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人はなぜ山に登るのか ~ カンチェンジュンガ 神々の座に挑んだイカロスたちへ

Posted by 高見鈴虫 on 23.2019 旅の言葉   0 comments

いきなりですが、ここでちょっと映画のご紹介。
普段からは、やれ、メタルだ、バンドだ、アイドルだ、
なんてことばかりに気を取られている方々には、
ちょっとご縁が無かったであろう2015年公開の、この筋金入りのドキュメンタリー。

MERU [メルー]

難攻不落の高峰に命を賭けた三人の登山家の物語りである。







普段からは、やれ、ウニョクだ、サニョクだ、寅キチだ、
アヴェだ、アッソーだ、で、年金すってんてんだ、
なんていう俗世の汚濁に塗れきった、
世の常識人を自認する達磨女郎諸氏、

少なくとも、登山、なんてものには、
まるで縁のないであろうごく一般市民の方々にとって、
命を賭けて山に登る、そんな輩はただの酔狂なキチガイ、
それ以外の何者でもない筈であろう。

事実、この映画を観始めると同時に、
真っ先に心に浮かぶ根源的な疑問。

これほどの危険に身を晒しながら、
これほどまでの労苦に痛めつけられながら、
なぜわざわざ、山になど登るのか?・・・・

「なぜ山に登るかだって?そこに山があるからさ」

当時前人未踏であった世界最高峰:エベレストへの初登頂を目指し、
三度の挑戦の末に消息を絶った英国の伝説的登山家:ジョージ・マロリーの言葉である。

Why did you want to climb Mount Everest?
Because it's there.


このあまりにもぶっきらぼうな返答を前に、
ますますこの登山家という人種が判らなくなっても来るであろう。

人間の限界を遥かに越えた苦難と、
十中八九命を落とすことになるであろうその危険に、
なぜ、敢えて、挑み続けねばならないのか・・

こいつ馬鹿じゃないのか?
常識外れにも程がある。

そんな無邪気な疑問が積もり積もって挙げ句の果てには、

そんなことに無駄な金を使いやがって、
もしもの時に救助隊の費用はいったいどうするつもりなんだ・・
そんな下らないニュースに付き合わされる、
他人様の迷惑も考えてみろってんでい。

そんな正論ばかりを並べ立てては、
人知れず怒り心頭の御仁たちを前に、

人は、なぜ山に登るのか?
だってそそこに山があるから。

その禅問答のあまりのくい違いすれ違い。

ただもしも、そこに山が、と答えたジョージ・マロリー、
その遠い視線の先を追うことができたならば、
そこには、嘗て挑んだそのエベレストの雄姿、
その壮大な情景が、克明に蘇っていた、
その筈なのである。

チョモランマ:エベレスト
世界の頂点。地球の最高峰。
つまりは、神々の棲まうところ・・

ジョージ・マロリーと
その言葉がてんで理解できず、無闇に腹を立ては机上からの無駄な正論を振り回す、そんな常識人との方々のその根本的な相違とは、

つまりは、それ=山を、まだその目で見たことがないから、に他ならない。

もしもジョージ・マロリーがもう少しでも弁舌な人であったならば、
多分、こう付け加えていたであろう。

あんただって、それ:山 を見れば、判るさ・・
if you see it, you will see it...










その山の名を聞いたのは、
カルカッタはサダール・ストリート、
世界各国からの長期旅行者たちが集う、
いまや伝説とまでなったあの安宿のテラス。

それは嘗て彷徨った長い旅の途中、
本命のバンドが敢え無く空中分解を遂げ、
唖然呆然のままに漂い続けたアジアのドブの底。
そして辿り着いたインドはカルカッタ。
その聞きしに勝る喧騒と混沌の坩堝。
世界最貧、世界最汚、世界で最も危険な街とさえ言われた、
最悪尽くめの一大スラム都市。
この世の汚濁と不条理のすべてを一つ鍋にぶち込んで、
ありとあらゆるスパイスを放り込んで煮詰めに煮詰めた、
この徹底的なまでに無秩序に溢れた神秘の大陸:インドのそのカオスの底の底。

その街角に一歩でも足を踏み出した途端、
それはまさに鉄砲水のように押し寄せてくる不条理の大嵐。

街中に立ち込めたありとあらゆる悪臭。
旅行者の姿を見たが最後、
それは血に飢えたゾンビーの群れか、
或いは夏のヤブ蚊かネトウニョ銀蝿か。
街中の乞食たちが大群をなしては押し寄せては、
その痩せ細った骸骨のような腕をむき出しながら、
バクシーシ、バクシーシ、バクシーシ、
お恵みを、お恵みを お恵みを・・・
その見るからに餓死寸前までに痩せ細った、
生きるミイラそのものと化した亡者たち。
そしてその中には、目を、耳を、鼻を、どころか、
腕を、足を、あるいはその双方を、
無残にもぶった切られた、まるで妖怪のような輩たち、なんてのさえが混じっていて・・
腐乱死体が浮かぶその大河の泥水、
その川岸で何食わぬ顔で沐浴をし、
洗濯し食器を洗いお茶を沸かす、そんな人々。
交通規則のまるで機能しない大通りに犇めき合う車から、
その間を悠然と闊歩する牛たちから、
狂犬病に冒された野良犬たちの群れから、
裏通りを埋め尽くした生ゴミの山と、
悪臭と共に黒煙のように立ち上るハエたちと、
その残飯を犬たちと競い合って貪る浮浪児たちと。
その地獄絵図にたじろいでは身を竦めた途端、
その弱気をめざとく見て取ったチンピラどもが、
周りを取り囲んでは、おい金を出せ、と肚にナイフを突きつける。
そしてそんな末期的なまでの混沌の中を、
右往左往と犇めき合う人ひとヒト。
すべてが徹底的に汚れ切っては、
手に触れるたびにその指先に、
狂気を孕んだ病原体のペーストがべっとりと貼り付くような。
その目にするもののすべてが末期的なまでのカオスに満ち充ちて、
それは神秘というよりはあまりの無茶苦茶、
カルチャーギャップというにはあまりの支離滅裂、
ありとあらゆる常識を逸脱した、
そこはまさに世界最狂の無法都市、その地獄絵図の修羅の巷。

この何もかもがアベコベづくめのひょっとこワールド。
イエス:アッチャーと言って首を横に振る人々。
ああ言えばこう言う、その嘘で嘘を固めた詭弁の先が、
いつも結局小銭の誤魔化しに転げ落ちる、
改めてこの謎に満ちたインドという場所。
そこに足を踏み入れたほとんどすべての旅行者たちが、
そのあまりに支離滅裂な論法に目を白黒させては、
そこに何らかの意味、あるいは真理を探るふりをしながら、
やれ神秘だアートだ哲学だ、
やれ世界平和だ環境保護だ貧民救済だ、
とそれらしきことを並べながら、
だがしかし、一歩でもその足を現実の中に踏み出した途端、
そのあまりに壮絶な不条理を前にして、
ただただ息を詰まらせ、たじろぎ、慄き、
そして末期的な拒絶反応を起こしては、
這う這うの体でその鉄の扉の安宿の中、
ツーリストだけのシェルター:駆け込み寺に、
逃げ込んでくることにもなる。

ただ、そんなこの世の地獄の沙汰を前にして、
だがしかし、それは不思議なことに、
この夢破れたパンクロッカー風情の青二才にとっては、
そんなスラム街のあまりのドサクサが、逆に妙に心地よく、
ともすれば、そんな無秩序の中を彷徨えば彷徨う程に、
いまだ胸の奥に燻り続けていたその焦燥と苛立ちの中で、いまにも身体中が焼き尽くされそうであった行き場のない熱情が、
この混沌の中で揉まれ揉まれて行くうちに
いつしか中和を見ては癒やされ、冷まされ、
そして、その怒涛の熱気の底からふっと吹き込む一陣の風、そのシナモンの香りの中に、
まるで身体中が透き通ってしまいそうな、
そんな救済を感じていたのは確かなのだ。

そして日がな一日、宛のないままにただひとり、
その怒涛の人波を掻き分けながら、
乞食とチンピラと物乞いと野良犬と野良牛と、
そのカオスの中にもみくちゃにされ尽くされては、
そして長き一日の終わりに辿り着く、
サダール・ストリートの裏手のその安宿のテラス。

崩れかけたスラムの一角にぽっかりと空いたその中庭。
菩提樹の木陰の下、ベゴニアの鉢植えが午後の風に揺れる、
ピンクと黄色とペパミントグリーンと、
色褪せたパステルカラーの壁に囲まれたその中庭のテーブル。
開け放たれたドアからチューニングのはずれた生ギターの音色が溢れ、
庇に張ったロープに干した洗濯物、
その下では胸にルンギー一枚を巻いただけの少女たちが、
白い肌一面に広がった虫刺されの跡を数えている。
傾いたテーブルの隅で絵葉書を書く者。
騙されて買わされた紛い物の土産物を前にため息をつく者。
ガイドブックのページを広げ、次に向かう街の情報を集める者たち。
なあ、誰かローリング・ペーパー持っていないか?
そんな声をかければ、
読み耽っていたペーパーバッグのページを無造作に千切っては、
ねえ、それ、良かったら私の部屋でふたりでやらない?と意味ありげなウインク。
そして空が、そして風が、そして街の喧騒さえもが、
遠く近く流れの中に溶け込んでは混じり合っては一つの流れを紡ぎ・・
そこはまさにインド的現実から隔離された一種のコロニー。
或いは文明社会との狭間に位置したチェンバールーム:減圧室。
そんなテラスのテーブル。
世界各国から集った地球縦三周横三周の旅の猛者たちが、
ハシシ入りのガンジャのチラム:パイプを際限なく回しながら、
これまでの旅と、これからの旅、
その尽きることのない与太話を永遠と繰り返していた、
あの時間が止まってしまったかのような午後。

そして一日中の彷徨の末に辿り着いたこの安息のシェルター。
喉の砂埃をラッパ飲みのリムカで洗い流しながら、
いやはやまったく今日も今日とてとんでもねえ目にあったぜ・・
そんな俺に、よお、とテーブル中から声がかかる。
よおよお、パンクの兄ちゃん。
毎日毎日飽きもせずにそのゲットー行脚、まったくご苦労なことで。
で?今日はなにを見た?なにを得た?なにを失った?
まあ取り敢えず、ほら、ボン・シャンカール!
そうして差し出されたチラム:パイプを胸いっぱいに吸い込んでは、
今日一日のあの怒涛の風景、
その不条理のその無秩序のその無慈悲の無節操の、
その混乱の、その騒乱の、その錯乱の、
そのすべてのディテールが一挙に溢れ出しては、
そして、空にむけて、ぷはああ、巨大なきのこ雲を吹き出しながら、
そして改めて仰ぎ見る、その時間の消えた空の彼方。宇宙の彼方。
つまりはまあ、すべてはカルマ:業のなせる技、と徐に呟いて。
青二才、少しは判って来たじゃねえか、と面々。
そう、業だよな、カルマだよな。
そう思ってなくっちゃやりきれねえことばかりだものな。
パンクの少年、君の言わんとするところは良く判った。
さあ、もう一杯、ならぬもう一服。
このシバ神の息吹、思い切り胸に吸い込んでは身体に溶かし、
そのカルマ:業という奴に、その身のすべてを委ねてしまっても悪くはねえだろう。

その地球縦三周横三周の旅の猛者たち。
長くのばした髪と、そしてこれでもかと蓄えた無精髭。
旅の達人を自称しては、いつの間にやらこの宿の主、
あるいは仙人にまでに成り果てたそんな旅の残骸たち。
俺はそんな世界浪人たちに囲まれては、
箸にも棒にもかからない終わりのない与太話の堂々巡りを続けながら、
このインド世界を包んだ巨大なる混迷と、
自分自身の抱え込んだ葛藤そのものを、
綯交ぜにしては飽和を促す、
ささやかな自浄を続けていたのかもしれない。

とそんな曲者揃いの面々の中に、一種毛色の違う青年の姿があった。

周りを囲んだその見るからにヒッピー然とした長期旅行者たちの中にあって、
その男は、一見して好男子風のやさ男。
年の頃なら二十代後半から三十代半ば。
さすがに刈り上げではないにしても、
襟にかからない程度に髪を切り、
ハサミで刈る、程度ではありながら、きちんと髭をあたっては、
地味ながらもそれなりに文明人の名残りを匂わせた、
襟付きのチェックのネルシャツ姿。
酔いに任せては世界各国での無頼自慢を繰り返す、
そんな旅の猛者たちの中にあって、
その男はいつもなにもするでもなくなにを話すでもなく、
ただ、午後の陽だまりのように温和な微笑みを浮かべたまま、
回されてくるパイプを神妙に受け取っては、いただきます、と空に向けてご挨拶。
そんなやさ男。
ただ、その一見して人畜無害な普通的風体とは裏腹に、
よくよく見れば朝一番から日暮れまで、
一日中をこのテーブルで過ごしては、
そこに持ち込まれるありとあらゆるその手の物。
ガンジャ、ハッシシ、オピュームから、黒砂糖から、お化け茸から、
果ては、Lから、Cから、Hから、アッパーダウナー、ナチュラルケミカル、
その如何を問わず、差し出されたものはそれがなんであっても、
なんの躊躇もなしに口に放り込んでは胸いっぱいに吸い込んで吸い込んで吸い込み尽くして。
その思い切りのあまりの凄まじさ。
そしてまるでなにごとも無かったかのように、
あの地蔵のような微笑みを浮かべては長い長い溜息を残す、そればかりの日々。
ただ、時として、その話題の趣旨とはまったく関係のないところで、
ふと顔を空に向けては、ああああ、と意味不明の長い長い嗚咽を漏らしては、
大きくかぶりを振り、時として髪を掻きむしり、
突如として部屋に飛び込んではドアの奥から悲痛な雄叫びを上げ続け、
そしてしばしの後、まるでなにごともなかったかのように、
いやあ失敬失敬と、照れ笑いをしては肩を竦めて見せる、
そんな妙なところのある青年、ではあった。

その一見してあまりにも毒のない風情から、
もしかして、旅に出たばかりの初心者なのか、
とは思ってはいたのだが、
しかしそんな一見して人畜無害な垢抜けない普通人風情に対し、
不思議なことに周りを囲んだこのツワモノたちが、
妙に敬意を払っては気を使う、そんな空気があったことには気がついていた。

あの人、と聞いてみたことがある。
あの人、いったいなにもの?
ああ、あの人、スガワラさん。
スガワラさん?
そう。
で?いったいなにもの?
オレも良くは知らないだけど
ただ、ずっといる人。
ずっと居る?
そう、少なくともオレがここに来たときには既にここに居た。
で、その時に一番長かったのがあのケンさん。
で、あのケンさんが来た時にも、スガワラさんは既にここに居たって話。
つまり?
つまり、あの人、ああ見えて一番旅が長い人。
少なくとももう四年近く、日本に帰っていないと思うよ。
四年かあ。そんなに長く、いったいなにをしているんだろう。
ほら、あんなに普通の格好してるしさ、
もしかしてまだ来たばかりの人かと思ってたよ。
あの人ね、ベンガル語を喋るんだよ。
ベンガル語を?
そう。前にここに居た奴が州警察にパクられたことがあってさ、
その時に交渉に出たのがあのスガワラさん。
それこそ目が飛び出るぐらいの身代金ならぬ保釈金を要求されて、
あわやもう一巻の終わり、なんて風で、
ここにいる連中もいつ足がつくかと慌ててトンヅラの荷造りを初めていたところ、
あのスガワラさん、あの格好であの顔のままふらりと出かけて行って、
で、警察署の署長相手にいきなりべらべらとベンガル語を喋り初めたそうでさ。
で?
で、無事釈放。交渉時間ものの15分。
相当にバクシーシ:賄賂とか払ったのかな。
いや、それもなかったらしい。
で後になってスガワラさんに、あの署長になにを喋ったの?と聞いたら、
聞いたら?
いや別にって。
ナマステ:こんにちは、スガワラです。この人を迎えに来ました、と。
ただそう言っただけだって。
それだけで釈放?
そう、それだけで釈放。
顔パスってやつ?
そう、その、顔パスって奴。
で? で、いったい、あのひとって、なにもの?
それが実は誰も知らない。
何を聞いても尋ねても
黙して語らずただ笑っているばかり。
だがしかし、使える人である事だけは確か。
だからまあ、仲良くしておいて損はない、と。

その妙な普通人風情であるところのスガワラさん。
旅の気負いも、気取りも、気概さえも微塵も見せず、
まるでサンダルを引っ掛けては、
駅前のパチンコ屋に出かけるようなその自然体で、
この怒涛の大陸、インドの混沌の坩堝を、
ゆらりゆらりと浮かぶように流れるように。

とそんなスガワラさんに
ひょんなことからら妙なところでばったりと出くわしては、
妙な具合に妙な人生が尚更にねじ曲がる、
そんな運命のいたずら、何ていうのも、
つまりは、カルマのなせる業
或いはこの神秘の国インドの
ちょっとした魔力、といえない事もない。





既に門限時間を疾うに過ぎた夜更けの裏通り、
一般の旅行者どころか、カタギな普通人の姿も一切かき消えた、
暗闇に沈み込んだ魔都、その無法の底。
路上生活者たちが重なりあって眠る裏通りを入って、
深夜番のリキシャワラーと、それを相手の立ちん坊たち、
そんな人々の憩いの場であった、屋台のチャイハナ。

当時、おっかなびっくりではありながら、
毎夜毎夜に繰り返していた門限破りの冒険散歩、
その帰りがけにちょくちょくと顔を出しては、
お休み前のミルクティを啜っていたこの深夜営業のチャイハナ。
裸電球ひとつの街灯の下に地べたの上に粗末な椅子を並べただけの即席カフェ。
そんな貧民窟の秘密のオアシスに、
ふと、あのスガワラさんの姿を見かけてちょっと驚いた。

いや、どうしたんですかこんな時間に・・
思わず目を丸くする俺の前で、
何食わぬ顔で、やあ、どうも、と軽く会釈を返しては、
そしてまた店の主人と世間話を続けるスガワラ氏。
いやあねえ、と、普段と変わらぬ温和な微笑みを浮かべたまま、
どいつもこいつも、業と言うかカルマと言うか、
まったくもって、しょうもない生き物だよね、この人間という奴は・・

という訳でこのスガワラ氏であった。
インドはカルカッタ、この世界最貧最狂のゲットー都市、
その深夜の過ぎたスラム街の裏通り、
地元の住人であっても、ましてや、旅行者なんてものが出歩くには、
あまりにも無茶な無鉄砲な無謀過ぎるこの深夜の冒険行。
俺でさえ、実は密かにヒヤヒヤドキドキ、
ポケットの奥にはそれとなく、飛び出しナイフ、なんてものを隠し持っては、
目の前よりも背後が、上よりも足元ばかりが気になって。
そして辿り着いたこのゲットーの奥底の貧民カフェ。
そこでいきなり出くわした、まるで高田馬場駅前で人待ちをする貧乏学生、
それをそのまま切り取って貼り付けてしまったような、
その普通さが、あまりにもあまりにも、異様過ぎる浮き上がりすぎる、
このなにもかもが普通の日本人であるところのスガワラ氏の姿。

ただ不思議なことに、隅のテーブルで無駄話をする客引き風情から、
仕事にあぶれた娼婦であろう老婆のように痩せ細った骸骨女。
そして並んだリキシャの客席に転がっては、
ハンドルの上に足を投げ出して眠りこけるリキシャワラーたち。
そんなインド的な風景のなにひとつとして、
このスガワラ氏の姿に気を止めていない、視線さえ向けはしない。
このあまりのなにげなさ。このあまりにさり気なくも確信的な自然体。
いったい、こいつ、ナニヤツ、と思いながら、
ふと、そんな俺の目の前に、
頼みもしないのにチャイが置かれグラブジャムン:砂糖漬けのドーナッツが並び。
そのひとつに、手を伸ばして頬張っては、
あまーい、と顔をしかめて笑うスガワラ氏。

で、君はもう旅はどのくらい?
で、これからどこに行くのかな?
インドはどう?
下痢なんかしてないのかな?
まあいいか、そんなこと。
と、曖昧な微笑みで誤魔化しながら、
そんなスガワラ氏に、思わず目を瞠りながら、
あなたは、いったい、なにものなのですか?・・・
何者って?
だって、ここ、カルカッタでしょ?
で、この時間でしょ?
で、その格好でしょ?
やばく、危なく、無いんですか?
危ないって?とスガワラ氏。
なにが危ないの?
だって、その格好、どこからどう見ても、日本人そのもの。
さすがにこの格好じゃ東京は歩けないと思うけど、
と、擦り切れたサンダルを揺らすスガワラ氏。
いや、東京は取り敢えず、神奈川ならそれで十分。
神奈川で普通の格好をしてると、カルカッタでは危ないの?
いや、だって、どこからどう見たって旅行者そのものじゃないの。
そういう君だって、いかにも、長期旅行者そのものって感じだけど。
いや、でもさあ。でも、なんというか・・
で、スガワラさん、あなた、いったいなにものなんですか?

それが、このスガワラ氏との出会いだった。

その後、夜更けの探索のたびに何度と無くそのチャイハナを訪れては、
そこで何食わぬ顔で深夜のチャイを啜るスガワラ氏の姿を見かけては、
やあどうも、妙なところで、妙な時間に、と互いを笑い合っては、
しかし、その最も大切なことについては、なにも触れないままに、
チャイ屋の主人の語る、この街角の裏話、こぼれ話、
そのあまりにもさり気なくも何気なくも、
いやあ、それ、やっぱりインド、やっぱりカルカッタ、
そんなご当地話に腹を抱えて笑い転げては、
そんなスガワラ氏の姿を見つめながら、
この人、この男、こんな時間にこんな場所で、これだけの自然体。
まさに、なにかある、なにか無くてはおかしい、
そのあまりの普通人ぶり。

でさ、スガワラさん、いったいなにものなの?
もう4年も旅してるって言うし。
いったい、なにをしているの?
ドラッグディーラー?暗黒街の顔役?
逃亡中の過激派上がり、
下手すれば内閣調査室の密偵?
そんな話題を振るたびに、
さあ、そろそろ帰らないか?
あのホテルのドアマン、1時過ぎると居眠りをこき初めて、
いくら呼んでも出てきやがらないしさ・・

という訳でこの摩訶不思議な普通人であるところのスガワラさん。
その後、俺がこの街に馴染めば馴染むほどに、
そこかしこでこのスガワラ氏の名前を聞く機会が増え、
そしてこの深夜の貧民チャイハナ。
深夜に寄るたびにちょくちょくとこのスガワラ氏の姿を見かけては、
そこで交わされるさりげない会話の中で、
この男、できる、その疑惑が確信が、ますます膨れ上がっては、
そこに明らかに、尋常ではない何か、を感じ取っていたのだ。

という訳で、秋を過ぎ、冬を前にしたカルカッタ。
この怒涛の熱帯都市も、さすがに12月に入ると朝夕は底冷えがする。
日々弛まぬ彷徨の成果か因果か、
そこかしこに知り合いも増えては裏から表からの事情通気取り。
この街の作法から掟から、
あるいは、水から空気からに馴染み始めていたそんな頃、
ふと迷い込んでしまった深夜バラック街の迷宮の底。
見上げる頭上すれすれにまで建て込んだトタン屋根、
右に曲がって左に折れて、
歩を進めれば進める程に深みに嵌まり込んでは、
いやはやしまったな。
どこかで妙な連中に捕まって身ぐるみ剥がされても、
下手をすればそのまま川にドボンとされてもなんの不思議もない、
陥った窮地のあまりの深刻さに、
思わず笑いがこみ上げてはさすがに背筋に冷たい汗が流れはじめ。
とそんな時、ようやく転がり出たドブ板の上。
そこかしこに並ぶ屋台の灯りがなんとも目に眩しくて、
思わず、助かった、と胸を撫で下ろしたそんな俺の前に、
よおっ、と笑う、スガワラ氏の姿。
思わず、あんた、と息を飲んでは大絶句。
あなた、こんなところで、いったいなにを?
それはこっちが言うセリフ。
さっきちょっと姿を見かけてさ。
つけてきたの?
声をかけようと思って追いかけたんだが、
で、どうしたの、こんな時間にそんなに慌てふためいて。
いやあ、帰り道が判らなくなって、ちょっと焦ってた。
ああ、そういうことか。なぜおんなじところをぐるぐるを廻っているのかと思ってたよ。
同じところ?
そう、同じところ。
そうか、同じところを廻っていたのか。やれやれだな。
ただ、この道が見つけられたのは立派だよ。
このバラック。まるでジャングルだろ?
たったいま通り過ぎた筈の景色が、ふと振り返ると一変してしまう。
ここに住んでいる奴らだってちょっと道に迷えばたちまち帰れなくなるんだ。
生きて出てこれただけでも見つけものだよ。
ああ、今夜もなんとなく、ちょっとした冒険をした気分。
それはそれは。
で、スガワラさん、
あなたこそ、いったいなにをしてたんですか?こんなジャングルの底で。
ああ、実は眠れなくてな、とスガワラ氏。
眠るたびに嫌な夢を見て、
だったらずっと起きているって言っても、
あの安宿のベッドではさすがに気が滅入ってくる。
そういうことなんですか。インド不眠症かあ。カルカッタの眠れない夜。
で?で、君はどうして?
まあ似たようなものかな、と。
つまりそうか、つまりは似たもの同士ってやつか。
つまりは、この街、この雑踏で、この喧騒で、
このスラム街のジャングルを彷徨っては、
その不条理の中に一種の安息を得ている、
つまり、そんなところなんだろ?
落ち着くんですよね、凄くほっとするんですよ、この街を歩いていると。
バランスが取れるというか、あまり苛々しなくて済むと言うか。
そんな俺に、さも当然そうに、はいはい、と頷くスガワラ氏。
嫌なことを考えなくて済むってことだろ。
たまに酷い目にも合うけど、たまには変な奴もいるけど、
でも基本的に人間だしね。
あのチャイ屋のオヤジの話じゃないけれど、
どんな顔してようが、なにを食っていようが、どんな神様を信じていようが、
人間であることには変わりはない訳でさ。
この街を歩いてると、なんとなく、俺もそいつもこいつもあいつも、
みんな人間、たかが人間じゃないかって、そんな風に思えてきて、
これまでにあったことのすべてを、水に流してもいいかな、なんて、
そんなことを、思えてきたりもするんですよね。

そんな俺の問わず語りに、
なあ、小腹が空かないか?とスガワラ氏。
ここを行ったところにちょっと美味しいサモサ屋があるんだけど。
サモサ屋?こんな時間に?
大都市だよな。
いろんな人間がいろんなところでいろんな時間にいろんな生活を送ってる。
東京だってそうだろ?香港も、バンコックも。パリもニューヨークもロンドンも、
24時間、いろんなところでいろんな人々が、いろいろな人生を送っている。
それが都市の魅力といったら魅力だし、そしてボクは、そんな人々と居ると、
なんとなく、ちょっと、安心できるというか。
俺だけじゃない、っていうか。
そう、みんな同じ人間なんだからって。
許せるんですよね。そういう時。
ああ、許せるんだ。他人も、そして自分も・・

バラックの狭間。
ベニアとトタン板が持たれあっただけのその路地裏をすり抜けながら、
そんなドブの底に転がってはそこかしこで寝込む人々の足を、
飛び越え、時として踏んづけながら、
リキシャワラーも物乞いも浮浪児もそして野良犬も野良牛さえも、
深く眠りこけるその深夜の底で、
そして辿り着いたサモサ屋の屋台。
豆電球ひとつの中でハフハフと頬張るその揚げたてのサモサ。

美味しいね。
美味しい。こんな美味しいもの、食べたの始めてだ。
インドって、つくづく人に優しいところだよね。
その優しが、ちょっと奥が深すぎるところはあるけどね。
この真夜中のサモサのありがたみに触れられるだけでも
癒やされるよな、本当に・・・

ただ、スガワラさん、あなたは本当に不思議な人ですね。
不思議かあ、と笑うスガワラ氏。
それは褒めれているのかけなされているのか。
ただ、不思議と言ったらあんただって不思議の塊りじゃないか。
こんな夜更けにフラフラと、こんなところでサモサなんて頬張って。
それに
それに?
それに、あんたは違うよ。
あんたこそ、普通の日本人でもなんでもない。
或いは、現代が向かっている日本人像、
その全ての、真逆を行っているという感じ。
そら見ろよ、僕らの周り。
こんなところで平気な顔してサモサを食ってる、
そんな日本人、みたことないぜ。
お互いにね。
そう、お互いにね。
で、そろそろ話せよ。あんた、なんで、これほどインドに魅せられたんだ?
魅せられた、なんて大層なものじゃないけど、
まあ妙に肌に合うっていうか、水に馴染むっていうか。
アメーバー気分って奴だな。
このインドで、下痢もせず、辟易もせず。
英語も喋るし、あの外人たちにもまったく臆することなく、
白人のねえちゃんを片っ端からこマしまくっては悪びれる風でもなく。
そしてなにより、このインドなんてところに、
何の不思議もなく溶け込んでいる。
そんな日本人、あんまり見たことないぜ。
その言葉のすべてを、そっくりそのまま、スガワラさんにお返ししますよ。熨斗をつけて。
はは、そういうことか。まあ、そういうことだよな。
基地の街の生まれなんですよ、と俺は言った。
だから外人にも慣れているし、あいつらだってたかが人間、そう思っているし。
それにずっとずっと貧乏だったから、汚いものには耐性があるというか・・
で、日本ではなにをやっていたんだい?
チンピラ、かな。
ははは、と笑うスガワラ氏。
旅に出るのに、バックパックの中いっぱいなまでに文庫本を持ち歩く、
そんなチンピラこそ見たことないぜ。
だったら、と俺。
だったら、バンドマン、だったのかな。
プロでやってたの?
プロって言ってもぜんぜん食えなかったけどね。
まあミュージシャンなんてそんなものだろうな。
で、スガワラさんはどうなんですか?
スガワラさんこそ、そのあまりの普通さというか自然体というか。
そういう旅行者って、あんまり見ないですよね、逆の意味で。
ボクは、と笑うスガワラ氏。
ボクはもう旅が長すぎて、旅そのものが生活になってしまったのかもな。
旅そのものが生活か。ちょっと憧れるな。
憧れられても困るけどね、とスガワラ氏。
旅に生き、旅に死ぬ。ちょっと理想だな。
このまま一生旅を続けてもいいかな、なんて、
この街に来てから、ちょっとそんなことを、まじめに考えてもいるだけど。
青いな、と笑うとスガワラ氏。
お金はどうするつもりなんだ?
いくら物価が安いと言っても、生活するにはそれなりに金がかかるだろ。
お金なんか、どうにでもなりますよ。
ガイドをやったって良いし、
これ見よがしにやばい写真を撮って、
ほらこんな場所のあんな奴らを、
日本のインチキ雑誌に売り込めば、
ちょっとした小銭ぐらいは稼げるんじゃないのかな。
まあその気になれば、タイのブツを香港に運んで、
香港のブツをインドに運んで、
一発当てれば一年ぐらいは遊んで暮らせるかもな、と。
おいおい、そんなことが長く続く訳ないじゃないか、とスガワラ氏。
そうかな。わりとそういうことやってる人たち、多そうだけど。
上手く行くのは最初のうちだけ。
そのうちすっかりと面が割れては、
調子こいてきたところをいきなりパクられてブタ箱行き。
そういう奴を腐るほど見てきたよ。
世の中甘くないってことですね。
ただ、まあそのときはその時。
旅に飽きたら、ひと思いにポンプぶち込んで、
天国注射のラリパパのまま、
この世とオサラバっての悪くねえかな、とか。
そう嘯く俺に、違うな、とスガワラ氏。
違うな。少なくともあんたはそういうタイプの人間じゃない。
そういうことになってしまう奴らは、もっと違う種類の人間。
少なくとも、あんたはそうじゃない。
つまりは、運び屋にもジャンキーにもさえ成りきれない、
ただのハンパ者ってことでしょ?
まあそう、そういうことかもな、とそんな俺に、
早く旅を上がりなさい、とスガワラ氏は言った。
君はまだ若いんだ。いくらでもやり直しがきく。
帰る場所があるうちに、帰るに越したことはない。
俺に帰れる場所があるか、と言われるとちょっと微妙なんだけど。
日本があるじゃないか。
まだあんたは日本に帰れる。
まだその気持を日本に残している。
気持ちを日本に残している?
いや俺的にはもうすっかりと断ち切っては、
綺麗さっぱり、未練なんかこれっぽっちもない。
このまま一生日本に帰らなくたって、
いや、帰らないためにはどうしようか、
なんてことばかり考えているっていうのにさ。
違うだろ、とスガワラ氏が言った。
あんた、これだけカルカッタを彷徨き廻って、
いまだにそんなことを言ってるのか?
自分に嘘をついちゃいけない。
自分にだけは、嘘をついちゃいけない。
そう、ボクには判る。
あんたはまだ日本にやり残したことがある。
あんたはその落とし前をまだ諦めきれないでいる。
この旅はその復活戦へに向けたトレーニング。
そのつもりなんじゃないのか?
それを思いながら、毎日毎日、
朝からそしてこんな時間まで、
自分自身と自問自答を続けているんじゃないのか?
復活戦かあ・・・
もう一度、やりたいんだろ?
もう一度、命を張って勝負をかけたい、
ずっとずっと、そう思っているんだろ?

そしてカルカッタであった。
世界有数の貧民地区、その寝静まった闇の底。
積み上げられた生ゴミに紛れるように、
それはまるで折り重なる惨殺死体のようにして、
互いに寄りそい縋りあっては、
泥のように眠りつづける路上生活者たちの姿。
果たして、と思う。
果たして、俺はこいつらと共に眠ることができるだろうか。
野良犬や野良牛と一緒になって生ゴミを喰らって生きる、
そんな人生がいったいなにを意味しているのか、
旅に暮らし、旅に死ぬ、その本当の意味が、
俺には、本当に、判っているのだろうか。

そしてふと、スガラワ氏を振り返った。
もしかしたら、このスガワラ氏であれば、
それができるのかもしれない。
もしかして、この生ゴミ同然の人々の中に、
いきなりこのスガワラ氏の姿を見つけたとしても、
それはなにげなくもどことなく自然で普通で、
なんの不思議もないままに、
そしてそんな生ゴミの中から立ち上がったスガワラ氏は、
いつもと同じ笑顔を浮かべては、
やあ、と何食わぬ顔で、手を上げて見せる筈だ。

この人は変わらない。
例えどんな場所にあっても、
どんな人々に囲まれていても
決して変わることのないその存在の力。
どんな劣悪な場所にあったとしても、
その汚濁に汚されることのないその意思の力。

この人の持つ、この普通さ。この自然体。
その揺るぎの無さ、つまりはこの包容力。
いったいどこから、そんな不屈な強さを身に着けたのだろう。

そして深夜のスラム街、その小道の阿弥陀くじをどこをどう歩いたのか、
そして再び、奇跡のようにして帰り着いた、
サダール・ストリートの裏通り、
その伝説の安宿の、テラスのテーブル。

寝静まった夜露に濡れたテラス。
ドミトリーの扉の向こうから、
まるで高く低く地鳴りのように響く鼾の轟音の輪唱に声をひそめて笑いながら、
そして見上げたその四角く切り取られた空の真ん中に、
不思議なくらいに明るい月がぽっかりと浮かんでいた。

今日も長い長い一日だったな。
そう呟く俺の前に、そう言えばと取り出したココナッツの殻、
それを二つに割ったガンジャ入れ、つまりは宝物。
ちょっと古いけど、これ一緒にやらないか?
どこ産?ケララ?マナリー?もしかしてアフガン?
これかい?これは、ダージリンだよ。
ダージリン?
そう、ダージリンをかなり奥に入ったヒマラヤの小さな村。
そこで貰ったお土産なんだ。

そして燻らした乾燥大麻。
その青い草の香りが緩やかに緩やかに、
身体中に染み込んでは溶けていく。

いい香りだ。
ああ、ガンジャだけっていうのも、たまにはいいよな。
そして見上げた月。
その不思議なほどに明るい月。

まるで身体中から溶け出した生気が、
流れ出しては月に吸い上げられ、
そして月から降り注ぐ青白き夜の精が、
ひたひたと身体を浸してく。

ねえ、スガワラさん、と俺は呟くように言った。
もしよろしければ、そろそろ教えてもらえませんか?
あなたは、いったい、なにをしてきた人なのですか?

ははは、と笑うスガワラ氏。
なぜそんなボクのことを聞きたがる?
別に怪しいものじゃないさ。
ただの旅人。ただの人間の残骸だ。
いや俺には判る。
あなたは、タダ者じゃない。
あなたはそうやって普通に見せながら、自然に振る舞いながら、
あるいは旅の残骸を気取りながら、
しかし、どんな環境に於いても状況においても、
その普通さを変えことのない、
或いは、それが例えどれほど過酷な状況にあったとしても、
その普通さを貫くことのできる、
実はそんな不屈の意思を持ったひと。
ねえ、教えてもらえませんか?
あなたはその強さを、いったいどうやって手に入れたんですか?

スガワラ氏は、またいつもの微笑みを浮かべたまま、
ははは、と短く笑ったまま、
あんまりそういうことは人に話さないことにしてるんだがな、
と首を傾げてみせる。

まあそう、見ての通り、あまり他人に褒められることもない人間だ。
強さか、そんなことを思って見たこともなかったが、
或いは、そうだな、確かに、ボクも若い時分、
そういう先輩に憧れた時期もあったかもしれない。
そうか、強さか・・
ボクがそんな強さを身に着けたとは到底思えないけどな・・
ボクなんか、まだまだだよ。
ボクなんかを、強いなんて、そんなこと思っちゃいけない・・
スガワラさん、と俺は言った。
俺が旅に出た理由は、いつかそんな強さを身に着けたい、
そう思っていたんですよ。
なにがあっても、どんな状況に陥っても、
決して揺るぐことのない強さ。
その度胸というか、人間の器というか。
俺が旅の中で探しているのは、多分、そんな自分なんじゃないのかなって、
スガワラさんを見ていてそう思ったんです。
ねえ、教えてください。
あなたはその強さを、どうやって手に入れたんですか?
あるいは、と俺は言った。
あるいは?とスガワラ氏が返した。
或いは、もしかしたら、それは手に入れたものではなく、
失ったものの代償。
ほお、とスガワラ氏が笑った。
失ったものの代償か。それはそれはだな。君は詩人になれるぞ。
旅を続けるということは、
手に入れるものと同じぐらいのものを捨てていかねばならない。
全てを手に入れたいとがっつけばがっつくほど、
それを手に入れるためにはなにかを捨てねばならない、
だって生身の人間が背負い切れるものなんてたかがしれている。
つまりはそれこそが、人間のうつわ:器という奴。
旅に出ると、改めて、その事実に気付かされる。
であれば、お伺いしてもいいですか?
あなたはその強さを手に入れるその代償に、
いったいなにを失ったのですか?
もしも、とスガワラ氏が言った。
もしも君の求めているその強さとやらを手に入れる為に、
君の最も大切だったものを手放さざるを得なくなったとしたら、
君はそれでも、それを手に入れようとするかい?
これまでの自分にとって一番大切だったものを、
捨て去ってしまうことができるかい?
或いは、その逆に、
君はその最も大切なものを失ってまで、
欲しいものというのが一体なにであるのか、
考えたことは、あるかい?

そして長い長い沈黙の後、
ヤマ、とスガワラ氏が呟いた。

ボクは、ヤマ、をやってたんだ。

ヤマ?
そう、ヤマ。

ヤマって、山登りの、ヤマ?
そう、山登りのヤマ。

ヤマ・・・ 山登りの山・・・

まるで、絞り出すように、ヤマと呟いたスガワラ氏の顔に、
あのいつも仮面のように貼り付いていた微笑みは消えていた。

ヤマ・・

そして見上げる空に月があった。
綺麗な月だな、と呟いた俺に、
いや、ボクは逆だな、とスガワラ氏が短く言い切った。

山で見る月はこんなものじゃないよ。
山で見る空もこんなものではない。

そして、山にある人間は、
それはそれは小さな、まるで豆粒、まるでアリンコそのもの。

山を降りるとね、月が、太陽が、空が、そのなにもかもが、
まるで牙を抜かれてしまったかのように、
物悲しくも間が抜けて見えてきてしまうんだよ。

それが山を降りた者の宿命。
それが、山を降りた者が一生に背負わされる十字架。

つまりはそれが、あなたが得たもの、失ったもの?

ヤマか、とスガワラ氏が再び呟いた。

ヤマ、だったんだよな・・





高校大学と山岳部でね。
植村直己って知ってるかい?
高校の時、「青春を山に賭けて」って本を読んでね。
夢中になったんだ。

無一文のまま日本を飛び出しては、
たったひとりで世界を放浪して、
そして世界中の山を登る。
そんな生き方があったんだってさ。
若かったよな。衝撃だったよ。
世界に出たい、旅に出たい、そして、世界中の山に登りたい。
そう、夢中だったんだ。

それ以来、その想いだけで山にばかり登っていた。
高校大学と勉強そっちのけで山にばかり登っていた。
大学三年の時に遂に夢の海外遠征隊にも加わって、
後方支援ではあったが、その目で、ヒマラヤを初めて見た。
帰ってからもヒマラヤのその情景が忘れられなくてね。
どうしてもどうしても、ひとりで行ってみたくなった。
ありとあらゆるアルバイトで金を貯めてね、
そして旅に出たんだ。
二年間、世界中を放浪したよ。
さすがに単独登頂とまでは行かなかったが、
自力で登れる山を探しては登りまくった。
大学には八年居たんだ。
研究員として残ろうともしたんだが、
こっちの頭にあるのは山のことばかり。
山岳部の先輩のコネで就職したんだが、
やっぱりどうしても、山が忘れられなくてね。
仕事そっちのけで暇さえあればビルの非常階段を登ったり降りたり。
そうこうしているうちに、大学から声がかかったんだ。
ヒマラヤへの本格遠征。
後方支援で良いから参加させてくれと言った。
あるいは、そのまま、単独でも登ってやろう、
そう思ってたんだ。

そして、とスガワラ氏が言った。
そして、そのまま、こうして、旅をしている。

なぜ、と俺は言った。
なぜ、それほどまでに山に登りたがるんですか?
山にいったい、なにがあるんですか?

まるで遠い夢から醒めたように、
ははは、スガワラ氏が笑った。

そう、ボクもそれは考えていたよ。
なぜ山に登るのか。
登っている間中、そればかり考えていると言っても過言じゃない。
なぜ山に登るのか。
なぜこうまでして、山に登らねばならないのか。

そこに、山が、あるから?

ジョージ・マロリーの言葉だね。
で、どう思う?
なぜ人は山に登りたがるのか。
なぜなんですか?
さあ、なぜなんだろうねえ。
それが知りたくて、山に登るのかもしれないがね・・

そして意を決したように、スガワラ氏が言った。

カンチェンジュンガって知ってるかい?
カンチェン ジュンガ? いや、聞いたこともない。
だったら、世界で一番高い山は?
エベレスト。
なら、二番目は?
K2。
おお、知ってるじゃないか。だったら、三番目は?
三番目?いや、判らない。もしかして、キリマンジャロ?
ははは、と笑うスガワラ氏。
キリマンジャロは独立峰ではあるが高さは6000メートル弱。
知名度はあっても、高さそのものは全然大したことないんだよ。
だったらなに?三番目。
その三番目が、カンチェンジュンガ。
どこにあるの?
シッキムさ。インドとネパールと、そしてブータン、そして中国、その間。
カンチェンジュンガ。標高8568m。世界第三位。
で、その難易度も、アンナプルナ、K2に次いで世界第三位。
死亡率20%以上。つまり、五人にひとりは死ぬってこと。
エベレストなんて、K2や、あるいは、カンチェンジュンガに比べたら、
ピクニックみたいなものだって、それが登山家たちの常識。

カンチェンジュンガ、こそは魔の山、悪魔の頂き。
難攻不落の人食い峰の呼び声が高い、
世界有数のアンタッチャブルの聖域。
で、そのカンチェンジュンガがどうしたの?
これ、と首にぶら下げたガラスの欠片。
これ?
そう、これ、カンチェンジュンガの水晶。
一生の痛恨。その記念。
一生の夢、そして一生のトラウマ。
つまり?・・
つまり、ボクの失ったもののすべて。
そしてその代償にボクの得たものが、
この、石っころ、その欠片。

カンチェンジュンガ、
あの山で、ボクは変わってしまった。
なにもかもを失って、生きる気力さえ失ってしまった。
あれほど好きだった山が、憎くなった。
あれほど愛した山が、恐くなった。
いまでも、あの山の姿が目に焼き付いて離れない。
ただ、死ねない。諦め切れない。
そしてこうして、考え続けてる。
なぜ山に登るのか。
その本当の理由って奴を・・・

なあ、とスガワラ氏が言った。
なぜ、山に登るのか、
あるいは、
なぜ、旅に出るのか、
強いて言えば、人はなぜ、生きるのか?
もしその答えに少しでも興味があるのなら・・
山に登ってみろ、とは言わない。
そう、あんな思いは、もう誰にもしてほしくない。
ただ、そうだな、見るだけであれば、
あるいは、こんなボクの気持ちに、
ほんの少しでも理解を示してくれるように、
もし良かったら、とスガワラ氏が言った。
もし良かったら、いつか、ダージリンという土地に、
行ってみてくれないか?
ダージリン?ダージリンって、あの紅茶の産地の?
そう、そのダージリン。
ボクの人生が、始まって、そして終わった、
そのダージリンという街。
ダージリンの街を見下ろす、その丘のてっぺんに、
ユースホステルがある。
あのユースホステルのテラスから見た光景、
それが、ボクがカンチェンジュンガを目指したその理由。
そこで君がいったいなにを見るのか。
山はいったい君にどんな姿を見せてくれるのか。
この時期、もし天気が良ければ、
つまりは神様のご機嫌が良ければ、
もしかしたらその答えのちょっとしたヒントが、
そこで見つかるかもしれない。
ヒマラヤか、行ってみたいな。
行けるさ、すぐにでも。
カルカッタから夜行列車で一昼夜。
一寝入りして目が醒めたら、目の前にヒマラヤが見えるさ。
だったら、行って見ようかな、そのダージリンってところ。
ああ、行っておいで。
君なら多分、見つけられると思うよ。
そんな気がする。それは確信にも近い。
ずっとずっと思ってたんだ。
君は運が良い。ちょっと良すぎるとも思っていた。
夜な夜なスラム街をふらふらと彷徨い歩いては、
君の回りで一体なにが起こっていたのか、
まったくそんなことに気づかないまま、
その無心ぶりが幸いしたのか、
あんな蛇の坩堝。四方八方でコブラたちが鎌首を擡げるジャングルの中を、
噛まれるどころかそれに気づくこともなく。
それはまさに、奇跡以外のなにものでもなかったんだぜ。
君は神様に愛されているんだよ。
なにかとてつもなく強烈な力が君を守っている。
そう、ボクもそうだったんだ。
オレはついている。オレは死なない。オレは神様に守られている。
そう信じていた。信じ切っていた、信じ込もうとしていた。
そして、その結果がこれさ。
その強運の、因果か、報いか、思し召しか、
こうしてひとり、おめおめと生き延びては死にきれずにいる。
ただ、君は大丈夫さ。神様のお気に入りって奴なのか。
たぶん、君は特別なんだ。ちょっと嫉妬を感じるがね。
賭けても良い。君は神様に愛されている。
少なくともこの旅の中で、君は死ぬことはない。
行ってみなよ、ダージリン。
きっと受け取る筈だよ。神様からのメッセージ。
その至愛に満ちたラブコール。

ただ、とスガラワ氏が言った。
ただ、その頃にはもうボクはカルカッタにはいないと思う。
カルカッタにはいない?
ああ、さっきの話をしながら、ちょっと決心が着いたんだ。
もうボクの元には神様は帰ってはこない。
たぶん君がそれをテイクオーバーしたんだろうって。
であれば、この街にも、この旅にももう用はない。
そしてボクには、まだ日本でやらねばならないことがある。
それはとても辛いことではあるが、
それからずっとずっと逃げ回っていたのだが、
ついに決心がついたよ。
君に言った憎まれ口を、丸々と、ボクが自分で頂こう。
ボクは日本に帰るよ。
その後どうするのか、まったく決めていはいないけどね。
ただ、ようやく決心がついた気がする。
ボクは日本に帰る。まだやらねばならないことがある。
それをするまでは、こんなところで死ぬことはできないってね。
或いは、旅の中ですっきりとくたばり果てるには、
まずはそれをやり遂げなくてはならない。
それがボクの、けじめ。
そつまりはそれが、ボクの、落とし前、なんだってね。




その翌日、午後の散歩から戻って見ると、
その旅の猛者たちの囲むその円卓のテーブルに、
あのスガワラ氏の姿は無かった。

あれ、スガワラさんは?と聞く俺をさも不思議そうに見やりながら、
さあ、と首をかしげる面々。
さあ、たぶん、どこか散歩にでも行ったんじゃないのか?
でも、いつも居たスガワラさんが、今日に限って散歩だなんて。
ああ、朝になっていきなり、ちょっと散歩に出てくるって。
そのまま?
そう、そのまま。
荷物は?
荷物はまだある。
いつもどおり、ベッドの下にきちんとまとめて。
だったら、夜逃げって訳でもないのかな。
夜逃げ?夜逃げってどういう意味だよ。
でも、あの人、と答える髭面。
あの人、実は前払いの人なんだよ。
前払い?
そう、この先数年分の宿泊費を前払いした人。
まさか・・
金のあるうちに払っちまえって。
ここに着いたその日に交渉して、
この先何年分かの代金を一括払いした、らしい。
つくづく不思議な人だなあ。
どこにも行かないつもりだったのか、
あるいは
あるいは?
或いは、この場所に自分自身を縛り付ける為の楔だったのか・・

ふと、嫌な予感がして、部屋に飛び込んだ。
薄暗いドミトリーの俺のベッドの上、
そこにさり気なくも置かれた、着古された赤いダウンジャケットがひとつ。

スガワラさん、本当に、行っちまったんだな。

昨夜、明け方近くまで語り尽くした末に、
なあ、この草、最後にもう一服、やってしまわないか?

そう言ったスガワラ氏。

さあ、これでももう未練はない。
今夜は久しぶりに、良い夢が見れそうだ。

あの言葉の意味したもの。

そうか、スガワラさん、行っちまったんだな。

つまりは、と俺は思った。
つまりはもう俺にとっても、
この場所で得られるものは、なにもない、ということなのか・・





ダージリンに行く、と行った俺に、
その場に居た全員が、まさか、と目を丸くした。
ダージリン?この時期に?
あのさ、ダージリンって避暑地、なんだよね。
つまりは、夏でも涼しいってところ。
つまり?
つまり、カルカッタでさえ寒いこの冬に、
避暑地であるダージリンがどうなっているか。
どうなってるの?
凄まじく寒い。
だって、と面々。あそこってヒマラヤだから。
ヒマラヤかあ。本当にヒマラヤなんだね。
行ってもどうせ誰もいないよ。ホテルだってやってるか判らない。
誰もいないインドか。なんか想像できないな。
あそこはインドじゃないよ。
インド人なんていない。
チベット人、ネパール人、そして、シッキム人。
ただ、空気が綺麗だ。
空気がきれい?
そう、凄まじく空気が綺麗。
この真冬の時期ならば、ヒマラヤが、手に取るように見える筈。

ヒマヤラを手に取るか・・
思わず、その手をいっぱいに伸ばしてみた。

その手に、ヒマラヤを掴む、それがいったいどういうことなのか・・



そして旅立ったダージリンであった。
夜行列車の二等席で旅のインド人たちと押し合いへし合い。
明けた朝に辿り着いたニュージャルパイグリから、
地元のバスに乗り換えて、そして辿り着いたヒマラヤ山間の村。

カルカッタの喧騒、その都市の汚濁にまみれた風景から一転して、
この清寂の中に身体中を洗い清めるられるような、
キリリと冷え切った清廉な空気と、
そして一挙に時代を飛び越えたかのような、
中世的なまでに緩やかな時の流れ。

あの毒々しいまでに険のあるインド系の人々は姿を消し、
のっぺりとした顔立ちに赤いほっぺたを光らせた、
素朴を絵に描いたようなチベット系の人々。

ナマステ、と挨拶をするたびに、
恥ずかしげに肩を竦めては控えめな会釈を返す、
そんなアジア的な空気がなんとも心地よく暖かく。
思わずこんにちわ、と言えば、
はい、どうも、と日本の農村の風景、
そのままのリアクションで、静かに腰を折っては挨拶を返す。
俺は、と改めて思った。
俺は、あのカルカッタなんて街でいったいなにをしていたのだろうか。
あの喧騒と混沌、汚濁と俗塵にまみれにまみれきった坩堝の底。
俺はいったい、あの街でなにを探していたのだろう。

そして一昼夜の後に辿り着いたこの世の楽園。
だがしかし、先人たちに告げられた通り、
避暑地で名高いこのヒマラヤの冬、
クリスマスを前にしたオフシーズンの底とあって、
ガイドブックに載っていたホテルのすべてがすでに閉鎖中。

ただ、唯一街を見下ろす頂きの上の上、
この急な坂道を登りきったあの丘の上に建つユースホステル。
確かあそこにだけは、まだ管理人が残っていた筈だ、と。

そう聞いて一か八かと登り始めた急勾配。
背中に担いだバックパックに足元をよろめかすその前から後ろから、
楓のような手のひらを掲げた子どもたちが息せき切っては取り巻いて、
ねえ、お兄ちゃん、さあこっちこっちと手を引かれ足を取られ、
挙句の果てに背中の荷物さえ取られては、
さあ、先に行ってるね、と、その崖っぷちにも近い坂道を、
歓声を響かせて駆け上っていく。

そこにはインド、あるいはカルカッタとはなにもかも違う、
清廉な空気が流れていた。
それはまるで、この澄み切った空気の中に、
心のすべてが洗い流されては、
そしてその清められた心の奥底まで、
筒抜けに見透かされてしまう、
そんなむず痒ささえも感じられるほどに。

そして見上げた丘の上でさあこっちこっち、と手を振る子供たち。
おいおい、待ってくれよ、と笑いながら、
そして、ふと振り返った坂道からの風景。

見上げた空に、白い山々が見えた。
谷間の里が重ね重ね織りなすその向こう、
靄に煙ったその空の彼方、
それはまるで、天空に浮かぶ白き城壁のように、
その山々の頂きが忽然と中空に浮かび上がっては、
そしてこの山間の里の人々、この世のすべての営みを、静かに見下ろしている。

ヒマラヤ・・ あれが、ヒマラヤか・・

カンチェンジュンガ、と空を指さして子どもたちが声を揃えた。

カンチェンジュンガ・・ 
あれが、あれが、カンチェンジュンガなのか・・

それは、まるで神々の棲まう宮殿。
あそこに、あの白い宮殿に、神々が住んでいる・・

全人類にとって、山がその信仰の対象となる、
その理由が、まさにこの情景であったのだろう。

神、と思わず呟いた。
神が、あの場所に居る・・

そしてようやく辿り着いたユースホステル。
ただ、待ち受けていた子どもたちのその複雑な表情から見て取ったように、
上がった息を鎮める間もなく、
なぬ?閉鎖中?なんで・・・・

ああ、夏の避暑にはかなり遅過ぎて、
そしてクリスマスのシーズンにはちょっと早すぎて。
あんた、とその管理人がまじまじと俺の表情を伺う。
あんた、こんな時期に、いったいなにをしにこの街に来たんだ?

実はね、とその管理人が言った。
実はちょっと厄介なことがあってね。
厄介?
そう、シッキムの独立運動が揉めている。
独立運動?
そう、シッキムが、西ベンガル州からの独立を目指している。
ただ、それはインドという国からの独立ではなく、
西ベンガル州からの独立。
つまりは、そのシッキムの独立運動を挟んで、
国と、そして西ベンガル州が、睨み合っている。
で、この場所、そしてこの子たち。
ここを運営しているのは、キリスト教の団体。
で、そこにいる人達、あの人たちはチベットからの難民の方々。
で、あれ、ほら、中国の旗。で、あれ、あれが、ブータン。
で、あの峠、あれを越えると、そこはネパール。
ダージリンっていうのはつまりはそういうところ。
あるいは、ヒマラヤ自体が、そういうところ。

なので、日が暮れてからは、外に出ていはいけないよ。
いまこの街には、治安勢力が、三つも四つもよっつも乱立している。
片方につけばその片方に捕まる。
で、その片方から逃げれば、またその片方に捕まる。
いずれにしろ、ろくなものではない。

やれやれ、だな。
やれやれ、だろ?
で?あんた、この先、どうするつもりなんだ?
だから、と思わず苦笑い。

なあ、見ろよあの山、あのヒマラヤの山々。
あんなものに見守られながら、人間はなぜ、
性懲りもなくそんな馬鹿げたことを続けていられるんだ?
なんだかなにもかもが心底バカバカしくなってきたぜ。

そう、あんたはその答えを見つける為に、
こんな時期にこんな土地に、流れ着いたって訳じゃないのか?



それから必死の交渉の甲斐があって、
と言うよりは、子どもたちからの大いなる声援の成果か、
あるいはそう、それこそが慈悲。
既に閉鎖されたままのユースホステル、
そのドミトリーの大部屋を開けて貰えることになって、
ただね、と管理人が言った。

ただ、暖房もない。お湯も出ない。
と言っても死なれちゃ困るからな。
あの部屋の毛布であれば、いくらでも使いなさい。
9時を過ぎたら電気も止められるが、
まあそう、夜になにをする訳でもないだろう。

で、あなたは?
私は家に帰るよ。麓の家に家族が待っている。
え?ってことは?
つまり俺ひとり?
そう、火事だけは起こさないでくれよな。
と言ってもまあ、こんな貧乏宿だ。
灰になって困るものなんてなにも無いがね。

と、呆気に取られたまま、
じゃあ、お元気で、と肩を叩かれては、
まあそう、こんな時期にこんな土地にやって来るんだ、
山登りの経験ぐらいあるんだろ?
吹雪の夜にビバークすることを思えば、
こんな貧乏宿でも、天国みたいなものじゃないのかな。
明日の朝にはまた来るから、まあそれまではなんとか生き伸びてくれ。

では、グッドラック。

そして管理人と、そして子どもたちの一団が、
まるで蜘蛛の子を散らすようにかき消えた山間の村の丘の上の上。
街の喧騒どころか、谷間の遥か下を走るオートバイの排気音が、
まるで手に取るように判るほどの、このあまりの清寂に包まれた世界。

そのホテルというよりは見捨てられた病院を思わせる
その裏寂れた階段をギシギシと登りつめ、
そして唯一ドアの開いていたそのドミトリーの大広間。
白いベッドが20近く、ずらりと並ぶ、それは宿というよりは寄宿舎。
思わず靴を脱いではベッドの上、どれにしようかな、と飛び廻っては、
ふと、カーテンの間から差し込んできた光り。
そうか、ここがテラスになっているのか。

ダージリンの街を一望にするその断崖絶壁に張り出したそのベランダの上。
見上げる空、既に闇に浸され始めたその空の向こう、
神々の宮殿が紅色の炎に焼かれる、そんな絶景にいつまでも見惚れながら、
そうこうするうちに見下ろす街の灯りが、ひとつひとつと瞬いては広がりはじめ。
その灯りのひとつひとつに、人の営みの暖かさを感じながら、
神々の宮殿と、そして人の営み、その狭間に浮かぶこの安宿のテラス。
そして夜が訪れた。
空一面に広がる怖いほどの星空と、
そして見下ろす里の夜景が混じり合っては一つになり、
そして咥えた煙草の火種の灯りが、なんとも眩しくも瞼に焼き付く。

まったくもって、とんでもないところに来てしまったな。

水道の蛇口も止まったまま、
その代わりに置かれたバケツの水でタオルを絞り、
夜汽車の旅で纏わりついた鉄錆と灰燼を擦り落としては、
ベッドというベッドからかき集めてきた毛布の山。
その中に潜り込んでも、じっとりと湿ったシーツがすでに氷ついたように。
今にも押しつぶされそうな毛布の重さをウエイト代わりにして、
腹筋と腕立てと際限なく繰り返しながら、

吹雪でビバークすることを思えば、と笑った管理人の言葉が蘇る。

山の中でたったひとりで吹雪でビバーク。
それがいったいどんな状態であるのか、
思えば思うほどに、その極限状態の凄まじさ、
この闇、この寒さ、この孤独、この隔絶と、
そして、この世でたったひとつの生命である、
自分自身という存在、そのあまりのか弱さ。

スガワラさんは、と思った。
スガワラさんは、この山で、いったいなにを、感じていたのだろう・・



ふと目が覚めると、それは闇の中であった。
まるで闇そのものが、べったりと目の玉に貼り付いてしまったかのような、
そんな漆黒、まさに完璧なまでの闇。
いまいったい何時なのだろう・・

管理人から、もしもの為にと借りた懐中電灯、
それも隣のベッドに放り投げたバックパックの中に紛れてしまい、
手探りでは探しようもない。

暗闇の中で目を開けていると、
それはまるで、自分が自分でなくなってしまったような、
あるいはそう、自分という肉体が既に失われ、
ただ意識だけの抜け殻となっては、
宇宙の果てを漂うような、
そのあまりの隔絶感。清寂感。

だがしかし、身体はまだ確かに存在した。
その証こそが、なによりこの寒さ。
毛布からちょっと手を伸ばした途端、
いきなり氷水の中に浸したようなこの殺人的なまでの寒さ。
寒いといよりも冷たい、というよりも、物理的に痛いな、これは。
その新鮮な感覚に自分で自分を笑いながら、
この急激な温度の低下、つまりは、朝が近いという奴なのだろうか・・

毛布の中で脱ぎ捨てたスボンと靴下とシャツを着込み、
そしていつのまにか床に落ちたダウンジャケットを、
必死の思いで手探りで探しては、
その冷え切った手の冷たさに思わず驚かされながら、
毛布の中でさえ感覚を失いつつある足の先を擦っては、
そうこうするうち、耳が鼻が唇がみるみると血の気を失って痺れはじめ。
凍傷というものの恐ろしさを改めて疑似体験しながらも、
果たして、と、再び、スガワラ氏の投げかけたあの疑問、

人は、なぜ、山に登るのか。

こんな思いまでしながらの、そのこんな思いの、あまりの凄まじさ、
その想像を絶するであろう極限状態、
そのひとつひとつがまさに身につまされるように迫り来るように。

ところで、と思った。
ところで、煙草はどこに行ったのだろう。
枕元にもないとすると、それは多分、あの窓際のベッドの上。
闇に満たされた部屋の中で、唯一薄明かりの漏れる窓。
これだけの漆黒の中にあっても、外は、それはそれでもまだいくらかは明るい。
それはもしかしたら月明かり。
あるいは、星明り、という奴なのか。
嘗て、山男の談話の中で、
星の降る夜には雪あかりで本が読める、
そんなことを聞いた憶えがあるのだが、
果たしてそのヒマラヤの星明かりというのが、
いったいどれほどのものなのであろうか・・

寝覚めの煙草と、そしてヒマラヤの星空、
その欲求に耐えられず、ついについに、
ダウンジャケットの上からありったけの毛布を引き摺りながら、
そして転がり出た漆黒のテラス。

この空一面を埋め尽くす星と、それの見下ろす街の夜景。
あの明かりのどこかに、あの子どもたちが、
そして管理人のおじさんとその家族が、
そして道すがら、ハロー、ナマステ、タシデレ、こんにちわ、
はにかみながら挨拶を交わしてくれたあの人々、
そんな人々の営む暮らし。
この仄かな明かりのひとつひとつが美しい。
あの瞳そのものが吸い取られてしまったような闇の中に比べて、
この明かり、この光りという存在そのものが、
限りないほどに暖かく、そして愛しい。
そしてこのたったひとりの闇の中にあって、
人間はかくもか弱い存在だ、
だからこそ、この明かりの、この光りとひとつひとつが、
これほどまでに愛しく思えるのだ。

そして手探りでつけた煙草。
ライターの光りのそのあまりの赤さ。
そして目を焼き続けるその残像。
そして吸い込んだ煙草。
その種火そのものが凍りついてしまいそうな寒さの中で、
煙さえ見えない煙草が身体中を駆け巡り、
俺は生きているんだな、と当たり前のことにいちいち驚きながら、
そしてこの煙草の火。
この煙草の火の仄かな灯りが、あの村からも、見えるのだろうか?
あの子どもたちが、そしてあの管理人さんが、
俺のこの煙草の灯りを見て、手を振ってくれている、
そんなことが、いま起こっているからもしれない。
そして見上げる空であった。
見渡す限り、その眼下までも包んだこの壮大な星空。
その大小を取り混ぜた星明りの中に、
在るものは青く、あるものは白く、そしてあるものは、赤く・・

赤い?赤い星?
それってもしかして、火星?まさか・・

そう、そのまさかであった。

天空のその縁、その低いところに、
鮮やかな紅色をしたその一点。

紅色の星。それはまるで、ルビーの輝き。

あれはなんという星だろう、と思った。
まさか火星ではないにしても、
あれだけ鮮やかな星だ。
なにか名前があるに違いない。

ベテルギウス、リゲル、シリウス、プロキオン、アルデバラン
ただ、そんな一等星が、しかし紅色に輝く、なんて話は、
聞いたことがない。

とふとするうちに、その天空のルビー。
みるみるうちにその輝きを増しては、
いまや夜空に燦然の輝く唯一絶対の一等星。

それはともすれば、目を凝らせば凝らすほどに、鮮やかな三角形。
頂点を上に向けた、ものの見事な三角形が、
忽然としてその天空に浮かんでいるのである。

あれは、あれは、いったいなんだろう・・

いまや、他の星とは明らかに際立ち、
まさに、眩いほどに光り輝くその紅色の三角形。
それが、みるみるうちに、その輪郭が、際立ってくる。

もしかして、とふと思った。
あれは、星、ではない・・・
星ではない、とすると、いったい・・

UFOであろう、というのがその結論であった。
闇夜に浮かぶ赤い閃光、
これはこれは、まさしくUFO 宇宙からの使者。

その漆黒の闇に燦然と浮かぶなぞの三角形。
ルビー色のトライアングル。
それはまさに、天空に浮かぶピラミッド・・

見る見るうちに、ますますと巨大さをますその輝き。
ってことはつまり、こちらに向かってきている、ということなのだろうか・・

それは今や、星、どころか、目に眩しいほどに、
鮮やかなトライアングルの形を呈しては、
いまにも燃え上がらんばかりの鮮烈な紅色の閃光を放ちながら、
いつしかそのトライアングルの中に、
尾根の輪郭が朧気に浮かびはじめ・・

それが、カンチェンジュンガであった。

宇宙の彼方、その東の空からの一番の光りが、
このヒマラヤ山系の中のそのピーク:頂点である鋭角の三角形を照らし出す、
このあまりにも奇跡的な光景。

次第に広がるその薄紫色の広がりの中で、
燃え上がるように輝くその紅色の山々。
閃光を持って空を切り裂く鋭角とそれを包む滑らかな曲線の綴織り。
そのピークが尾根が、そして周りを囲んだカンチェンジュンガ山系が、
次々と浮かび上がっては、横に棚引いては広がり続け、
その天空に忽然と浮かぶそのあまりにも壮大な姿。

いまだかつて、これほどまでに美しいものを見たことがない。
この眼の前に展開されるあまりにも壮絶なドラマ。
地球は美しい。この惑星は、とてつもないほどに美しい。

インド・ヒマラヤの霊山の中の霊山、
その随一の高峰:カンチェンジュンガ。
そこはまさに神々の宿る場所。
あるいは、神々だけの為に存在する場所。
そしてこの壮大な朝焼けに燃え上がる天空の宮殿。
そこに明らかに在る、神々の息吹。
その生々しいまでの畏敬に打ちひしがれながら、
俺は思わず絶句に絶句を続けながら、
知らぬうちに、手を、合わせていたのである。

スガワラさん、と俺は呟いていた。

見たよ、あんたの言う、そのカンチェンジュンガ。
その姿、この目で、しっかりと見たよ。
ただ、と思った。
ただ、いったいこの壮絶な風景を前にして、
いったい、どこの馬鹿が、
あの場所に手を伸ばそう、あの場所に辿り着こう、
そんなキチガイじみた妄想を描くのだろうか。
だって見ろよ、誰がどう考えたって、
あれは、神々の宮殿。
神様だけの場所:サンクチュリア。

いったい、なにを思って、
実際にあの場所に辿り着こうなどと、
大それたことを思ったのだろう。

或いはそれはもしかして、
神の実在を証明する為の、
或いは、そう、それはスガワラさんのことだ、
彼であればもしかして、
神の化けの皮を剥がす、その為に、
あの場所に挑もうとした、そういうことじゃないのか?

そしてこの燃え上がる天空の宮殿。
もしかして、と思った。
もしかして、いまこのたったいま、
あの、閃光に包まれたトライアングル、
あのルビー色のピラミッド、その神々の座から、
この俺の姿を見つめている、
そんな輩がいるのかもしれない。

あの場所から、いったいここはどう見えるのだろう。
あの場所から、この俺は、そしてこの世界は、
いったい、どう見えるのだろう。

知りたい、と思った。
見てみたい。世界の頂点から見下ろすその世界が、
いったい、どんなものなのか・・

そして改めて自分に問う。

なぜ、山に、登るのか?

それは、山がそこにあるから。
つまりは、この光景があるからだろう。

スガワラさんは、これを見たのか。
この絶景を前にして、それでも尚、あの場所を目指したのか。

そのあまりにも壮大な夢。
そのあまりにも誇大な妄想。
そのあまりにも罰当たりなほどの勇猛。

なぜ山に登るのか?
その問いは愚問だ。
そう、それは愚問なのだ。

この光景を前にして、
いっさいの正論が愚問に過ぎない。

汝、山を見たか。ヒマラヤを見たか。
つまりは、あなたは、神様を信じますか?

馬鹿野郎。
見ろ、神はここにいる。
あの燃え上がる朝日の中に、
神は確実に、そこに、存在しているじゃないか。

スガワラさん、
あんたは、馬鹿だったんだね。
これだけの光景を見せつけられて、
それでもなお、神に挑もうとしたなんて。

ただ、判ったよ。
あなたという人が。
あなたの抱えたその憧憬が、熱情が、
その挫折が、喪失が、悲嘆が、そして、その絶望が・・・

俺は敗けたんだよ。
そして、あれからずっと、敗け続けなんだよ。
俺は神に見捨てれた男なんだよ・・

そう静かに微笑んだスガワラさんのその後姿に、
彼の見たであろうこのあまりにも壮大な神々の奇跡、
その絶景に心底打ちのめされて尚、
あの天空の城壁、あのサンクチュリアの宮殿を目指した、
そのマグマのように煮えたぎっていた情熱。
天空を目指して燃え尽きたイカロス、
そのあまりの無謀さこそが、
人間の持つ傲慢の、愚かさの、象徴であると同時に、
それこそが、人間の尊厳、その結晶ではないのか。

改めて、聞こう。
なぜ、山に登るのか?
そんな、正論の傘を来た愚問の全てに、
マルローは、スガワラ氏は、
そして、この、無謀なイカロスたち、
そのすべてが、この答えを返す筈だ。

この光景を前にして、なぜ山を目指さずにいられるのだ?

そして目の前にヒマラヤがあった。
朝一番に迎えに来てくれた子どもたちに、
手を引かれては連れ出されたその山小屋のカフェ。
その窓から望む、あのカンチェンジュンガの絶景。

神々はあの場所にいる。
そしていつも、人々の営みを見下ろしている。

人はなぜ山に登るのか?

その問に首を傾げる、そのすべての人々に聞きたい。

人はなぜ、憎み合い、罵り合い、
妬み合い、嫉み合い、
その足を引っ張りあっては、
時として、殺し合い。

なぜ人は、そのドグマから逃げられないのか?

その問いに、改めて、こう答えよう。

そこに、山が、ないから。

目指すものを、尊いものを、
その夜空に浮かぶルビー色のトライアングルを、
見失ってしまったから、ではないのだろうか?

そして眼の前に、山の姿があった。
誰をも寄せ付けない、その圧倒的なまでの荘厳さの中にあって、
それでも尚、その聖域に挑む愚か者たちに、
来るなら来い、そう手招きする、
邪悪な、白き氷の悪魔たち、
或いは、それこそが、神の姿そのもの。

挑んでやる、俺は、神に挑んでやる。

なぜ人は、山に登るのか。

馬鹿野郎、と呟いていた。

それこそが、人間の証、だからだ。


「人はなぜ山に登るのか ~ カンチェンジュンガ 神々の座に挑んだイカロスたちへ」





という訳で、
妙な具合の運命のイタズラ、
つまりはそれもカルマ:業という奴なのであろうが、
このヒマラヤの山中で遭遇した奇跡の絶景、
その雄大な姿を思い描きながらも、
改めて、山に限らず、誰にでもその胸の中に、
あの、漆黒の闇に浮かぶルビー色のトライアングル。
そんな輝きを、秘めていると、信じている。

ある者にとって、それはトランプタワーの最上階、
そのひとつの窓、であるかもしれない。
あるものにとって、それは、ダークウェブの鉄壁の向こう、
頑強なセキュリティに守られた前人未到の機密データであるかもしれないし、
そしてあるいはあるものにとっては、
それはスポットライトに照らされたステージの上。

そのステージの上に燦然と浮かび上がる、
そのルビー色の閃光。
そのあまりに神々しい姿に、
人々はいったい、なにを見るのだろうか。

改めて今の世を包むこの泥炭の底。
喧騒と混沌:この世の汚濁と不条理のすべてを一つ鍋にぶち込んで、
ありとあらゆるスパイスを放り込んでは
煮詰めに煮詰めて煮詰め切ったかのような、
この地獄の修羅、その醜悪な鬩ぎ合い。
だがしかし、その漆黒の闇の中、
しかし光は、確実に存在する、その筈である。

まだ明け切らぬ闇の中、
地平線から差し込むその朝日の陽光を、
最初に捉えたのが、最も高く聳える高峰の、
その頂点の三角形であったように、
あのルビー色に輝けるピラミッド。
闇夜に浮かんだあの異次元的なまでに鮮やかなトライアングルが、
そしてみるみると、それはまるで、宙空に燃え上がる夢幻の城のように、
そしてその目に鮮やかな光が、世界を包み込んで行くその姿。

改めて、この泥底の世に浮かんだ奇跡のトライアングル、
その姿こそが、神功、そのものなのだ。
そしてその光が、いつしか、闇夜を赤く燃え上がらせ、
そして世界は、崇高な光の中に包み込まれていく、そのはずである。
そう、この地球に、神は存在する。
それは、法典やら、御題目やら、
そんな見え透いた作り事などではなく、
この地球が日々演出する、その奇跡的なまでに神々しい光景は、
この世に生きる万人の元に平等に与えられた、
ありふれた奇跡のその一瞬に過ぎないのである。

そんな奇跡を前に、
思わず手を合わせる者もいるだろう。
思わず泣き叫ぶ者もいるだろう。
或いはその憧憬と尊敬のすべてを以て、
ひたすらに崇め奉る、そんな妄信に盲従する者もいるであろう。

だがしかし、考えても見ろ。
この地平が地続きであるように、
谷間の里が重ね重ね織りなすその向こう、
あの連なる尾根尾根の波打つ
靄に煙ったその空の彼方、
あの見上げた空に忽然と浮かぶあの白い山々にしたところで、
ひたすらに、歩いて歩いて、歩き続けてさえ居れば、
いつかはきっとそこに辿り着ける、
そう、例え神々の座する場所であったとしても、
その道理に間違いはないのだ。

そしてあの天空に浮かぶ白き城壁。
忽然と中空に浮かぶあの神々の宮殿でさえ、
その気になりさえすればいつかは辿り着ける、
その人間の実直と尊厳、その無謀な挑戦こそが、
愚かな盲信の轍をぶち破る鉄槌に他ならない。

そしてあるものは敗れ去り、
そして、その証としたあの黒い水晶。
それは神々の座から毟り取った、
人間の傲慢、その無謀の勲章。

その愚かさこそが、宝なのだ。
その愚かさこそが、勲章なのだ。

なぜ山に登るのか?
決まっているではないか。
そこに、山が、あるからさ。
あんたもその目で見れば、判る筈だ。

だがしかし、この惑星に奇跡は確実に存在する。
そしてこの惑星を包むその奇跡は、
特別なものでもなんでもない。
神は実在する。奇跡は実存する。
ただそれはなんの特別なものでもなく、
それは、極ありふれた日常の中にあっけらかんと存在する、
その一瞬の光景に過ぎないのだ。

その視点の転換こそが、
この漆黒の泥炭から抜け出す唯一の足がかり。
変わるのは社会でも世界でもない。
それは、自分自身、であったりもするのだ。
この美しき惑星を守ろう。
この美しき世界を心から愛でよう。

そしてその奇跡の主である神。
その神を遠い天空に羨望するのではなく、
その畏敬を前に、盲信と盲従を繰り返すのではなく、
敢えて、神を、神の座を、目指そう。
その視点の中に、その実存をしっかりと見極めては、
その歩む先に、その手の中に、
その存在を、しっかりと、握りしめていよう。
挑戦を続ける限り、神々はその姿を隠すことはない。
神の姿を見失った時に、その盲信が始まるのだから。

すべての山を登ろう。
すべての神々、その神聖の衣、
その化けの皮を剥ぎ取っては、
そこに改めて、盲信とは違うなにか、
その神の実在を見極めよう。

それこそが、人間という種が神から与えられた、
唯一絶対の使命なのだから。

神はなぜ人間をつくったか?
それは、と敢えて言おう。
神の化けの皮をひん剥くためさ。
そしてそれを、神が望んでいる、ということなのだから。

汝、敢えて正論に背を向けて、
愚かなる、そして無謀な、挑戦を続けよう。
それが人として生きる、宿命、と信じて。



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プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

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