍の「愛と幻想のファシズム」

これ、お前に借りたこの本。
長く借りていて悪いことしたな。
ありがとう、すっかり暗記しちまうほど何度も読んだ。

いや、実はもう戻って来ねえかと思ってもう一冊買っちまったんだ。
だからそれはお前にやるよ。
で、なぜアラスカなんだ?
ゼロの代わりに未来のファシストでも探しにいくつもりか?
まあ気持ちは判らねえでもないけどな。

いや、オレは、と友人は言った。
オレは鈴原冬ニとよりはどちらかと言えば逆の立場だな。
この物語に登場できるとすれば、
あの薬殺される可愛そうな労働組合長ぐらいのものだろう。

実はな、これなんだよ、と指し示したそのページ。

アラスカの雄大な光景の中では、ロックやらポップスやら歌謡曲やら、
そんな人間世界の普通の音楽が、ちまちまとせせこましくて聴いていられなくなるってさ。
アラスカの雄大な風景に合うのは、チャイコフスキーの交響曲だけだって。

チャイコフスキー?
ついこの間までメタルだパンクだって言ってたお前が、
なんでいきなりチャイコフスキーなんだよ。

だから、と友人は言った。
だからそれを確かめに行くんじゃねえか。
アラスカに行ったら、本当にチャイコフスキーしか聞けなくなるのか、
それを自分で確かめに行きたいんだ。

つまり、チャイコフスキーしかそぐわないような、
そんな世界ってのをその目で見てみたい、と。

そう言えば、俺もそんな話を聴いたことがあるよ。
半径数キロ、人間の居ないところにひとりで居ると、
人生が変わるってな。
人間同士の思念の乱反射から切り離されると、
自分自身の持つ本来の姿、
そのオーラに気づくことができる、とかなんとか。

調べたらアンカレッジって凄く高いんだ。
そのままアンカレッジ経由でパリに行っちまった方が安いぐらいだ。
今更パリになんか興味ないからな。
だから安売りのパッケージツアーに紛れ込んでLAまで行って、
そのままバックレてグレイハウンドかヒッチハイクででフェアバンクスまで上るつもりだ。
金が無くなったら寿司屋で皿でも洗うつもりだ。
この本、ありがとう。
古本屋で探してから出発しようと思ってたんだが手間が省けた。
正直とても嬉しいよ。
向こうについたら絵葉書でも送るぜ。

そして友人はアメリカへと旅立ち、
その一年後、俺はアジアン・ハイウエイ横断の旅の途中、
アフガンの砂漠の真ん中で乗っていたバスに置き去りにされては万事休す。
見渡す限り360度の地平線、
その何一つとしてなにもない荒れ地のど真ん中にたったひとり。
奇しくもそこで、神様というやつに、出くわすことになったのだが。

その旅から帰った後、ポストの底に雨にふやけた絵葉書が一枚。

幸か不幸かまだLAに居ます。
アラスカにはまだ行けてませんが、
こっちで知り合った女に子供ができちゃって、
結婚することになりました。
もしも来れるようなら電話をください。
空港まで迎えに行きます。

その結婚パーティの日取りはすでに疾うの昔に過ぎてしまっていたが、
そうか、あいつまだLAに居るのか。

チャイコフスキーの代わりに、
生まれたての子供を前に下手なギターで、
ビートルズでも歌っているのかもしれないな。









そして改めて、あれからどれだけの月日が流れたのだろう。
俺はなんの間違えでか、
ここアメリカの、ペンシルバニアのミドル・オブ・ノーウエァ。
地平線の果てのフリーウエイを外れた、
誰人として誰もいない季節外れの自然公園の駐車場にひとり。

人里離れた真冬の山間、
その樹氷の織りなす煌めきの乱舞に包まれては息を失い、
そして改めて、チャイコフスキーか、と思っていたのだ。

果たして、この光景、それに似合うのはチャイコフスキーであろうか?
あるいは、ドボルザークかベートベンかワグナーか。

だがしかし思いつく限りの交響曲、そのどれもが、
この神々の乱舞する祝祭的瞬間にはどうもそぐわないような気がしていたのだ。

そこにはパワーが足りない。
そこに喜びが、祝祭が、爆発が、足りない。

であれば、とふと思った。
であれば、この珠玉の氷の世界、
この世界最高の劇場において、
この壮絶な祝祭に見合う、その旋律とはなんなのか。

であれば、ストーンズか、ガンズか、ニルヴァナか、
いや、それも違うだろう。
彼らのパワーは、人間の人間による人間のためのパワー。
そんな人間臭さが、この異次元空間的な超自然の中にあっては、
妙に陳腐にもせせこましく、ともすれば、それも一種のセンチメンタリズムの変形。

果たして、果たしてそこで奏でられるべき旋律はなんなのか!?
この超人的な自然力、その爆発的なまでの祝祭感、
それに到達し得る音楽とは何なのだろう。

人類のなし得た究極的なまでの祝祭の音楽。

それはもしかすると、あのQUEENのボヘミアン・ラプソティ、
あるいは、THE WHO、あるいは、ジョー・コッカー
あるいは AQUARIUSーLET THE SUNSHINE IN・・
と、そんな時、ふと浮かんだこの一節。
GOING FOR THE ONE
言わずとしれた、プログレッシヴ・ロックの雄:YESの奏でた名曲の中の名曲。







この何年ぶりかに唐突に転がり出したいにしえの名曲。
そうそういえば、俺はヒマラヤの山中、あの壮絶な朝焼けの中、
雲海の棚びくその天空に浮かび上がったカンチェンジュンガの勇姿を前に、
GOING FOR THE ONE!
この旋律を、叫ぶように繰り返したいたものだったっけ。

ただ、といまになって思う。
だがしかし、改めてこのジョン・アンダーソン、
その振り絞るような高音のボーカルが、
しかし、ZEPのロバート・プラント、
あるいは、後の登場するアクセル・ローズに比べ、
いかにもインテリらしいか弱さを感じていなかったかと言えば嘘になる。

と、そんな思念の旅にもそろそろ飽きが来た頃、
ゴーイング・フォー・ザ・ワン・・・・ ザ・ワン!?
お前、なにかひとつ、とてもとても、とてつもなくも大切なものを、
忘れていはいないか!?



という訳で、言わずと知れたベビーメタルであった。

人類のなし得た音楽、その究極の究極的な意味での、
祝祭をテーマにした楽曲。

ボヘミアン・ラプソディが、SEE ME FEEL MEが、
トライ・ア・リトル・ヘルプ・マイ・フレンドが、

そんな数々の珠玉の名曲の中にあって、
改めて、この超絶な自然力、その荒ぶる神々に捧げる、
その究極の祝祭的楽曲とはなんなのか。

チャイコフスキーか、マーラーか、ブラームスか、
ベートベンか、ワグナーか、ドボルザークか、ベルリオーズか、

とそんな瞑想的思索の旅の中で、
最終的に行き着いた、この人類最高の祝祭的瞬間。

2017年12月3日4日 広島グリーンアリーナ。
BABYMETAL LEGEND-S 洗礼の儀
それこそが、人類が到達し得た究極の極限、
それを確信するに至ったのである。







そこから先は、もう止まらなかった。もう堪らなかった。
もう抑えようもなく、耐えられる訳もなく、
どうしてもどうしても、ベビーメタルが聴きたくてたまらなくなってしまった。

改めて言わせて貰えばここのところのベビーメタル、
俺にとっては、それはまさに禁断、であった。

どうしてだろう、最近になって、ベビーメタルを聴くたびに、
堪えようもなく涙が滲んでしまうのである。

それはベルが鳴ると涎を垂らすパブロフの犬のごとく、
ベビーメタルの、あのすぅめたるの切なげな声を聴いたその途端、
人知れず、思いさえ寄らず、不思議と自然と知らないうちに、
ハラハラと涙が流れ落ちてしまうのである。

嘗ては、二四時間、四六時中、途絶えること無く、
徹底的に聴いて聴いて聴き続けていたベビーメタル、
ではあったのだが、そんな一種、空気のようなまでに、
このベビーメタルの甘く危険な香りのなかに、
どっぷりと浸りきって過ごすことに慣れきっていた、
そんな俺であった、その筈なのだが、

どうしたのだろう、最近になって始まったこの奇癖。

仕事中を問わず、自転車での通勤途中を問わず、
ともすれば、ジムでウェイトを上げている、そんな時にさえ、
このベビーメタルを聞けば聞くほどに、
思わず滲んでは溢れ出してしまうこの涙・・

いったい、俺は、どうしてしまったのか?

だがしかし、改めて言わせて貰えば、
それは確かに感動による涙、であることは確かなのだが、
そう、最近になってますます悪化の一途をたどるこの奇病、
ベビーメタルを聞くとどうしても涙が滲んでしまう、
その理由というのが、
もしかして、その愛惜、あるいは追慕、
あるいはもしかすると、敗れ去った夢!?・・まさか・・

そう、俺は既に、ベビーメタルを、諦め初めているのかもしれない。
それはすでに過ぎ去ってしまった思い出の甘い恋の記憶。
すでに色あせ始めてしまったその切なくも行き場のない熱情の残骸。
だがしかし、そのすべてが忘却の彼方。
すでにそれはすっかりと過去のものとして封印されるべき、
どれだけ手を伸ばしても取り戻すことのできない、
あの、甘く切ない思い出の一ページとしてのベビーメタル、
あのすぅめたるの歌声の中に、
そのすべてが、すでに過ぎ去りし日の潰え去った夢、
その悲劇的な結末を、確信しては覚悟を固めようとする、
その、現れではないのだろうか、と。

という訳でいまや鬼門、禁断となったベビーメタルであった。
スゥメタルの声を聞くといつでもどこでもどんなときでも、
見る見ると緩み始めた涙腺に視界がボヤけてなにをすることもできない。

ましてやこんな車の運転中、涙に霞んだ視界のままで、
時速150キロのロケット走行、そんなことをしていたら、
さしもの俺の悪運があったとしても、命がいくつあっても足りないではないか。

あるいはこの超人的なまでの運動神経をもってしても、
一度ベビーメタルが流れた途端、思わず五感のすべてを丸々持っていかれては、
ふとすれば知らないうちに制限速度に加えるところの20キロ30キロ、
ぐらいならまだしも、思わずエグジットのサインを見落としては遥か彼方まで通り過ぎ、
いやはやしまった、と引き換えした途端にまたまたベビーメタルの罠に嵌っては、
その帰り道のエグジットも見過ごして、といつまでたっても辿り着けない帰りつけない。
改めて言うまでもなく、ベビーメタルこそは究極のドライブ・ミュージック。
時速150キロのロケット走行と神バンドの錐揉み的なまでの超絶グルーヴと、
そして天にも届けと響き渡るあのすべてを吹っ切ったすぅめたるの歌声。
そのあまりの絶妙感に、その凄まじいばかりの快感に、
思わずすべてをぶっ千切っては疾走りに疾走り、永遠と疾走り続けるフリーウエイ。

その経験から思い知っている。
命が惜しければ、車の運転中はベビーメタルを聴くべきではない、
その究極的鬼門的なまでのそのあまりのベストマッチ。

それに加えてこの奇病の発症である。
いまこうしているそばから、涙が滲んでは頬を伝って顎の先からポタポタと流れ落ちるこの涙。
唇のわななきが、鼻水が涎が、それと混じり合っては止めどもなく溢れだしては、
これではさしもの俺も、車の運転どころではないのである。

だがしかし、そうと知っていながら、それを判っていながら骨身に染みていながら、
またまた嵌まり込んでしまったベビーメタルの罠。

BABYMETAL LEGEND-S 洗礼の儀。
あの広島の奇跡。

ダッシュボードに投げ出されたIPHONEの、
その微少な脆弱な内蔵スピーカーから漏れてくる、
この紛れもないすぅめたるの歌声。
人類の到達し得た、究極的祝祭の瞬間を辿りながら、
そしてつに涙が枯れ果てる頃になって、
ようやくのことで客先に辿り着いたのは、
10時の約束を遥かに越えて、昼を疾うに過ぎてから、であった。








そしてひと仕事を終えた6時近く。
では、またいつの日にか、とご挨拶をしての帰り道、
残雪の凍りついた田舎道の抜け、
ようやく見つけたフリーウエイの入り口に滑り込んだところから、
末期的なまでの渋滞の中に飲み込まれることになった。

地平線に長く広がる夕日、その最後の灯火の中に浮かび上がった、
蒼き闇に沈む現代社会の悪夢、その末期的なまでの大渋滞。
凍結した路面でうっかりタイヤを滑らせた間抜けな乗用車たちが、
そこかしこで多重衝突を繰り返しては、
フリーウエイ・パトロールが救急車が消防車が、
けたたましいサイレンを鳴らしては次から次へと通り過ぎるばかり。

いまからこんな具合では、ニューヨークに帰り着くのはいったい何時になるだろう。

そんな絶望に打ちひしがれながら、
普段であれば死ぬほど苛々とする筈のこの大渋滞が断末魔が、
どうしたのだろう、今日に限って絶対的なまでの充足感の中に浸りきっていたのだ。

そう、俺はこの密閉されたコックピットにひとり、
天を揺るがす大音響で、ベビーメタルを聴いていたのである。

仕事中にふと閃いた前時代的啓示。

AUX端子?

そのアメリカ車、戦車あるいは装甲車をも思わせるほどに、
そのあまりにも無骨すぎる仕様の中、
USBという21世紀の神器を頑なに拒み続ける、
その前時代的な面構えの盲点。

AUXポートか。。

もしやと思って聞いたみたシステム部門の米人スタッフ。
AUXケーブルか、判った探してやるよ。
その昔懐かしきストレートケーブルに祈りを込めて、
神様お願い!と射し込んだヒューズボックス脇のAUX端子。

おおお!つながった!!

そしてベビーメタルであった。

そのダッシュボードにドアに床下に埋め込まれた特大スピーカーから、
天地が割れるような大音響で響き始めたベビーメタル。

広島を終わり、プレイリストの気まぐれにひっぱり出される、
その歴史的なブートレッグの数々。

先のダークサイドツアーはもちろんのこと、
2013年のラウド・パークが、
2014年のソニスフィアが、
2015年のSSAが、横アリが、
2016年のニューヨーク・プレイステーションから東京ドームから、
そしてユイメタル最後の公演となった2017年の大阪城ホール。

そのあまりにも偉大な軌跡を追い続けながら、
そして改めて思い知る、このベビーメタルという存在、
そのあまりの貴重さ、大切さ、そのありがたさ。

普段から、あの脳髄を直撃するようなイヤフォン的なサウンドから開放されて、
そして改めて、この車内内蔵スピーカーを奮わせる体感的ベビーメタル。

神バンドのその怒涛の牛カモシカのような壮絶なドライブ感の中にあって、
ひとたび、すぅメタルのあの歌声が流れ初めた途端、
空気そのものの密度、その色が、濃度が、物質の構造そのものが、
いきなりどんでん返しを食らわしては、世界の見え方、
その視界を包んだベールそのものが、ぺろりと塗り替えられてしまう。

その奇跡の高音の中に響き渡る、
いまにも切り裂かれそうな切実さに込められた、
少女の純真が、乙女の祈りが、その弾けんばかりの溌剌が、
なんの嘘も衒いも誤魔化しもないままに、
心の叫びそのものに、ダイレクトに響き渡る、
そのあまりに剛速球一本勝負の壮絶なステージ。

それはまさに、神の降り立った瞬間。
それこそがまさに、天の福音に包まれた、至極の密室であった。







改めて、このアメリカという土地。
フリーウエイというこの殺伐茫漠たる
地の果て:ミドル・オブ・ノーウエァの真ん中に置き去りにされては、
その失意と鬱屈と欲求不満の中に身を焦がしながら、
ただただ悪戯に幸せであることを強要され続ける、
神の声を装った洗脳的なまでの同調圧力。
その行き場のない失望感の中ですっかりと自暴自棄に陥っては、
古き良き理想、
夢と幻想とファンタジー、
その愛と平和の理念に呪いの言葉を吐きかけながら、
現実と真実とリアリティを邪悪な陰謀論、
憎悪と憤怒と排外主義的なギミックにすっかりとすり替えられては、
そのヒステリーの捌け口を、盲信の中にしか見出すことのできなくなった、
その姿はまさに、狂気の祟り神、そのもの。

身体中にナメクジにも似た怨念をぶら下げては、
盲滅法に悪意の毒ガスを撒き散らすばかりの、
この悲劇の祟り神たちの眼の前に、、
ヘイトという赤い布切れにこれ見よがしにちらつかせては、
鼻息を荒立てては牙を突き立てるイノシシたちを急き立て続ける、
邪悪な闘牛士たち。
その目的のすべてが、
もっともっともっと、幸せになるために、
もっともっと、買って食べて飲んで飾って買い替えて。
神の教えにすり替えられた資本主義の喧伝。

その建前となる慈悲と愛の傘を隠れた狂信と暴力
怒りと憎しみをかき集めては銭に代える、
そのもっともっともっとの強欲さばかりを増幅させる貪欲なマネーマシーン。

その行き着く先が新たなる十字軍であることは、
誰の目にも明らかだというのに。







そしてこのフリーウエイ、
そしてこの末期的なまでの渋滞。

地平線の先の先まで永遠と連なる赤いテールランプ、
その絶望の轍の中に密閉されたまま、
ただただ、鬱屈したため息を漏らすばかりの人々。

そんな哀れな現代の葬列の中に、
ただひとり、女神の福音に満たされては涙を流し続ける、
不穏な東洋人の中年が一人。

そして鳴り響くベビーメタルであった。

愛の言葉 響け夜空へ
宇宙まで届けてAMORE

世界を覆うその闇が、霧が、澱が、汚れが、憂鬱な雨雲が、
みるみると洗い流されては清められ、
そして俺は、ひとり感動の虜。

流れに流れ続ける涙を拭うことさえも諦めて、
その究極的祝祭と、絶対的な至福感の中に、
神の実存その紛れもない確証の様を
まざまざと思い知るのであった。

そして十時も近くなって、
相変わらずフリーウエイの捕囚。
地平線の向こうにマンハッタンの夜景を眺めながら、
徹底的なまでに聴き続けるベビーメタル。

そしてふと、嘗て夢見た光景が脳裏に蘇る。


「世界中をベビーメタルのステッカーを貼った車が走り回り、
渋滞のイライラの中で、隣りの車窓からフォックス・サイン、
思わず、くっくっく、そうそう、ベビーメタルだったよな。

世界をベビーメタルの笑顔が満たす、
そんな日も、遠くないだろう・・」


そしてふと覗き見る隣りの車線。
後続車のことなどなにも考える風もなく、
暗闇の中でIPHONEを覗き込む女。
頬付えをついたまま呆然と宙を睨んでは、
15センチ進むたびにこれでもかと車間を詰め続ける男。
岩のような無表情で地鳴りを上げてヒップホップを流し続ける黒人
そのすべての人々の表情に、
べったりと張り付いた不幸の影。

こいつら、と改めて不思議に思う。
こいつら、どいつもこいつもいまにも死にそうな陰気な面をならべやがって。
なんでベビーメタルを聴かないのだろう・・・

そして十一時も近くなって、
相変わらずフリーウエイの捕囚。

遥かに臨むマンハッタンの渓谷、
その摩天楼の夜景に照らされた赤い空に、
進撃の巨人の姿そのままに、
フランシスコ・デ・ゴヤの描いた巨人像、
その幻影を、見たような気がした。

すぅめたる、帰って来てくれ。
世界は、あなたを、必要としている・・・

マンハッタンの夜空に立ち上がった邪悪な巨人の幻影、
そのかわりに、
ベビーメタル・フラッグを肩に担いでひとり仁王立つ、
赤いスカートにポニーテールの女戦士、
そんな壮大な勇姿がありありと目に浮かぶ、
そんな気がした地の果てのフリーウエイ。

愛よ地球を救え、その言葉どおりに、
ベビーメタルよ、世界を救ってくれ。

憎悪と憤怒の狂気の中に幻想、
その邪悪なファンタジーに打ち勝てるのは、
愛とカワイイと純真に満ちた祝祭、
生きることの素晴らしさ、
愛し合うことの素晴らしさ、
つまりは、人々の心に残った、
その歓びに、プライドに、光を灯す、
その神々しい歌声しかありえないと言うのに。

すぅめたる、帰って来てくれ。
世界は、あなたを、必要としている・・・

その究極の救世主の再臨、
その奇跡の瞬間を待ちわびる声が、
地平線まで続く窒息寸前の大渋滞の中に、
ひたひたと満ち始めているのだ・・・











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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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