Loading…

世界の終わりとハードノーズ・ブルーヒーラー ~ 最愛の友の最期を覚悟して思ったこと

Posted by 高見鈴虫 on 10.2020 犬の事情   0 comments
またまたわたくしごとの犬の事情にて誠に恐縮ながら、
我が人生においてはちょっとしたエポック:大事であったからして、
失礼を承知でここに記させて頂く。



事の起こりは先日の救急病院搬送の大変事
->大吹雪の夜、ブッチ君が救急病院に搬送の大変事
大雪の夜にいきなり呼吸困難を起こしては舌の色が紫から白へと変色を初め、
慌てふためいて救急病棟に担ぎ込んだとたん、
あれ?治っちゃった、とテヘテヘ笑い。
その代償に、目玉の飛び出るような請求書と、
そして摩訶不思議な暗号的医学用語を満載した精密検査報告書。
各項目の結果欄に明記された、異常なし、の表記だけを追っては、
なんだよ、まったく問題なし、じゃねえか。
やれやれこいつまた人騒がせなやつだ、と頭をポンポン。
なんて感じで、すっかりと軽く流していた訳なのだが・・

そんな妻から、改めて二月の健康診断に行く、と告げられた。
健康診断?なぜ?
だってこの間あの騒動の中、世界屈指の大病院からの、
届いた検査結果も異常なしばかり。
それをこの期に及んで、なにを検査する必要があるのか、と。

ただ我が家の犬と同様に、一度言い出したが最後ガンとして聞き入れない我が愚妻、
四半期ごとに一回づつと決められたことだから、
とそんな曖昧な説明を繰り返すばかり。

この間、云百ドルをドブに捨てては、
楽しみにしていたレストラン・ウィークのフルコース・ディナーをフイにしたばかりのこのときに、
なにが悲しくてまたまた要らぬ健康診断など行く必要があるのか・・

ただ、まあ、先日の雪の夜、あの一大事の中でも感じたこと。

もしもなにかがあった時に、
その事を後悔したくはないから。

判った判った、好きにすれば良い。
ただ、悪いが俺は仕事で行けないけど・・

そううっちゃってからすっかりとそのことさえも忘れていたのだが。

そして帰り着いた二月の夜。
ああ寒い寒い疲れた腹減った腰が痛い、
とぼやきながら開けたドア。
灯りの消えた部屋の中、薄ら寒い風がひゅるひゅると、開けたドアの隙間を奔り抜けていく。

おーい、帰ったぞ、の返事がない。

あれ、また、夜の散歩にでもでかけては、
そこで顔を合わせた誰かの家で、長々とお茶でもしているのだろうか。

まったくひとの気も知らねえで、と、思わず。
こんな家賃のためにこんな暮らしのために、
泥舟と知りながら斜陽と判りきりながら、
この先、なんの希望も展望もない、と重々承知しながら、
情熱も熱意もモティベーションの欠片もないこのクソ仕事、
まるで敗戦処理のような気分で毎日を送るこの暮らし。
俺がそんな人生を送り続けるその理由も、
この暮らし、この家賃のこの食費のこの犬の養育費の、
ただそれだけ、ただ生活費を稼ぐためだけに縛り縛られ続けるこの体たらく。

俺の人生、しょせんはこの程度のものだったのだな、
そんな負け犬意識ばかりを募らせるこの日常の中で、
ふと帰り着いた一人の部屋。
その孤独が、その虚しさが、やるせなさが、
どっと押し寄せてきてはキッチンのテーブルにへしゃげきり。

ああ、俺の人生、外したな、すかったな、失敗したな、
と苦笑いを飲み下しては長い長い溜息をついた時・・

ふと、閉じられた寝室の奥から、
不穏な吐息が漏れて来ることに気がついた。

枕元のディムライトを極限まで落とされたその薄暗がりの中、
眠った犬と、そしてその傍らに寄り添う妻の姿があった。

どうした?なにやってるんだ?
俺、腹減って、腰痛くて、疲れちゃって・・

静かにして、と妻が言った。
お願いだから静かにして。
そのドアを閉めて。そっとしておいてあげて・・

そっとしておいて、あげて・・?

ふと犬の寝顔を見る。
その普段と変わらぬ寝姿。
きちんと前に揃えた両足に顎を乗せ、
そしてすやすやと眠り続けるこの犬。

そう言えば、最近は家に帰ったときにも出迎えに来なくなったよな。
そう言えば、最近は夜の散歩もおざなりで、
ようやく重い腰をあげてオーバーを着込んでさあ行くぞ、と言って見ても、
角の電柱でおしっこをするだけで、いや、もう帰る、と出てきたばかりの道を引き返す、
そんなことを続いて居たっけかな。

まあこいつも歳だし。
あの猛犬パーティの仲間たちもいまやほとんどが鬼籍に入っては、
深夜のベンチの上でどれだけ首を長くしても、
待てど暮らせど誰もやって来ない、
そんな失意の夜にも嫌気が差したに違いない。

そう、まあ、歳、だしな・・

そしてお前も俺たちも皆、歳をとった、ということなのだろう・・

そんな犬が、ふと顔をあげた。
ぶーくん、と妻が声を上げる。
ぶーくん、どしたの?目が覚めた?気分はどう?

最近、ご飯を食べないの。
散歩にも行きたがらないし。

それはこの前に痛めた膝の、
鎮痛薬を飲んでいたからだろ。

それに、と妻。
それに、この息。

息?

そう、この息、ぜーぜーといつも苦しそうで、
夜にもちょくちょくと起こされるの。
はっはっはって、息が荒くなって。

部屋の暖房が暑すぎると思うの。
それでいつも窓を開けているのに、
あなたが裸で寝るから、
それでせっかく開けた窓をいつも閉めちゃって。

いや、でも、それはほら、
犬もそうだか、俺もこの家で暮らしている訳で・・

あなたは、と妻が目をあげた。
あなたはなにも気が付かないの?
この子、おかしい。なにか絶対におかしい。

おかしい?
でも、この間の精密検査の結果だって、
全てにおいて異常はないって。

この間の健康診断のときに先生にご相談したこと、
あの時の発作の、その原因が何なのかってことなんだけど。
今日、先生からじきじき連絡があって・・

連絡があって?

そう。精密検査の結果報告書を調べに調べて、
その結果、考えられる原因は、ってことなんだけど。

なんだよ、その原因って?

いいわ、あなたは別に興味ないんでしょ?
この子のこの状態を見て、問題ないって、そう思ってるなら、
それはそれで良いんじゃないの?
そう、あなたが正解ってこともありうる訳だし。
あなたはいつもそういう人だし。
だから私がなにを言っても、聞くつもりもないんでしょ?

でも、お願いだから、夜に窓は閉めないで。
どうしても裸で寝たいのなら、リビングのソファで寝て欲しい。
これからちょくちょくと夜中に起きることにもなりそうだし。
あなたの仕事の邪魔はしたくないから・・





という訳で、いまに始まった訳ではないのだが、
我が愚妻は面倒くさい人なのである。

で?その原因は?
つまりは、俺は俺でそれを考えろ、と、そういうことなんだろう、と。

深夜のリビングルーム、
音を消したテレビを前に、膝のうえに広げたラップトップ。

最近、ちょっと気のついた、犬の異常行動のそのひとつひとつ。
えっとえっとえっと、喉がぜいぜい、えっとえっと、食欲の減退。
えっとえっと、夜の散歩を嫌がって、
で、そう言えば、妙に甘えてくるようになった。

そう、そのことに気がついていた。
この猛犬の誉れ、のような、悪ガキの中の悪ガキが、
ここに来て、そう、ちょうどあの、雪夜の緊急搬送を前にして、
夜中にモソモソと起き上がっては、
俺達の間に、無理矢理にでも身体をねじ込んで来て。
おい、どうした?と言うたびに、照れたように笑いながら顔中をペロペロ。
どうした?なんだよこんな夜中にそんなに荒い息をして。
なにか、悪い夢でもみたのか?・・

そう、最近、こいつやけに甘えてくるようになったよな。
寝ぼけたままにいつまでも顔を舐め続けて・

その、その甘え、その媚び、というよりは、
そう、どこかになにか、不安を抱えているように・・

英語、日本語、犬の飼い主たちからの投稿から質問から、
その獣医学会の研究所からのすべてのサイトを洗いざらい、
調べに調べ上げて、その結果、ちょっと、ひっかかったこと。

喉頭麻痺・・こうとうまひ、なんだよ、これ、この喉頭麻痺って・・



喉頭麻痺 英語名:Laryngeal paralysis
反回神経、迷走神経などの喉頭の動きに関係する神経が障害され、
声帯やその他の喉頭の筋肉の動きが制限された状態である。

呼吸時に声門がうまく開かず呼吸困難。
胸を大きく動かす呼吸(努力性呼吸)になり、
重症化すると酸素を全身に上手く送ることができず、
発作時には、口の粘膜や舌が青紫色(チアノーゼ)を生じ、
誤嚥性肺炎を起こした場合は発熱、熱中症や不整脈、
呼吸困難によるパニック症状から、
低酸素脳症、失神、そのまま死に至ることもある。

パニック時、ヒーヒーゼーゼーと苦しそうな呼吸音を繰り返し、
部屋中をうろうろと落ち着きなく歩きまわり、
目を見開いて、舌が紫色から白色に変わり、意識を失って倒れ、
ようやく病院に担ぎ込んだときには、低酸素脳症と診断され・・

おいおいおい・・
これ、まさに、まるで、あの時、あの夜の症状、そのままじゃないか・・

かかりやすい犬種は、ラブラドール、ロットワイラー、シベリアン・ハスキー、
そして、ダルメシアン・・!!!

うちの犬、オーストラリアン・キャトルドッグには、
このダルメシアンの血が濃く流れている筈だ。

原因は不明。
声門喉頭部分切除手術:タイバック手術により改善は見るものの、
術後も誤嚥のリスクが高まり、
1 年程度経過すると神経筋疾患、運動失調、筋萎縮、後肢麻痺、
前庭障害などの進行性の神経症状が出現、
将来的に呼吸器疾患に関連した原因で死亡するケースがほとんどで・・

な、な、な、な、なんじゃこりゃ、であった。

いや、これは、なにかの、間違いだろ。
だってだって、こいつ、俺の犬は、天下一の猛犬の中の猛犬。
これほど元気一杯、傍若無人なほどに溌剌とした猛犬は見たことがない、
誰からもそう言われてきた、そんな奴ではなかったのか・・

そんな犬が、病気だ? 神経症だ? 原因不明の不治の病だ?
ありえない、絶対にありえない。ありえてはいけない。

俺の犬は特別なんだ。俺の犬だけは不死身なんだ。
俺の犬は死なない、なにがあっても絶対に死なない!



明け方になって、そっと開けた寝室のドア。
すべての窓を開け放ったまま、
部屋の中にあってもなお吐く息が白くなりそうな、
そんな凍えた部屋の中で
肩にダウンジャケットを羽織ったまま、
妻はまだ起きていた。

よく寝てる。
ただ、この呼吸音、その寝息。
スーピー、ゼーゼー、ガーガーと、
鼻から喉から胸の奥から、
その呼吸器という呼吸器のすべてから、
不穏な雑音を響かせながら・・

なあ、と声を潜めて、
なあ、喉頭麻痺って知ってるか?

ラリンジアル・パラリシスのこと?
と妻。
いまさら・・今頃になって気がついたの?

やっぱりか?

そんなこと、と妻。
そんなこと、一年も前から言っていたでしょ?

気づいてたのか?

当然よ。ずっと言っていたじゃないの。
あなたはわたしの話、ぜんぜん聞かないから。

で?で、先生はどう言ってるんだ?

だから、と妻。

だから、先生とずっとそのことを話していたの。
で、今回の検査結果、あなたその報告書もよく読んでないでしょ?
先生がその結果をもとに改めてAMCに連絡をしてくれて、
その相談の結果が。

喉頭麻痺?

まず間違いないって。

治るのか?

あなただって調べたんでしょ?
治らないわよ。原因は不明。
選択としては、手術をするのかしないのか。
その決断をいつするのか。
そういうこと。
先生は手術を勧めて来たけど、私は、断ったの。

断った?

そう、断った。
まずはこれ以上に症状を悪化させないように、
部屋の温度を下げて、激しい運動を避け、
興奮させないように、いつも安静な環境を心がけ。

でも、そんなことをしたって、治らないんだろ?

手術したからと言って、
その後は、誤飲からの肺癌のリスクから、
それでなくても、何らかの神経症を次から次へと併発しては・・

いずれは死に至る、と。

まあそれは、この病気に限ったことでもなく、
つまりは老化。
この子ももう11歳だし。
人間で言えば60歳、70歳。
もう立派な老犬なのよ。

近年、いくら犬の寿命が伸びたと言っても、
小型犬で15歳、中型犬は13歳、大型犬は11歳、
それが世界の平均。つまりはそれが現実。それが運命なのよ。

でも、こいつ、でも、こいつ、
だって、捨て犬シェルターのひとたちだって、
いままでそれこそ星の数ほどの子犬を見てきたが、
これほど元気な子犬には会ったことがないって。

こいつは大丈夫だろ。こいつは特別なんだよ。
こいつは、こいつに限っては、そんなもの、当てはまらない。

馬鹿、と妻がいった。
そんな、希望的観測って奴で、
見たくないものを見ないふりをして、
病は気から、なんてそんなくだらない精神論を振り回して、
結局は、不都合な真実から目を反らしているだけなのよ。

でも、でもでも、ほら、良くあるだろ?
うちの犬は18歳まで生きましたやら、
それにこいつの犬種はギネスブックの長寿犬、28歳まで生きた、
そんな事例だってあるんだぜ。

だから、それは、万にひとつ、億にひとつだからこそ、
そういう話のたねになるんじゃないの?
それが話題になる、ということは、
つまりはそれ以外の、億万の普通の犬たちは、
その平均どおりに、現実通りの運命をたどる、ということなのよ。

この子が特別かどうかなんて、そんなことは誰にも判らない。

ただそれを、そんな都合の良い真実ばかりを信じこんでは、
それに騙されるわけにはいかないの。

現実は運命は、それはそれとして真摯にうけとめて、
ただ、時としては無理を承知でそれと戦わなくてはいけない、
そのためにはなにをするべきなのか、
それをひとつひとつ、考えて、対策を練る、
わたしはそれをずっと続けていた。

食事をすべて手作りに切り替えて、
生のレバーを与えてサプリメントを次から次へと試して、
化繊を取り除いて首輪をリーシュに変えて、
そして、なにより、部屋の温度をなるべく下げて。

それを、あなたは、いちいち、迷信だ、風評だ、戯言だって、
鼻で笑ってぜんぜん相手にしてくれなかった。

その結果がこれ。そしてこれが現実。

この子は、喉頭麻痺なの。
神経性の、不治の病なの。
この間の発作、あれを頻発するようになれば、
もう、長くないかもしれない。
あるいはもう早急に手術をしなくてはならないかもしれない。

ただ、手術をしたとしても、果たしてそれに耐えられるか。
そして手術が成功したとしても、
傷口がふさがって、歩けるようになるまで数ヶ月。
ようやく完治した、そのときになって、
また新たな神経病を発症することになる。
そしてまた手術。そしてまた痛み止めを射ち続けての寝たきり状態。
そしてようやく立ち上がれるようにになった途端にまた発病、その繰り返し。

それが、寿命、ということなの。
それが、運命。
生きとし生けるもの、そのすべてに、いつかは終わりがやってくる。
それだけは、誰もが避けては通れないことなの。

そしてこの子にも、それはいつかは必ず訪れる。

あなたにはそれが見えていないの。
あなたにはそれが判っていないの。

こいつは特別だ、不死身だ、ギネスブックだなんて、
そんな万にひとつ、億に一つの都合の良いお伽噺を並べ立てては、
自分を誤魔化しているだけ。

そんなひとに、なにができるとも思えない。
そんなひとが、なにかと戦えるとは思えない。
そんなひととは、まともに口をきく気になれない。

この子が夜にぜーぜーと言い始めた時、
調べて調べて、喉頭麻痺の可能性に気がついた時、
あなたは鼻で笑ったのよ。
まさか、って。
大丈夫だよ、見ろよ、こんなに元気なんだぜ、って。

その結果がこれ。
そう、そうして至った現実がこれなのよ。

どう、目が覚めた?
少しは目の前の現実ってものに、目を向ける気になった?

ふと、犬が目を開けていた。

おお起きたのか?、と笑いかけると、
頭をあげては首を伸ばして、
なんだよ、と顔を寄せると、
ペロペロペロ、顔中を舐め始める。

なあ、おまえ、病気なのか?

それには答えず、ペロペロペロ、
寝起きの生臭い舌で、目を閉じては一種恍惚とするように、
一心不乱に顔を舐め続ける。

なあ、お前、病気なのか?
本当の本当に、そうなのか?。。

そんな犬。
この妙にしおらしく、いつになく神妙な、
その力を失った我が犬の姿。

お前、まさかもしかして、
俺に、さよならを、言ってる訳じゃないよな?。。。!!!!

ねえ、もう静かにして、と妻が言った。
寝かせてあげて。
昼も全然寝てないの。
息が苦しくなって、すぐに目を覚まして、
そしてどこにいっても私の後ろを着いてくる。
具合が悪くて離れ離れになるのが不安でしょうがないの。

そしてもしもまたあの発作が起こったときには、
すぐにでも病院に行かなくてはいけない。
その一分一秒が勝負なの。

念のため、酸素ボンベを買った。
その使い方と、そしてもしもの時の心臓マッサージの方法、
これ、リンクを送っておいたから、あなたも練習しておいて。

手術はしないのか?

この子に手術?しない。絶対にしない。
このこの身体に傷をつけるなんて、
全身切り刻まれて薬漬けのチューブだらけにされるなんて、
そんな姿はみたくない。
そのためには、予防、なのよ。
その原因の可能性のすべてを事前に排除して、
そして試せる方法は片っ端から試す。

そしていまは安静こそが一番の薬なの。
だから静かにしてやっと寝付いたところなんだから。
あなたが帰ってきて安心したのよ。
それまで、外でちょっと物音がするたびに飛び起きて、
帰ってきた?帰ってきたの?って、そればかりだったんだから。



そして一睡もできないうちに朝を迎えた。
最近は朝の散歩にも行きたがらない、
そう聞いては、どうせなら会社への途中まで一緒に行くか?
と一緒に外には出たものの、見上げる空からは雨。
公園の入口に差し掛かったところで雨脚が激しくなり、
ねえ、やっぱりもう帰る、と妻。
これで風邪でもひかれたらそれこそ一巻の終わり。
タクシーを停めて、脱いだジャケットでその身を包み、
そして見送った後ろ姿。

もしかして、もしかして、もしかして、
これが最後の姿、これが今生の別れになってしまうのか・・

そして土砂降りの雨の中、ひとり仕事場への道を歩きながら、
もしかして、もしかして、もしかして、
もしも、そんなことがあったとしたら・
そのときに、俺は・・

当然のことながら、仕事が手につかなかった。
なにをしていても、集中力のかけらもなく、
そしてふと目を覚ますように、
そう言えば、あの症例、そう言えばあの報告書の、
そう言えばあの研究論文のそう言えば開発されたばかりの新薬の、
それと同時に、
この目の前を流れ続ける電話の、メールの、メッセージの、
そのコストと、品質と、スケジュールとの鬩ぎ合い、
そのなにもかもが、なんとも薄ら寒々しくも空々しくも、
そのすべてになにひとつとしてなんの価値も理由も必然も見いだせない。

だって、と思っていた。
だって、だって、だって、
この現実、この日常、この暮らしのすべてが、
あの、犬、あの犬と一緒にいれること、それを前提としてた訳で。

もしも、もしももしも、あの犬がいなくなってしまったとしたら、
こんな現実には、こんな日常には、こんな俺の人生になど、
何の意味があるというのだろうか。

くそったれ、早く終われ、この猿芝居。
この、利潤の、利益の、収益の、
この、メンツの、地位の、効率の、やりがいの、
こんなもの、こんなもの、こんなものに、
いったい、何の意味があるというのか。

5時丁度にして、会社を出た。

いつものように、勤務時間外であろうがなかろうが、
当たり前のようにスケジュールされた予定会議の全てに
どうも気分が優れず、と不参加と通告を流し、
そして後にした会社。
なんだ、まだ空が明るいじゃないか。
知らないうちに、日が長くなっていたんだな。

そんなときに妻からのメッセージが届く。

床に敷くマットを探して欲しい、とある。

神経麻痺が始まると下半身の自由が効かなくなる。
その徴候が後ろ足に出てくる。
階段で、つるつるとした床で足を滑らせないように、
滑り止めのカーペット、あるいはマットを敷くこと。

玄関からリビングから寝室から、マットを敷き詰める。
ただ、これから粗相を繰り返すことになるので、
掃除がしやすく、取替のきく素材。

ジム用のクッションマット、
あるいはヨガマットだったらどうだろう。

判った、帰りに見繕ってみる。

まだどうにかなる。
いや、どうにもならなくても、
それが避けられないもの、
それが無駄な努力だと判っていても、
時としてはそれと戦わなくてはいけない。
それが、生きる、ということなのだから。

取り急ぎ会社近くのスポーツショップでヨガ用のマットを、
そして日曜大工店に寄っては、雨天用の臨時カーペットを何枚か買った後、
そして帰り着いた我が家。

なんだよ、よく寝てるじゃないか。
それが、と妻。
それが、よりによってこんなときにアパートの廊下の改装工事が始まって。
その物音がするたびに、興奮してはワンワンと吠え立てて、
日中はずっと落ち着いて寝ていられなかった、という。

なんだよ、大工にわんわん吠えるぐらいなら元気があるんじゃないか。
なにを言ってるのよ、そのたびにいつ発作を起こすかと思うと気が気じゃなくて、
どうせならこの犬用ベッドを持って獣医さんのロビーで寝かしてもらおうかとさえ思っていた、と。

そんなに酷いのか?
発作は起こしていないけど、まだご飯は食べてない。
散歩にも?
雨だったこともあるけど、家の前でおしっこだけして、
すぐに帰るって引き返して。

そして、と妻。
そして、ちょっと目を話したすきに、
それ、そこに丸めたシーツ。
うんち?
そう、ベッドの上でうんちしてたの。
まさか・・
そう、まさかなんだけど、あるんだって。
咳を力んだときに出てしまったり、
あるいは、神経症が進むと下半身が麻痺して。
やれやれ、垂れ流しかよ。大変だよな。
これからずっとこれが続くのよ。
だから、カーペットじゃダメなのよ。
その部分だけすぐに取り外して洗濯できるような、
パケット型のマットじゃないと。

判ったよ、良いのがみつかるまで、
このヨガマットをしばらく試してみよう。
できることから試していくしか方法がないだろう。

先生と相談して、
とりあえず、次の発作が起きるまで、
手術は待つことにしましょうって。
とにかく部屋の温度を下げて、
栄養のあるものを食べさせて、
もともと体力だけは人一倍の子だから、
それでもしかしたら完治することもありえるからって。
その可能性は?
そんなことだれにも判らない。
いまできることは、とりあえず可能性を片っ端から試して見ることだけ。
なので、ちょっとレバーを買ってくる。新鮮な生のレバー。
昼間は目が放せないから買い物にも出れなかったのよ。

という訳で、妻がでかけた途端、
それまではすやすやと、どころか、
またピーピー、ゼーゼーと、
まるで壊れたハーレーのように身体から雑音を響かせていたこの犬が、
あれ?かあちゃんどこいった?と飛び起きては、
そんな俺を見上げるその視線。
その力を失った、不安を宿した、潤んだような視線。
どうしたんだよ、おまえ、と、思わず。
どうしたんだよ、いったい、どうしちまったっていうんだよ。

お前は、この世で一番元気な子犬。
猛犬の中の猛犬の、鼻つまみの厄介者の、
そんなお前がいったい・・・

やっぱりこいつは病気なのだな、
その明らかな確信を前にして、
そんな俺の顔を、舐めて舐めて舐め続けるこの犬。

大丈夫だよ、心配するな。
お前は死なせはしない。絶対に絶対に、どんな方法を使っても・・

ただ、この喉頭麻痺という老化を前提とした疫病を前にして、
いったいどんな反撃の方法があるというのだろうか・・・

希望的観測の一切を排除して、
現実を現実として冷徹に見つめながら、
できることのすべてを試す、
それを、戦い、という・・・

そう、そんなことはいま気づいたことでもなんでもない。
他ならぬこの俺自身が、安易な楽観論者達のその目の前で、
そんな戯言をふかし続けた、そんな記憶がない訳ではない。

そう、そんな俺が、この筋金入りのペシミストの現実論者が、
その俺自身が、他ならぬこの我が犬を前にして、
何の予防処置も、何の準備も、なんの気構えさえも、ないままに、
俺の犬は死なない、俺の犬は特別なのだ、
そんな根も葉もない希望的観測にすっかりと安心をしていた、
そのあまりの体たらく、そのあまりの本末転倒ぶり。

ドアの開く音に、あ、帰ってきた、と飛び起きる犬。
ただ、ふと、飛び降りることを躊躇したベッドの上。

これまで、あれほど、やめろやめろと言いながら、
柵という柵を、金網という金網を、障壁という障壁を、
ものの見事に飛び越えては、
ほほほう、見る人々のすべてを唸らせては拍手まで送られ、
そんなことが当たり前であった筈のこの犬が、ベッドを飛び降りることに躊躇している、
そんな日常の些細な変化を、我が愚妻を冷徹に見つめ続け、
そこに明らかに病状を、そしてなにより老化の影を感じていたのだろう。

判った、ちょっと待て、と抱えあげた犬。
よいしょ、と、床に下ろしては、おい、走って足を滑らすなよ。
そんなこと、いままで、口にしたどころか思ったことさえなかったその言葉。

ダメだ、と妻。ダメだ、食べない。
手のひらに乗せたその鮮血をにじませた生のレバー。
あぁあ、ダメか、高かったのにな。
いきなり変わったもの出されて驚いているじゃないのか?
ほら、いつものトレーダー・ジョーのあのチキンスティックとか。
ここまで来たら食べたがるものを食べさせるしかないんじゃないのか?
それが、と妻。それが食べないのよ、あのチキンスティックも。
それはそれは重症だな。
お菓子からおやつからチーズから生ハムから生肉から、
片っ端から食べれくれるものを食べさせるしかないみたいね。
だったら、とふと思いついた、アイス。
え?アイス?
そう、このアイス。
これほら、どうだ、アイス食うか?
とやったとたん、あれえ、食べた。
な?人間だってそうだろ?
子供の頃、風邪をひいたらアイス以外食べる気がなかったじゃないか。
わざと風邪引いたふりして、アイスをねだったり。
アイスだってなんだって、食ってもらえるに越したことはない。
私達の親も、そんな切羽詰まった気分だったのね。
子供はしっかりと確信犯で、親を騙してすかしては、
してやったりとアイスをねだっていただけなのにな。
そんな現代の魔法であるところのアイスクリーム。
おいおい、もうこれ以上食べたらお腹を壊して下痢をする、
そこまで食べさせながら俺たちは思っていた。
もういつまで生きられるか判らない。
であれば、好きなものを好きなだけ食べさせてあげる、
そのことに何の罪があるのか。

そう言えば、癌に冒されたサリーを前にして、
なんだよ、随分と元気じゃないか、と笑った俺に、
そりゃそうよ、と返した飼い主のジェニー。
このところのこの子、最上のフィレミニヨンばかり。
私だって食べたことの無いような最高の高級肉ばかり食べてるのよ。

あの言葉にいったいどんな思いが込められていたのか。
その理由が、いまになってひしひしと胸に沁みるように。

で、私達はなにを食べる?と妻。
いや、なんか、食欲ないよな。
そうなんだけど、私達が食べないからこの子も食べないのかなって。
それはそうなんだけど。
昼はなにを食べたの?
いや、なんだったけかな、覚えてない。
なんか、一日中食欲がなくてな。
こんなことしてたら、飼い主も一緒に共倒れだね。
一緒に死ねればそれも本望なんだがな。
馬鹿なこと言わないでよ。
そんなことは冗談でも言ってはダメよ。
それが悪い気を呼び寄せるんだから。

死なないわよ、と妻。
ブー君は死なない。
ブー君はなにがあっても死なせない。

とりあえずは呼吸と心臓の負担を軽くする。
そのためには室温を極力下げること。
そして、万が一のアレルギーの可能性を考えて、
化繊という化繊はすべて捨てた。
酸素ボンベはもう買った。
犬用の酸素マスクは特注になるのでちょっと時間がかかるけど。
後はセイフハウス。
ねえ、あの玄関のクローゼット、
あの中のもの、ドラムの機材とかテニスのラケットとか、
あれをすべて片付けて。
なにかあった時、花火のときとかにパニックを起こしそうになった時、
逃げ込めるための場所を作ってあげて。

戦いはこれから。
そしてそれはどんどんと悪くなるのよ。
これから、歩けなくなって、うんちもおしっこも垂れ流しになって、
寝たきりになって、酸素ボンベをつけて、点滴をつけて、
私達が誰かさえも判らないような状態になって、
どう、それと戦いつづける気はあるの?
そんな手間がかかるばかりのブーくんを、いままでのブーくんと同じように、
ずっとずっと世話をしてあげることができる?
そうしてまでも、生き続けることに意味があると思う?

あるさ、と俺は言った。
こいつが、生きている限り、
生き続けている限り、生き続けてくれる限り、
どんなことでもする、何でもする、どんな方法でも使う。
死ぬか生きるかは、こいつが決めることだ。俺達が決めることじゃない。

もうそんなになっちゃったら、
ブーくんはブーくんでもなんでもないのよ。
もう犬でさえなくなっちゃうかもしれない。
ただ生きているだけの屍になってしまうかもしれない、
それでも良いっていうの?

痛みもなく、幸せなままで命を終わらせてあげる、
そいういう選択もあるのよ。

まるで、ミリオンダラー・ベイビーだな。
犬先輩が皆言ってたろ。
何度観ても最後まで観通すことができずに、
そのたびに、がんばって最後まで見届けなければって、
一日中それを繰り返したって。

あの話を聞いた時、そんなものもあるのかとは思っていたけど、
つまりはこれのことよ。

犬を迎えてそれこそ幸せ一杯に過ごして来た
その代わりに、最後の最後になって、
その幸せの最期を決断する責務を負わされる、
それこそが、幸せの代償、という奴なのか。

アイスだけを食べてご満悦になったのか、
ソファの上で寝息を立て始めた犬。
ねえ、リビングは暑いから、また寝室に運んで。
そう言われるままに寝たまま起きない犬を抱えては寝室のベッドの上に運び。

正直、これまでかな、と思っていた。
今日明日、ということもないのだろうが、
もう、長くはない、その予感が確信に変わり、
その避けることのできない現実を覚悟する必要に迫られていた。

私は寝室で寝るから、と妻が言った。
私達が一緒にソファに行っちゃうと、この子も着いてきちゃうから。
ああ、と俺も頷く。
ドアを閉めながら、思わず不用意に呟いた言葉。

俺は手術をしようと思う。
どんな方法でも、どれだけの苦労と費用をかけて、
もしその結果として得られるのがたった一日だけだったとしても、
俺は、手術をしたい。して欲しい。
生き残るためできるだけのことのすべてを試して欲しい。
その考えに変わりはない。
身体中切り刻まれて傷だらけになって、痛み止めでらりぱっぱのままでも?
それになにより、全身麻酔の手術を受けるだけでただでさえ短くなかった生命を、
またイタズラに削り取ることにもなりうるのよ。

それでも、と俺は言った。
それでも、俺は、手術をしてみるべきだと思う。
一か八かでも、それがたとえ、一年半年三ヶ月一ヶ月の延命に過ぎなくても。
そして、手術をするなら、早いほうが良いだろう。
まだ体力が残っているうちに、その方が手術の成功率が高いはずだ。
もしも、全身麻酔でそのまま逝ってしまったとしても?
その覚悟を、固める時だな。

一晩考える、と妻が言った。
一晩考えてみる。

そして妻は、コンフォーターを頭から被る。
多分泣いているのだろう。
普段であれば、妻が涙を浮かべた途端に飛び跳ねては飛び起きては、
一大事一大事!どうしたのどしたの、どうして泣くの?
くだらないテレビドラマに涙を浮かべる妻を前に、
おろおろとしては顔中を舐め続ける、そんな犬が、
今日に限っては、ぐったりと寝そべったまま目を瞑ったまま、
ただ、ピーピー、ゼーゼーと、荒い息を続けるばかり。

そろそろかな、と思っていた。
そろそろ、なんだな、つまりは。

もしかしたら、そんな妻の隣に寄り添うべきなのか。
もしかしたら、根も葉もない気休めでも言って慰めるべきなのか。
或いはもしかしたら、一緒に泣き崩れるべきなのか、
そう、泣きたい気持ちは俺だって変わらない。
ただ、いまはまだ早いと思っていた。
まだ打つ手がある。
まだ戦いは終わった訳ではないのだ。

リスクを覚悟の上で手術の決断を下す、
その選択が残されている限り、俺は泣いている場合ではない。

ブッチ、斑犬のブッチ、ブッチ切りのブッチ。
世界で一番元気な子犬。
世界一の腕白小僧。
子犬デイケアでは天下無敵のガキ大将、
ドッグランにおいてはその新入りの一頭一頭を捕まえては、
参りました、と悲鳴をあげさせるまで締め上げ続け、
自身の三倍もあるジャーマンシェパードの耳を食いちぎり、
公園中の犬たちを引き連れては走り回ってはおいかけっこ、
道行くホームレスに吠えかかり、
かみさんに妙な色目を使ったすけべ野郎に襲いかかってはズボンの裾を引きちぎり、
闘犬上がりの断耳したピットブルを相手に大太刀周りを演じては、
ドッグランの男たちが総出になって泥まみれの血まみれの大騒ぎ。
そんなブッチの無法者列伝の数々。
どこに行っても誰からも目を丸くされ、時として恐れられ辟易されながら、
問答無用に猛犬の限りを尽くし、
そのたびにやれ菓子折りだ治療費だ見舞金だ、
犬を飼う上での手間という手間、
苦労という苦労のすべてを背負こませてきた、この天下一のバカ犬やろう。
ただそのひとつひとつが、いまとなっては、かけがえのない思い出の集積。

この11年間に渡る苦楽のすべてを思い返しながら、
ふとそんな中で、そう言えば、あの時、と思い返しては、
そう言えばあの時の写真が、
いざ探し初めてみると、このPCにこのハードドライブの、
そのどこにも見つからない、見当たらない。

どうも、前回のPCの入れ替えの際に、
古いデータはどこかの外付けハードドライブにバックアップしたまま、
そのハードドライブごとをどこかにしまい込んでは紛失してしまったらしい。

いったいなんだってそんなことが起きるのか。

つまりは、とそこに来て初めて気付かされた。

この日常が、この生活が、この暮らしが、
昨日と同じ明日が来て当然、
その安心のその安息のその当たり前の中で、
いつの日にかそんな日もやってくるに違いない、
その当然の結末さえも、すっかりと忘れきっていた、
つまりはそういうことなのだろう。

昨日と同じ明日がやってくるとは限らない。
そして、それが起こってしまった時、
すべては取り返すことのできない、
この日常というあまりにもありきたりな当たり前の日々に潜む、
そのあまりにも周到な罠。

いまになって、なぜあの時、と思っていた。

こんなことになると分かっていれば、
なぜあの時、もっともっとあいつの好きにさせてやならかったのか。
まだ帰りたくない、とワガママを言われた時、
だったらもう少し、と長居をしてやっては、
或いは、いや、そっちは行かない、と頑張られるたびに、
あのなあ、俺の事情も考えろ、と言った俺の事情が、
果たしてそれほどまでに大切なものだったのか。
顔を舐め舐めしたがったときに、おい、やめろ、また肌が荒れるから、
そんな肌が、俺の顔なんてものごときが、果たしてそれほど重要なものだったのか。

こいつがいなかったら、
俺の抱えるそんな事情など、
俺の顔など、俺自身の人生など、
いったい、何の意味があるというのだ。

俺にとって、いちばん大切なものとはいったいなんなのか?
俺にとって、いちばん大切な存在とはいったいなんなのか?

いまになって、そんな当たり前の事実に気がついて、
愕然としては息もつけず、目も開けられず。

ただ、と思ってはいた。
俺にとって、いちばん大切なもの。
その極限的なまでに、優先させなくてはいけないのは、他ならぬあの妻。
そう妻なのだ。
いま俺が考えるべきことは、なによりも、この危機における妻の保護なのだ。

そして改めて思う。
妻がこの事態、この喉頭麻痺神経症という存在に気がついたのは既に一年前。
つまりはこの一年、妻はその現実を直視しては、その不吉な予感と戦い続けていたということなのだ。

そして俺は、果たしてはこの一年をどうして過ごしてきたのか。
ただ毎日仕事に疲れ切っては愚痴を並べるばかりで、
ただ、そこに犬がいる、そして妻が居てくれる、
そんな暮らし、そんな人生、そんなあたりまえの日常が、
実はいったいどれだけありがたいものなのか、
そんなことさえも、すっかりと忘れていた、つまりはそういうことだろう、と。

このさりげない、なにげない、このときとしてやるせない日常こそが、
つまりは、幸せ、というものなのだ。

それが判っていながら、俺はなぜ、そんな幸せを自覚しては享受しては、
そのありがたみをありがたみとしてありがたがる、その気持がなかったのか。
つまりは、感謝の気持ち、それを忘れていたということなのだろう。

そして今になって気づく、もうそんな当たり前の幸せは、
しかしもう、二度と、取り戻すことができないのだ。

ブー、ブッチ。斑犬のブー。ぶっち切りのブー。
俺はお前がない人生を、いったいどうして生きれば良いのか。
犬が居なくなってしまった生活、
俺はその情景を、どうしても想像することができない、目に浮かべることさえもできない。

一体、俺は、どうすればよいのか。
そしてその喪失を漠然を呆然を最も感じているのは、
他ならぬ妻なのだ。

ただ、もしもの時、その決断は、他ならぬこの俺が下すべきなのだろう。
それがいったい、どれほどのリスクを負っていたとしても。
そしてその結果が、いったいどんな結末に至るとしても。

つまりはそれが、責任、ということなのだから。。



また一睡もしないうちに朝を迎えた。
仕方なくも仕事に出かけながらも、
なにかあったらすぐにでも電話をくれ。
そしてもしも、また発作を起こすようなことがあったら、
判ってる、と妻は言った。
その時は担いででもなにをしても病院に駆け込む。
頼むよ、悪いけど。
会社を休んでしまいたいが、早々とそうにもいかなくて。
判ってる。大丈夫よ、なんとかするつもり。これまでもそうして来たし。

ドアを閉めかけて、そして開いたドアの間から、
また不用意にも、無駄な言葉を呟いてしまった。

大丈夫、心配するな。きっと治るさ、

口に出してしまった後になって、
そのあまりに安易な気休め、
そのあまりの絶望に改めて気付かされては愕然とするばかり。

あとは、神に祈るばかりか、と。
いったい、どこの神様なんだよ、と自分で笑う。

なにも死ぬと決まった訳ではあるまいに。
なにも今日、その決断を迫られているという訳でもあるまいに。

当然のことながら手術にはリスクが伴う。
当然のことながらその手術そのものが寿命を大幅に削り取ることにもなる。
そして当然のことながらたとえその手術が成功したとしても、
その先に残されるのは、リハビリとそしてまた新たな病気との戦い。
病気を病魔と表現するように、その魔性、
人々の希望と善意と誠意と、その愛のすべてを踏みにじっては嘲笑う、
人類の歴史は、生物の生命とは、まさにこの病気という魔性との戦いなのだ。

いやなに、大丈夫だろう、とも思った。
いやなに、他ならぬあいつのことだ、
またいつものやつでケロッとしては、
え?なにか?と惚けた顔を浮かべて、
おい、散歩はまだか?おい、その前におやつをよこせ、
そんなことを言ってはニカリと笑う、
そんな姿が目に浮かぶようじゃないか。

ただ、もしも、そうならなかったときには。
ただ、そう、気がついていた。
今度という今度は、早々と上手いことにはいかない。

そう、これはただの病との戦いではない。
それはつまりは、老い、という現実との終わりなき戦い、
その第一歩である筈なのだから。

老化か、と改めて呟く。
クリスマスを過ぎた雨の朝、
あいつと出会ってはもうそのまま片時も目を放すことができなくなり、
その後に起こるすべてを覚悟しては、
しかしそのひとつひとつの現実を自覚することもなく、
なあに、なんとかなるさ、その楽観のままに、
そして家を変わり、そして職を変わり、
いつしかこの犬との暮らしだけが生きる目的となっていた、
この十年間に渡る紆余曲折の七転八倒の抱腹絶倒の中で、
改めて思う。
犬とは、幸せの結実なのだ。
その愛が、そして時として、その手間が、怒りが、苛立ちが、落胆が、
その苦楽のすべてが、愛の、結実なのだ。

改めて、犬と居られる暮らしは幸せだった。
俺が生まれて初めて自覚した、幸せというもの。
俺はこの犬と出会うまで、自身の幸せを、幸せとして自覚することさえなかったのだ。

そして皮肉なことに、そんな当たり前の幸せは、
それを失ってからでないと気づくことがない。

そしていま、改めて思う。
この唯一絶対の愛を失ってしまって、
俺はいったい、どうやって生きていけばよいのか。

あの時、雨の中、あの身体を胸の中、ジャケットの奥に抱え込んだ時、
その小さな身体から感じたあのぬくもり。
そう、あの温もり。あの暖かさ。

そうあれは初めて妻の手の平を裸の胸に当てた時、
その手のひらから感じられたあの温もりが、
じわじわと身体中に行き渡っては、
まるで血の流れるようにリンパに溶けるように、
その温もりに身体中の毒気が溶け出していくような、そんな気がしたものだった。

妙な新興宗教ではないが、人間の手のひらには、
或いはその温もりにはその体温にはオーラには、
なにか絶対のパワーがある威力がある魔力がある、
それを実感したあの夜。

それと同じものを、俺はあの雨の中、
胸に抱えたこの子犬の温もりに感じていたのだ。

もう放さない、絶対になにがあっても放せない。
俺だけの、愛の温もり、その結晶。

そしてあれからなにもかもが変わった。
そしてなにより、それは俺自身の変化であった。

この今にも壊れてしまいそうな幼気な存在を前に、
カワイイものをカワイイと、
美しいものを美しいと、
愛でるものを心からの愛情で包み込める包み込まれる喜び、
そんなあたりまえのことに驚きながら、
そして俺はそんな愛に満たされ浸された日常を、
いつしか当たり前のものとしてその真意を忘れていたのだ。

そして十余年が流れた。

犬の寿命が10年から15年とは知っていた。
それを知っていながら、
いやあうちの犬も早いものでもう11歳で、
そう言いながら、繰り返しながら、
その意味すること、その重要性を、
どういう訳だか、現実として具体的に捉えてはいなかった。
その報いを、いまここに、一挙に目の前に叩きつけられたのだ。

そしてこの沈黙に満たされたオフィス。
目の前の四面を囲んだこの特大のディスプレイ、
そのひとつひとつに浮かんでは変わる犬の写真の綴織。

これまで、仕事の中にあってさえ、
時としてその不条理にその怒りに苛立ちに、
その日々のストレスのすべてが、
しかしモニターに浮かぶこの犬の幼気な表情を前に、
一挙に絆されては洗い流され、
そうやって犬に救われて来た、
この犬が居てくれたからこそここまでやってこれた、
その犬の恩恵をつくづくと思い知らされながら、
ただ、ここに来て、この事態を前にして、
そんな究極の救いの神であるはずの犬の写真が、
ありにも辛くて辛すぎて見ていることができず。

この犬が逝ってしまう?
この犬が死んでしまう、消えてしまう、
そんな世界にいったい、意味など、あるのか?

収益だ、収入だ、
地位だ、名誉だ、
その社会的現実のすべてが
限りなくバカバカしい。

それはまさに瓦解であった。
これまでの俺の人生を支えたいたそのなにもかもが、
一瞬のうちに徹底的なまでにその意味をその目的をその理由をその必然を失っていた。

11歳か、早かったな、と思っていた。
早かったな、早すぎたな。
サリーが10歳。レミーは八歳。
ただレオは13歳、オビーに至ってはもう14歳でまだピンピンしている。
それなのに、それなのに、この世の犬たちのなかで一番元気であった筈の我が犬が、
このまま行けば本当の本気でギネス記録を更新するか、
そんなことさえ思っていた我が犬が、
まさか11歳、
つまりは犬の平均年齢の最上限にも至らずに命を終えるとは・・
もう少しでも苦労をかけてくれても良かったのに。
だったら徹底的にこれでもかと迷惑をかけて欲しかったのに。
11歳。
あまりにもあまりにも早すぎる。

深呼吸を繰り返した。
なにを馬鹿なことを考えているんだ。
まだ死ぬと決まった訳ではあるまい、
と何度も言い聞かせた。
なに、まだまだ、やることは残っている。戦いはまだ終わった訳ではない。

ただ、とあの姿、朝に最後に見た姿。
朝の散歩どころか、見送りに立ち上がることもなく、
スーツを着込んだ俺の姿を力なく見つめては、荒い息を繰り返してたその姿。
あの猛犬ブッチがあんな表情を浮かべるなんて。

やばい、やばい、やばい、
こんなことではいけない。
ただ仕事がまったく手につかない。
ただ、こういう時にこそ、仕事は一種の気休めでもあった。
意味もなく繰り返している単純作業、
それに没頭するうちになんともなくも気が紛れ、
そうだ、音楽を聞こう、と思った。
こんな時こそ、音楽だろう。

欲したのは古き良きソウル・ミュージック、
スモーキー・ロビンソンが、アレサ・フランクリンが、
マーヴィン・ゲイが、スティービー・ワンダーが、
そうか、と今になって気付かされた。
この最愛の存在の死という、あまりにもやるせなくも不条理な状況を、
黒人音楽の巨人たちは、その怒りをその悲しみのその激情と怨念とすべてを、
その歌の中に織り込んでは包み込んでは洗い流し、
ソウル・ミュージックこそは、その陽気ブルース、その浄化であったのか。

そして、あの不屈の名曲、オーティス・レディング、
ドック・オブ・ザ・ベイから、そしてあののマイ・リトル・テンダーネス、
そう言えば失業中、
夏の盛りの川沿いのベンチにブーくんと二人で寝転びながら、
いつもこの曲を歌っていたよな。
その懐かしの旋律が流れ始めた時、
やばい、と思った。
やばい、これは罠だ、そう気づいた時にはあとの祭りであった。

すぐに音を消した。
ヘッドフォンをかなぐり捨て、
開いた居たメールをすぐに閉じ、
その俄なパニック状態の目の前にいきなり飛び込んできた
そのデスクトップの犬の写真。

一面の雪景色の中で、桜吹雪を背景に、
夏の青芝の草原で、色鮮やかな紅葉に燃え上がる木立の中で、
これでもかとばかりに溌剌とした笑顔を炸裂させる犬の姿。

ああ、と呻いた。
ああ、もうこれまでか。

それは突如の倒壊であった。
あるいは人格の崩落であった。
これまで押し留めていた感情という感情が一挙に吹き出しては、
固く瞑った目尻から涙が、食いしばった口から嗚咽がよだれが、
一挙に吹き出しては崩れ落ち・・

廊下に走り出ては非常階段を目指した。
その都市の裏側の地下室を通じるむき出しのコンクリートの洞窟の中、
一挙に倒壊を遂げたその激情に打ちひしがれながら押し流されながら、
俺は泣いていた、声を殺して泣き続けた。

あいつがいなくなってしまった世界、
こんなものに、こんな世界に、こんな俺の人生に、
いったい何の意味があるのか。

神様、と俺は恥も外聞もなくそう祈った。

なんでもする、なにがあってもよい。
ただ、あの犬を救ってほしい。
あの犬の病気は、この俺が引き受ける。
あの犬の苦痛は、この俺が肩代わる。
あの犬の命を救うためなら、俺のこの生命と差し替えてくれ。

こんな俺はどうなってもかまわない。
ただ、あの犬は、あの世界一のバカ犬だけは、
お願いだから、助けてやってくれないか・・・

時として、他人の、或いは、犬の存在が、その生命が、
自身の生命そのもののを凌駕する、そういうこともあるにはある。

そして改めて思う。
俺は、俺自身、こんな俺自身にはそれほどの執着もない、愛着もない。
ただ、俺の妻、そして俺の犬、
こんな俺に、ここまで愛を注いでくれたその存在を前にしては、
こんな俺自身など、糞の意味さえも持ち得ない、
俺はそう思っていた。
それは本気の本気でそう思っていた。

犬の命を救ってくれ。
その代わり、俺のこの生命を差し出そう、と。

5時を過ぎて会社を出た。
もうここには戻ってこないかもしれないな、
溜まりに溜まった有給とシックデイ、
それを使い切って、あと一ヶ月後、
その時に、俺はいったいどんな状況にいて、
一体どんな人間になっているのだろう。

ただ、もうこの会社に戻ることはないだろう。
或いは、これまでのこの国でのこの街でのこの暮らし、
そのすべてを抜本的に刷新する、
そんな時期に来ているのかも知れない。

残り少なくなったこの人生、
あとは老化の坂を転がるばかり。
なにに執着を残しているわけでもなく、
好きなことだけを好きなようにやって好きなようにくたばる、
それ以外になにがあるというのか。
いずれにしろ、あの犬が居なくなってこの先、
それほどこの世に未練があるとも思えないがな。

ただ、と見上げたこの摩天楼の風景。
ついこの間まで、当たり前にあまりにも当たり前のものとして受け取っていたこの日常というものが、
いったいどれだけ幸せなものであったのか、
そしてなぜ、そんなあたり前の幸せを当たり前なものとして当たり前に享受しては、
その喜びを、その感謝を、感じることがなかったのか。

もしも生まれ変わったとしたら、
そのことは、そのことだけは忘れまい、と思っていた。
そしてそのことは、失った時にならないと気づくことができない、
それが人生の最大の罠だということも・・

さらば、と思っていた。
さらば世界。
さらばニューヨーク。
さらば、俺の人生。

家に帰ると、妻と犬はベッドの上、
まるで心中を遂げた恋人同士のように、
静かに、安らかに、眠っていた。

キッチンのテーブルの椅子の上にバッグと上着を引っ掛け、
リビングの椅子にスボンとシャツを脱ぎ捨てて、
そして俺はソファに横になった。
そう言えば、ここ三日、ろくに寝ていなかったけかな。
次に目が覚めるときには、多分、手術を前した断末魔、
ありは、全て過ぎ去った土壇場の終活の真っ只中、
いずれにしてもまともな眠りにつけるのは、
もうこれが最後になるかもしれない。

ひとり寝のソファの上で、
犬の、そして妻の温もりを思っていた。
あの温もりこそが、愛の形だったのだな。
そして、あの犬の毛並み、
純毛100%の、あの猫の毛のように柔らかく滑らかであったあの毛並み。
三日もすると床中に抜け毛の層ができあがる、
あの壮絶なシェダーでありながら、
だからこそのあの毛並み、あの夢のように滑らかなあの毛並みの感触を、
まざまざとその手の中に思い返してた。

永遠の生命がこの世に存在しないことは判っている。
永遠の美がこの世に存在しないことは判っている。
それこそが一期一会、それこそがいろはにほへとの無常観、
つまりは我が日本国の文化の中枢であったはず。
それが判りながら、それが判っていながら、
その無常を前に俺はいったいどうやって生きていけば良いのか。

このまま眠りに落ちたまま、そのまま消えて亡くなることができれば、
いったいどれだけ楽だろうか。
この摩天楼の星屑、その小部屋のひとつのその中で、
犬と、そして、それを囲むようにして息絶えた東洋人の老夫婦、
そんな哀れなミイラを前にして、
世間は一体どう考えるのだろうか。

そんなことさえも一切考えず、
パチンとスイッチが切れたら後はのとなれ山となれ、
まあその後片付けの費用ぐらいなら、
お釣りが来るぐらいの金は残してあるつもり。
であれば、なにひとつ思い残すこともなく、
このまま眠るように永遠の眠りについて・・



目が覚めたのは深夜の帳。
消し忘れたテレビの画面がスリープモードになったまま、
午前4時の数字がでかでかと画面いっぱいに示されている。
起き抜けにふと気がついたこと。
いない。
誰も居ない。
この部屋にはもう誰も居ないのだ。

それは寝過ごした朝、
妻と犬は既に散歩に出てしまった、
その取り残された空気そのもの。
この何からも見捨てられた深い深い沈黙の底。

居ない?居ないってどういうことだ?

すぐに気がついた。
犬の、あのピーピー、ゼーゼー、
いつから始まったのか、
あの始終、いつ何時でも響いていた、
あの、喘息持ちを思わせる、
あの、ピーピー、ゼーゼー、の音が、掻き消えている・・

まさか、と思った。
まさか、まさか、まさか・・・

落ち着け、と思った。
落ち着け、まだそうと限ったことではない。
ただ、そうだった時、いったいどうするべきなのか。
逝ってしまった犬のために、
そしてなにより、妻にそれを、どう伝えるべきなのか。
それこそが、この後の人生のすべてを左右する、
その勝負時の一瞬なのだ。

ただ、であったとしても、
俺は犬を抱きたい。ずっとずっと抱きしめてしたい。
既に体温を失い、冷たくなり、死後硬直が始まったとしても、
その身体を、永遠に永遠に、抱きしめていたい・・

暗い寝室、深夜の寒気そのままにその冷え切った部屋の中、
妻はパジャマの上にダウンジャケットを着込んだまま、
そしてその足元に、犬は長々を身を横たえては
そのスマートな四肢をピンと張り切ったまま。
そっと犬の頭に手を当てた。
ん? まだ、温かい・・・
そしてその寝息、そしてその胸のあたりに耳を当てては、
その温もりが身体中に染み渡る、その熱を感じながら、
そうか、まだ死んでいなかったのか、
そんなおかしなことにいまさらに拍子抜けをしながら、
で?と改めて、その胸、その滑らかな毛並みに顔をうずめたまま、
そうか、死んでいない、死んでいなかったのか。

ただ、異変に気がついた。
そう、あのピーピー、ゼーゼー、
あの音がしない、まるで魔法のように掻き消えている。
ふと寝ぼけた犬が目をあけた。
何だお前、と怪訝な表情で視線を泳がせ、
そしてむにゃむにゃねちゃねちゃと粘ついた口音を響かせると、
申し訳程度に俺の鼻をぺろりと舐めては、
邪魔しないでくれ、朝までもうちょっと眠らせてくれ、
そんなつっぱった前足で俺の顔を押しやっては、
うーんと、伸びをして、そして再び目を閉じる。

何だよお前、どしたんだよ、あのピーピー、ゼーゼーは・・

そんな沈黙に包まれたまま、いつのかにかその久しぶりの静寂の中に、
ふとすればそのまま、犬の寝顔に鼻先をつけるようにして眠り込んでいた俺。

そして6時、突如として鳴り響いたこの朝の目覚ましに、
犬と、そして、妻と俺が、同時に跳ね起きた。
それと同時に、プルプルプル、勢いをつけて全身を震わせた犬。
うーんと、長く伸びをした後に、
さあ、起きろ、とかみさんめがけて飛び込んでいく。

判った判った、と寝ぼけて呻きながら、
耳障りな目覚ましを消しては、再びベッドに潜り込む妻。
その顔に飛びついては、胸の上にまたがり、
そして枕に隠した顔に鼻先を突っ込みながら、
頬と言わず耳と言わず目と言わず、問答無用に舐め続け、
散歩だ、散歩だ、起きろ起きろ!

何だお前・・
そんな姿を唖然として見つめながら、
ん?おまえ、父ちゃん、お前が起きてるのか?
それに気づいた途端、おっと、といきなり飛びついてきたその猛犬。

何だよお前、治ったのか?
何だよこの元気、なんだよこの、と改めて見つめたその犬の顔。
この視線。
この問答無用に刺すようなこの視線。
出会った犬のいう犬そのすべてを、
この出会い頭の眼光の一撃ですくませては震え上がらせる、
この無法者の象徴たるこの鋭い視線。

何だよお前、と思わず。
何だよお前、治ったのか?
まったくもって、元通り、そのままじゃねえか・・

なにを寝言を居てやがるんだ、と犬。
ああ腹減った、ああ、おしっこしたい、
さあ、早く起きろ、さあ、早く用意をして、
出かけるぞ、散歩だ、散歩だ、朝の散歩だ。

あれまあ、と妻。
あれまあ、ブーくん、どしたの?
治ったの?あなた治っちゃったの?

とそんな声に気づいた途端、
いきなり身体を翻してた飛びつく妻。

判った判った、起きるから起きるから、舐めないで舐めないで。
そんな悲鳴にはしゃぎまわっては飛び跳ねる犬の姿。
なにもかもが元通り、なにもかもがまったくもっていままでのまま、そのまま。

どうだよこれ、すっかり治ってる。
あの、ピーピー、ゼーゼーも、
一晩のうちになにもかもが消え失せて。

治ったのね、まるで魔法みたい。
なにかしたの?
いや、と俺は口籠る。
俺は神様に祈っていただけなのかな。。

あなた、ソファで寝てたでしょ?
この子、夜になっていきなり起き出して、
お腹減ったって。
で、あのレバー、
いきなり全部平らげて、もっと食べたいって。
その後にお散歩に出て、
途中でチェスに会って、そしてまた二人で大騒ぎ。
帰ってきてまたご飯食べたいって言うんで、
挽き肉の塊、また一皿全部食べちゃって、
で、もう寝るって、ひとりで寝室行って寝ちゃって。

その間、俺は?
寝てたわよ。大鼾かいて、いい気なものねって。

なんで起こしてくれなかった?
なんでってなんで?
だって、こいつ、昨日まで死にかけて。
誰も死にかけてなんかいないわよ。
ただこのまま症状が悪化したら、
手術の可能性もあるのかって、
ただそれだけの話。
悪性の癌にかかった訳でもないし、
冬のヒーターに当てられて、
喉の奥がちょっと炎症を起こしていただけ。
窓を開けて寝ればすぐに改善するって、
私はずっとそう言ってたじゃないの。
ただ、それだけの話?
だったみたいね、こうして治ったところをみると。
俺が裸で寝るのをやめたら、ただそれだけの話だったの?
だらか、ずっと言ってたでしょ?
ニューヨークのアパートのこのスチーム暖房、最悪なのよ。
温度の調節はできないし、空気がカラカラでお肌はカサカサ。
加湿器買いたいって、空気清浄機買いたいって、
あれだけ言っていたのに、あなたぜんぜん人の話を聞いていないんだから。

とそんな話をしている真ん中に、
おい、と飛び込んでくる犬。
そんな話は散歩の途中にしたらどうだ?

こっちはおしっこしたくて、今にも膀胱が破裂しそうなんだ。

という訳で、走り出た朝の街。
72丁目の大通りいっぱいに
上がったばかりの朝日が差し込んでは
世界のすべてをオレンジ色の閃光に包み込んでいる。

早く早くと急き立てる犬。
早く早く、早くあのセントラルパーク、
仲間たちの待つあの丘へ。

まったく、なんだよこれ。
なにが?
なにがって、俺は死ぬほど心配したんだぜ。
だから、と妻。
だから、この子に喉頭麻痺の症状があるのは事実なのよ。
そしてこの間のような発作がいつ起きるとも限らない。
それにその原因は老化なの。
つまりはこの先、老化という問題は避けては通れない。
そのためになにをするべきなのか。
現実を現実として受け止めて、
打てる手段は片っ端から打っていく、
それ以外にこの問題に立ち向かう方法は無いのよ。

まさに、戦いの本質だな。

まずは希望的観測、その甘えたご都合主義をすべて排除すること。
最善のケースと、最悪のケース、そのすべての可能性を洗い出して、
そのひとつひとつに対策の手段を講じる。

ブーくんは死なせない。
それがどれだけ無茶な願いであっても、
それがどれだけ無駄な苦労であっても、
その最後の最後まで、できる限りのことはする、そのつもり。

ただ忘れないで。
いつかその日はやって来る。
それからは誰ひとりとして逃れることはできない。
それを忘れないで。
それを前提として、覚悟をして生きること。
それ以外に、私達にできることはなにもない。

メメント・モリか。

忘れないで、この数日の間に思ったこと。
ブーくんが死ぬかもしれない、
なにも知らずに何も考えずに。
あなたが勝手に早とちりしては、
思いつめに思いつめていたこと。

死という現実を前にして、
あなたの胸に押し寄せてきたその想いのすべてが、
お父さんが亡くなって以来、
私がずっとずっと感じ続けて来たことでもあるのだから。

この世に永遠はありえないの。
ありえない以上は、今日一日、この瞬間瞬間、
このさりげない、このあたりまえの日々に、
感謝して生きること。

それがお父さんが教えてくれたことなの。
それがブーくんが教えてくれていることなんだから。

ブーくん、と思わず。
なんだよ、と振り返る犬。
お前、治って良かったな。
なにが?ただ、ちょっと風邪を引いて喉を腫らしただけじゃないか。
お前、不死身だな。
あのなあ、と犬。
ひとの心配する暇があったら、
ちょっとは自分自身のことを考えた方が良いんじゃないか?
お前なあ、と思わず。
あのなあ、俺は、お前のことが心配で心配で・・
だから、それが余計なお世話だって言ってんだよ。
だから、余計なことを考えずに、早くそのボールを投げてくれ、と。

という訳で、その報いはすぐにやってきた。
セントラルパークからの帰り道、
9時を過ぎてオフリーシュの時間が過ぎたころ、
さあそろそろ帰るか、と犬に綱をつけようとしたその途端、
いきなり全身に電撃が走った。

やばい、と俺。
なに、どうしたの?と妻。
あの、あのあのあの・・ぎっくり腰かも。
えええ、なんで当然に。
いやあほら、最近ソファでばかり寝てたから・・
そんな俺を、やーい、やーい、と囃し立てていた犬が、
ん?まじか?まじなのか?
その苦痛の表情に気づいては、
いきなりベンチの上に飛び乗って鼻先を寄せては、
大丈夫?大丈夫?と顔中を舐め始める。

ああ、判った判った。
大丈夫だから、ちょっと暫くこのままで・・

そして座り込んだまま動けない丘の上のベンチの上。

神様、犬の生命と俺の生命を引き換えに、
その祈りが、これほどまに早急に聞き入れられては、
そのあまりにも敏速な支払い請求。
まったく神様、やることがえぐ過ぎる、直接的過ぎる。

まあただ、祈りは通じた、ということらしいな。

それを思うとおかしくておかしくて、
とその途端、収まったはずの腰の痛みに、
ぐきり、と電流が走っては悲鳴をあげ・・

なにを笑ってるの?と妻。
ねえ、大丈夫?と顔をなめる犬。

この世に神も仏もいないと言い切るのは、
まだまだちょっと早かったみたいだな。

ねえ見て、と妻。
ほら、鳥たちが、巣作りを初めた。

ってことは、この暖冬も本当に本当にこれで終わり。
つまりはもうこのまま春が来るってことなんだな。

喜んでばかりは居られないわよ。
老犬には、そして、喉頭麻痺には、
夏の暑さこそが天敵の大敵。
判った判った、クーラーでもなんでも買ってくれ。
それまでにちょっとは実入りの良い仕事でも探すから。

枯れ果てた丘の上の吹きさらしのベンチの上に、
新春の朝の光が、いつまでもさんさんと降り注いでいた。

あなたには大切な人がいますか?

それに気がついた時、
生きているって、それほどまでに、悪いことばかりとは限らない、
そう思える日が必ずやって来る。

ただ、その真実に気づくのが、
それを失う、前なのか、或いは、失った後になってからなのか、
それこそが、幸せの分かれ道、と言う奴なのだから。

そのことだけは、忘れてはいけない。

心底それを思い知らされた朝であった。




  • password
  • 管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:高見鈴虫
日本を出でること幾歳月
世界放浪の果てにいまは紐育在住
人種の坩堝で鬩ぎ合う
紐育流民たちの日常を徒然なく綴る
戯言満載のキレギレ散文集

*お断り 
このブログ記事はフィクションであり実在の人物・団体とは一切関係ありません藁

©終末を疾うに過ぎて...
無断丸々転載・そのまま転写はご勘弁ちょんまげ

月別アーカイブ

検索フォーム